ToHeart if.「雅史の事情」第10話 投稿者: ARM(1475)
10. 招かれざるもの

「ただいま」

 そういってゆえは、自動ロックが完備されたマンションの五階にある、自宅の扉を開けた。
 こぢんまりとした家の中には、誰もいない。
 ゆえの母親は看護婦だった。駅を3つほど離れた先にある、私立西大寺女子大学医学部付属病院で婦長を務めており、特に最近の看護士の人手不足の影響もあって、今週に入ってからは一度も帰宅していない。
 ゆえは自室で制服から私服へ着替えると、学習机の上に置いてあったトートバックを無造作につかみ取った。
 そのトートバックの下から、一枚の写真立てが出てくると、ゆえはそれに一瞥をくれた。
 そこにある写真の中には、優しそうに笑う中年の男女に挟まれて、茶髪頭の少女――紛れもなく髪を脱色したゆえの笑顔があった。ゆえはそんな自分を見るコトに嫌悪感を抱いているのか、複雑そうな面もちをすると、自室を出て居間へ向かった。
 ゆえが入った居間の奥の壁には、難しそうな顔をして、しかしそれでいて、どこか優しさが伺える中年男性の顔写真が額に入って飾られていた。
 ゆえはその顔写真を無言で淡々とみつめた。

「…………俊夫おじさん、行って来るね」

 そういってゆえは顔写真に向かって軽く会釈して、居間を抜け、また雨足が強くなってきた空に傘を開いて、家を出ていった。
 ゆえが駆け足で向かった先は、自宅をちょうど中間点に、学校から正反対の街角にあるコンビニエンスストアであった。ゆえがそのコンビニの扉を開けて入ると、レジカウンターの中にいた、腰まである長い髪を三つ編みにした、コンビニの制服を着た美人の女店員がゆえに気づき、声をかけた。

「あら、ゆえちゃん。早いのね」
「今日はちょっと早めに手伝おうかと思って。悠二さん、今、卒論で忙しいんでしょう?しばらく午後シフトが店長ひとりきりで頑張っているの、黙ってみていられなくって」
「あっ、そんな良かったのに。今し方、本部からヘルプの人が来ていたのよ」
「いいんですよ。どうせ今日のシフトは遅番ですし」
「ごめん……」

 店長と呼ばれた三つ編みの美人は、ゆえの心遣いに済まなそうな顔をして、しゅん、となった。ちなみに悠二と呼ばれる人物は、一年前に夭折したこの美人店長の恋人の弟で、紆余曲折の末に、今はこの弟と相思相愛の中になっている。ゆえがバイトをやっているこのコンビニは、悠二が陣頭指揮を執ってうまく切り盛りしていたのだが、彼が今年、大学の教育学部卒業を控えて卒論の準備を夏休みの途中から始めた為、美人店長がその代行を努めることになった。しかし、夏休みの終わりに、主力であったバイトの大学生が3人、交通事故で入院してしまうという不測の事態に陥り、人手不足の大ピンチを迎えていたのである。
 ゆえは、このコンビニでバイトを始めてまだ日が浅い。とはいえ、つい二ヶ月前までは、隣町の、このコンビニのフランチャイズ店でバイトを半年も勤めていたので、ずぶのシロウトではない。経験があるから、このピンチを何とかして上げたいと、今日、自発的にいつもより早めに出勤してきたのである。

「ところで、ヘルプさんはどこの人?」
「隣町の大学生だって。家の近くにあるコンビニでバイトしていた経験者よ」
「ふぅん。もしかして私が前にいたと頃かしら?」
「昭島さんところ?いえ、その先だって。――今、倉庫のほうで午後配送分の搬入をやってもらっている」
「そうですか。じゃあ、私がレジやりますから、店長は納入チェックを」
「んー、ごめんね、ゆえちゃん。お願いしちゃうね」

 美人店長は済まなそうに両手を合わせて、苦笑混じりにゆえにお辞儀した。ゆえは手を挙げて謙遜すると、急いで着替えるべく、奥に入っていった。
 控え室で上着を替えて制服に身を包み、ゆえがレジカウンターに戻ってきた。店長は、お願いね、というと入れ替わり倉庫へ向かった。
 交代したとは言え、夕方にしては珍しく客の姿はまばらだった。もっとも、昼過ぎから降り出している雨が次第に強くなってきた為に、客の大半は夕飯の買い物をあきらめたのかもしれない。ゆえはしばらくレジカウンターの中で、ぼうっ、としていた。
 時刻は夜の7時を回った。いつもなら遅番はここから始まる。ゆえは何気なく外を見ると、陽が沈んだばかりの町並みから、雨は上がっていた。
 そんな時だった。
 遠くから、バイクのけたたましい排気音が次々と近づいていき、やがて7台の、マフラー周りに改造を施したらしい大排気量のバイクが、コンビニの前に止まった。
 ゆえは、そんなバイクの音に一抹の不安を覚えてた。
 それが、確信に変わったのは、入店してきた革ジャン姿の、人相の悪い暴走族風のライダーのひとりが、レジカウンターにいたゆえに気付くや、あろうことかゆえの名を口にしたのである。

