ToHeart if.『月は、太陽に』第27話  投稿者:ARM


○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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27.無明長夜 = 激突 =

 九重が浩之たちを挑発していることは判っていた。
 しかし浩之も綾香も、その挑発に乗るわけにはいかなかった。
 ゆえが、人質に取られている以上は。
 大胆不敵な男であった。来栖川綾香を向こうにしてこの余裕。ゆえを人質にしたぐらいではこうはいくまい。
 浩之もそろそろ、そのコトに気付いて不思議がり始めていた。
 綾香と九重は知り合い同士。ふと、思い出したその事実に、浩之はある推論を思いついた。
 九重は、綾香のひととなりを知り尽くしている。綾香は九重に、あんたの後輩よ、と言ったではないか。

「空手繋がり?」
「え?」

 きょとんとする綾香に一瞥もくれず、浩之は九重を睨んだ。

「綾香の空手か何かの先輩ってワケか」
「なんだよ、来栖川。俺がお前のいた空手道場の先輩だったってコト、こいつに教えていなかったのかよ」

 九重は呆れ気味に言う。綾香は、ふん、と言うだけだった。

「ま、そういうコトだ。ついでにこのあいだのエクストリーム男子の部でベスト8にも入ったコトもいっておこうか」
「ほう」

 セバスが感心したふうに言う。そういう話には興味がありそうに見える老人だが、恐らくは芹香の世話のほうに時間を割いているからであろう。

「腕っ節では問題ない、ってわけか」
「別に隠していたわけじゃないんだけどね――あ」

 その時であった。綾香の左手首に巻かれていた腕時計が、小気味良いアラー無音を鳴らし始めたのである。
 すると綾香は、にぃ、と満足げに笑った。そんな綾香を見て、九重と浩之は当惑した。

「――終わったみたい」
「?何がだ」
「ゆえさんは返してもらったわ」


 唖然とする雅史の目の前で、それは一瞬にして終わった。
 セリオと雅史は、九重がいるマンションのエレベータに乗り、まず、綾香たちが降りた10階に降りた。するとセリオは耳にある多覚センサーを起動し、10階の部屋をチェックした。雅史は知らなかったが、セリオはクルスガワネットワークシステムを利用し、このマンションのセキュリティシステムに侵入したのである。簡単に出来たのは、このマンションのセキュリティシステムは来栖川警備保障が管理していたものだからである。このコトは既に綾香は調査済みでもあった。セキュリティシステムにはこのマンションの各部屋の所有者のデータベースも存在しており、九重家が所有する部屋を限定してチェックした。そして室内の人の有無をチェックし、ゆえが居ると思しき部屋を検出したのである。

「……上の階のようです」

 セリオの検索は、この階の上下も同時に行っていた。そして11階に九重の所有する部屋のひとつに人が一人いる反応と、通路に6名の人間を感知した。

「上へ行きます。佐藤さん、私の後ろに下がって下さい。そしてエレベーターの扉が開いたら、直ぐしゃがんで下さい」
「え?あ、ああ」

 セリオと一緒にエレベーターに乗った雅史は、扉が開く前にしゃがんだ。
 扉が開いた途端、セリオは飛び出すように外へ降りた。11階のフロアには、セリオが感知したように、恐らくは九重の仲間であろう、バットをもった物騒な連中が通路をうろついていた。
 九重の仲間たちが一斉に開かれた扉に注目した。
 同時に、セリオは右手を彼らのほうに向けた。するとセリオの右手指先から、きらり、と光る線が走り、セリオに近い5人のほうへ飛んでいった。
 次の瞬間、ばしっ!と火花が5人の男たちの正面で飛び散り、まるでセリオの指先に突き飛ばされるかのように吹き飛ばされ、気絶した。残された男が唖然としているうちに、セリオはダッシュで通路を駆け抜け、瞬く間に男の背後に回ってその首を締め付けた。

