ToHeart if.『月は、太陽に』第28話  投稿者:ARM


○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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 ゆえは、灯りを消した九重の部屋のベットの上から窓の外を見ていた。
 月が出ていた。雅史と出会ったあの晩は満月だったが、今夜は三日月であった。
 どうしようもない倦怠感が、ゆえを見舞っていた。このまま、堕ちるところまで堕ちてみようか、そんな気分だった。
 がちゃり。そんな時、扉が開く音が聞こえ、寝室の向こう側の部屋に明かりが灯されたらしく、隙間から光が漏れた。
 九重が戻ってきたのか、とゆえは嫌悪を露わにした。今夜もまた、九重の慰みものにされるのだろうか。

「…………ふん」

 ゆえはシャワーを浴びようと思い、シーツを身体に巻きながらベットから身を起こした。

「……九重。シャワー浴びるくらい、いいでしょ」

 ゆえは、扉の向こうにいるのであろう九重に忌々しそうに言いながら寝室の扉を開け放った。

 その時ゆえは、部屋に忍び込んでいた雅史と鉢合わせになった。


27.無明長夜 = 月の夜の下で =


 セリオは九重の部屋があるマンションの廊下で、九重の仲間がやってきた時の用心で立っていた。先ほどからエレベーターが動くような様子はなかったが、エレベーターホールと繋がっている非常階段を使って、九重の仲間がこの階にやってくる可能性があったからである。一応、このフロアの者は全員スタンガンで無力化させて制圧したは良いが、他の階からやって来ない保証はない。ましてや直ぐ下の階では、綾香たちが九重たちと一悶着を起こしている頃合いであった。
 セリオは念のため、再びこのマンションのセキュリティシステムネットワークにアクセスし、マンション内部の状況を再度把握した。果たして、下の階が少し騒がしいだけで、部屋を出た者が数名居たがいずれも階下へ移動してしまい、この階へやってくる者はどうやら居ない様子である。セリオは、背後にある雅史が入っていった九重の部屋へ一瞥をくれると、再びエレベーターホールのほうを警戒し始めた。


 ゆえは、突然のコトに驚き、慌てて扉を閉めた。

「南雲さん!ぼ、僕だよ、佐藤だよ!落ち着いて!」

 雅史は閉じられた扉をドンドンと拳で叩きながら叫んだ。
 ゆえは閉じた扉を背にして、扉を叩く雅史の拳の衝撃を背中で受けていた。

「安心して!みんなで助けに来たんだ!」

 みんな、と呟いて、ゆえは浩之たちを連想した。あのデタラメに強い長瀬老人も来ているのかも知れない。ゆえは少しホッとしたが、その一方で残念な気分になった。そして、残念な気分になった自分を、心の中で罵った。

「…………駄目」
「え?」
「…………帰って」
「――――え?」

 思わず雅史は扉を叩く手を止めてしまった。

「良いから帰って!」

 扉の向こうから聞こえるゆえの、悲鳴のような声に雅史は暫し絶句し、

「――なんで!?」
「なんでも!」
「どうして?!」
「どうしてもっ!」

 まるっきり押し問答である。雅史には顔が見えない分、始末に負えなかった。

「――冗談はよしてよ。こんな連中の居るところになんか、どうして残る必要があるの?」
「いいのよ!私なんか、ここに居れば良いんだから!」
「――――」

 雅史はまた絶句する。ゆえが何を言っているのか、さっぱり理解出来なかった。

「…………脅されているの?」
「――――」

 ゆえの身体が、その質問に反応した。
 無論、扉の向こうにいる雅史には、ゆえのそんな反応など知るよしもない。しかし、返答をしないゆえの様子から、どうやらゆえが拒絶する理由に触れたらしいコトに気付いた。

「…………大丈夫。あんな奴らなんかの脅しに、これ以上キミを苦しめさせないから」
「……なに、いってるのよ」
「え?」
「――あんたなんかに、何が出来る、っていうのよっ!」

