ToHeart if『うしおが最期に跳んだ日』(後編) 投稿者: ARM(1475)
【承前】

 杢子は琴音を見据えて、言った。

「――今、ここで、あなたに見せたくないもの、本当に無いかしら?」
「――――!」

 それは、琴音ばかりか、あかりや志保、智子たちもようやく気づいたらしく、その顔に同時に閃くものがあっ
た。
 うしお。
 それは、琴音が子供の頃から知っている、大好きなイルカの名前。
 そして今、琴音の母親が3日間もつきっきりで看病している、寿命が尽きようとしている老イルカの名前でも
ある。
 その事実を思い出した時、琴音は震える右手を、微かに呻く口元にあてた。
 そんな琴音を見て、杢子は、安心したふうに、ふぅ、と吐息を漏らした。

「……きっとママはね、あなたと同じくらいに愛しているうしおの弱々しい姿を、あなたに見せたくないのよ。
でなければ、あんなふうに叱ったりなんか、しないわ」

 微かに聞こえる嗚咽。琴音は己の迂闊さを後悔していた。
 小刻みに震える琴音の肩を、杢子が身を乗り出して手を差し伸べようとしたとき、先にその肩へ触れる手があ
った。

「……琴音ちゃん。お母さんのコト、信じてあげようや」
「藤田さん……!」

 顔を上げた琴音は、浩之を中心にして、あかり、志保、智子のやさしそうな笑顔に包まれている自分に気づい
た。

「……琴音ちゃん、なぁ」

 智子が、鼻の頭を人差し指の先で掻きながら照れ臭そうに切り出した。

「……ママに……後で…………ゴメン……って、ゆっとって」
「……はい」

 涙でくしゃくしゃになっていた琴音の顔が、嬉しそうに咲いた。
 杢子はそんな琴音たちを見ていて、とても嬉しい気分になった。
 その中でも、浩之を特に注目していた。自分より先に、琴音に母親のコトを信じてみな、と言った少年。
 そして恐らくは、個性溢れる彼女たちを結びつけている大きな存在であるコトを、杢子は見抜いていた。
 生来よりつきまとっていた琴音の不幸を落としたのは、紛れもなくこの少年なのだ。琴音がこの少年に出会え
て本当によかった。――――

「……もっこさん……あれ……涙……?」

 ううん、何でもないの、と杢子は目尻に溜まっていた涙を拭い、微笑んで見せた。

   *   *   *   *   *   *   *

 明日は琴音の誕生日であった。
 浩之とあかりは、昨日の夕方、琴音への誕生日プレゼントの品として、新宿のデパートで催されているシム・
シメールの絵画展覧会で販売されていた海洋生物を描いたリトグラフを買っていた。2万5千円もした高価で大
きな品物だったが、二人だけでなく、智子や志保、それに明日が琴音の誕生日と知ったレミィや芹香も快く資金
援助してもらえたおかげであった。

「ヒロユキ。明日のパーティの準備、はかどってる?」

 昼休み、サンフランシスコに降り注ぐ日差しのような笑顔が、机に頬杖をついて、ぽけぇっ、としていた浩之
の目の前に現れた。

「ああ。明日の夕方、俺ン家でちゃんとやれる……ハズさ」
「コトネの目出度い日だものネ。ちゃんとみんなで祝ってあげようヨ!――どうしたの?いつものような元気、
無いネ?」
「ああ。……この間言ったろ、あの琴音ちゃんが好きなイルカ」
「うん」
「……あのイルカ、昨日の夜から様態が悪化したらしい」
「……Oh!それはホント?」
「昨日の夜、琴音ちゃんのおばさんから電話もらってね。それで琴音ちゃん、ショックで今日、休んでいるらし
い」
「Oh、No……。ホント、保って欲しいネ」