「抵抗するとこのまま折ります」
「ひっ!?」
「この階に、南雲ゆえという女性が匿っていますね」
「は、はい!こ、殺さないでぇっ!」

 男はセリオが来栖川製のメイドロボットとは気付いていないらしい。いつもは傍若無人な振る舞いで邪に歪んでいるであろうその顔は、この上ない恐怖に満ちあふれていた。

「1103号室で間違いありませんね」
「は、はい!九重さんの自室です」
「ご協力アリガトウゴザイマス」

 へ?と急にぎこちない口調というか機械の合成音で言うセリオに目を白黒させた男は、次の瞬間、セリオの右手から発せられた電撃を首筋に受けて気絶した。先ほど、5人の男を一瞬にして倒したのは、この、セリオの右手に装備されている電磁スタンガンの仕業である。指先からガイドパルスを放出した後、爪の中に仕込んである、空気圧で放出された極細のワイヤーつき静電吸着式電極がガイドパルスを追って5人の男に付着し、有線電撃によって倒されたのである。無論、無力化を目的としたもので殺傷能力はない。たった一体のメイドロボットによって、一瞬にしてこの階は制圧されたのである。

「待ちかまえていたとは」
「人数がこれだけだったのは、綾香様の性格を理解していたからでしょう。もっともそれなりに用意していたみたいですが」

 そういってセリオは、最後に倒した男の懐にあったスタンガンを指して見せた。

「少数精鋭か、直接綾香様が助けにやってくるものかと思っていたのでしょう」

 九重の読みは当たっていたが、まさかたった一人、いや、たった一体だったとは思っても見なかっただろう。

「セリオ。もしかすると気付かれたかも知れないよ」
「その確率は70%。しかしその為に、綾香様は直接、九重という男のもとに向かわれたのです。直接赴くことで、注意を綾香様のほうへ向けさせ、時間稼ぎをされたのです。――さぁ早く」

 そういってセリオは、向かいにあった1103号室を指して促した。

「オートロックは解除済みです。開けられます」
「わ、わかった」

 当惑する雅史は頷くと、大きく深呼吸して、扉のノブに手をかけた。


「――囮か」
「言って置くけど、来栖川警備保障の強面さんなんか使ってはいないわよ。セリオ一体で充分」
「「セリオぉ?」」

 セリオが何か、九重は知らないらしい。もっともまだテスト中のメイドロボットのことなど知るよしもないが、そんな九重の口をついた言葉と同じ言葉を重ねた浩之が、綾香を不安そうに見つめた。

「多分、佐藤君も一緒に居るはずよ。さっき論理プログラミングしておいたから。――大丈夫だって。セリオと一緒にいたほうが佐藤君も絶対安心だし」
「どっちにしても囮には代わりあんめぇ。――どきな」

 九重は立ち上がるなり、手前のテーブルをもの凄い勢いで蹴飛ばした。ところがテーブルは浩之と綾香の身体に触れることなく宙を舞い、綺麗な弧を描いて室内の奥に着地した。驚くべきコトに、テーブルの上にあった皿の上のケーキは、ひとつも崩れていなかった。

「さすがエクストリーム第五位」
「途中でフケなきゃ優勝していたさ」

 進み出した九重に向かって、綾香が一歩前に出た。

「邪魔する気か」
「当然でしょう。――やはりこのあいだ、徹底的にやれば良かったと後悔しているの」
「それがお前の甘さだよ」

 九重と綾香が睨み合い出した。部屋にいた九重の仲間が退出しようとするが、既にセバスが部屋の扉の前で立ち塞いでいた。

「まずお前らを叩き潰さねぇとダメってワケか」

 九重は臆することなく笑って言った見せた。

「綾香――」
「ゴメン、浩之」
「え?」

 声をかけてきた浩之に、綾香は九重を睨んだまま詫びた。

「……九重とはつい最近、あたしの学校の後輩がこいつらに酷い目に遭わされたコトがあって、ちょっとした諍いがあったの。その時、ちゃんとケリをつけていれば、南雲さんがこんな酷い目に合わずに済んだ」
「なんだと…………!」
「そうさ」

 九重はそういって、右手で怪我をしている左腕を指した。

「俺と同じように空手を捨ててエクストリームの道を選んだその覚悟を考えりゃ、来栖川綾香を腕っ節の良いただのお嬢様だと油断していた俺がバカだったのは認めるぜ。だが流石に、左肩の鎖骨を蹴り折るのが精一杯だったのは、腕よりその甘さにあったんだろうがな」
「それはあたしも認める。――二度と暴れられないように膝を砕けば良かったわ」
「出来るか?」
「――――?」
「そんなコト、本当にあの時、お前に出来たと思っているのか?」

