ToHeart if.『月は、太陽に』第20話 投稿者:ARM(1475)
20.無明長夜 = 暗雲 =

 雅史が暴漢に襲われた丁度その頃、志保は電車を降りて帰宅の途にあった。
 志保は鼻歌を歌いながら歩道を歩いていた。志保を知る者なら、上機嫌に見えなくもないその様子をみて、きっといつもと違うコトに気付くだろう。
 次第に、大通りの先にある人気の少ない路地に入った時、志保は一瞬、背後のほうを目でちらっと見た。
 そこには一台の4WDが、まるで歩行者のようにのろりのろりと走っていた。だが、志保が裏通りに入った途端、車は突然スピードを上げ、志保が入った裏通りへは入らず、そのまま大通りを進んでいった。

「……気の所為とは思いたかったんだけどね」

 そう言って志保は肩を竦め、路地の奥を見た。
 同時に、その奥に一台の4WDが現れた。路地の奥へは、大通りの先からも入れたのだ。

「……やれやれ、どこのどいつよ――」

 志保は、やれやれと気怠そうに肩を竦めると、臆することなく4WDのほうへ歩いていった。
 その志保の顔の両横へ、背後の暗がりから何者かの一対の腕が延びた。その右手には、白いガーゼをくるんだハンカチが握られていた。

「――――くっ!」

 しかし志保は腕の出現にも驚かず、目線で腕を確認するなり、いきなり屈み込みながら身体を時計回りに反転し、直ぐ背後にいるであろう腕の主の鳩尾を狙って右肘を叩き込んだ。
 ところが、志保は肘鉄を、相手の鳩尾の丁度10センチ手前で止めた。
 きょとんとなる志保のすぐ横を、ガーゼ入りハンカチを握る若い男が、前のめりになって道路に倒れ込んだ。

「――――あんたは」

 顔を上げた志保は、倒れた男の直ぐ後ろに佇む、見覚えのある人影に気付いた。人影は二つだった。

「……確か、芹香先輩の妹の」
「来栖川綾香よ。そしてこっちは、HMX13型セリオ」

 にこり、と笑う綾香の隣で、セリオが、ぺこり、とお辞儀した。
 綾香は、怪訝そうな視線をくれる志保に気づき、まるでチェシャ猫の様な意地悪そうな笑顔を浮かべた。

「駄目じゃない、女のコがこんな人通りの少ないところを歩いていると、クロロホルムしたためた狼さんがどんどんやってくるわよ」

 言われて、志保は少しむっとしたのか、つん、とした顔で立ち上がった。

「あんただって女のコでしょう?ちょっと凶暴だけど」
「失礼ねえ。倒したのはセリオよ。このコにはVIP護衛用のスタンガン装備が試験的に装備されていてね。――でもよく、感電を避けられたわね」
「感電?偶然よ、偶然」

 だが、志保が肘鉄を止めたのは、丁度セリオが男の首筋に左指に内蔵されているスタンガンを突き立てたのと同時であった。

「とりあえず、助けてくれたコトは感謝するわね」
「ちょっといい?」
「何?」
「あたし、姉さんの学校に、貴女と同じ名字の知り合いがいてね」
「…………」
「彼女の家は確か、こことは反対側だった気がするんだけど」
「何が言いたいのよ?」

 志保がうざったそうに訊くと、綾香は、前方で停車している4WDを指した。

「――あんたたち!そこまでにしておくのね!」

 綾香が一喝すると、4WDは驚いたらしく、急発進して志保たちの方へ走り始めた。驚いた三人は飛び退くと、その手前で停車した。
 すると運転席から男が現れ、道路の上に昏倒している男を抱きかかえると再び運転席に飛び込み、呆然としている志保たちの目の前からまた急発進して逃げ去ってしまった。

「忙しい人たちですね」

 セリオの淡々ながらの皮肉に、綾香は、くすっ、と笑い、

「女だけだと思って逆ギレするかと思っていたけど、意外と冷静だったわね」
「あんたのコト知っていたんじゃないの、チャンプ」
「かもね。――――倒した男の顔に見覚えあるわ。九重って男の下っ端。この間、病院で一緒にいたわね」
「九重――――?!」

