ToHeart if.『月は、太陽に』第21話 投稿者:ARM(1475)
21.無明長夜 = 悪夢 =

「……ゆえちゃん!」
「……しーちゃん……しーちゃんまで…………襲われたの……?!」
「――――!」

 振り返った志保は、動揺する眼差しを浩之たちにくれた。
 だが、ゆえをここへ呼びつけた主は、浩之たちの背後から直ぐ現れた。

「……六実おばさん」
「……ゆえ」

 ゆえは、養母の六実を見つけて彼女の元に駆け寄った。

「佐藤くんは?佐藤くんは大丈夫なの?!」
「4針縫う大怪我だったけど、脳波には異常はないって。最初に肩に当たってそれがクッションになってね。今は麻酔でぐっすり眠っているわ」
「そ……う……」

 六実の説明に、ゆえは、ほっ、とようやく安堵の息を吐いた。そして、思い出したように志保の方へ振り返ってみせ、

「…………しーちゃんまで……襲われたの?」

 不安げに自分を見るゆえに、志保はぎこちない笑顔を浮かべた。

「い、いやぁ、違うのよ違うの!あたしってさぁ、いろいろモテるから」
「…………」

 志保は笑って誤魔化そうとするが、しかしゆえの物憂げな眼差しは、それを見抜いているようであった。

「……ま、まあ、こいつロクでもねぇ噂ばかり立てるから、色々と他人から恨みかっているんだ」

 慌てて浩之がフォローし、その隣であかりも、うんうん、と冷や汗をかきながら頷いていた。あはは、と笑い続ける志保は横目で二人を見て、内心、感謝どころか、後で憶えてらっしゃいよ、と悪態をついていた。
 とはいえ、浩之たちも自分に心配かけないための嘘を付いているコトは、ゆえにもとうに判っていた。
 判っているから、辛いのだ。

「……また…………なの?」

 ゆえのその呟きの意味に気付いたのは、はっ、と驚いた六実だけだった。
 ゆえは俯き、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「祐子も…………俊夫おじさんも…………あたしが…………あたしの所為で……!」
「ゆえ!しっかりしなさい!」

 六実はゆえの両肩を鷲掴みにし、泣き震えるゆえの顔を見据えて大声で言い放った。ベテラン看護婦である六実が、夜半に病院内でこんな大声を出すとは思わなかったらしく、浩之たちが居るロビーの奥にあるナースセンターから、同僚の看護婦たちが驚いた顔でゆえたちを伺い見ていた。