 そう言ってレミィは沈痛そうな面もちで十字を切った。浩之は苦笑して、縁起でもねぇ、と十字を切るレミィ
にツッコミをいれた。
 そんな時だった。

「――ヒロっ!ヒロのバカは居る?!」

 血相を変えた志保が、浩之たちの教室へ飛び込んできたのである。

「何だよ、志保。また、東スポ真っ青の”志保ちゃんニュース速報”か?」
「バカ言ってる場合じゃないわよっ!」

 怒鳴り返した志保は、浩之に、右手で握りしめていたPHSを突きつけた。

「なんだよ、料金未払いで遂に止められたのか?」
「何言ってンのよ!あたしは表彰モノの優良ユーザーよっ!――そんなコトより、今、琴音ちゃんから電話があ
ったのよ!」
「琴音ちゃんから?――どうしたんだ?」

 驚いた浩之は思わず立ち上がった。

「うしおが――うしおが死にそうだって……!」

 志保がそう言うと、端で志保を見ていた智子とあかりも驚いて立ち上がった。

「ホンマかっ?」
「本当?」
「ここでそんなタチの悪い冗談言ってどうするの?」
「アンタなら言い兼ねンからなぁ」
「あによぉっ!」
「何や、やる気か?」
「――おまえらなっ!好い加減にしろよっ!」

 溜まらず浩之が睨み合う智子と志保の間に立った。

「ねぇ志保、志保。琴音ちゃんの様子は……」
「あ――うん、凄く辛そうだった……」

 それを聞いて浩之はいてもたっても居られなくなり、頭を掻きむしってから、よし、と言い、

「――琴音ちゃん家に行っていく」
「?ヒロユキ、午後の授業は?」
「急病で早退だってゆっといてくれ」

 そう言って浩之は廊下へ飛び出そうとする。

「あ、待って!あたしも行く!」

 鞄を手にしたあかりが追いかけてきたコトに、浩之は驚いて立ち止まってしまった。

「お、おい――」
「琴音ちゃんの一大事なんでしょ?」

 あかりは浩之に、にこり、と笑って見せた。いつものんびりしているようで、しかし時おり、こんなふうにし
たたかな行動力をみせるたびに、浩之は驚かされていた。昔はこんなあかりを見る度、こいつと結婚した奴はき
っと尻に敷かれるだろうな、と他人事のように苦笑したものだが、今となっては、どうやって尻に敷かれずに済
むか、そろそろ本気で考えたほうが良さそうだな、と浩之は心配した。

「ほら、さっさと行く。――あたしもついていくよ。保科さん、アト、よろしく〜〜」

 浩之とあかりが教室を出ていき、その後をついていくように志保も出ていった。

「……まったく」

 呆れ顔の智子が肩を竦めるのと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に鳴りわたった。


「……あれ?藤田と神岸、どうした?」

 五時限目の講義は、山岡であった。山岡は浩之とあかりの座席が空っぽになっているコトに気づき、訝った。
 すると智子が颯爽と手を挙げて立ち上がり、

「センセー、神岸サンが産気づいたんで、藤田君がつきそって病院に行きました〜〜」

 教室内がどっとわいた。
 智子は続いて「それは冗談ですが」と苦笑して言おうとしたが、それとなく気づいたのか、山岡、

「それは目出度いなぁ、よしっ、折角だから今日は授業を中止して、あの二人の子供の名前をみんなで考えよ
う!」
「……まてぃ」
「そうだなぁ、保科、お前あの二人の友達だから、お前の名前から取ってみてもいいな。――えっと、貴之」
「ドコから取った、ドコから(笑)」
「それがダメなら、まこと。あ、そン時は保科も子供つくって、みのる、とかつけると笑えるな。よもや、ここ
まで聞いてこのクラスに『てなもんや三度笠』とか『あたり前田のクラッカー』を連想した、歳を誤魔化してい
るヤツ、居ないだろうな?」
「……しまいにゃ本気で笑うぞ(笑)」


