25.無明長夜 = 理由 =
来栖川邸の前で芹香を降ろした後、綾香とセリオを乗せたリムジンはそのまま直ぐ、浩之と約束した駅前のロータリーへと向かった。
芹香は車を降りたとき、綾香とセバスに、無茶だけはしないで、とはっきりとした口調で言ってみせた。この二人なら、素手で戦わせたら向かう敵無しとは判っていても、芹香は心配せずにはいられなかった。そんな優しい姉に、綾香は指切りして、大丈夫よ、という声を芹香の耳に残して去っていた。
「…………綾香お嬢様」
「何?」
リムジンを運転するセバスは、バックミラー越しに、座席に腰を下ろして、自分の鞄の中身を覗いていた綾香を見ながら訊いた。
「……お嬢様は何故、ゆえさんの救出を」
「あたしの場合は別件よ」
「別件?」
「九重のほう」
「九重?」
セバスが不思議そうに訊くと、綾香は座席に深々と背もたれして沈み、はぁ、と溜息を吐いた。
「……ちょっとした因縁があってね。それがたまたま今回の事件に関係していたから、ゆえさん、って人を助ける気になったの」
「そうですか……。私めとしましては、お嬢様がこれ以上関わられては……」
「迷惑」
「……はい」
「じゃあなんで、あたしを乗せているの?」
「お引き留めしても無駄と思いまして」
「判っているじゃない」
そういって綾香は吹き出した。セバスが呆れているのはとうに判っている。
綾香はセバス――長瀬源四郎という老丈夫(かなり変な表現だが、綾香自身、セバスの人となりを説明するのにもっとも適した言葉だと信じている)には非常に感謝していた。
帰国して始めてセバスと会った時、綾香はセバスが好きになった。綾香は、姉の芹香が気に入った人には、決して悪人がいない、という持論があったのだが、それは、このセバスに起因するものであった。
綾香が米国で空手をやっていたコトを知ると、止めるどころか、喜んで組み手の相手をつとめてくれた。並、いや普通の執事なら、喜ぶどころか空手など止めさせなければと言い出すところだが、こんな型破りな執事は、綾香は他の金持ちの友人のところを見ても聞いたコトがなかった。
もしセバスがただの頭でっかちの老人であったら、こんなふうに浩之やあかりたちと交流するコト無く、市井のコトもろくに知らず、偏った世の中の側面だけしか知らない、絶大な権力を持ったタダのお嬢様で終わっていた事だろう。
「……だから、ね」
「?」
「――ううん。なんでも、ない」
セバスは、バックミラーの中にいる綾香が、神妙な面持ちでいるコトを不思議がったが、もうじき浩之と約束した駅前が目の前になっていたので、とりあえず後で訊くことにした。
綾香たちを載せたリムジンが駅前について直ぐ、浩之がやってきた。
その横には、雅史もいたので、綾香は、へぇ、と感心してみせた。
「置いていくつもりだったんじゃないの、佐藤君のコト」
「南雲さんのコトは、俺らには関係ないコトだと」
リムジンの窓から身を乗り出して言う綾香に、浩之は意地悪そうに笑ってそう言うが、雅史には気にした様子はなかった。
「しかしですね……」
リムジンから降りたセバスが、困惑した顔で雅史を見下ろした。
「これから行く先はとても危険な…………」
「僕は、南雲さんに助けを求められたんです」
「――――」
「だから、僕は行かなきゃならない。行かないと、きっと後悔する」
「…………」
「おっさん。そう言うことらしい」
困惑しているセバスに、浩之は苦笑しながら言った。
「ひとりだけ、南雲さんに、さよなら、って言われたので逆ギレしたんだと。首輪かけてでも連れ戻す気らしい」
「へぇ。佐藤君、そんな趣味あったんだ」
「浩之ぃ」
綾香まで調子に乗ってからかいだしたものだから、雅史は浩之を睨み付けた。しかし浩之は臆したふうもなく、けらけら笑っていた。
「まぁ、そう言うコトなら仕方がないわね、セバス。ご同乗させましょう」
「綾香様まで……」
すっかり孤立無援と化した現状に、セパスは肩を竦めるしかなかった。浩之と雅史を乗せたリムジンは、一路目的地へと向かった。
「ところで綾香」
「なに、浩之?」
「九重って野郎、そこに居そうか?」
「多分、ね。行き先は渋谷区神宮前にある九重のマンションだから」
「でもよく調べられたね」
雅史が不思議そうに訊くと、浩之が、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。
「日本一のお金持ち、来栖川家の情報網を甘く見ちゃいかんよ。こんな調査、ちょちょいの…………あれ、綾香、どうした?」
別に自分の手柄でもないのにえらそうに言った浩之だったが、何故か段々と昏い顔になっていく綾香の様子に直ぐに気付いた。
「……浩之」
「ん?」
「浩之は、あたしのコト、どう見える?」
「どう?」
訊かれて、浩之は、うーん、と唸ってから、
「美人」
「そんなコトは判っているわよ」