 途端に、志保は血相を変え、腰にぶら下げていたケースからPHSを取り出した。

「――――ゆえちゃん?ゆえちゃん……ああ、よかった、無事?」
『……どうしたの、しーちゃん?』
「変なヤツに何かされなかった?」
『変なヤツ?』

 ゆえは、バイト先のコンビニのレジカウンターの中で、PHSを握ったままきょとんとした。
 変なヤツ、といわれてゆえが真っ先に思い浮かべたのが、黙示の顔であった。もっとも、その本人は先ほどからゆえの目の前で、棚の整理をしていた。あの長瀬という老紳士に頼まれて自分のボディガードをしていることは判ったのだが、どうして長瀬がそんなコトをするのか、まだゆえは知らないでいた。

『……ん、居なくもないけど、危害を加えるコトは無いわね』
「??なに、どういうコト?」

 急に志保の口調が険しくなり、ゆえは一瞬、どきっ、とした。

『い、いや……知り合いよ知り合い。風変わりなバイトの同僚よ』
「そ、そう…………」
『……しーちゃん。どうしたの、溜息なんか吐いて?』

 言われて、志保は、はっ、となった。

「――い、いや、なんでもないのよぉ!ちょっとつまんないことで気になっちゃって。そいじゃあねー」

 と言うだけ言って志保はさっさとPHSのスイッチを切ってしまった。

「……九重って人のコト、知っているのね。長岡サン?」
「ん?」

 綾香に訊かれて、志保は眉をひそめた。

「……なに、それ?そんな男、知らないわよ」
「んー?あたし、男、だなんて一言もいっていないわよ」

 そういって綾香はまた、にやり、と意地悪そうに笑う。志保は、あっ、と驚き、やがてみるみるうちに憮然とした面もちで綾香を睨んだ。

「……あたしが誰、知っていたって構わないじゃない?」
「そうも言ってらんないのよ。あの九重ってヤツ、札付きのワルだから」
「――――」

 困却する志保は、呆れ気味の綾香から顔を逸らした。既に見えなくなった4WDが逃げ去っていった方向を見ていた綾香が呆れているのは志保にではなかった。
 やがて志保は唇を噛みしめ、深い溜息を吐いた。

「……嫌な予感がする」

 その志保の呟きは、奇遇にも、遠く離れたバイト先にいるゆえが、妙な胸騒ぎを憶えて一字一句同じに呟いたのとほとんど同時であった。

「……黙示さん」
「ん?」

 訊いてみたが、しかしゆえはそこで長瀬のことを訊くのを思いとどまった。訊いても教えてくれないだろうし、当の本人に訊く機会がいくらでもありそうだと思ったからだ。

「長瀬の爺様のコトでしょう?」

 ゆえは、まるで心の中を見透かしたような黙示の言葉に酷く驚いた。もっとも黙示が読心術など心得ているわけでもなく、よくよく考えてみれば、今、黙示に質問する内容と言えば長瀬のコトしかないので当然の返答だった。

「……あの爺さんは変わりモンですけど、決して悪い人じゃないよ」
「……そう、ですか」

 そういうと、ゆえは突然、きょろきょろと見回した。

「居ないって(笑)。居たら何で俺にボディガードなんか頼むかね」
「そう、ですよね」

 にっ、と笑う黙示に、ゆえは少し寂しげな笑みを浮かべた。

「来栖川の執事を勤めていましてね。今頃は、芹香お嬢さんのお迎えに行っている頃かな」


 校門前で、いきなり背後から金属バットで叩かれて地面に倒れた雅史に、狼藉者は容赦なく追い打ちを仕掛けてきた。
 ところが、男が振りかぶった金属バットは振り下ろされなかった。降ろそうにも、金属バットは天を突いた状態でびくとも動こうとはしない。
 やがて、めきっ、という嫌な音ともに届いた奇怪な振動に、男は顔を振りかぶっているバットの方をみた。
 鬼が居た。
 こんな形相を、来栖川の姉妹たちは見たことがあろうか。金属バットを左手で掴み、あろう事か素手で握りつぶしていたセバス長瀬の壮絶な怒相をみて、男の顔は見る見るうちに蒼白した。

