16.……不甲斐ないんですよ。
千絵美と少し話し込んだゆえの母親は、他の妊婦の体調をチェックしてから、病室から出た。
病室から出てくると、廊下に帰ったはずの雅史が待っていたのだが、南雲はそれを予想していたかのように驚きもしなかった。
「ここじゃ話し辛いんでしょう?ナースステーションまで付き合って」
「済みません……」
雅史は降ろしていたバックを持ち上げ、南雲と並んで歩き始めた。
「……雅史君」
「はい?」
「…………ゆえがまた、わたしは人殺しよ、って言ったんでしょう?」
雅史は驚いた。
「…………どうしてそのコトを」
「血は繋がっていなくても、わたしはゆえの母親よ――――なんてえらそうなコトゆうけど、本当は、ゆえの学校の先生からそのコトを聞かれてね」
「………………」
「――信じているの?」
「そんなハズはありません」
雅史はきっぱり言ってみせた。
南雲は、ひゅう、と口笛を吹き、
「本当のコトだといったら?」
「だとしても、それは昔のコト。僕は今のゆえさんを信じます。――過去があの人を縛るのなら、それは誰かが解いてあげなければいけない」
「臆面もなく、良くそんな恥ずかしい…………」
南雲は冷やかそうとしたが、ふと横目で見た雅史の顔は真剣だった。
むしろ、怒っていた。
「…………不甲斐ないんですよ」
「…………」
「困った人が目の前にいる。でも、何もしてあげられない自分が…………」
僕は、あの娘に何もしてやれなかったからな。
「……南雲さん?」
「あ?」
南雲は、雅史に呼びかけられて、はっ、と我に返る。知らず知らず立ち止まっている自分に気付いた。懐かしいあの人の声を聞いた気がした。
「――ごめんなさい」
雅史は不思議がったが、立ち止まった訳を聞こうとはしなかった。
再び二人は並んで歩いたが、暫し無言だった。
もどかしい空気の中、先に口を開いたのは南雲のほうだった。
「――雅史君。……浩之君、ってどんな人?」
「浩之?」
突然、知らないハズの浩之の名が出てきて、雅史は戸惑った。しかし、千絵美が話したのだろうと直ぐに悟った。
「…………良いヤツです」
「人として?友達として?」
訊かれて、雅史はしばらく小首を傾げ、
「一言では言い表せませんが…………男として、憧れています」
「………………ふぅん。で、雅史君は目標にしているんだ」
雅史ははにかみながら頷いた。赤面までするものだから、事情を知らない者が端から見ると、同性愛者と錯覚しそうなはにかみかただった。この辺りから、一部の人間から、雅史は浩之に片思いしているという誤解が生じているのだろう。男として、男を憧れる。人情を軽んじる世知辛い今の世に生きる現代人が忘れかけていたこころのひとつを、この少年は純粋に抱いていた。
「……でも、浩之にはなかなか追いつけません」
「どうして?」
「浩之は、自然体なんです。それに引き替え、僕は浩之のマネばかり。ずうっと浩之ばかり見てきたからなのかもしれません――だから、浩之に叱られました。浮ついた気持ちでゆえさんに接するな、って。………………正直、痛かった」
雅史は苦笑しながら後頭部を掻いた。
「…………それでも、僕はゆえさんが他人を拒絶する姿を見ていると、我慢できないんです。――許せないのかもしれません」
「……許せない?」
「ええ。…………僕もそうだったから」
「――――」
南雲は、その理由を知っていた。
* * * * * *
浩之とあかりの前で突然ゆえは昏倒してしまった。驚いた浩之はゆえを抱き起こすが、完全に気絶してしまったらしく、ゆえの家がどこか知らない二人は、仕方なく、ゆえを浩之の家に連れて行って介抱するコトにした。