「おいおい(笑)」
「――そうじゃなくって。………………浩之は、来栖川家の娘であるあたしを、どう思っている?」
「どう……って」
すると綾香は、座席に深々と背もたれして仰ぎ、はぁ、と困憊したような溜息を吐いた。
「…………こんな、簡単に他人のプライバシーを覗ける力さえ持っている、巨大すぎる資産家の娘を――――」
そこまでいって綾香は顔を浩之のほうに戻した。
それは綾香にしては珍しい、否、初めてなのかも知れない、そんなとても何かに怯えているような貌をしていた。
「………………浩之は、怖くない?」
「…………」
浩之は、綾香が何に怯えているのか、直ぐに判った。
綾香は、「来栖川綾香」という巨大な資産家の娘の存在に、怯えているのだ。
政界や皇室にも強い発言力を持ち、日本ばかりか世界経済にも影響を及ぼすほど巨大な資産を持ち、「東洋のロックフェラー」とまで呼ばれた来栖川家。次女とはいえ、その言動は常に注目されているのも事実である。
だから綾香は、そのプレッシャーに負けないよう、自らを鍛錬してきたという自負があった。特にパーフェクトを目指したつもりはなかったが、将来の優れた素質が、綾香が自由に出来た、自分だけの武器だった。空手を始めたのは、米国にいた頃のほんの気まぐれだったと言っていたが、本当のところは、来栖川綾香ではなく、ひとりの女として、自分を高めたいという純粋な気持ちからなのだろう。
しかし綾香の意志など関係なく、来栖川の家に生まれたコトから、綾香は他人の意志など一切合切無視してねじ伏せられるだけの「巨大な権力」も与えられてしまった。その力を放棄するコトなど、ほとんど無理であろう。
生まれてくる者に、生まれ落ちる星の下を選ぶ権利も自由もない。それが当人にとって良いコトなのかどうか、しかし誰にも正しいコトは言えないだろう。それだから、ひとは絶大な権力を自由に出来る力を得たとき、戸惑う。権力を動かす自分は、本当に正しいのか、と。
浩之は、綾香ほどの剛胆な者なら、そんなプレッシャーなどに惑わされるコトなど無いとばかり思っていた。
だが、それでもこの腕っ節の強い黒髪の美少女は、その力を、来栖川綾香という女を怖がっていたのだ。
暫しの沈黙。その場は誰もが、沈黙せざるを得なかった。来栖川家に長く仕えるセバスでさえ、綾香にどう答えるのか、判らないでいた。
やがて、リムジンがJR渋谷駅のガード下、渋谷署前の交差点で停まった。信号は赤だった。目的地はもうすぐである。
綾香が停車の勢いで、少し俯いた。
その頭に、浩之の掌が乗せられた時、綾香は、びくっ、と震えて驚いた。浩之は綾香の頭を撫で始めたのだ。
「…………きっと芹香先輩だったら、こんなふうに綾香を慰めるんだろうな」
「――――」
「……安心しろよ。少なくとも俺は、綾香がそんな女とは思っちゃいない」
浩之が撫でながらそう言うと、綾香は浩之の掌が外れないよう、ゆっくりと顔を上げた。
「そんな女だったら、こんなふうに俺たちにつき合いはしないしな」
「浩之…………」
「少なくとも、僕やあかりちゃんも、浩之と同意見だよ」
今まで沈黙を守っていた雅史が、ふっ、と笑顔を浮かべて見せた。
「気休めなんかじゃなくって、本当に、自信持っても良いと思うよ。綾香さん、ちゃんと立派な自分を持っている。――そう言う考えを、真っ直ぐに見られるのだから、ね」
「佐藤君…………!」
正直、綾香は雅史がそんなコトを言うとは思っていなかったらしい。浩之の隣で笑っているだけの能天気な少年とばかり思っていたが、雅史もまた浩之と同じように自分を見ていたとは、綾香は本当に予想外だったらしい。
だから、つい、綾香はホロリ、となった。
「雅史、お前、最近女泣かせになってきたんじゃねぇの?」
「浩之ぃ」
浩之に茶化されても雅史は苦笑するだけだった。どうやら二人とも、綾香の今の気持ちを察してくれたようである。だから綾香は涙を溜めたまま笑ってみせた。
「……もう、莫迦言ってんじゃないの、二人とも」
「あー、泣いたカラスがもう笑ったぁ」
「う、うるさいわねぇ」
運転席の後ろでどっと湧く浩之たちの姿を、セバスは振り返らずバックミラーの中にのみ留めて見やっていた。運転していたコトもあったが、いつも偏屈な貌しかみせていないその顔が綻んでいるのをセバスは見せたくなかったのかも知れない。
特に浩之に対して、セバスは偏屈な爺というイメージを払拭させるような、そんな馴れ合いはしたくなかった。セバスは浩之とは芹香を挟んだ、ライバルという意識があるのだ。色恋沙汰のそれではなく、もう少し次元が違う、そんなちょっとした緊張感を持った関係を楽しみたいコトもあったが、今さら、初対面の時に定着した印象を変えてはならないという考えもあった為である。