「この、恥れ者がぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!!!!」

 セバス長瀬は一喝とともに右の掌底を男の胸部に叩き付けた。その衝撃は凄まじく、バットを手放した男の身体は吹き飛ばされ、校門に亀裂をもたらすほどの勢いで激突し、校門に釘付けになった姿勢で悶絶した。
 セバス長瀬は男に目もくれず、頭から血を流している雅史を見て慄然となった。

「――佐藤殿!佐藤殿、しっかりしなさい!!」

 やがて帰り支度をしていた浩之たちがクラブハウスの窓から偶然校門を見て非常事態に気付き駆け寄ってきた。浩之は、雅史を抱き起こして狼狽するセバス長瀬を見て呆気にとられたが、一緒に着いてきたあかりの悲鳴に、はっ、と我に返る。そして、慌ててあかりに救急車を呼ぶように言った。

 それから三時間後、浩之たちは雅史がかつぎ込まれた駅前の病院にいた。三分ほど前、精密検査で雅史の脳波に異常がないコトを、治療した外科医から告げられ、安心した空気が病院のロビーに拡がっていた。

「……大事をとって今夜は入院されるそうです。…………我が輩が居ながら、飛んだ失態を…………!」
「おっさんの所為じゃないよ。気にするな。むしろ、おっさんが居合わせてくれたおかげで、これだけで済んだンだからな」

 浩之は、偶然、芹香を迎えにやってきて現場に居合わせたセバスの存在が、この上ない僥倖であったと信じていた。だが、雅史を襲ってセバスに倒された男は、あの後、突然やってきたアメリカンバイクのライダーに抱きかかえられ、そのまま逃してしまった。後からやってきた警察がバイクのナンバーを浩之たちに質問していたが、生憎ナンバーは外されていた。黄昏時であったこともあり、セバスも激高して冷静さを欠いていた所為で、雅史を襲った男と、フルフェイスを被っていたライダーの人相はよく憶えていなかった。事情聴取をした刑事は、非常に渋い顔をして、最初に居合わせたセバスと浩之、あかりの三人に、後で警察署で調書を取りたいから来てくれと言って病院から帰っていた。

「…………しかし」
「?」
「なんで、雅史が襲われなければならないんだ?」

 ふむ、と浩之の疑問にセバスも首を傾げたその時、病院の玄関を潜ってきたけたたましい声の主が現れた。

「ヒロ!あかり!雅史が、雅史が襲われたって本当?」
「志保……!」
「なんだい、あかり、さっきの電話はやっぱり志保か。うっせーぞ、志保。ここは病院だぞ」

 うっ、と怯む志保の後ろから、ここまでのタクシーの運賃を払って出遅れてきた綾香とセリオが現れた。

「浩之!佐藤クンまで襲われたって本当?」

 綾香の第一声に、浩之は挨拶しようとして、何故か声を詰まらせた。

「…………まで?まで、ってどういうコトだよ?」
「綾香さん、あんた!」

 志保が綾香を睨み付けると、綾香は当惑した面で志保と浩之の間を行き来した。

「さきほど、長岡さんが襲われそうになったのです」

 答えたのはセリオだった。正直すぎる機械の心には、複雑な志保の心境など理解出来ようもなかった。

「セリオ!」
「志保、どういうコトだよ、それは?!」

 セリオを睨んだ志保は、横から浩之に食ってかかられて当惑した。

「なんで、雅史が襲われたのと同じ頃に、お前ぇまで襲われなきゃならねぇんだ?」
「そ、それは、そのぉ…………ん?」

 志保の顔が突然、閃いた。奇遇にもその奇妙な反応は、今まで首を傾げて唸っていたセバス長瀬が何か大切なコトに気付いて、はっ、となったタイミングとピッタリ一緒だった。

「長岡嬢と佐藤殿が襲われたのは、もしや――――うっ?!」

 セバス長瀬がそう言った時である。セバス長瀬の視線は、玄関の向こう側に釘付けになった。
 セバス長瀬の反応に気付いた芹香達も、彼が凝視している方へ見やると、誰もが瞠った。

「…………南雲さん」

 玄関の外には、黙示に連れ添われるように立つ、まるで死人のように蒼白したゆえが居たのだ。

             つづく

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