羅刹鬼譚 第8話 投稿者: ARM(1475)
第11章 月下の伝言者(メッセンジャー)

 隆山市内の2ヶ所で、ほぼ同時に大騒動が起きていたその頃、隆山市外から市内へ向かう山道を走り抜ける一
台のタクシーがあった。
 いままで勢いよく走っていたタクシーが、突然スピードを落としたのは、山道の暗闇の先で、右手を挙げてタ
クシーを止めようとする人影を見つけたからだった。
 タクシーの運転手は、どうしてこんな山道に、大きなトランクケースを抱えた人間が一人だけで居るのか、と
不思議がったが、空車のランプを出しておきながら乗車拒否をする訳にはいかなかったので、渋々停止した。
 運転手が酷く驚かされたのは、停車したタクシーに悠然と乗り込んできたのが、彼が今までお目に掛かったコ
トのない絶世の美女だったからだった。
 絶世の美女。何ともありきたりな言い回しで、運転手は自らのボキャブラリーの貧困さを呪いつつ、それ以外
の形容は不要だと確信した。
 透き通るような白い肌に、梳くと光が散りそうなプラチナブロンドのセミロングを冠する美女。運転手は気づ
かなかったが、蕭然たる森の奥にひっそりと湛えている湖の水面を想わせるその一対の瞳は「金銀妖瞳(ヘテロ
クロミア)」であり、それに気づけば一層彼女の神秘性は増したであろう。スーツに包まれたその見事なプロポ
ーションさえもこの彼女には当然の姿であると言っても過言ではない。

「……お客さん、どちらまで?」

 運転手が美女に一番肝心なことを訊いたのは、迂闊にも発車させてから400メートルほど走ってからだった。
しかし美女は動じることなく、鶴来屋まで、と応えた。

「鶴来屋――新館ですか、それとも旧館のほうですか」
「え?」
「この間、新築されたんですよ。場所も少し離れていて。いやぁ、この不景気な世の中に、あんなでっかいもの
をもう一つ建てちゃうんですから。この辺りを流している連中にも、あそこの会長の手腕には感心しているんで
す――あ、関係無いか」

 運転手が苦笑すると、バックミラーの中で美女が微笑んだ。その笑顔に一瞥をくれただけだというのに、運転
手は、かぁぁっ、と赤面してしまった。

「……旧館のほうで大丈夫です」
「わ。わかりまし、た」

 運転手は被っていた制帽のツバを下げて、バックミラーに赤面している自分の顔が映らないようにした。
 それきり、車内に静寂が続く。こんな人恋しい寂しい夜中の仕事なのだから、他愛のない話でお喋りしても、
乗客も嫌がることは無いだろうと運転手は思っているのだが、どうしても、何を話せばいいのか判らないのだ。
まるで少年が憧れの君を前にして、上がってしまって何も言えず立ち尽くしてしまう、そんなふうだった。
 そこで運転手は気づいた。自分がこの美女に見惚れているわけを。
 とても懐かしい匂いを覚えたからだ。
 いや、嗅いだコトのある匂いではない。運転手はこの美女とは初対面であることは確信している。この美貌な
ら、以前に逢っていれば絶対忘れないものである。
 なのに、酷く懐かしい。
 子供の頃、いつも遊んでいた空き地の隣にある大きな屋敷の窓際で本を読んでいなかったか?
 学生の頃、通学の途中で、いつも同じ時間、ホームの反対に立ってはいなかったか?
 社会人になったばかりの頃、夜の街ですれ違わなかったか?
 どれもこれも、酷く懐かしい、想い出。
 その中心に、常に彼女は居た。
 しかし、別人だ。
 彼女の名は、慕情。
 死ぬまで忘れない、大切な想い出。

「……どうかされました?」

 美女に訊かれて、ようやく運転手は自分が涙ぐんでいるコトに気づいた。運転手は、慌てて涙を指先で拭い、
何でもないです、と照れ臭そうに笑って見せた。

 再び、静寂。

 だが、今度は運転手が切り出してきた。

「そう言えば、お客さん。あたし、さっき妙なお客を乗せましてね」
「妙?」
「三人連れのお客でした」
「……三人?」

 美女が神妙な面持ちになった。

「ええ。隆山駅前で拾いましてね。隆山海岸まで運んでいったんですが、……一人は、小学生くらいでしょうか、
金髪の可愛い女のコでした。で、どこかの偉いところのお嬢さんなんでしょうかねぇ、その娘の付き添いがまた
奇妙な連中でして。一人は幽霊みたいな顔をした男でして、多分、刀かなんかでしょうか、布の袋に長い棒を詰
めているようでした。ボディガードなんでしょうか。にしては、またもう一人が変なヤツで、――キリスト教の
神父でしょうか、変な詰め襟の服を着ている坊主頭の坊主でしたが、――とにかくでかいんですよ、ガタイが」

 運転手が神父と思しき人物のコトを話し始めた頃から、美女の顔が険しくなったのだが、運転手はその変化に
は気づいていなかった。

「レスラーのジャイアント馬場って知ってます?――あんなの目じゃない。馬場より一回りでかいんですよ。―
―そいつらがですよ、今、お客さんの座っている後部座席に全員収まっちゃった。あたしゃ絶対、馬場のほうは
無理だと言ったんですが、そらぁもう何事もなく、すっぽりと」

 運転手は笑いながら語った。
 車中に運転手の笑い声が続く。
 それを遮ったのは、神妙そうな面持ちでバックミラーの中に映る美女の質問だった。

「……何故、わたしに、その人たちのコトを?」

 タクシーか急停車した。
 めいっぱいブレーキを踏んだ運転手は、しばらくステアリングに突っ伏していたが、やがて、ふぅ、と大きく
息を吐いてから、後部座席にいる美女のほうへ振り向いた。

「…………そうですね。そういや、なんででしょうか?――いや」

 運転手は美女と目を合わせず独語するように呟いてから、頭を振った。

「……お客さんの顔を見ていたら…………そうですね……あのお客のことをどうしても伝えなきゃいけないなぁ、
…………って思ったんです」
「……運転手さん。おうちはどちらですか?」
「うち?」

 神妙そうな面持ちでいる美女の質問は何の脈絡もないものだった。にもかかわらず、運転手は何の躊躇いもな
く応えた。青森からの出稼ぎらしい。住所や電話番号、そして妻と二人の子供が居るコトまで応えてしまった。

「…………判りました。ジィージェイ、あなたの伝言、確かに受け取りました」

 そう言って美女は、運転手の顔に手をかざした。華奢な指の隙間から覗ける美女の顔は、どこか哀しそうであ
った。

「ご家族のことは、私たちが充分保証します。――――もう、眠りなさい」


 天の高みから、美女の全身に月光が降り注いでいた。
 美女は手をかざしたままの姿勢で、夜の帳が降りた道路の上に立っていた。
 美女は、やれやれ、と呟くと、足許に転がっていたトランクケースを起こし、遠くで星の瞬きのように煌めく
隆山市内に向かって歩き始めた。

 翌日の朝刊の角に、昨日の夕刻、一台のタクシーが隆山海岸の近くにある崖の上から落ち、乗車していた青森
出身の運転手が死亡した旨の記事が載っていたが、乗客は乗っていなかったとのコトであった。

          第9話 へ つづく

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