 ゆえはヒステリックを起こし、扉をドン、と叩いた。声も先ほどと違って少し鼻にかかっており、そこから雅史は、ゆえが扉の向こうで泣いているコトに気付いた。

「……泣いているの?」
「泣いてなんかいないわよっ!」

 そういってゆえは鼻をすすった。あからさまに泣いていた。
 雅史は、こんな状態の女性と接したコトがない為、どうしたらよいのか途方に暮れた。そして玄関のほうを向き、浩之か誰か来てくれないかなぁ、などと思った。
 そう思った途端、雅史はそんな自分を恥じた。そしてそのやり場のない想いを拳に込めてまた叩き始めた。

「お願いだから、南雲さん!出てきてよ!」
「いやっ!帰って!」
「帰らない!キミをここから連れ帰るまで、帰らない!」
「カッコいいコト、言わないでよ!いいから、帰ってっ!」
「いやだ!絶対帰らない!絶対キミを連れて帰ってみせる!」

 雅史がそういった途端、急にゆえが黙り込んだ。雅史の脳裏に嫌な想像が過ぎったが、やがて聞こえてきたゆえのすすり泣きに、雅史は、ほっ、と安堵の息を吐いた。

「……どうして、帰りたがらないの」
「…………」
「ねえ、答えて」
「……私……いちゃ、いけないのよ」
「?何がいけないんだって?良く聞こえなかったよ、もう一度言って」
「………………みんな、不幸になる」
「――――」

 雅史は当惑した。

「……襲われたんでしょう」
「え?」
「九重たちに、佐藤君が襲われたんでしょう?しーちゃんも狙われたって聞いてる。九重たち、言ってた。藤田君たちも狙うって」
「――だ、大丈夫だって。それなら今、来栖川綾香さんが話を付けるって言ってたよ。それに、僕なら大丈夫――」
「どこが大丈夫なのよ!怪我、したんでしょう?――――私なんかに関わったから、佐藤君が酷い目にあったのよ!」
「お、落ち着いて、南雲さん!大丈夫だよ、僕ならこうして無事だったんだし。…………安心して出てきておいでよ」

 雅史はゆえを宥めようと優しい口調で言ってみせた。
 しかしゆえは、一向に泣き止もうとはしなかった。

「……南雲さん」
「…………駄目だよぉ。私にこれ以上関わっちゃ…………しーちゃんや佐藤君だけじゃない…………みんな、不幸になったんだから」
「え…………?」
「……俊夫さんだって、祐子だって、あの子だって――――」

 そこまで言った途端、ゆえは、はっ、と瞠って黙り込んだ。
 突然の沈黙に雅史は不安そうな顔で、扉の向こうの見えないゆえの身を案じた。
 やがて、扉の向こうから聞こえてきたゆえの笑い声に、雅史は困惑した。

「…………南雲さん、いったいどうしたの?」

 雅史が不安そうに聞く。するとゆえは笑うコトをやめた。扉の所為で雅史には聞こえなかったが、ゆえは、困憊しきった溜息を吐いていた。

「……やっぱり、戻れない」
「また……。だからどうしてなの?」
「私…………汚れているから」

 想像していたコトとはいえ、ゆえの口からその言葉を聞いた時、雅史は激しく動揺した。さっきのシーツ一枚の姿から、ゆえは九重になすがままにされていたのだろう、と思った。
 そう思った時、雅史は自分がどれだけ怖い顔をしていたか、気付いていなかった。

「…………あいつか」
「え?」

 ゆえは、扉の向こうにいる雅史の声のトーンが低くなっているコトに気付いた。
 雅史は歯噛みし、扉に当てていた拳を力一杯握り締めていた。

「…………ぶん殴ってやりたい。キミをこんな目に遭わせた九重ってヤツを、この手でぶん殴って、キミの前で土下座させて謝らせたい」
「………………」

 ゆえは、カタカタと扉が震えているコトに気付いた。扉に拳を当てている雅史が、怒りに震えている為であった。
 その震えが、今のゆえにはたとえようもなくせつなかった。
 まもなく、扉の震えは止まった。同時に、はぁ、と雅史の溜息が聞こえた。