「俊夫さんが死んだのは、ゆえの所為じゃないわ!――もう、あの人の呪縛を忘れて。お願いだから……お願い……!」

 六実も泣き出し、ゆえの身体を強く抱きしめた。二人を囲むように見ていた浩之たちは、黙っているしかなかった。

「…………ゆえ?」

 しばらくして、六実はゆえが気絶しているコトに気付いた。

「ここまで走ってきたコトと、激しい精神的動揺が原因の過呼吸によって、人事不省に陥ってしまったみたいですね」

 慌てて駆け寄った黙示の見立ては、多くの患者に接してきた六実と同じものであった。六実はゆえを抱きしめながら、不憫な娘、と哀しげに呟いた。

 六実は、ゆえと出会った昔を思い出していた。

 ゆえは、実の父親から性的虐待を受けていた。
 その理由は、ゆえの父親、南雲芳信と、その弟である南雲俊夫の遺恨にあった。
 芳信の妻、つまりゆえの実の母親である陽子は、俊夫の昔の恋人であった。それがどういった経緯で兄の芳信と結婚することになってしまったのか、六実は知らない。結婚前に一度だけ、俊夫に遠回しに聞いたコトがあったのだが、曖昧に返されてしまった。結局六実は後になってその理由を知るコトになるのだが、その理由がある意味、この遺恨の原因とも言えた。
 六実の知る限りでは、俊夫と芳信は同じ女性を愛した三角関係にあり、俊夫と陽子の仲を無理矢理引き裂かれたらしい、というコトだけであった。
 やがて芳信と結婚した陽子は、ゆえを産んだ。元々病弱なところがあった陽子は、産後の肥立ちが思わしくなく、陽子を産んで直ぐ、亡くなってしまった。
 陽子の死後、芳信はゆえを大切に育てていた。だが、ゆえが十歳の時、事業に失敗してから、若い頃から煩っていた躁鬱病が悪化し、ゆえに対して辛く当たり始めた。
 いわく、ゆえは、俊夫の子供ではないのか、と。
 父親からそんな疑惑の目を向けられて育った結果、ゆえは中学に入ると、家にはほとんど帰らず、繁華街で知り合った不良仲間たちと無断外泊を繰り返していた。
 そんなうちに、ゆえは同い年の少女、大谷祐子と知り合った。祐子は母子家庭の一人娘で、ゆえとは違い、単に反抗期から母親とよく喧嘩をしては、無断外泊を繰り返していた。そんな娘ではあるが、祐子は他人の面倒見が良い、優しい少女であった。ゆえの複雑な家庭事情をそれとなく察した祐子は、ゆえにあれこれと詮索はせず、気さくに付き合ってやった。
 そんな二人が、渋谷の街を我が物顔で徘徊していた、九重が率いるチーマーグループ「クラウド」と関わり合うようになったのは、二人が十四歳の時だった。渋谷周辺を根城にしていた少年少女たちの中で、美形に入るゆえと祐子は、直ぐに九重に目を付けられたのだが、二人とも、九重の悪い噂を既に耳にしていたので、相手にする気はなかった。だが、二人が入っていた不良グループの他のメンバーは、九重たちを恐れ、その傘下に入った。祐子とゆえが居るおかげで甘い汁が吸えるという甘言を信じてしまった為でもあった。
 結局、ゆえと祐子は不承不承、九重たちと付き合うことになってしまうのだが、出来る限り九重に関わらないよう避けていた。
 わがまま放題に育てられた九重の性分では、思い通りにならないゆえたちに余計に苛立ちを憶えていた。そこで九重は力ずくで二人を自分のモノにしようと画策し始めた。
 防犯課の新任の刑事として渋谷署に配属された南雲俊夫が、長らく音信不通になっていたゆえと再会したのは、そんな頃であった。ゆえは、刑事に昇格していた叔父と再会し、激しく当惑した。
 だが、祐子は、この出会いがゆえにとって良い機会であると考えていた。ゆえの複雑な家庭事情を察していた祐子は、ぐれていたゆえに更正の道を常々考えていたのだ。