 九重はにやり、と笑う。浩之は対峙する綾香が動揺していることに気付いて驚いた。

「綾香――」
「同じエリートとして、俺のコトを否定できると思っているのか?」
「――――」
「何も言えねぇだろ?人のコトをとやかく言うが、来栖川、お前にそんなコトを言える資格があると思っているのか?」

 へらへら笑いながら言う九重に、綾香は唇を噛みしめた。

「何、ごちゃごちゃ言ってやがる?」
「ギャラリーは黙ってな。――アン時も言ったぜ。人間ってヤツはな、利用するヤツと利用されるヤツの二通りしか無いンだ。利用するのは一流、利用されるのは二流以下。二流は一流に使われなきゃ何もできないンだってな」
「…………」

 綾香は黙り込んだまま九重を睨み続けていた。

「お前はそれが判っていたから、俺の言い分を理解していたから、鎖骨を折っただけでそれ以上のことはしなかった。――違うか?」
「綾香――――」
「――違う」

 不安そうに訊く浩之に、綾香は首を横に振って見せた。

「――あれは単なる同じ格闘家としての同情よ。あんたのそんな腐った根性は反吐が出るほど嫌いだけど、格闘家としての実力が一流なのは認めるわ。その足を砕くのが惜しいと思っただけ。それを甘いというのなら、それは素直に認めるけどね。――だけど、一流がエライだなんて、これっぽっちも考えたコトは、無いわ」

 そういって綾香は浩之に横目で一瞥をくれ、

「結局アンタは、何も判っちゃいない。自分勝手な理屈で、他人を平気で踏みにじる。そんな酷いコトも許されるのがエリートだと信じているようじゃ、終わっているわよ」
「ほざけ」

 九重が一歩前に出た。
 呼応するように綾香も前に進み出たが、その前に浩之が割り込んできた。

「浩之?」
「わりぃな。これは、俺の仕事らしい」
「な、なに?」

 当惑しながら浩之の肩を掴む綾香に、浩之は、その綾香の手を、ポン、と叩いてみせた。

「結局、迷ってるんだろ?」
「――――」
「ああいう腐った一流には、三流のピエロが相手するのが一番さ」
「ちょっと待って浩之!――無茶よ!」
「粋がってると痛い目に合うぜ」

 鼻で笑う九重に、浩之はあかんべえをしてみせた。

「なんだい、俺みたいなシロウトにビビっているのか?それとも腕の怪我が痛くて相手できないのか?」
「バカがっ!」

 ぶぅおんっ!大木をもって大気を裂いたような轟音が聞こえたと思うと、浩之の身体が宙に舞っていた。それなりに体格のある浩之の身体を、九重の凄まじい速度で繰り出された回し蹴りが捉え、部屋の奥の壁まで吹き飛ばしたのである。

「浩之っ!」

 驚く綾香。セバスも扉のほうから見ていたが、九重の足蹴りの速さには唖然となってしまった。

「腕なんか関係ねぇ。――俺の武器は、この足だからな」

 居合いの如き速さで繰り出される足蹴りだけでエクストリームを勝ち抜いた男と知っていれば、浩之もこうも簡単に倒されるコトはなかったかも知れない。いや、知っていてもこの速度から果たして逃れられたかどうか。浩之は壁にもたれたままへたり込んでいた。

「さぁ、次はどっちだ?」

 浩之のもとへ飛びついた綾香を見て、セバスが進み出ようとする。しかし、九重の仲間を扉の外へ出すわけには行かず、直ぐに立ち止まって躊躇してしまった。

「……まてよ」

 その声に、一同は驚いた。

「手前ぇ……」
「浩之!?」

 唖然とする綾香の前で、浩之がふらふらしながらも立ち上がって見せると、流石に九重も驚きを隠せなかった。

「……あっぷねぇ。さっきテーブルを蹴り上げたのと、綾香が膝を砕けば良かったと言っていたコトに気付いていなかったら、まともに喰らっていたところだった」
「…………バカな?!まさか、蹴りを受けたとき、飛び上がって蹴りの威力を殺していたのか」
「漫画じゃ良くあるパターンだが、意外とやれば出来るモンだな……痛ぇ」

 そういって膝を落としかけた浩之を、慌てて綾香が支えた。

「避けたって言ったって、あなた…………」
「あばら、やっちまったかもな。――でも、この腐れ野郎倒すのには丁度言いハンデだ」
「何言っているのよ!ダメよ、浩之じゃ九重には――」
「言ったろう。これは、迷いが生じている綾香の仕事じゃ無ぇって」
「――――」