「…………でも今、僕に出来るコトは、キミをここから無事連れ出すコトなんだ。…………みんなが心配しているよ。…………帰ろう」

 扉を背にしているゆえは、不思議と、そう言って説得する扉の向こうの雅史の笑顔が直ぐ浮かんだ。
 その笑顔を、ゆえはたとえようもなくその目で見たかった。
 だが、ゆえはそんな想いを激しく否定した。
 そして、同時に、ゆえはどうしても雅史にあるコトを訊きたい衝動に駆られた。

「――どうして?」
「え?」

 ゆえは、一呼吸置いて、

「――どうして、そんなに私に関わろうとするの?」

 どこか、投げやりな口調だった。だが今のゆえは、そんな気分でなければ訊けない質問であった。

「ねえ、答えて。気付いてまで、なんで私に関わろうとするの?」
「――キミが、好きだから」

 雅史は、ためらいもなく言った。あるいは既に、そう訊かれるコトを想定して心の準備をしていたのかも知れない。
 雅史自身にも外連味のない、自然と口を吐いた返答であった。一生心に残るような告白のタイミングとは、こういうものなのだろう。そして、それを口にしたコトを絶対に後悔しない、そんな言葉であった。
 その言葉が、ゆえに向けられたものであるコトを、ゆえは暫し気付かなかった。予測はしていたハズのその優しい告白をいざ耳にして、ゆえはどうしても戸惑いを隠せなかった。
 ゆえの頬をゆっくりと伝う涙は、嬉し涙か、それとも。

「…………駄目だよ、佐藤君」
「……本気だよ」

 そう答えて雅史は、額を扉に当てた。告白をゆえにもっと間近で訊かせたかった、そんな一心からだった。

「……僕は、キミを守りたい。これ以上、悲しい目に遭わせたくない…………キミの目から見れば頼りない男なのかも知れないけど、それなら、キミのために僕は強くなってみせる。……浩之のように――いや、浩之以上の男になってみせる」

 雅史が浩之を目指していたのはゆえも知っていたが、こういう告白でそういうことを言われるといささか恥ずかしい気もするのだが、しかしゆえはそんな不器用な一途さが、たとえようもなく愛しかった。
 応えてやりたかった。
 でも、それは叶わぬ夢。

「…………佐藤君。やっぱり――駄目」
「――ゆえさん!」

 雅史が初めて自分を名前で呼んだコトに、ゆえは一瞬ドキッ、っとするが、しかしたった今、心の中で誓ったコトは貫き通さなければならないと考え、高鳴る鼓動を沈めるべく大きく深呼吸した。

「私は、雅史君に釣り合わない女だから」
「そんなコトない!」
「だって、汚れているから」
「そんなコト、ゆうもんじゃない!九重なんて――」
「九重の所為じゃないのよ」
「?」
「あたし、実の父親と寝た女だから」
「――――」

 言ってしまった。自らの手で、その禁忌を破ってしまった。

「そして、父親の子供を孕んだの」

 ゆえの中で、何かが壊れた。いや、それが何であるか、ゆえは判っていた。
 その告白がショックだったのだろう、扉の向こうにいる雅史が途端に黙り込んだコトにゆえは直ぐに気付いた。もしかするとショックのあまり気絶しているのかも知れない。そう思うと無意識に、ははは、とゆえは自嘲していた。

「……そういう女なの。だからもう、あたしには構わないで。バイバイ」

 笑いながらそういった途端、扉越しにゆえの背へ、ドスン、と強い衝撃が当たった。雅史が扉を殴ったのだろう。怒りのあまりに殴ったのだと、ゆえは勝手に想像した。そして次に、雅史の罵声が聞こえるものだと思っていたのだが、なぜか先ほど扉が叩かれたきり、雅史が何も反応を示さないコトにようやく気付くと、ゆえは心配そうな顔をした。

