ToHeart if.『月は、太陽に』第22話 投稿者:ARM(1475)
22.無明長夜 = 脅迫 =

 ナースセンターの仮眠室で寝ていたゆえが目を覚ましたとき、その場には誰もいなかった。二時間前、三階の患者からナースコールが入り、当番で詰めていた六実と同僚の看護婦が出て行ったためである。
 仮眠室を出たゆえは、ナースセンター内の壁に掛けていた時計を見た。時刻はまだ、深夜11時をまわったばかりであった。

「…………」

 ゆえはその時計を見て、神妙な面もちで、うん、と頷くと、辺りを見回す。そして、仮眠室から出た近くの机の上にあったカッターナイフを見つけて掴み取ると、ナースセンターから逃げるように出て行った。

 六実は、急に産気づいた妊婦の対応で、産婦人科の当直医がやってくるまで同僚の看護婦とともにパニックになっていた。予定では明日の午後が出産予定だと思っていた患者の様態が、予定より早まった破水によって一時的なショック状態に陥ってしまった為である。医師の到着によって妊婦が辛うじて危機的状況から脱し、分娩室に送って直ぐ出産の準備に入った。それからまもなく無事、母体から赤ん坊が生まれたのだが、ナースセンターに戻れたのは、最初のナースコールが入ってから三時間後のコトであった。同僚とともに一息吐き、力尽きるように仮眠室に入り、仰向けになってうとうととすること一時間。ふと、虚ろげな頭でゆえが寝ているはずの布団に、ゆえの姿が見あたらない事に気付き、六実は唖然となった。

 六実が、ゆえが居なくなったコトに気付いた丁度その頃、ゆえは渋谷道玄坂に居た。
 道玄坂の先に、一軒のスナックがあった。窓の中が明るいことからまだ営業しているらしいそのスナックのドアを、ゆえは何のためらいもなく開けた。
 店内の奥にあるカウンターのストゥールに、数人の男たちが腰掛けていた。
 その一番奥の席に、九重が座っていた。

「――よお。遅いじゃねぇか」

 九重は、憮然とした面もちで入ってきたゆえをみて、ひゅー、と下品そうに口笛を吹いて見せてから言った。九重がゆえに言った、昔馴染みのあの店、とは、九重がアジト代わりに使っているこのスナックのコトであった。
 ゆえは九重の口笛を耳にして顔をしかめ、

「……やっぱり、あんたなのね。――佐藤くんを襲ったのは!」

 ゆえに睨まれ怒鳴られた九重は、わざとらしげに、おーお、怖い怖い、と言って笑った。

「……ゆるさない……あんた絶対許さないっ!」

 ちきっ、と小気味良い音が鳴った。ゆえの右手が握りしめていたカッターナイフの刃が、ゆえの拳の中から飛び出ていた。

「やる気かい、えぇ?」

 九重はゆえがカッターナイフを握っているコトに気付いたが、ゆえを掴まえようと席を立とうとする仲間を睨み付けて制した。

「大丈夫だぜ。綺麗な顔して、怖い怖い。――そんなんで俺を殺れると本気で思っているのか?」
「死ぬ気でやれば何でも出来るわよ!!」
「はははっ、詭弁を本気で信じて嫌がるぜ!――出来るわけ、無ぇのによぉ」
「この――――」
「いいのかい、その、佐藤クン、とやらに全部知られても?」

 カッターナイフを振り上げて飛びかかろうとしたその時、あざ笑いながらいう九重の言葉にゆえの身体が、まるで時間が止まったかのようにぴたり、と硬直した。
 固まりながら見る見るうちに蒼白するゆえを、九重はカウンターに頬杖を突きながらニヤニヤ笑っていた。

「ほう。効果てき面だ」
「……す……すべて……って、何がよ――」
「お前、昔、自分の父親の子供、孕んだんだってなぁ」

 かしゃん。スナックの床の上に、カッターナイフが落ちた。
 ゆえの、カッターナイフを振り上げようとしていた右手はわなないていた。やがて、ゆえは震えが止まらない右手を胸元に寄せ、左手で右手首を握ってそれを止めようとする。だが、その左手も、いや、蒼白するゆえの全身がわなないて止まらないで居た。

「九重さん、本当ですか、それぇ?」
「すげぇや。ドラマみたいですねぇ、へへっ」

 九重の仲間がわざとらしい口調で訊く。この場にいる者達はみんな、九重からそのコトはとうに教えられているのだろう。
 やがてスナック店内に、静かなる嘲笑の輪が広がる。話の中心にいるゆえは、やがて床の上に脱力したように膝を落とし、うずくまった。ぽたぽたと床の上に落ちていた雫は、自分を卑下する眼差しの群れが見えないように、ゆえの目を曇らせる仕事のなごりであった。

