正調・幻相奇譚(最終話) 投稿者: ARM(1475)
【承前】

 次の日、あかりは学校を休んだ。心労からの発熱らしい。今日一杯寝ていれば明日は学校へ行けるだろう。あ
かりの母親はそういって学校を休ませた。
 あかりは、ベットの上で天井を見つめていた。寝付けないらしい。今朝は浩之と一言も口を交わせなかった。
 昼を回った頃、少し熱が下がったらしくあかりは起きあがって昼食を摂ろうと一階に下りた。母親は午後、料
理学校の講義に向かって夜遅くまで帰ってこない。母親は家を出る前に、テーブルに昼食を用意してくれていた。
あかりはそれを摂り、また部屋に戻ろうとした。
 不意に、玄関の呼び鈴が鳴った。あかりは慌てて玄関に向かった。

「――――浩之ちゃん?」
「よぉ、元気そうだな」

 お見舞い用の果物が詰まったカゴを下げた学生服姿の浩之が、玄関を潜ってきた。

「浩之ちゃん、学校は?」
「早退、早退。急用があるってな」
「急用……って」
「神岸あかりのお見舞い、だ」

 途端にあかりは頬を赤らめる。

「そ、そんなコトで……べ、べつにいいよぉ」
「いーの。今の俺はそっちのほうが大事だから」
「――――」
「もう熱は下がったのか?元気そうならそれで良いんだが、明日は学校いけるか?」
「……う、うん」
「それはよかった」

 浩之は嬉しそうに微笑んだ。あかりはそんな笑顔に少し戸惑ってしまったようである。

「まぁ、ここしばらく色んな事があったからな。今日はゆっくり休んで、明日、ちゃんと学校行こうな」
「う、うん……」

 あかりが頷くと、浩之は、ほれ、とあかりに果物カゴを差し出した。あかりがそれを受け取ると、浩之は玄関
から出ていこうとする。
 そんな浩之の上着の裾を、あかりは半ば無意識につかみ取っていた。

「あかり…………」
「……しばらく……お話しよ」
「――ああ」

 浩之は居間に通された。久しぶりにあかりの家に上がった浩之は、居間をぐるりと見回した。最後にここに来
たのはいつ頃か。曖昧な記憶と現実の風景にそんな変化がなかったが、だいぶ前だろう、と思った。
 あかりがコップにオレンジジュースを注いだトレイを持ってやってきた。

「済まんな、病人に」
「いいの。……寝ているだけって、結構ヒマだし、せっかく浩之ちゃんがまたお見舞いに来てくれたんだし……」
「あ、そういや前に風邪で寝込んだ時も上がってたんだっけ。――えーと、……夏だっけ?」
「去年の春。ゴールデンウィーク前。修学旅行に行く前だよ」
「おお、そうだった。いかんな、俺って鳥頭だから」

 苦笑する浩之の前にあるテーブルに、つられて笑うあかりはトレイからコップを置いた。
 それからしばらく、浩之とあかりは他愛のない世間話を続けた。
 話が一段落したところ、あかりはのどの渇きを覚えてジュースを口にした。

「…………浩之ちゃんとこんなに話したの、久しぶりだね」
「ああ。――なぁ、あかり」
「?」
「俺、怖いか?」
「――――」

 いきなり何を訊くのだろう、とあかりは瞠った。

「俺は、お前が怖い」
「――――え?」

 当惑するあかりの前で、浩之は俯き、やがて重々しく面を上げて来た。

「…………前々から考えてきたことなんだ。…………俺の言動が、いつも、お前を傷つけていないかと…………」
「そ、そんなコトないよぉっ!浩之ちゃんは、いつもやさしい……よぉ」

 驚きながら言うも、流石に恥ずかしかったらしい。あかりは赤らめる面を俯いて締めた。
 そんなあかりを見て、浩之は、ほっ、と安堵の息を吐いた。

「ありがと。そう言ってくれると有り難ぇ」
「ううん……。浩之ちゃんは悪くない。何かあるとすぐ浩之ちゃんに心配掛けちゃうあたしが悪いんだよ……」
「気にするなよ。――――もう、あいつも出てこないだろうし」
「あいつ――」