ゆえを背負って帰宅した浩之は、居間のソファにまだ気絶しているゆえを寝かせた。一緒についてきたあかりは、浩之からタオルを受け取り、台所でそれを水で絞ってくると、ゆえの額に乗せた。
「…………浩之ちゃん、お医者さんに連れて行かなくて大丈夫?」
「興奮しやすい性格みたいだしな。背負っているあいだ、うわごとのように、大丈夫、大丈夫って言ってた。こんな感情的に不安定なタイプの人間は、心因性のショックで簡単に気絶するコトもある、ってニュースで聞いたコトがある。顔が赤いけど、ショックによる発熱だろう。ほら、さっきよりだいぶ顔色が良くなってきた」
「うん……。そうだね…………」
ほっ、としたように言うと、今度はあかりが、力が抜けるようにその場にへたり込んだ。
「あかりっ?!」
「大丈夫。安心したら、気が抜けちゃった……だけ」
そう言いながらもふらつくあかりの肩を、浩之が屈んで背後から抱きとめた。
「莫迦。……お前も横になって良いんだぞ」
浩之が呆れ気味に、しかし優しく言って見せた。
するとあかりは急にしゃくり出し始めた。
「あかり……」
「あたしが……あたしが、南雲さんに酷いことしちゃったから……こんなコトに……」
あかりは、事情を知らなかった――早とちりしてしまったために、ゆえを罵ったことをこころから後悔しているようだった。焦燥しきって肩を落とすあかりを、浩之はとても見ていられなかった。
浩之があかりの身体を引き寄せたのは、半ば衝動的なものだったのかもしれない。浩之に背後から抱きしめられたあかりは、思わず目を丸めた。
「…………ばぁか」
「浩之ちゃん…………?」
「らしくないこと、ゆぅなよ。…………正直、お前がンな女だったと意外だったが」
浩之の正直な気持ちだった。だが、あかりの気持ちも、判らないでもなかった。
以前のあかりだったら、こんな暴挙に出ることなど無かっただろう。
変えてしまったのは、浩之の所為。あかりの想いにようやく応えられた浩之の所為なのだ。
浩之は、困っている人間がいたら、黙っていられる性分ではなかった。浩之自身、その衝動には損得勘定はない。人として自然な、当たり前な気持ちだとしか思っていないのだ。
そんな優しい態度が、周りから八方美人な男だと思われてしまうのだろう。子供の頃からずうっと想いを寄せていたあかりにしてみれば、その優しさを理解していながらも気が気でなかった。だが、浩之と自分の関係がただの幼なじみである以上、あかりは浩之の優しさを見守っているだけしかなかった。
しかし、今は違う。想いが通じ合った今、浩之のそんな優しさが、あかりには、ひとりの女として、時として苦痛でしかないのだ。
あかりはそんな気持ちをストレートに出せるほど器用な人間ではない。だから浩之を独占したい気持ちが、こんなかたちで暴走してしまったのだろう。浩之は昔と違う「今」を、痛感した。
そんな後悔が、浩之のあかりに対する想いを強めた。あかりを抱きしめる腕の強さは、愛おしさの強さであった。
「…………あかり」
「……?」
「…………ごめんな。また、心配かけて」
「……うん」
はにかむあかりは、浩之の息づかいがとても嬉しかった。
「――――ふふっ」
その笑い声に、浩之とあかりは、はっ、と驚く。ゆえが意識を取り戻していたのだ。
「お、おい、――大丈夫か?」
「…………うん」
ゆえはゆっくりと起きあがった。
「……お騒がせしちゃったみたいだね」
「気にしなくていいよ。こっちはてっきり、あかりが南雲さんを殺っちまったかと心配で心配で」
「浩之ちゃあん、それ、ひどぉい」
「言い訳無用」
そう言って浩之はあかりのほっぺたをひっぱった。あかりは痛い痛い、と言いながら笑っていた。
「……本当、済まない」
「気にしなくて良いわよ。…………大丈夫だから、もう帰らせてもらうね」
「慌てることはないだろう?」