「あたしはさ、お袋につまんない意地があるからさ」

 そういって祐子は、俊夫にゆえを預け、ゆえに別れを告げた。
 それがゆえにとって、正気だった祐子の最後との言葉になった。その日から一週間後、ゆえは俊夫の家で読んだ朝刊の社会面に載っていた中高生の暴行事件で、被害者として祐子の名を見つけ、駆けつけた病院で麻薬中毒患者として正気を失っていた祐子と再会したのである。ゆえは目の前が真っ暗になり倒れるが、それを俊夫が支えた。
 祐子と別れてから、ゆえは新婚家庭であった俊夫の家に泊まっていた。自宅に帰ったところで、父親から暴力をふるわれるだけだったからだ。
 俊夫が警官であるコトはシャクであったが、しかし、二、三日泊まっていたうちに、ゆえはそんな俊夫に、実の父親から感じなくなっていた父性を憶えるようになっていた。
 厳しいが、優しい。まるで実の娘のように接する俊夫に、ゆえは惹かれ始めていた。そして、俊夫と結婚して間もないのだが、細かいコトに拘ることなく、俊夫同様にゆえを実の娘のように接してくれる六実に、記憶にすらない母親への慕情を抱くようになっていた。
 そして、父親が時々口にしていた、本当に父親ではないかという疑念がわいたのである。
 そこへ、祐子の一件があり、ズタズタになったゆえの心を支えてくれる叔父夫婦に、ゆえはようやく心を開くようになった。ゆえはその日から俊夫の家に居候し、そこから学校へ通うようになった。やがて遅れていた学力も生来の才が幸いし、無事に高校に進学できて本来の明るさを取り戻したゆえをみて、六実はゆえに自分たちの養子にならないかと言ったが、ゆえは返事を曖昧にした。祐子の一件が、まだゆえの心を縛り付けていた為である。
 やがて、ゆえの父親である芳信は、俊夫の家にゆえが居るコトを知ると、俊夫に、ゆえに家に戻らせるよう言い出した。
 俊夫は、それに逆らえなかった。だが、何かあったとき、酷い目にあったときは絶対連絡してくれ、とゆえに言い聞かせ、ゆえを家に戻らせた。
 その日のうちに、ゆえは芳信にレイプされた。
 真っ白になってしまったゆえの頭は、もう見忘れかけていた天井を見つめたまま、俊夫にも助けは言えない、と絶望していた。
 その日からゆえは、繰り返し実の父親から性的暴行を受けていた。毎日が抜け出せない蟻地獄の中に居る気分だった。精神的ダメージも計り知れなく、学校に行く気力も無くなっていた。
 何度死のうと思ったことか。しかし、ゆえは死ねなかった。死にたくなかった。
 祐子のコトもあった。いま自分が死んだら、祐子が元に戻ったとき、自分が支えにならなければならない。祐子に対する恩義が、ゆえの最後の支えだった。
 やがてゆえは、17歳の誕生日、実の父親の子を身籠もってしまったコトに気付いた。妊娠三ヶ月だった。相談できる人も中絶費用もないゆえだったが、それでも生きようと考えた。
 だが、ゆえは学校からの帰り道、精神的疲労から歩いていた坂の階段を踏み外し、転げ落ちてしまった。ゆえは足首の捻挫程度で済んだのだが、しかしそのショックで、父親の子供は流産してしまった。
 たとえ外道の所行から生まれたとはいえ、罪のない尊い命である。ゆえは、腰から地面に拡がる紅い死の色に、たとえようのない哀しみを憶え、そして理解した。
 自分は、自分に関わる者を死なせる疫病神なのだと。


「……ゆえさんは?」

 警察へセバスと浩之と一緒に行く前に、あかりは六実に心配そうに訊いた。ゆえはナースセンターの中にある仮眠用ベットで寝かされていた。

「……大丈夫よ。今日はここに泊まらせるから……お父さん」

 六実がセバスのほうを向いてそう言った時、浩之たちは騒然となった。

「――ええっ!?ゆえさんのお母さん、って、セバスチャンがお父さん?!」

 一番酷く驚いて素っ頓狂な声を上げたのは、何故か綾香であった。逆に、志保はその辺りを知っていたらしく、ひとつも驚かない。芹香は相変わらず、ぼぅ、としていたが、自称・来栖川芹香研究家の浩之は、多少なりとも驚いたらしい微妙な変化に気付いていた。

「……そこまで驚くコトはないでしょう」

 セバスは少し機嫌を損ねたらしく、咳払いしてみせた。

「それはそれとして、黙示。我が輩はこれから藤田殿と神岸様とともに警察へ行く。ゆえくんのコトは今夜は良いから、済まぬがお嬢様たちを送っていってくれぬか」

 黙示は了承し、タクシーを呼んで芹香達を自宅まで送ることになった。志保は自分は大丈夫だと言ったのだが、六実に余計な心配をかけまいと、芹香達の誘いに従うコトになった。
 走り去るタクシーを見送ってから、セバスは六実に振り向いた。

「……済まぬ。儂が居ながら、このような不甲斐ないマネをまた……」
「良いんです、お父さん。お父さんがゆえのためにこんなにしてくれていたなんて思っていませんでした。…………あたしがもっとしっかりしていなければいけないのに」
「そんなことはない。六実は、あの娘に良くしてくれている。……後のことは儂に任せたまえ」
「しかし……」

 六実は当惑するが、やがて、セバスが穏やかな笑みを浮かべているコトに気付くと、ぽかんとなった。実の娘でも、こんな優しい顔をする父親の顔は非常に珍しいコトだったらしい。

「……ゆえくんは、芹香お嬢様がお友達と呼ばれた娘。そして、血の繋がりこそ無いが、それでも儂の孫だからな。年寄りのわがままだと思って許してくれ」
「そんなに堅っ苦しいコト言わなくてもいいんじゃねぇの?」