「流石に惚れた男に知られたくねぇよなぁ、そんなコト。俺だったら死んじゃうぜ、マジでよ、へへっ」

 そう笑いながら九重は立ち上がり、ゆえの傍に歩み寄った。そして屈み込むなり、俯いているゆえのアゴを下からを右手で鷲掴みにして、ゆえの泣き顔を上に向けた。

「……なんでお前ぇ、死なねぇ?死ぬのが怖い?――んなハズあるめぇよな。生き続けなきゃならねぇワケでもあるのか?」

 九重が不思議そうに訊くが、ゆえは貌を泣き濡らしたまま、天井を見つめていた。

「――自殺未遂やらかしたが、それでも死ねなかった。…………祐子のコトが気になるのか?」

 そう言われて、初めてゆえの身体が、びくっ、と震えて反応した。そんなゆえに、九重は、ちぃ、と舌打ちし、掴んでいるアゴを押してゆえを床に押し倒した。

「くだらねぇ」

 そういうと九重は立ち上がり、軽い肩こりを憶えて、首を、くいくいっ、と振った。

「祐子もそうだったがよ、俺に楯突きやがるオンナって、なに考えているんだかわかりゃしねぇ。意地か?意地で、手前ぇがひでぇ目にあっても良いなんて、バカだぜ!俺に本気で叶うと思っていやがるのか?」

 吐き捨てるように言うと、再び九重はゆえの正面にしゃがみ込んで睨み付けた。

「ゆえよぉ。わかるだろう?俺の力の恐さを?俺から逃げた後のそのクソ汚ねぇ過去だって、俺の力ならこの通り、なんでもお見通しよ!いっくらでも調べられるんだぜ!――俺はなぁ、俺の思い通りにならねぇコトが我慢ならねぇんだ!ゆえ、それはお前ぇも例外じゃねぇ!――その思い上がった高慢ちきな鼻、へし折ってやろうか?」
「…………」
「――まずは、あの佐藤ってヤツを今度こそ半殺しだ」
「!?――――」

 再び、ゆえの身体が、びくっ、と震えた。

「その次は長岡ってオンナ、そして佐藤のダチどもみんな、潰してやろうか?」
「――――やめてっ!!」

 悲鳴を上げたゆえは立ち上がり、思わず九重の胸ぐらを掴んだ。

「――これ以上、あの人たちを酷い目に合わせないでっ!」

 怯えるゆえをみて、九重は、かかった、としたり顔をつくった。そして、にやり、と嫌らしそうに笑ってみせ、

「…………なら、わかってんだろう?」

 やにわに、ゆえの貌が、はっ、と閃いた。

「……どうすれぱ、許して貰えるか…………ネンネのガキじゃねぇんだしな」

 九重の言葉に、ゆえの目は揺れていた。既に九重の胸ぐらを掴む手に力はなく、九重はゆえの手をすり抜けて立ち上がった。
 ゆえの眼差しは、薄暗い虚空を漂っていた。立ち上がった九重は、そんなゆえを暫し見下ろし、やがて仲間の方へ向いて、アゴをしゃくって何かの合図をした。
 すると九重の仲間たちはニヤニヤ笑いながら席を立ち、店の外へと出て行った。最後に、窓の近くにいた仲間が店のカーテンを閉めて出て行くと、九重は、その口元を邪につり上げた。
 店の中に残ったのはゆえと九重だけであった。
 ゆえにとって重苦しい、嫌な空気が、あたりに漂っていた。
 ゆえの頭の中に、雅史の顔が浮かんだ。笑顔だった。
 心が痛かった。張り裂けるようにいたかった。
 祐子は、ゆえを助けようとして、身も心も壊されてしまった。
 俊夫を父と呼んだばかりに、俊夫は殺されてしまった。
 そして、自分に関わってしまったばかりに、雅史が傷つけられてしまった。

 自分は、疫病神なのだ。

 そう思った瞬間、ゆえは半ば無意識に、自分の胸のボタンに手をかけていた。


 翌日の午後、雅史はレントゲンをもう一度撮り、脳波検査に異常が見られなかったので退院できた。雅史は少し鈍い痛みが残る頭を抱え、ナースセンターへ顔を出し、六実に挨拶しようとした。だが、六実は午前中に帰っていた後であった。午後から警察へ事情聴取で出頭しなければならなかったので、雅史は仕方なく病院を後にした。
 警察の事情聴取は夕方前に終わった。背後から殴られては、流石に相手の顔など判るはずもなく、恨まれる憶えもなかった。なにより、大方のコトは昨夜のうちに、セパスたちから調書を取っていたため、特に訊く話はなかったらしい。
 事情聴取が終わった雅史が、警察署から出てくると、そこには浩之とあかり、そしてリムジンの前に立つセバスと来栖川姉妹が待っていた。