 あかりは、もう一人の自分を思い出して、びくっ、と蒼白した。

「どう……いう……コト?」
「もう、『もう一人の神岸あかり』は出てこないよ」
「……どうして…………そんなコトが…………?」
「ヤツと話をつけたからな」
「?」

 浩之が何を言っているのか判らないあかりは、引きつった笑顔を浮かべて当惑した。

「よーするに、だ。お前には、もう一人の神岸あかりが出てくる呪いがかけられていてな、お前を色々悩ませて
いたんだ。それを、先輩達の協力で、呪いを解く方法を見つけ出せたんだ」
「…………本当?」
「ああ。もっとも、まだ呪いが完全に解けたワケじゃないが」
「え…………?」
「呪いを解くためには、あと一つ、大切な呪文を俺がいわなきゃならない」
「呪文、……って」
「ああ」

 そう頷くと、浩之は軽く深呼吸した。

「――藤田浩之は、神岸あかりを、愛している」
「――――――」

 赤面モノの告白だが、不思議と浩之の心は穏やかであった。本心を素直な気持ちで口にする時は、ひとつも恥
ずかしくないのだろう。むしろ、ほっ、と安堵感さえあったくらいである。

「……あ…………、やだ、もぅ」

 あかりの顔は熟し切ったリンゴのように真っ赤になっていた。

「言っておくが冗談じゃないぞ。――俺はこの一言を今まで口に出来なかった為に、お前を苦しめてきたんだ。
――ひと言いえば済む事だったのに、俺は、この一言を口にするのが怖くて…………お前の前で素直になれなか
ったんだ」
「――――怖い?」
「…………お前が俺のコトを本当に好いてくれているかどうか……判らなかったんだ」
「――そ、そんなコト無いよっ!あたし、浩之ちゃんのコト大好きだよっ!」
「好き、と、愛している、とでは雲泥の差があるんだよ」
「――――」

 思わず腰掛けていたソファから身を乗り出していたあかりは、浩之に見据えられ、やがて落ちるようにソファ
へ腰を下ろした。あかりは辛そうな面もちになっていた。

「…………あかりとのつき合いは、本当、長い。――――長すぎて、好きか嫌いか、確かめる気に起きなかった。
今まで俺はお前が俺のコトを好いていると勝手に思いこんで安心していたんだ」
「――――」
「だけど、な。…………前に俺が酔った勢いでお前を押し倒した時、怯えるお前を見て、それが判らなくなっち
まったんだ」
「――――――?!」
「……あかり。――――お前、本当に俺が好きなのか?」
「…………………………」

 浩之に言われ、あかりは当惑する面もちを下に向けた。

「…………俺はお前を、妹とか兄妹とか、都合のいい女としてみていた、接してきた。――――そんな男を、本
当に好いてくれるのか?」
「………………」
「俺はお前に嫌われないかと、”いいひと”な仮面を被ってお前に接してきた、弱っちい男だ。そればかりか、
そんな優しい顔を他の女の子にも向けてきた、八方美人のいい加減な男だ。…………そんな男を好いて、お前、
本当に後悔していないのか?」
「…………かっ……な…………」
「?」

 俯くあかりから、嗚咽のような声が聞こえて来るのを、浩之は気づいた。

「――――勝手なコト、言わないで」
「あかり…………」

 起きあがってきたあかりの顔は、すっかり泣き崩れていた。

「あたし――――あたしの想いは――――そんな薄っぺらいところを見てきたんじゃないんだよ!」
「――――――」
「――あたしは、藤田浩之という――――男の子を――――今までちゃんと見てきたんだからぁ…………えっく」
「あかり…………!」
「……浩之ちゃん、いろんな女の子に優しかったのは…………上辺じゃなく…………本当に優しいから…………
困っている人を見逃すコトが出来ない優しい人だから………………だから、智子も琴音ちゃんも、浩之ちゃんの
コトを好きになったんだよ…………!」
「――――」
「浩之ちゃぁん…………お願いだから…………あたしが浩之ちゃんを好きだって想いを…………疑わないでよぉ
………………否定しないでよぉっ!」