「バイトがあるの」
「え、バイト?」
ゆえは頷くと、ゆっくりと立ち上がり、額に乗せてあったタオルを近寄ってきた浩之に手渡した。
「母子家庭で、学費、あたしも少し稼がないと駄目なの」
「そう……なのか…………せっかく、あかりに晩飯でも作らせようかと思ったんだが」
「え?あ?」
そんな話は聞いていなかったので、あかりはびっくりして目を丸めた。
「こいつの料理の腕前、そこいらの一流レストランの料理には引けを取らないんだぜ。そうだ、今度、夕食会でも開くか」
「あっ、そうだね!南雲さん、どう?」
「え?で、でも…………」
「お詫びだお詫び。南雲さんの好きなもの言ってくれれば、あかりに作らせるよ。レシピ知らなかったらマスターさせるから、さ」
「――――」
二人に笑顔で迫られ、ゆえは戸惑ってしまった。ゆえは自分でもお人好しではないと思っているのだが、流石にこんなふうに迫られては断りづらい。
なにより、ゆえ自身、この二人に心を許しかけている自分に戸惑っていた。
「う……うん」
「「よかったぁっ!断られるかと心配したんだぁ」」
と声をそろえて喜ぶ二人を前に、ゆえは心の中で、おいおい、と突っ込んだ。
結局、ゆえのバイトの予定が入っていない来週の金曜夜に、浩之の家で夕食会を開くことになった。無論、智子や志保、芹香そして雅史も呼ぶコトにした。雅史を呼ぶことに、ゆえはひとつも異論を口にしなかった。
「それじゃあ」
と出て行こうとするゆえを、浩之が呼び止めた。
「何?」
「雅史のコトだが…………」
「佐藤君のコト?」
「ああ。――考えてやってくれないか?」
「あら?昨日、彼にあんな酷いコトを言っておいて?」
「聞こえてたか……」
「あれだけ大声で騒いでいちゃ、聞こえないほうがおかしいわよ」
浩之が雅史を叱りとばした件は、本当は、志保から聞いていたのだった。
すると浩之は少し困ったふうに肩を竦めてみせ、
「…………あいつは、俺には過ぎた、出来の良い弟みたいなヤツでね。俺としちゃあ、ああ言わざるを得ない場合もある」
「…………」
「決して悪いヤツじゃない。付き合い長いから、それは俺たちが保証する」
浩之がそう言うと、ゆえは、はぁ、と溜息を吐いた。
「……私、ああいうまっすぐな人、…………苦手なの」
嫌いじゃないんだ。――浩之は心の中で呟いた。
「……わかった。これ以上は言わない。でも、男と女のつき合いばかりじゃない」
「……………………」
「肩肘張らない付き合い方もあるってコトさ。逆に、あいつならそう言うつき合いのほうが良いかも。何せ、俺にも時々、あいつの言動に得体の知れない者を感じる時、あるしな」
「……得体の知れない?」
「おう。雅史ちゃんギャグ、腰に来るぜぇ。いきなり、『僕たち、友達だよね?』って笑いながら訊くし」
それを聞いて、ゆえは堪らず吹き出した。
「友達……って、どうしていきなり?」
「それ、端で志保が聞いていたモンだから、俺らしばらく校内でホモ扱い。おかげで衆道橋本、しっとマスク化して俺に挑戦状ふっかけてきたり、そらぁもう酷ぇ目にあったぜ」
「え?あの橋本君に?なによ、それぇ、クスクス」
今の話がツボに入ったらしく、ゆえは身をよじらせて笑い出した。そんなゆえを見て、あかりもつられて笑い出した。
笑い続ける二人をよそに、浩之は、やれやれ、と後頭部を掻いた。
「…………やっぱり、人を拒絶せず、そうやって笑っている方が似合っているよ」
「……え?」
「あいつにも、そうやって笑ってあげられないかな?」
そう言って浩之は、照れくさそうに微笑んだ。
この少年は、そうやっていつも笑って上げるのかしら。
彼は、こんな笑顔に憧れていたのだろう。
……うらやましいな。
「…………うん」
ゆえは、正直になれた気がした。
つづく