 綾香はどきっ、とした。
 そしてようやく気付いた。心のどこかで、九重の言い分を否定しきれずにいる綾香の迷いを、浩之がとうに見抜いているコトに。

「済まねぇな」

 浩之は綾香の肩を借りて再び立ち上がり、口に溜まっていた血を、ぺっ、と床に吐いて九重を睨み付けた。

「手前ぇ…………死ぬぜ」

 今までへらへら笑っていた九重も、流石に浩之がただ者でないことに気付いたらしく、真顔になって腰を少し落とし、身構えた。

「ちぃ。本気にさせたみたいかな」

 そう言って浩之は、逆転したように、にぃ、と笑ってファイティングポーズをとった。

「浩之――」
「ちっと、離れてろ。――大丈夫、こう見えても綾香と葵ちゃんとセバスの愛弟子だ」
「無茶だって――」

 そこまで言いかけて、綾香は急に黙り込んだ。浩之が九重の動きに集中し始めたコトに気付いたのである。
 そのコトに気付いた綾香は、ゆっくりと浩之から離れた。理屈から言えば放っておくわけにはいかないハズなのに、しかし綾香は無意識に離れてしまった。
 浩之と九重の距離は一メートルも無い。一瞬の踏み込みで足りる間合いである。セバスでさえ唖然となる九重の足蹴りの速さを考えれば、格闘をかじった程度の浩之に勝ち目など考えられない。
 にもかかわらず、綾香は浩之から離れた。
 何故、離れてしまったのか、綾香はその時は呆然として気付かなかったが、後でその理由が、浩之の視線が九重の足許に注がれていた為であるコトを思い出すコトになる。
 綾香が四歩下がった瞬間、九重が一歩踏み込み、居合いのような左足蹴りを浩之に放った。先ほどよりも遙かに速いそれを喰らって、果たして浩之は生きていられるか。
 浩之が九重に勝つには、たったひとつしか方法はない。だがその場にいた誰もが、浩之にそんなコトが出来るなどと考えもしなかった。
 九重の蹴りよりも速く動く。
 しかし浩之は、やってのけた。九重のそれをもしのぐ速さで蹴りを交わし、九重が得意とする回し蹴りを放った。その蹴先は九重が蹴りの軸足にしていた右足の膝横を捉えていた。
 ぐしゃり、と嫌な音が聞こえた。それは、浩之の蹴りのカウンターが命中し、反作用によって砕けた九重の膝から聞こえていた。九重の身体は蹴りの勢いに乗って回転し、右足が膝から下が不自然な方向に向いたままその場に倒れ込んだ。
 何が起こったのか判らずにいる九重の鎖骨の折れた左肩へ、いつの間にか着地し足場をとって振り下ろされた浩之の踵落としが決まった。今度は、ぶしいっ、と押し潰されるような音が聞こえた。折れた鎖骨を固定していた金具が突き出た音であろう。途端に襲う激痛に、九重は獣のような声を上げて絶叫した。
 綾香もセバスも、九重の仲間も、一体何が起こったのか判らなかった。
 浩之が、九重の蹴りを、その動きに合わせて身体を時計回りに回転して交わし、その勢いで一回転した後、がら空きになっていた九重の軸足の右足膝の真横に回し蹴りを浴びせて砕き、崩れ落ちたところへ、更に回転を利用して振り下ろした踵を、骨折している九重の左鎖骨にめり込んだ、というのは、悶絶して倒れた九重のダメージの状態をみれば、綾香たちにも想像はつく。
 だが、その浩之の動きを、綾香もセバスも見極めるコトが出来なかった。動態視力には自信のある二人が、九重を凌駕したその速さについていけなかったのである。
 九重を一瞬にして倒した浩之は、九重の直ぐ隣でへたり込んでいた。やがて悶絶する九重を追うように大の字になって倒れるのを見て綾香は、はっ、と我に返り、慌てて浩之のもとに飛びついた。

