ToHeart if.『月は、太陽に』第17話 投稿者: ARM(1475)
17.焦るコトはないんだ。

 今の、絵に描いたような優等生の彼を知る者の中で、子供の頃、人見知りの激しい、わがままだった雅史の子供時代を知る者は、ほんの一握りである。
 あのあかりでさえ、雅史がそんな少年だったとは知らないでいた。現在に至っては、まともに覚えているのは、雅史の家族と、そして浩之ぐらいであった。
 雅史は、典型的では収まらないほど、姉の千絵美にべったりな子供だった。その為、いつも千絵美が遊びに行くとその後をついて行き、自然、千絵美が雅史の面倒を見るようになっていたため、他人との交流が苦手な雅史が何か問題を起こすと、千絵美がいつも雅史を――たとえ雅史に原因があって雅史に非があっても、雅史をかばう「やさしいお姉さん」だった。一番雅史の人見知りが激しかったのは雅史が4才の頃で、当時、千絵美は小学校高学年で、同年代の友達と遊ぶ方が多かったのだが、しかし千絵美はその輪に保育園の年少組である弟を入れるコトをまったくためらわず、むしろ一緒に遊んで当然とさえ思っていた。
 そんな二人が、近所のガキ大将的存在の少年と知り合ったのは、雅史がたまたま一人で公園にいたとき、些細なことからその少年が雅史を突き飛ばして泣かせてしまったコトが原因だった。
 雅史が泣かされた事を知った千絵美は、その足で少年の家へ愚図る雅史を引き連れ怒鳴り込んだ。
 少年の自宅には、少年が居た。雅史と同い年の少年だった。千絵美は弟を泣かせた理由を少年に問いただすが、何故か少年は謝るどころか何も応えようとせず、二人を追い返してしまった。
 そんな少年の態度にキレた千絵美は、翌日から毎日のように少年の家にやってきては謝罪を要求した。たまたま居合わせた少年の母親が、その話を聞いて少年をその場できつく叱ったが、それでも少年は謝ろうとしない。ここまで頑固になる少年の真意を、千絵美はどうしても理解出来なかった。だからそれをどうしても理解したかったので、たとえ風邪を引いて悪寒が酷い体調の悪くなった日も、翌日悪化するコトを承知で足を向けたのだった。
 結局、千絵美はその翌日、覚悟通り高熱を出して寝込んでしまった。
 友達が居る楽しい学校を渋々休み、その所為で何となく寂しかったので、話し相手に雅史を呼んだが、母親は、雅史が朝から遊びに行ってしまったコトを教えた。その日、雅史がどこへ遊びに行ったのか、千絵美はその日のうちに知ることになるのだが、まさかあの少年の家に行っていたとは思わなかった。
 雅史がその少年の家に足を向けていた理由は、実に意外なコトだった。それは、毎日のように千絵美が行っていたから、という理由だった。あろう事か雅史は、千絵美が、雅史が泣かされたためにその謝罪を求めて少年の家に毎日通っていたコトを理解しておらず、少年の家の前で怒鳴ることが楽しいことだと思いこんでいたのである。
 当然の事ながら、少年は、家の前で怒鳴る雅史を怒鳴り返した。その勢いで喧嘩になってもおかしくなかった。
 ところがである。少年は、雅史一人しか居ないことに気付き、千絵美の真似をして、家から出てきた少年を睨み付ける雅史に、どうして一人で来たのだ?と不思議がって訊いた。すると雅史が、姉が風邪を引いて来られなかったと答えると、少年は千絵美の見舞いに行くと言い出したのである。
 それをどうして雅史は断らなかったのか、未だに思い出せないらしい。子供心に不思議には思ったが、そうしなければいけない、と思った所為もあった。
 その日の午後、千絵美は、雅史が連れてきた意外な来訪者を見て唖然とするコトとなる。心配そうな顔で体調を訊く少年に、千絵美は、タダの風邪だから、と答えると、少年は、ほっと安堵の息を吐いた。意外にも、少年は前日、千絵美の顔色が悪いコトに気付いており、それとなく心配していたコトを千絵美はその時知った。
 せっかく見舞いに来てくれた少年を、千絵美と雅史は家に上げた。そして、千絵美はそこでようやく、少年が雅史を突き飛ばした理由を知ったのである。
 それは少年が、どうして雅史が他のみんなと遊ばないか、と訊き、何も応えなかったからだった。少年は雅史が人見知りの激しい子供だと言うことを知らず、無愛想な態度に腹が立ってその勢いで突き飛ばしたのである。
 千絵美はそれを聞いて、今回の件が雅史の人見知りの激しさが災いしていたコト、そして自分にべったり甘えすぎて他の子供達にまったく感心を抱かない雅史に、ようやく危機感を理解したのである。雅史が人見知りの激しい子供だと言うことをそこで同様に知った少年は、やっと千絵美と雅史に頭を下げたのだが、そんな少年を見て、千絵美は一計を案じた。
 もっともそれは、一計と呼ぶほどのものではなかった。少年に、これから雅史と一緒に遊んでやってくれないか、とお願いしたのだ。皮肉にも、雅史は、千絵美が少年の家へ何度も足を運び、言い争っている姿を見ているうち、少年に対して抵抗感が無くなっていたのだ。
 無論、少年はその申し出を断るハズもなかった。いつも自然体な少年は、事態を飲み込めずにポカンとしていた雅史に笑顔で指切りげんまんさえしてみせた。
 雅史は、その少年の笑顔を、今も忘れていなかった。雅史はいつしか、姉ではなく、少年にべったりとなり、誰とも隔たりなく付き合う少年と一緒にいるうち、人見知りもしなくなっていた。