「――なんだよ、ゆえ!?お前、こんなところでバイトしていたんかよぉ!」
「何々?マジィ?けけけっ、なんでぇ、うちのレディース抜けたって聞いてたけど、こんなチンケなコンビニで、真面目に働いていたんかよ」

 どうやらこの暴走族風の連中と、ゆえは旧知の間柄らしい。しかもゆえがレディースのひとりであったとは。
 しかしゆえは、男たちを完全に無視していた。暴走族風の男たちの中で、最初にゆえに気付いた男は、そんなゆえに、カチン、ときたらしく、ただでさえ人相の悪いその顔をいっそうしかめ、レジカウンターの近くにやってきてゆえを睨み付けた。

「あんだよぉ、ゆえ?手前ぇ、ひとりイーコチャンぶろうって気かコラぁ?」

 男の示威行為に、しかしゆえは臆することなく、そっぽを向いて無視を続けた。
 そんなゆえに、短気な男は、レジカウンターの上を両手で激しく叩き付けた。

「――なめんじゃねぇぞぉコラぁ!!」
「――やかましいわ」

 次の瞬間、男は、レジの上を叩いていたと思っていたのが、知らぬ間に天地が逆さになり、床に全身を叩き付けられているコトに気付いた。

「な――――」

 突然のコトに驚いたのは、暴走族の男たちだけではなく、ゆえもそうであった。

「あなたは――来栖川さんの――」

 唖然とするゆえの前で、男たちの背後から押しのけるように現れたセバス長瀬が、電光石火のごとく男たちを次々と当て身で倒していく。狭い店内を考慮した最小の動きをもって、陳列棚やレジに身体をぶつけるコトもなく、一瞬にして全員を倒した老齢の偉丈夫に、ゆえは絶句するばかりだった。

「……お主らに告ぐ。これ以上の狼藉や、このお嬢さんに関わるコト、一切を許さぬ。もし、儂の目に留まるようなコトがあったらその時は――?」

 襟を正しながら啖呵を切るセバスがふと、男たちを見ると、全員のびて気絶していた。

「……惰弱な。藤田殿以外に骨のある若造は、もう今の世にはおらんのか」

 ふう、とセバスは呆れ気味に溜息を吐くと、今度はゆえのほうを睨み付けた。流石にセバスに睨まれては、ゆえですら怯んでしまう。

「……失礼つかまった。…………本日は、ちょっとした頼まれものがありまして訪れた次第でありまして、決して芹香お嬢様の…………おっと」

 セバスが過言に慌てて口を閉ざすと、呆気にとられていたゆえが、ついに吹き出した。

「……そ、そうなんですか?」
「…………ふむ。それはそれとして、まずは」

 セバスはこの場を繕うべく、床に転がってのびている男たちを全員、軽々と抱え上げ、コンビニの外にあるバイクの上へ放り投げた。
 すると、どこからか、暗闇の中からわらわらと黒服の男たちが現れだし、積み重なって唸っている暴走族の男たちを次々と取り押さえ、何処かへと連れ去っていった。バイクさえ消え去っていた。

「……あのような不定な輩どもには、我々大人がよぉく言い聞かせて差し上げます。決してこの店にはご迷惑などおかけしませんぞ」
「は、はぁ」

 頷きながらも、ゆえは必死に笑いを堪えていた。恐らく、噂に聞く、今の黒服たちは来栖川家の隠密集団ともいうべき組織の人間たちなのだろう。まるで漫画みたいなシチュエーションを前にして、ゆえは笑うしかなかった。

「…………ところで」
「はい?」
「頼まれものなのですが。単三電池はどこに置かれてますか?」
「あ。あ、はい、直ぐそこの棚です」
「恐縮です」

 そういってセバスは、ゆえが指した電池を置いた棚に向かい、直ぐに戻ってきた。

「…………一本ですか?」
「はい」

 たった一本の単三電池の為に、こんな物々しいことをするのか、とゆえは心の中で呆れつつ、必死に収まりかけた笑いを堪えていた。なにはともあれ、ゆえはバーコードも使用できない売上を直接キーボードから入力し、ささやかな売上を計上した。

「それでは、失礼いたします」

 セバスは仰々しくゆえにお辞儀すると、優雅な動きで翻り、外へ出ていった。そこでゆえは、どうやら芹香が何かしら自分に関心を持っているコトに気付いたのである。


 その頃、志保は、芹香の自室に招待され、そこでゆえに関する話を芹香に告げていた。初めはゆえの事情を話すことに戸惑っていた志保だったが、やがて、芹香がただの興味本位でゆえに関わろうとしていないコトに気付くと、不承不承、口を開いた。

 すべてを話し終えた時、志保は、芹香があかりたちと同じように泣き出さないかと心配した。ゆえの過去は、女のコにはとても辛い内容だからだ。
 しかし芹香は、相変わらずのポーカーフェイスだった。
 志保はそんな芹香に驚きつつ、――しかし、ぎゅっと強く握られている芹香の両拳から、芹香の哀しみが伺えていた。

         つづく

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