「…………雅史君?」
「……関係ないよ」
「…………え?」

 扉越しに聞こえた、雅史の優しい口調に、ゆえは一層当惑した。

「それがどうしたの」
「え?」
「僕はね、今のゆえさんが好きになったんだよ」
「――――」

 ゆえは予想外の反応に驚いた。

「僕は、辛い過去を背負う前のキミのコトなんて、何も知らないんだ。僕が知っている南雲ゆえって女のコは、そんな辛い過去を乗り越えてきた、強くて優しい女のコだけ」
「――――」
「そして、今のキミを作ったそんな辛い過去も、今のキミを作ったものであるのなら、僕はそれを否定しない。むしろ、受け入れて上げる――受け入れてみせる。全部受け入れてみせる。………………でなければ、僕はキミを愛する資格なんて、無い」

 詭弁ではなかった。少なくとも、その告白を聞いていつしか涙を流しているゆえには、そうは聞こえなかった。ゆえは、両手を口元に寄せ、嗚咽を必死に堪えていた。

 だから、僕を信じて。

 それは雅史が言った言葉であったハズだった。しかしゆえには、俊夫に補導された時、そして、父親が居る家へ帰らなければならなかった時にゆえに言った、一字一句同じの、俊夫の言葉が、つい先ほど聞いたばかりのように耳によみがえっていた。
 ゆえは、その言葉を信じたのだ。
 そして、今。

「…………?」

 雅史は、ごとり、と扉の向こうから聞こえた物音を不審がったが、やがて、扉が軽くなったコトに気付き、ゆえが扉から離れたコトを悟った。

「…………ゆえさん。開けるよ」

 雅史は、恐る恐る扉を開けた。
 灯りのついていない室内で最初に、向かいの窓から差し込む三日月が雅史の視界に入った。
 そして次に、その手前で、シーツを纏って雅史のほうを見ているゆえに気付いた。どうして最初にゆえの姿が見えなかったのだろうか。雅史はそれを不思議がった。

「佐藤君」

 ゆえが、雅史のほうを向いたまま訊いた。

「見て」

 そういうと、ゆえは纏っていたシーツを落とした。ゆえの包み隠さぬありのままの姿が、三日月夜の闇の中で青白く光っていた。
 雅史はゆえの突然の行動に驚き、顔を赤らめて慌てて横を向いた。

「お願い、見て」

 切実そうな声であった。雅史は困った顔をしつつ、ゆっくりとゆえのほうへ顔を向けた。
 当然、ゆえの裸体が視界に入った。にもかかわらず、それが恥ずかしいとは思わなくなっていた。
 ゆえは、雅史が冷静に自分を見てくれているコトに気付き、ふっ、と安心したような笑みを浮かべた。

「…………これが、私。…………実の父親と、九重に慰みものにされた、汚れた身体」
「――そんなコト、無い!」

 雅史は咄嗟に否定した。戸惑う気持ちがもたらした反射的なものであった。

「――ゴメン。ただ僕、そういう姿を見たこと無いから、つい……」

 そういって雅史は赤面する。ゆえはそんな雅史の反応に、少し自分が意地悪だったかな、と考え、照れくさそうに微笑んだ。

「……でも、さ」
「ん?」
「…………綺麗だよ、ゆえさん」

 そういって雅史は、ゆっくりと頷いた。

「どこが、汚されているというんだい?……そんなの、どこにもないじゃないか。――だから、安心して」

 雅史はそういってみせると、上着を脱いでゆっくりとゆえに近づいた。そして、佇んでいたゆえの肩に、脱いだ上着を掛けさせると、後ろからゆえの身体を、ぎゅっ、と抱きしめた。

「…………もう、安心していいんだ。…………帰ろう。みんなが、待っている」

 雅史の優しい声を耳元で聞いて、ゆえは仰いだ。
 いつしかあふれて止まらない涙を止めたい一心だった。
 少なくともそれは、哀しいからではなかった。

「…………居ても、良いんだよね?」
「?」

 不意のゆえの問いに、雅史は何のコトか直ぐには判らなかったが、やがてわななきだしたゆえの身体を抱きしめているうち、何を指しているのかようやく気付き、頷いてみせた。

「ああ。キミが居てくれなければ困る」

 それを聞いてゆえはようやく、声を上げて泣き出した。張りつめていた緊張の糸が切れ、抑圧していた想いが堰を切ったのだ。

 こうして、ゆえは雅史たちの元へと帰ってきたのである。

                  つづく

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