 浩之がそういうと、セパスはぶっきらぼうに振り向いた。

「南雲さんは、俺たちの大事な友達だ。セパスひとりで背負い込まなくったって良いんだぜ」
「藤田殿…………」
「南雲さんを不幸にしたいヤローが居てもな、俺たちはそれくらい屁でもねぇ。逆に、反撃してやる。窮鼠の怖ろしさを思い知らせてやろうぜ」
「浩之ちゃん……あまり無茶を言わないほうが」

 あかりが不安げな顔をして浩之の袖を引っ張った。すると浩之はあかりのほうを向き、ふっ、と微笑んで見せた。

「……大丈夫。お前のことは俺が絶対守ってやる。雅史も、志保も、みんなも、だ」
「そんな口約束して大丈夫ですかな、藤田殿?」
「何だよセバス、手伝ってくれるんじゃないの?」
「「おいおい」」

 浩之はセバスとあかりから同時に突っ込まれるが、かかかっ、と高笑いしてみせた。やがて、呆れていたセバスとあかりも、つられるように笑い始めた。
 そんな三人を見て、六実は、ようやくゆえに幸せが訪れてきたのではないか、と思った。

 六実にはゆえは、あまりにも不幸を進んで背負ってしまう哀れな娘だと思っていた。
 俊夫が死んだのは、ゆえの所為ではない。

 あの日、六実は病院の夜勤明けの帰りで、問題の坂の近くを通りかかっていた。階段の下で腰の下からおびただしい血を流す少女を見て、六実は一目で流産したのだと気づき、出血の手当をせんと駆け寄った。そしてそこでようやく、その見覚えのある少女があのゆえであるコトに気付いたのである。
 ゆえが実の父親から性的虐待を受けていたコトは、その日のうちに俊夫の知るコトとなった。
 その時の俊夫の激高ぶりは、ゆえも六実も忘れていない。絶対怒らない温厚な人間だと信じていた俊夫が、実の兄の所行についにキレたのである。阿修羅の如き形相は一瞬にして解かれ、自分が話を付ける、と言い残して家を出ていった。
 ゆえはその行き先が、自分の家であるコトに気付くと、六実の制止を振り切り、その後を追った。
 帰宅した家の中で、芳信と俊夫が殴り合いの喧嘩をしていた。ゆえは貧血を堪えつつ、二人を間に割って入った。
 そして、ゆえはボコボコに殴られて顔が腫れ上がった俊夫をかばって、父親の前に立ちはだかった。

 お父さんを、いじめるな。

 ゆえは、芳信を睨み付けてそう言い放った。
 その時の芳信の顔を、ゆえは忘れていない。
 表情らしきものがなかった。まるで魂が抜け落ちたかのような、そんな微妙な表情だった。
 そしてなにより、哀しそうに見えた。

 そうか。

 そういうなり、芳信は台所に駆け込み、包丁を掴むと、介抱するゆえの目の前で、俊夫を刺した。心臓を一突き。検視の結果では即死だったらしい。

「おまえが、そいつを父親と認めたから、刺してやったんだ。お前みたいな娘は、生まれてこなければ良かったんだ。…………あはは…………あははははははっ!」

 既に芳信は正気を無くしていた。俊夫の亡骸の前で呆然とするゆえは、ようやくやってきた六実に、色を無くした貌でこういった。

「…………お父さん、死んじゃった。…………あたしの本当のお父さん、死んじゃった」
「――違う。違うのよ、ゆえちゃん」

 だが、気が動転していた六実は、自我が崩壊しかけていたゆえを抱きしめながら、最近知ったばかりの俊夫の秘密を口にしてしまった。

「――俊夫さんは無精子症……子供が作れない身体だったのよ」

 重くのし掛かる事実。ゆえはショックのあまり、そのまま気絶してしまった。
 次に俊夫の家で目が覚めたとき、ゆえは六実の部屋にあった睡眠薬を見つけ、自殺を図った。もはやゆえには、現実は耐え難い地獄であったのだ。

              つづく

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