そう言うスタンスを取り続けるコトで、浩之は芹香や綾香に優しく接してくれる。悪役は必要悪でもある。セバスにはそう言う持論があった。だが浩之もそのコトにはとうに気付いているだろうとも考えていた。気付いていながら、承知してくれているのだと。ならば、悪役に徹してくれよう。お互いそれを理解して楽しんでいるのだ。
そんな粋な少年と、自分よりも長く付き合っていた佐藤雅史という少年に対し、セバスは見方を変えつつあった。初対面の印象は、浩之より好青年だが、どこか物足りない、脆弱な雰囲気を感じ取っていた。毒にも薬にもならない。いつも周囲に流されている稀薄な少年。
だが、今回の件でセバスは、その物足りなさの正体をようやく悟った。雅史は控えめすぎるのだ、と。恐らくは、あくの強い浩之のそばに居る所為で、その持ち味を発揮する機会が少なく、自然と影が薄くなっていったのだろう。しかしそれは側面的なモノの見方であった。まずは藤田浩之という男を、他の誰よりも注目していたその「目」の秀逸さに気付くべきであった。
そしてそれが行動力に繋がった時こそ、雅史の本領発揮の時でもある、と。
助けを求めるゆえの声に、雅史は応えようと動いた。
セバスは、雅史に賭けても良いだろう、そう正直に思った。そう思ってセバスは、バックミラーの中で苦笑している雅史に一瞥をくれた。
果たしてゆえを救い出した時、雅史はゆえにどう接するのか。恐らくは酷い状況での再開が予想されるコトだろう。しかし、先ほど浩之とともに現れた雅史の顔には、そのコトを予期しているような覚悟さえあった。
そんな雅史を前に、ゆえはどうするだろうか。そればかりはセバスにも予測できなかった。雅史の元から去るかも知れない。それもまた、ゆえの選ぶ道である。ゆえの意思を尊重しよう、セバスはそう考えた。
それでも、セバスは不思議と、ゆえは雅史の元に残るかも知れない、と思っていた。
何故だろうか。セバスは、先代の来栖川家当主と初めて会った時のコトを思い出していた。
焼け野原となった東京で喧嘩に明け暮れていた日々。若さが、とにかく刺激を欲しかった。
そんな中で出会った、華奢で無口な青年。横浜のほうで進駐軍相手に商売をしていた若き商人。
ちょっとしたトラブルをきっかけに、セバスは青年の商売に付き合うようになったのだが、始めはどこか頼りないような印象しか持っていなかったのに、毒気を抜くような言動と、それとは裏腹な大胆さに、いつしかセバスはその青年に傾倒するようになっていた。
「…………そうなのかもしれない」
セバスは、ああ、と小声で呟いて頷いた。あの時に青年に覚えた印象と同じものを、雅史にも感じている自分に、やっと気付いたのだ。
(……わしも、大旦那様にそうとう影響を受けたからのぅ。もし、大旦那様と出会えなんだら、どんな生き方をしておったか……はん、おおかた、のたれ死にでもしていたのがオチだろうて)
率直な気持ちだった。来栖川家の先代当主と知り合っていない自分を、セバスは想像できなかった。それほど先代当主のセバスに対する影響は大きいのだ。
(人間は、自分一人では何もできない生き物だから)
不意に、焼け野原で自分に手を差し出したあの青年の顔がセバスの脳裏に甦った。
(僕は見てのとおり、キミほど腕力はない。でも、キミに明日からの食に不自由しない仕事を与えるコトは出来る。流石にキミでも、僕に仕事を紹介することは出来ないだろう?――はは、賭け拳闘なんか紹介されても僕なんか使い物にはならないよ)
つり目の生意気な若造という第一印象は、ストリートファイトに明け暮れていた偉丈夫の中からは既に消えていた。忘れられない笑顔だった。
次に、その青年が、白血病で逝去した父親の事業を受け継いで社長になったその初日の晩、セバスと一緒に就任式のパーティを抜け出して、近くの屋台に飲みに行った時の光景が、セバスの脳裏に甦った。
(……親父がさ、長瀬が来てから僕が変わった、と良くぼやいていたんだ。変なところばかり悪影響を受けているって。そのくせ、笑っているんだ。――ひとは、他人から影響を受ける。そして各々が影響し合うコトで、他人とは違う自分が確立される。自分を磨くのは、本当は他人なんだって、臥せっていた親父に教えられた。口は悪かったが、親父は長瀬に感謝していたんだと思う)
そう言って、青年は隣に座っているセバスに深々と頭を下げた。それを見て、滅相もない、顔をどうかお上げ下さい、とセバスは当惑したものである。やがてゆっくりと顔を挙げる青年の微笑を見た時、非常に嬉しい気持ちになったコトを、ステアリングを握るセバスは思い出していた。
あの時の微笑によく似た貌が、バックミラーの中にもあった。佳い笑顔であった。
青山通りを赤坂方面に走っていたリムジンは、青山三丁目交差点で左折し、外苑西通りに入った。目的地はもう目の前であった。やがてセバスは、綾香のその笑顔が先ほど曇った本当の理由を、その目的地で知るコトになる。
つづく