「浩之っ!」
「……め…………」
「えっ?!」
「目…………回ったぁ」

 今にも泣き出しそうな顔をしていた綾香は、それを聞いて呆れ顔で浩之のおでこに平手打ちした。

「………………なんと」

 唖然とするセバスの横を、隙をついて九重の仲間が通り抜け、部屋を出ていく。しかし各々、九重が倒されたショックでパニックを起こし、逃げ出しただけであった。

「……いやぁ参った。ヤツが仕掛けてくると踏んだから、飛び込まずにその場で避けようと思ったら勢いがつき過ぎたぁ」

 浩之は目を回しながら言ってみせるが、綾香は戦慄していた。避けたつもりではあるまい。浩之は九重の軸足をはじめから狙っていたのだ。何故なら綾香も、九重を斃す方法は浩之がやってのけた方法しかないと考えていたからである。かなりえげつない狙い方だが、足を潰す場合、関節部を狙うのが最も効果的である。特に相手が蹴りを使っている場合、軸足の関節部にはかなり負荷がかかっている。その側面へ回転を利用して全体重を載せた蹴りを当てれば、側面への動きが出来ない膝関節は受けた衝撃を相殺出来ず、関節部は確実に破壊されてしまうだろう。
 だが、動いている相手の関節を確実に狙うコトなど、口で言うほど簡単には出来ない。まぐれ当たりだと言ってしまえば終わりかも知れないが、九重のスピードを凌駕した浩之の瞬発力までまぐれで済まられるハズがない。思えば、なんの格闘経験も、ろくに運動もしていなかった少年が、長年肉体を鍛え上げてきた綾香たちと短期間で渡り合えるようになった事実を、綾香たちは忘れていた。
 綾香は自分が、周りが言うような格闘の天才だとは思っていない。それなりにコツを掴むには、素質だけでなく、ある程度の鍛錬も必要であると考えている。もっともコツを簡単に掴めるという時点で、それを天才というべきであろうが、客観視したコトがないからそう思ってしまうのであろう。ここに来て「天才」と呼べる者を客観視し得たコトは綾香には酷くショックで、それでいて感動的でもあった。
 そして浩之と知り合った頃に感じた、近親感の正体を綾香はようやく気付いたのである。惜しむらくは、この少年はこのようにやる気を起こさない限りその才を発揮しないという点であった。

「……浩之」
「うぐぅ……、なんだぁ?」
「やっぱりあんた、ただモンじゃないよ」

 そういって綾香は浩之のおでこにキスした。

「俺に惚れちゃあイケナイぜ」
「調子に乗るな」

 綾香は苦笑しながら浩之のおでこを平手で叩いた。
 浩之は苦笑して答えるが、やがて覗き込んでいる綾香の顔を真顔で見つめた。

「あんな野郎の言葉に惑わされるなんて、らしくねぇな」
「…………本当」

 綾香は、フッ、と笑った。
 そんな綾香の頬を、浩之は優しく撫でた。

「……さっきも言ったろ。お前はそんな安っぽい女じゃ――」

 そこまで口にした浩之の唇を、綾香は自分の唇で塞いだ。触れたような程度のキスだった。

「…………ゴメン、ね、。長瀬さんや浩之たちがちゃんとあたしを見ててくれる。もう、忘れないわよ」

 嬉しそうにそういうと、綾香は大の字になって気絶している九重のほうを睨んだ。

「気絶しているから聞こえないと思うけどね、一言言わせてね。エリートが一流じゃないの。立派なコトをするのが、一流だってね」

 晴れ晴れとした顔をする綾香のあおり顔を、浩之は満足げに見上げると、ふう、と洩らして気絶した。最初の蹴りで左肋骨を三本折られていたのだ。


 ゆえは、灯りを消した九重の部屋のベットの上から窓の外を見ていた。
 月が出ていた。雅史と出会ったあの晩は満月だったが、今夜は三日月であった。
 どうしようもない倦怠感が、ゆえを見舞っていた。このまま、堕ちるところまで堕ちようか、そんな気分だった。
 がちゃり。そんな時、扉が開く音が聞こえ、寝室の向こう側の部屋に明かりが灯されたらしく、隙間から光が漏れた。
 九重が戻ってきたのか、とゆえは嫌悪を露わにした。今夜もまた、九重に陵辱されるのだろうか。

「…………ふん」

 ゆえはシャワーを浴びようと思い、シーツを身体に巻きながらベットから身を起こした。

「……九重。シャワー浴びるくらい、いいでしょ」

 ゆえは、扉の向こうにいるのであろう九重に忌々しそうに言いながら寝室の扉を開け放った。

 その時ゆえは、部屋に忍び込んでいた雅史と鉢合わせになった。

                  つづく
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