※本作品は、今回分より「雅史の事情」を改題しています。
13. 俺に、どうしろと?
セバスが来栖川邸に戻ったとき、珍しく芹香が玄関に迎えに来ていた。
「……お嬢様?……は?どうして南雲嬢のコトを調べているかって?――黙示から聞いている?あのおしゃべりめ……あ、ええ、大丈夫です――は?私めと南雲嬢の関係?」
不思議そうに訊く芹香に、セバスは暫し返答をためらう。
「…………?ここではなんですから、居間のほうで?――判りました」
芹香と一緒に居間にやってきたセバスは、観念したように重い口を開いた。
「…………あの娘の母親が、私めの次女でして――もっとも、南雲ゆえは次女の養女なのですが」
「……………………?」
「はい。黙っていて申し訳ありません。その次女から、養女のコトで色々相談を受けていまして。一学期は精神的に不安定なところがあってほとんど登校できなかったのですが、二学期から登校するにあたり、周囲の様子を調べて欲しいと頼まれましてね。…………私めはそんな心配は無用だとは言ったのですが。――芹香お嬢様や藤田殿たちが居られる学校ですから」
そこまで言うと、セバスは何かを誤魔化すように慌ててわざとらしく咳払いした。いつも難しそうにしているセバスの顔に、微妙な変化を見つけて、芹香は少し嬉しそうに微笑んだ。
「…………まぁ、中学時代、素行不良な連中との交流があったとかで、荒れていたコトもあったらしく、次女もその辺りを非常に気にしていたようです。さきほども――」
そこまで言ってセバスは慌てて口をつぐんだ。腹立たしさからうっかり口を滑らせかけたらしい。しかしどうやら、セバスが言いかけたコンビニの一件は、芹香も知っているふうな様子だった。恐らく黙示がセバスの武勇伝として教えたのだろう。芹香は微笑みながら面を横に振った。
「…………まぁ、色々そう言った事情で、黙示たちを少々お借りさせていただいております。爺のわがままで誠に恐れ入りますが、ご容赦…………え?構いません?――ありがとうございます、芹香お嬢様」
セバス長瀬に送られたゆえは、帰宅するなり、自室のベッドに倒れ込んだ。
疲れる一日だった。精神的な疲れは、そうそう簡単に眠りにつかせてくれない。俯せになっているゆえは、大きく深呼吸した。溜息だったのかも知れない。
ゆえの脳裏に、浩之の顔があった。
太陽。セバス長瀬は、藤田浩之をそう称した。
月。セバス長瀬は、佐藤雅史をそう称した。浩之のそばに居たことが、雅史にとって不幸だったとも言った。
果たしてそうだろうか。
雅史の評判。
かわいい。
かっこいい。
親切で優しい。
人当たりが良い。
今度は、浩之の評判。
こわい。
やる気がない。
何を考えているのかわからない。
目つきが悪い。
気が利かない。こう答えたのはひとりだけだった。ゆえはその理由を知らないが、彼はまだ根に持っているらしい。
――そんな二人の評判を、ゆえは翌日、同級生たちにそれとなく訊いてみた。結局、大まかなところではセバス長瀬と同意見のモノばかりだろうと予想していた。
だから最後に、こう訊いてみた。
雅史や浩之の評判を単体で訊くのではなく、二人を比較して、どちらが良いか、訊いてみた。
すると何故かみんな、浩之のことを悪く言わなかった。
ゆえは、不思議な男の子だと思った。二人を並べると、どうしてこうも評価が変わってしまうのか。
昼休み、教室の窓から校庭を見ながらそう考えているうち、ゆえは、校庭のベンチにひとり座って、ぼけぇ、としている浩之を見つけた。
ゆえは、席を立った。
珍しくひとりで――ああ言った手前、雅史を出来るだけ避けてみた浩之は、購買部で買ったカツサンドをミルクティで流し込んだ後、ベンチに座って日向ぼっこをしていた。春の陽射しほどではないが、バテるような残暑の厳しさが収まった今ぐらいの季節の陽射しもなかなか心地よい。浩之はついうとうとしかけていた。
「――こんにちわ」
呆けていた浩之の耳に、聞き覚えの新しい声が届いた。
「……南雲さんか」
「ひとり?」
「見ての通り」
「隣、いい?」
浩之が頷く前に、ゆえは浩之の隣に座った。意外と積極的らしい。
「……あの栗色の髪の娘はどうしたの?」
「喧嘩した。しばらく顔を見たくないって」
嘘であった。今の浩之は、あかりも遠ざけたかった。その理由が、隣に座ったのは何かの奇縁か。
ゆえは、ふぅん、というのみにとどまった。それとなく浩之の心情に気付いているようである。
暫しの静寂。二人とも言葉を交わさない。
先に、ゆえがやっと口を開いた。
「…………志保ちゃんから訊いたんでしよう?」
「?」
「わたしのこと」
「…………生憎、無神経な志保でも言って良いことと悪いことぐらい理解しているさ」
性格には志保があかりに伝え、あかりが浩之に伝えたのである。もっとも浩之は、志保が遠回しに自分に教えたことには気付いていた。
「……どこまで、知っているの?」
浩之は、そう訊くゆえの顔を横目で見て、少し戸惑った。試しているのだ。
「…………南原さんが子供の頃、酷い目にあったコト。幼児虐待ってやつだろう?」
試されているコトを承知で、浩之は手札を開いて見せた。ゆえはその手札の中身に、頷いて見せた。