「おつとめご苦労さんです組長」

 そういって浩之は、にっ、と笑った。

「今日も事情聴取があるの?」
「うんにゃ、芹香先輩のご厚意でお前のお迎え。送ってくぜ」

 浩之がそう言うと、セバスと芹香が、こくん、と頷いた。雅史は、うん、と頷き、リムジンに乗った。

「しかし、佐藤クンもとんだ災難だったわねぇ」

 浩之たちも乗り込んだリムジンが発車すると、綾香は気怠げに言った。

「我が輩がしっかりしていれば、暴漢を逃す失態は無かったのですが……申し訳ありません」
「あ、いえ、いいんです!助けていただいたのですから…………」

 雅史は慌ててにこにこ笑いながら言うが、ふと、ある事を思い出し、車内を見回した。そして、浩之のほうをみるなり、

「……南雲さんのコトなんだけど」
「え?」

 その名を耳にした途端、浩之たちの顔が一斉にひきつった。

「……いや、事情聴取でさ、南雲さんのコト、刑事さんからいろいろ訊かれたんだけど…………彼女になにか、あったの?」
「あ、いや、その…………」

 浩之が言葉を濁したコトに、雅史は当惑した。

「――浩之」
「……いや、その、な…………」
「――隠し事は無しだよ。――南雲さんに、何かあったの?」
「…………今日ね」
「よせ、あかり」
「だって…………!」
「――あかりちゃん」

 不安な顔をする雅史に見つめられ、あかりはおろおろした。そんなあかりをみて、浩之は、はぁ、と溜息を吐き、仕方ねぇ、と呟いた。

「…………南雲さん、今日、学校来ていないんだ」
「え?」
「そればかりか、昨日の夜から、家にも帰っていない」

 それを聞いて、雅史の顔が見る見るうちに蒼白する。そして、ずきっ、と軽い頭痛を憶えて顔をしかめた。

「お、おい、雅史、大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫だよ…………!それより浩之、どうして南雲さんが?」

 訊かれて、浩之は唇を噛んで暫し考え込み、

「……いや。俺たちにも、判らない。警察には捜索願を出しているから、後は警察任せだ。それで、事情聴取の時に訊かれたんだろう」

 嘘であった。浩之たちは、雅史を襲った暴漢が、同時に志保を襲った一件から、証拠は無いが、九重という男の仲間らしいと言うコト、そしてゆえが、九重という男と何ら関係があるというコトは知っていた。だが、今の雅史にそのコトを教えて、余計な心配をかけさせたくないと言う浩之の提案を、セバスたちは了承し、知らぬ振りを決め込んでいるのだ。

「とりあえず、何か判りましたら、我が輩めに警察から連絡が入る手はずになっております。その際は、佐藤殿にもご連絡いたします」

 セバスが運転しながら答えた。雅史は、何か釈然としないモノを浩之たちの口調から感じたのだが、自分のことを気遣ってのコトだろうと直ぐに理解し、わかりました、と言ってそれ以上のコトは訊かなかった。
 まもなく、リムジンは雅史の家の前に止まった。雅史の両親が直ぐに出迎えに現れ、雅史は浩之たちと一緒にリムジンを降りた。
 そんな時、雅史の家の中から電話のベルが聞こえてきた。

「誰かしら」
「僕が出るよ。芹香先輩、ありがとうございました」

 雅史はリムジンを降りてきた芹香に深々とお辞儀をして、浩之たちに手を振ってから、慌てて家の中に駆け込んだ。
 電話は玄関の直ぐ向こうにあった。けたたましく鳴り続ける電話のベルが頭に響き、雅史はしかめっ面で受話器を上げた。

「……はい、佐藤です………………え?」

 その声を聴いた途端、雅史の顔が硬直した。

「…………南雲さん?――――南雲さんなんだね!どうして僕の家の電話番号を……え、志保からさっき訊いた?そうか……あ、いや、大丈夫。今日も脳波検査やって、異常は無かったから……………………どうしたの、南雲さん?…………………………………………………………………………もしもし?南雲さん、どうしたの?……………………………………………………………………もしかして……泣いているの…………………………もしもし、南雲さん、どうしたの?今、どこにいるの?ねぇ――――え?今、なんて言ったの?良く聞こえなかったんだ…………お願いだから、いったいどうしたのか、教えてよ?」

「佐藤君、ありがとう。――――さよなら」

 そういってゆえは電話を切った。

 雅史は、そのセリフを耳にした途端、茫然自失となって、受話器を下に落としてしまった。


「――気が済んだかぃ」

 ベットに腰掛けていた九重はそう訊いて、煙草を吹かした。シーツ一枚にくるまっていたベットに横たわっていた全裸のゆえは、受話器を掴んだまま、表情のない顔で、うん、と頷いた。
 そんなゆえを横目で見て、九重は、ケラケラ笑いだした。

「そうそう。それでいいんだよ。――手前ぇは俺のオンナだ。俺から離れられないように、その身体にもっと教え込んでやるぜ」

 そういって九重は、横たわっているゆえに覆い被さってきた。九重の厚い唇がゆえの口を塞ぎ、舌を押し込んできた。ゆえはこんなふうに昨夜から何度も九重に蹂躙され、もはや抵抗する気力さえ失っていた。
 今のゆえの目は、幸せだった想い出さえ、見出すコトが出来なくなっていた。

               つづく

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