 そして、そんな少年に、雅史は憧れるようになった。


 ナースステーションで雅史と別れた南雲は、そこで待機していた看護婦たちが不思議そうな顔で自分を見ていることに気付いた。

「どうかしたの?何か付いている?」
「いえ、南雲婦長。……なんか、うれしそうだなぁ、て、そんなふうに」
「ふうん」

 南雲は、嬉しそうに言って見せた。

「そうなのかもしれないわね」


 結局ゆえは、浩之の家から直接バイト先へ向かい、夜、ようやく帰宅した。今日は珍しく、母親が先に帰っていた。

「おかあさん、珍しいわね」

 ゆえが不思議そうに訊くと、台所で夕食の準備をしていた南雲は、鼻歌混じりに嬉しそうに頷き、

「今日、佐藤君にあったの」
「え――――」
「あたしの担当している妊婦さんの一人に、佐藤君のお姉さん――ほら、ハムスターの飼い方虎の巻を書いたあの人が居てね、ちょうど佐藤君がお見舞いに来ていたのよ」
「……へぇ。そんな奇遇、あるのねぇ」

 余りのことにぽかんとするゆえをみて、南雲はくすくす笑い出した。

「これも何かの縁ね。ゆえ、どう、彼と交際しない?」
「――――」
「あらあら、顔、真っ赤にして」
「――あ、あのですねっ、六実さんっ!」
「何、他人行儀に。あたしのことを名前で呼ぶなんて、おかあさん、哀しいわ」
「…………もう」

 呆れて膨れるゆえを見て、南雲は余計に笑い出した。

「そんなにおかしいんですか?」
「くすくす……だって、あの佐藤君、って、ゆえがあたしに虎の巻のコトを話したとき、照れくさそうに話していた佐藤君なんでしょう?好きだってコト、もう判っているんだから」
「そんな――――そんなこと」

 戸惑うゆえは、俯いてしまった。
 そんなゆえをみて、今まで笑っていた南雲は、急に真顔に戻った。

「…………もう、俊夫さんのコト、忘れなさい」
「でも――」
「あなたが俊夫さんのコトでずうっと悩んでいるのは判っているのよ。あたしのことはおかあさん、って呼んでくれるのに、俊夫さんのコト、おとうさん、って呼んでくれないのは、もう仕方のないことなのかも知れないけど――――それはそれでいいの。でもね、もう、自分の心に正直になってもいいんじゃない?」
「…………」

 困惑するゆえは、いたたまれなくなって自分の部屋へ戻ろうと台所から出ようとした。

「そうやってまた、他人を拒絶する」
「――――」

 ゆえの足が止まった。

「そんなんじゃ、誰もあなたの気持ちを理解してくれないわよ。いつまでもあなたのそんな寂しい心を理解してくれる人が、あたし一人だけでは――――哀しすぎる」
「…………」