「…………わたし、実の親に愛されていなかったの」
「…………」
「…………母親がわたしを産んで直ぐ死んでね。…………5歳ぐらいまでは、父親はちゃんとわたしを可愛がってくれた。――だけど、そこまでだった」
「………………やめろよ」
突然、浩之が唸るような声でゆえを叱った。ゆえは浩之の反応に一瞬声を詰まらせた。
「…………何でそんなコト、俺に言い出すんだ?」
浩之は怒っていた。ゆえは自分を横目で睨む浩之に動揺した。
それから、なるほど、とゆえは思った。浩之は「こんな顔」が出来る男なのだ。
だから、誰も悪く言わないのだ。
ゆえは、志保や自分の推測が間違っていないコトを確信した。
「…………そんなコトを訊かされてさ――俺に、どうしろと?」
「わたしを好きになって欲しいから、と言ったら?」
ゆえは微笑んで言って見せた。
すると浩之は吹き出した。
「……バカいえ」
「本気だと言ったら」
「ふっ。俺もつくづく罪な男だぜ」
浩之はキザな言い回しで気取った。
「…………似合わないわよ、それ」
「…………奇遇だな。俺もそう思う」
二人は同時に笑い出した。
「…………で。俺に近づいた本当の目的は?」
「…………聞いて欲しかっただけ」
浩之は黙ってしまった。
そして、ゆえを横目で睨んでいた目線は青空を仰ぎ、困憊しきった溜息をもらした。それは拒絶の沈黙ではなかった。
ゆえは、ゆっくりと話し始めた。
「…………わたしが5歳の時、父親の会社が倒産してね。そのあたりから、父親の心が壊れ始めた。わたしが産まれてから、事業がうまくいかなくなった、って言い出して、わたしをに殴ったり蹴ったりし始めたの。それでもわたしには、あの父親は唯一の肉親だった。――でも、中学に上がった最初の日」
ゆえがそこまで言うと、浩之は唇を噛みしめた。聞きたくない、と浩之はどうしても言えなかった。もうあかりからそれとなく聞かされていたからだ。
「――父親に、レイプされた」
ゆえの告白に、浩之は自分の髪の毛を掻きむしった。どう応えればいいのか判らないのである。
「…………その日から、わたしの地獄は始まった。”あの男”は、わたしは、本当は俺の娘じゃない、俺が奪い取ってやった俊夫の娘だって――――俊夫叔父さんと母親が昔、付き合っていたコトを嫌と言うほどわたしの耳元でささやいてね。お前は生まれちゃいけない女だったんだ、お前は他人を不幸にする――何度も何度もわたしを犯して、わたしの中で果てた後、決まってそれを呪いの呪文のように言っていた。わたし、それを聞いてどうして気が狂わなかったのか、何度も呪った。――そして、――でね――」
浩之はその場から今すぐにでも逃げ出したかった。堪らなかった。
だが、ふと、視線をゆえのほうに戻した時、その肩がわなないているコトに気付くと、逃げ出したい気持ちを踏みとどまった。
ゆえの目から正気の色が失われつつあった。
「――――14の時、学校の帰りに父親の子供を”流して”倒れたところを、看護婦やっているお母さんに助けられてね。そこでお母さんの旦那さんだった俊夫叔父さんが、やっとわたしたちのコトに気付いたの」
浩之は苛立った。ゆえは自棄気味に笑っていた。
「…………だからわたし、俊夫叔父さんに言ってやったの。――どうしてわたしを見捨てたの?!」
「………………やめろよ」
「やめろ?なんで?」
ゆえはくすくす笑っていた。どろんと澱んだその目に見据えられ、浩之は肌が泡立つようであった。
「俊夫叔父さん、困ったわ!だからわたし、何度でも俊夫叔父さんを罵ったわ!」
「――――やめろっ!!」
激高する浩之はベンチから立ち上がると、ゆえの正面に飛びつくように立ち、ゆえの両肩を鷲掴みにした。浩之の突然の行動に、ゆえは、呆気にとられた。
「…………それ以上いうと…………殴るぞ」
「…………!」
みるみるうちに、ゆえの瞳が潤んできた。浩之はそんなゆえの顔を見て、ゆえの肩を掴んだまま、はぁ、と困憊しきった溜息をもらした。
「……言い過ぎた、ごめん。…………でも、もう、よせよ。忘れちまえ、とは言わないけど、他人にそれ以上言うなよ」
「………………だって」
「?」
浩之は、掴んでいるゆえの肩がまた震え始めたコトに気付いた。
「…………だって。こんな女なのよ、わたし」
「………………」
「…………こんな汚れた女を、佐藤君は、あきらめてくれないのよ。――わたし、どうすればいいのよ?」
「――――」
返答に窮した浩之は、ゆえの両肩を掴む手の力を緩めていた。
「今みたいなコト、佐藤君に面といって言える?わたし――わたし、絶対に言えないわよ!」
「…………」
「――佐藤君だけじゃない。きっときっと、これからも、わたしを好きになってくれる人にも、そんなコト言えないわよ!」
ゆえはボロボロ泣きながら、浩之に向かって吐き出した。
「――藤田君!あんた、太陽なんでしよう?」
「太陽?」
きょとんとなる浩之だが、それがセバスの感想だとは知る由もない。
「太陽なら、あたしの闇をはらってよ!わたしを包み込んでいる忌まわしい夜を全部消し去って朝にしてよ!」
「…………出来るわけがねぇだろう」
浩之はそう言って歯噛みした。
ゆえは浩之に肩を掴まれたまま、泣きじゃくっていた。
つづく