ToHeart if.「雅史の事情」第9話 投稿者: ARM(1475)
9. ひとり、で。

 朝、あれだけ晴れていた青空は、西の遙かから吐き出され始めた暗い雲に、その青さをひとつひとつ埋め潰されようとしていた。
 その僅かな隙間から、一瞬、陽射しが差し込まれる。光は、校舎の窓を越え、昏い顔で憮然としている雅史の顔を舐めた。

「…………このままじゃあ…………いけないよ…………!」

 嗚咽のように呟く雅史の言葉に、二木は、ああ、と頷くしかなかった。

「――じゃあ、どうするつもりだ?」

 浩之が、むっとした顔で雅史に訊いた。

「……浩之」
「このままじゃあいけない、っていうのなら、――雅史、お前はどうするつもりなんだよ?」
「変に絡むじゃないか、藤田……?」

 浩之のキツイ口調に、二木が言い返した。

「二木は黙っててくれ」
「しかしなぁ……」
「――いいって、二木」

 慌てて雅史が割って入った。そして雅史は浩之のほうをみて、

「…………このままじゃあ、南雲さん、いけないと思う。でも…………僕がどうこう言えるコトでは…………」
「お前、南雲さんのコト、好きじゃないのか?」

 言われて、雅史は躊躇し、

「…………好きだよ。……でも、その”好き”が、友達としての好きなのか、そうでないのか…………やっぱり判らない」
「――はっきりいえないなら、これ以上南雲さんに関わるな!」

 苛立っていた浩之が、煮え切らない雅史の態度に、とうとう爆発した。
 雅史はそんな浩之をみて、唖然とした。

「浩之……?!」
「手前ぇみたいな中途半端なヤツに、南雲さんのに受けた傷を癒せるワケがないんだっ!もう、南雲さんのコトは忘れちまえっ!!」
「ひ、浩之ちゃん!?そ、そんなっ!?」

 雅史に噛みついていく浩之の腕を必死に引っ張っていたあかりが、信じられないモノを見るような目で浩之の怒り顔を見つめた。

「いくぞ、あかり!」
「い、痛い――ひ、浩之ちゃん……!」

 険しい顔をする浩之は、あたふたしているあかりの肩を掴んで引っ張り、教室へ入っていこうとする。しかし雅史はそんな二人を呼び止めず、黙って見送るばかりだった。
 そんな雅史を、浩之の肩越しに見ていたあかりは、浩之を何とか押しとどめようとした。

「――浩之ちゃん、酷い!あたし、浩之ちゃんならきっと雅史ちゃんの力になってもらえると思ったから、志保から教えてもらった南雲さんのコトを教えたのに!こんなつもりじゃ――」
「……おめーが悪いんだよ、あかり」
「……え?」
「……おめーが俺に教えなければ、俺は雅史についていられたのに――まぁ、これでよかったンだがな」

 それは、あかりにも予想外の答えと、理解しがたい浩之の笑みだった。

「……浩之ちゃん?」
「もう、俺がどうこういうレベルじゃねぇんだよ」

 そういって、ふっ、と優しそうに笑みをこぼす浩之の心中を、あかりは推し量れずに当惑した。

 そんなやりとりがあったコトを、廊下にいる雅史と二木には知る由もなかった。

「……なんだよ藤田のヤツ。友達甲斐のないヤツだなぁ!」
「そうでもないさ」

 と、雅史が嬉しそうに言うものだから、二木は、はぁ?と困惑した。

「……浩之のヤツ、多分、あかりちゃんから、南雲さんの過去のコト、聞けたんだと思う。――だから、これ以上関わろうとはしないんだよ」
「……過去?――なるほど、長岡経由か。でもそれなら何で、佐藤に手を貸してやらないんだ?」
「……浩之も、待たせちゃったからね」
「……待たせた?」
「あかりちゃんのコトさ」
「……ああ」

 二木は、今年のゴールデンウィーク明けから、浩之とあかりが今まで以上にべったりしているコトを思い出した。新学期早々、同じクラスの矢島があかりにアプローチをかけて、結局、浩之がそれを認めなかった、という話を二木はそれとなく雅史から聞いた時、GWが二人の関係の勝負どころだと予想していた。その予想は見事に的中し、今に至っているのだが、雅史にしてみれば、何を今更、というのが率直な感想らしい。
 あかりとの兄妹みたいな関係が、あまりにも長く続いていた為に気付かなかった――無意識に避けていた結論に達するまでの浩之の心情と見えない気苦労を、雅史は遠くから見守っていた。