 次の瞬間、テーブルを飛び越えた浩之が、泣き崩れるあかりの身体を抱きしめていた。

「あかり――――ごめんな」
「――――――」
「また、追い詰めさせちまった。――――俺、やっぱり、そんなあかりが好きだ。――――俺をちゃんと見てて
くれる、神岸あかりが大好きだ」
「――――――」
「だから…………お前をこのまま抱きしめていたい。――――二度と、もう一人のお前が出てこないよう、お前
が分裂しないよう、――――このまま強く抱きしめていてやる」

 あかりは浩之の胸の中で、こくん、と頷いた。とても嬉しそうに。
 浩之とあかりは、互いの温もりを確かめ合うようにしばらく抱き合っていた。

「…………あかり」
「……ん?」
「…………キスして……いいか」

 あかりは何も応えなかった。それが応えだった。
 浩之はゆっくりとあかりの唇に自分の唇を重ねた。もう一人のあかりに奪われたファーストキスの時と全く同
 じ感触だった。
 あの時と違っていたのは、何の喪失感もなかった点だった。むしろ、これで何かが補完された安堵感で一杯だ
った。
 まもなく、ゆっくりと二人の唇が離れた。頬を赤らめるあかりは、浮かされるように浩之の顔を見つめていた。

「…………お前が…………ほしい」

 あかりは何も応えなかった。それが応えだった。

   *   *   *   *   *   *   *

 あの日から一ヶ月経った。
 あの日以来、あかりのドッペルゲンガーは、ぱったりと現れなくなった。
 それと同時に、あかりの体調は見る見るうちに回復して行き、ノイローゼになりかけていた頃の面影など微塵
もなかった。そればかりか。――

「神岸さん、綺麗になったわね?なんかあったの?」

 あかりが浩之と一緒に並んで下校するところを、校門前に停まっていたリムジンの中から見かけた綾香は、前
より綺麗になったと揶揄した。するとあかりは困ったふうに照れて隣にいた浩之の後ろに隠れてしまった。

「こら、綾香。あかりを困らせると俺が承知しないぞっ!」
「あーあ、お熱いコトで。独り身には目の毒なのよ、あんたたち」

 そんな浩之たちのやりとりを、リムジンの中から物静かに伺っている芹香が居た。その横影はどこか寂しげで
あった。

「……芹香お嬢様」
「…………?」
「…………藤田様の事が気懸かりですか?」

 運転席にいたセバス長瀬に訊かれ、芹香は恥ずかしそうに俯いた。
 セバスは暫し芹香を見つめ、うん、と頷いた。

「………………大丈夫。藤田様以上に、お嬢様に相応しい殿方はきっとおられます」

 セバスに言われ、芹香は、びくっ、と顔を上げ、妙に慌てるように、ふるふる、と面を横に振った。
 セバスはそんな芹香を見て、くすっ、と苦笑した。好々爺のする笑顔とは、きっとこんなふうなのだろう。


 その後、浩之はあかりを連れて、校舎裏の神社を訪れていた。

「……あかり。お前、ここに来たコト、あるだろう?」

 あかりは暫し躊躇し、うん、と頷いた。

 光球が消える寸前に見えた、お堂の中を覗くあかりの姿を浩之は思い出していた。
 一瞬だったが、忘れようのない光景だった。

 浩之ちゃんが、あたしに、好きだ、っていってくれますように。

「…………お前も、ここで仮面を外していたんだな」
「?」

 きょとんとするあかりに、浩之は、何でもないよ、とやさしく言う。そしてお堂の観音扉を開き、その奥に祭
られている鏡を指さした。

「ほら、みてみろよ。綺麗になっているだろ。マルチや先輩たちといっしょに、ここの掃除をやり始めたんだ」
「ふぅん。――ねぇ、今度、あたしも誘って」
「そう来ると思った。明日、掃除の日だから頼むぜ」
「うん」

 あかりが嬉しそうに頷くと、浩之はあかりの頭を撫でた。
 そんなあかりが、一瞬、志保の姿と重なった。

「…………なぁ、あかり」
「?」
「…………今度、志保に手紙書こう。俺たち、元気でいる、って。……いつでも遊びに来いよ、ってな」
「……うん」

 向かい合って微笑む浩之とあかりの笑顔が、鏡に映っていた。
 鏡が、陽射しを受けて閃いた。
 春ま近い、暖かい陽射しの中で、鏡がやさしく微笑んでいたようであった。

                        了

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