 南雲は、ゆえの背中を見て、明らかに動揺していることを見抜いていた。

「……でもね。佐藤君なら、きっとあなたのこと、理解してくれると思うの」
「…………………………何故?」

 間を空けて聞き返したゆえのその声は、何かを決心したような声だった。
 南雲は、ふっ、と笑みをこぼし、

「それはね、彼もあなたと同じだから。実はね――――」

   *   *   *   *   *   *   *

 翌朝、雅史は、ある決意のもとに、2−Aの教室の扉の前にいた。
 あれから雅史は色々悩んだ。ゆえの母親から、ゆえの生い立ちを聞かされ(流石に父親との「関係」を南雲は告げなかったが)、自分なりにゆえが抱えている問題を整理してみた。
 だが、結局、これしかないと結論を出した。
 それは既に雅史が出していた結論であった。
 雅史には、変化球を投げられる技術も度胸も不足していた。直球勝負が決して悪いわけではないのだから。
 むしろ、ゆえだからこそ、率直に思いの丈を告げるべきではないかと感じていた。

「南雲さん――――」

 意を決した雅史が、2−Aの扉を開けて教室内に呼びかけた。

「なに?」

 と返事が聞こえたのは、意外にも雅史の背後からだった。雅史は驚いて飛び上がった。

「あわわわ(汗)…………お、遅かったんだ」
「…………なに?」

 聞き返すゆえをみて、雅史はぽかんとなった。無理もない。昨日までのゆえだったら、こんな微笑みなどみせるとは思えなかったからだ。

「…………佐藤君。何か用なの?」

 雅史は、どこか嬉しそうに聞くゆえをみて、当惑してしまった。予想していた反応とまったく正反対だったからである。おかげで雅史はいっそうパニックに陥った。

「いいいいやややややややや、そそそそそのののののののの」

 そんな雅史を見て、ゆえは、くすっ、とはにかむように笑った。

「…………この間はご免なさい」
「――え?」
「佐藤君につれなくしたコト。……ちょっと精神的に参っていたコトもあってね」
「そう……なんだ……」

 雅史は、ほっ、と胸をなで下ろした。
 不思議と、雅史は心が落ち着き始めていた。ゆえの意外な笑顔が、混乱していた雅史のこころを安定させているのだろう。

「――僕と付き合ってくれない?」

 しかし余りにも心が落ち着いてしまったために、雅史の正直な気持ちが口を滑らせた。雅史は言ってから、またパニックに陥りかけた。

「え?何?」

 きょとんとするゆえを見て、雅史は、僥倖にもゆえが今の告白が聞こえていなかったコトを知り、安心する一方で、少しがっかりした。

「…………い、いや、ね」
「……今度、藤田君と神岸さんが、夕食会を開いてくれるって」
「え――――」

 雅史の顔が硬直した。目だけが恐る恐る2−Bの教室のほうへ向くと、教室の中から顔を出してにやつく浩之が居た。

「……それで、いっしょにどうかな、って」
「あ……………………って!!浩之っ!!お前っ!!?」

 堪らず雅史は浩之のほうを向いて怒鳴った。浩之は笑いながら教室の中へ引っ込んだ。

「なにもそこまで怒鳴ることは無いんじゃない?」
「で、でもねぇ」
「憧れているんでしよう、彼のこと」
「――――」
「私のおかあさんから、聞いたの」
「……千絵美姉さんだな、もうっ」

 膨れる雅史を見て、ゆえはくすくす笑い出した。

「……それで、彼みたいになりたくて、寂しそうにいた私に興味を示した。――――私は踏み台なわけだ」
「そんな――――そんなコト、無いよ!!」

 雅史は意地悪そうに言うゆえに狼狽した。すっかり話の主導権を握られてしまったようである。

「僕は、純粋に、キミのことが――――」
「?私の、コトが、何?」
「――――」

 担がれている。雅史はそこでようやくゆえが何から何までお見通しであるコトに気付いた。
 そう気付いた途端、雅史は、不思議と、ほっ、とした。
 焦ることはないのかも知れない、と。

「…………僕たち、友達だよね」

 雅史がそう訊いた途端、ゆえが吹き出した。

「――――そう来るワケ?」

 すっかりツボに入ったゆえは笑い続ける。そんなゆえを前にして、雅史は困った顔をしつつ、どこか嬉しそうにいた。
 焦るコトはないんだ、と。

 ここにきてちぐはぐな二人の関係は、少しだけ進歩したようである。ここからさらにどう進歩するか、雅史とゆえ次第であった。

 だがその時点で、二人とも、これから先、二人の関係に大きな試練が待ち受けているコトなど、知る由もなかった。

               つづく

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