「……何か手助けというか、少し煽ってやろうかと思ったんだけど、結局、浩之は誰にも相談せず、ひとりで決着を着けた。――本気で好きなら、自分一人でも解決できる。恋愛、ってそういうモンなんだろう。だから、浩之は、僕の問題にもう手を貸そうとはしないんだ」
「でも、なんだかんだ言っても、今までお節介焼いていたじゃないか」
「それは僕の気持ちが分からなかったからだよ」

 そういって雅史は、二木の背中を、ポン、と平手打ちした。

「……佐藤?」
「それに、南雲さんの過去に――きっと僕にも想像できない酷いコトがあった事実を知ったんだ。興味本位で関わってはいけない、辛い過去が」
「…………」
「だから、あんなに噛みついてきたんだ。――僕の曖昧な想いに痺れをきらして」

 そういって雅史は、照れくさそうに人差し指で口元を掻いた。
 そんな笑顔の雅史を、どこかつまらなそうに見ていた二木は、あーあ、と欠伸するかのように大きく背伸びした。

「ふーん。――まぁ、俺にはお前さんたちのようなお子様チックな恋愛には、もう付き合いきれんよ。――それなら、まぁ精々ひとりで頑張ってくれよ」

 そういうと二木は、雅史の背中を、ばん、と少し強めに平手打ちした。

「……二木?」
「何、情けない顔してんだよ。――恋愛の師匠、藤田センセーのお眼鏡に叶っているンだから、もちっとシャッキリせいっ!大丈夫、佐藤ならひとりでやれる」
「……ふん。もとより、さ」
「あー、この野郎ぉ、ゆったなぁ」

 二木は雅史の頭を羽交い締めにして笑った。

   *   *   *   *   *

 放課後になると、今まで我慢していた空がとうとう泣き出した。
 天気予報を見逃していたゆえは、傘を持って来られなかった。置き傘なんて無い。玄関で、天気予報を信じて傘を持ってきていた同窓生たちが次々と雨の中に去っていくその背を、ゆえは黙って見送っていた。
 ゆえはふと、雨空を見上げる。

 昏い色の空。
 あの日見上げた空も、こんな色をしていた。

 次にゆえは、足元を見る。降り注ぐ雨で、玄関の軒先には大きな水溜まりが出来ていた。
 灰色の空の色が映えていたそこに、ゆえは一瞬、別の色を幻視していた。
 朱い色。澱んだ、朱い色を。
 ゆえは、すこし目眩を覚えて、目を手で擦った。やっぱり錯覚だった。そこには澱んだ灰色しかない。

 でも、何で泣いているんだろう。
 嫌なコトを思い出したからか?
 多分、雨が当たっただけなのだろう。
 哀しくないのに。――あんな想い出には、怒りだけしかないのに。

 そんな時だった。
 溜息を吐いて、ふと、横を見ると、そこにはいつの間にか、大きな雨傘を開いている芹香が立っていた。

「…………来栖川さん?え?一緒に帰りませんか?で、でも、あたし……え?一緒に傘に入りましょう?」

 ゆえは芹香の申し出に暫し呆然となる。別に、ゆえは芹香とは、去年同じクラスメートだっただけで、芹香がこういう性分だったコトもあったが、ほとんど会話らしい会話など交わしたこともなかった。もしかすると、入学して以来、初めてではないのか。
 ゆえは迷いに迷ったが、このまま雨宿りしても止みそうに見えなかったので、結局、芹香の傘に入れてもらうことにした。

「…………来栖川さん、本当にありがとう……え?お友達だから気にしなくて良い?」

 一瞬、ゆえは目を丸めてしまう。――だが、ゆえはどこかはにかむようにゆっくりと目を瞑った。

「……ともだち、か。…………え?私が藤田さんたちと友達だから、私も友達です、って?」

 思わずぽかん、となるゆえの前で、芹香は、かなり昔、NHK教育TVで放送された道徳番組のオープニングを口ずさんで見せた。

「……くちぶえ、ふーいーてー、あきちへ、いったぁー……?ふふっ、良くそんな古い番組の歌、知っているのね。……え?藤田さんから教えてもらった?――まさか彼も本当は、あたしと同じか、それ以上の留年生だったりして?」

 ゆえが意地悪そうに、くすっ、と笑うと、何故か芹香は困った様な顔をした。

「……え?――あ、ああ、いいのよ、別に私、留年しているコト、気にしていないんだから。…………こうやってまた学校に来られただけでも、お母さんに感謝しているんだから」