 浩之のクラスがどっと湧いた時から丁度三十分後、浩之たちは、琴音が住むマンションに到着した。
 不安そうな面持ちの三人が、琴音の家のドアホンを鳴らすと、まもなく扉が開き、目を泣き腫らしたパジャマ
姿の琴音が顔を出した。

「……あ……藤田さん……神岸さん……長岡……さん」
「――また、覚えたんだって?」

 琴音は力無く頷いた。志保のPHSへ泣きながら電話をかけてきたのは、はっきりとうしおが死ぬ姿が見えた
からだった。

「……どうしたらいいんです?わたし……どうしてもうしおがプールの上に浮かんで死んでいる姿が頭に焼き付
いちゃって…………ううっ……」

 泣き崩れかけた琴音の身体を、あかりが慌てて支えた。腕の中で震えている琴音に当惑するあかりは、すがる
ように浩之を見た。
 浩之は、じっとだまったまま、琴音を見つめていた。
 そして、ようやく口を開いた。

「――琴音ちゃん」
「……え?」
「どうして、お母さんを信じられないんだ?」

 琴音を見据える浩之の眼差しが、険を孕んでいた。浩之は明らかに怒っているのだ。
 戸惑う琴音を、浩之はあかりから引き剥がすようにその両肩を掴んで引き寄せた。

「ヒロ――」

 当惑する志保が浩之に何か言おうとして前に出ようとするが、その前に腕を伸ばしたあかりが無言でその歩み
を塞いで制した。浩之ちゃんに任せよう、と。

「……藤田さん?」
「……俺はな、キミの予知能力を命懸けで否定した。それが出来たのは、琴音ちゃん、キミが俺を信じてくれた
からだったろ?」

 重々しげに詰問する浩之に、少し青ざめた顔の琴音は小さく頷いた。

「琴音ちゃんが俺を信じてくれたから、きみを不幸な目に遭わせていた予知能力を否定できたんだ。にもかかわ
らず、その力を、まだ琴音ちゃんは信じているのか?――現実では、キミのお母さんが必死になって、うしおを
救おうとしているんだぞ!」

 浩之の叱咤に、ぴくり、と琴音の身体が震えた。

「――琴音ちゃんが覚たのは、不幸な未来じゃない。――――大切な人たちを信じられずにいる、琴音ちゃんの
こころが創り出した悪い幻なんだよ!」

 静寂。
 やがて、両肩を掴まれている琴音が泣きじゃくり始めた。
 だが、それが爆発しそうになったとき、浩之が琴音の身体をやさしく抱きしめので、琴音は泣くのを忘れて呆
気にとられた。

「……俺たちを、もっと信じてくれ。――そして、きみのお母さんの優しさを、もっと。――そうすれば、琴音
ちゃんは本当に不幸でなくなるから」

 浩之が優しく琴音の耳元で囁いた、そんな時だった。
 琴音の脳裏に、降り注ぐ朝陽の中を高く跳ぶうしおの姿が覚えた。

「……………………はい」

 琴音は頬を赤らめ、照れ臭そうに頷いた。


 それから一時間後。外出着に着替えた琴音は、浩之たちに付き添われて、海洋博物館にやってきた。
 館内の文字通り水を打ったような静けさとは裏腹に、浩之たちがやってきた、係員たちが詰めている準備室は
殺気が漂っていた。

「――琴音ちゃん?」

 琴音の姿を最初に見つけたのは、作業用の繋ぎに身を包んだ杢子だった。

「……どうして……ここへ……?」
「――うしおは?うしおの様態は?」

 縋るように訊く琴音に、杢子は諦め顔で嘆息し、

「……残念だけど……」
「――まさか?」
「……いえ、まだ、鎮香さんが看病しているわ。――獣医さんの話じゃ、もって今晩……」

 琴音は立ち眩みを覚えた。ふらつくその小さな身体を、志保が支えた。

「……まだ、大丈夫、ってコトでしょ?」
「長岡さん……」

 ニコリと微笑む志保に、琴音も笑顔で返した。

「……行こう、ママんところへ」

                   完結編(笑)へ続く