 嬉しいと言いつつも、ゆえのその横顔は、芹香の目には何故か寂しげに見えてならなかった。

「……本当だったら私、もう学校なんて行けないと思っていたの。でも、お母さんが、どうしても高校だけは卒業しなさい、って、ね。志保ちゃんにも――あっ、今のクラスに、幼なじみの女のコが居てね。その志保ちゃんにも、叱られちゃった。――え?本当?来栖川さんも志保ちゃんのお友達なんだ」

 志保の名を口にした辺りから、ゆえの目が輝き始めたのを、芹香は気付いていた。

「……ねぇ。志保ちゃん、いい娘でしょう?――ふふっ、そうね、ちょっと煩いところもあるけどね。…………でも、あの娘、意外とナイーブなの。昔は、誰かと一緒にいないと直ぐに寂しがってね、いつもあたしの後ろをついてきてね。”あんなコト”さえなければ、きっと今みたいに一緒だった………………」

 志保との昔話を嬉しそうに話していたゆえだったが、次第に、その横顔が陰り始めた。
 そんなゆえを芹香が心配そうに見つめた。すると、ゆえはそんな芹香の様子に気付き、慌てて、あはは、と笑い始めた。

「…………ごめんごめん。ちょっと雨の所為で湿っぽくなっちゃった。これだから雨の日は嫌いなのよね。――――嫌なコトばかり、思い出す」

 滴。滴。また一滴。
 子供の頃から泣いてばかりだった。
 泣いても泣いても、あいつは許してくれなかった。

 雫。雫。またひと雫。
 ソの度に、私ハ壊れテイく。コワされテイく。
 人とシて。女トシて。

 滴。滴。また一滴。
 赤い滴。生臭い、赤い滴。
 刃物からしたたり落ちる、命の滴。

 雫。雫。また一滴。
 泣いた。泣いた。
 泣いても泣いても。
 失ってしまった大切なものは、もう帰ってこない――――

「――え?」

 ゆえは、芹香に名前を呼ばれて我に返った。そして、先ほどまで学校の近くを歩いていたハズなのに、いつの間にか学校から遠く離れた、自宅がある住宅街の路地を歩いていたコトに驚いた。ゆえは数えていなかったが、芹香に17回も名前を呼ばれるまで、知らぬ間に回想に耽っていた自分に気付いていなかった。

「――ど、どうかしたの、来栖川さん?――え?凄く怖い顔、していたって?」

 ゆえは、回想に耽る直前に言った「嫌なコトばかり、思い出す」という下りの時から、殺気ばんでいたと芹香に指摘され、たちまち当惑した。

「そ、そう…………」

 ゆえは、少し青い顔をして、まだ強張っていないかと自分の頬を掌で撫でた。

「……?ん、ううん、大丈夫……。あ、少し雨が止んできたみたい。もう直ぐ先が私の家だから、ここまでで良いわ。ありがとう、来栖川さん」

 ゆえは芹香にお辞儀した。だが、あの感情豊かな口調は、先ほどの回想を境に無くなり、今はどこか事務的な冷たささえ感じられた。
 芹香は一抹の寂しさを感じたが、お辞儀をした後、傘の下から出て、スカートを翻して走り去っていくゆえの背にかける言葉が、どうしても見つからなかった。
 芹香は路地の上に、ぽつん、と寂しそうに佇んでいた。
 そんな芹香の傘に、影が差した。

「……芹香お嬢様。これで宜しいのですか?」

 いつのまにか芹香の背後に、影法師のごとくセバス長瀬が番傘を差して立っていた。恐らく芹香の頼みであろうか、どうやら芹香たちの後を隠れて追っていたらしい。
 その時代錯誤めいた傘の下に、志保も入っていた。志保は少し困ったふうな顔をして、茫洋とする芹香の顔を見つめていた。

「…………来栖川先輩。どうして……」

 不安げにその名を呼ぶ志保に、芹香は、ふっ、と微笑んで見せた。

「…………え?だって、お友達ですから?で、でも…………」

 いやいや首を振る志保に、芹香は、微笑したまま、こくん、と頷いた。

「……心配しなくて良い?佐藤くん――雅史なら、きっと……?――え?『すべて、そういうつもりだったんでしょう?』?――――」

 志保は芹香の言葉に当惑した。
 だが、次第にその口元が緩み始め、やがて、くすっ、と吹き出した。

「…………なぁんだ。判っていたのね。本当、先輩には叶わないなぁ。…………え?あたしのほうが上?いやぁ、そんなコト無いですよぉ」

 えへへ、と笑う志保は照れくさそうに後頭部を掻いた。
 そんな志保を見て、芹香も嬉しそうに微笑んだ。

         つづく

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