ToHeart if『うしおが最期に跳んだ日』(完結編(汗)) 投稿者: ARM(1475)
【承前】

「――琴音!?」

 予想外のちん入者に、琴音の母親が悲鳴のような声を上げて驚いた。

「なんでここへ来た――」
「ママっ!」

 叱りつけようとする琴音の母親だったが、逆に琴音に怒鳴られ、怯んでしまった。
 ここ連日の看病で疲れていた所為なのかも知れない。実の娘に怒鳴られたコトが、鎮香にはとてもショックだ
った。
 だが、それ以上にショックだったのが――

(――なんて切ない顔をするんだろう)

 鎮香は、こんな顔をする琴音を初めて見た。


 鎮香は、超能力を持つ琴音を、他の子供達と違って少し勘の鋭い娘だという程度の認識しかなかった。
 それ以外は、感受性の強い少女。
 決して、疫病神などと、思ったコトもない。
 実の娘だから、などというありきたりな理由からではない。
 超能力を持った少女が、現実にそこにいる。
 現実を理解するコトは、理論や理屈を理解するのではなく、そこにあるモノを素直に認識するコトから始まる。
――それが鎮香の行動理念だった。理論や理屈が通らないからといって、それを全て否定することは愚行である。
ガチガチに凝り固まった理屈や理論が、時の移ろいに消え去りあるいは変化していく様は、それを証明している
ではないか。
 なのに。――
 それは人の常なのか、理解し難い力を前にした周囲の人々は、不幸を言い当てた琴音にその責を押し付けてい
るのがたまらなかった。
 だが、鎮香は決してかばい立てしようとはしなかった。
 どう繕っても、琴音の力を誤魔化せるコトは出来ない。かといって世間から隔絶して、果たして琴音が本当に
幸せになれるのか。
 かばうばかりが、愛情ではない。見守ることは、決して見捨てるコトではないハズだ。
 琴音が本当に幸せになるためには、親子共に血を吐く思いで越えなければならない壁があるのだ。
 そして、鎮香は信じていた。いつか、琴音のコトを理解してくれる人たちが増えてくれることを。

 自分を見据える琴音の背後に、杢子から学校の先輩と聞いていた少年たちが、自分たちの様子を見守っていた。

 鎮香は、琴音の予知能力を否定し、それを証明した少年の存在をそれとなく琴音から訊いていた。結局、今ま
での不幸の責は本当に琴音にあったコトを知るのだが、鎮香はその事で決して娘を責めるコトはなかった。何故
なら、娘の超能力を冷静に観察して自分が先に気づくべきコトだったからだ。そうすればこの歳まで琴音が不幸
な思いに苛まれるコトはなかったハズだった。琴音の咎の全ては、親である自分にあるのだ。果たして鎮香は、
自らの行動理念の浅さを後悔した。

 うちは、保科智子。隣にいるメンツと同じ、あんたの娘さんが通う学校のいっこ上の学生や。ゆえあって、琴
音ちゃんと友達しとる。

 こう言ってくれたあの眼鏡の少女は、今この場にいなかったが、琴音を友達と呼んでくれる人たちが、今、こ
んなにも居るのだ。
 だから、琴音は、こんなふうに母親である自分を真っ直ぐな目で見つめられるのだ。
 琴音は、越えなければならない壁を越えられたのだ。
 こんな嬉しいコトはない。

「……ここは、関係者以外は立入禁止なのよ。わかって、琴音」

 鎮香は琴音を抱きしめたい衝動を堪え、厳しい口調で言った。

「……ママの迷惑だってコトは判っているの。……でもね……わたし……」

 琴音が、うしおの一大事に心を痛めているコトは、鎮香にも判っていた。判っていたから、あえて遠ざけてい
たのだ。
 情にほだされ、果たしてうしおの痛々しい姿を琴音に見せるコトが、本当に正しいコトなのか。鎮香の母親と
しての気持ちが、それを許さなかった。だから、鎮香は首を横に振ったのだ。

「ママ――」

 琴音が縋るように言ったその時、とつぜん、鎮香を呼ぶ悲鳴が聞こえてきた。

「どうしたんですか、獣医さん!」
「イルカが苦しみのあまり暴れて、治療用のタンクから落ちてしまったんだ!」
「「――うしお」」

 鎮香と琴音が同時に叫び、獣医が居るほうへ一緒に駆け出した。それを追って杢子と浩之たちが駆け出した。
 うしおの治療を行っていたのは、屋内プールに近い、隣の広間だった。広間の中央では、横倒しになった大型
の水槽タンクの横で、4メートルもの大きなハンドウイルカが床の上で苦しみのたうち回っていた。

「早く床からタンクに戻して!」
「班長、人手が足りませんよ!」

 獣医の隣にいた作業員の青年が悲鳴を上げるように怒鳴った。作業員の言うのももっともである。ハンドウイ
ルカの成獣は、軽くても150キロ、最大650キログラムの重量がある。うしおと呼ばれるこのハンドウイル
カは、軽く600キロは越えているだろう。クレーンでも使用しない限り。人間の手では持ち上げるコトは出来
ない。杢子は作業員にリフトを呼ぶよう指示した。

「うしおっ!」

 そこへ、鎮香の横をすり抜けるように、琴音がうしおのそばに辿り着いた。

「琴音!暴れているうしおに近づいちゃ――」

 驚いた鎮香が琴音にうしおから離れるよう叱った。だが、マーフィーの法則が働き、うしおの尾ひれが琴音の
側面に迫ってきたのだ。

「琴――――」

 一陣の黒い閃光。間一髪、飛びついた浩之が琴音の身体を抱き抱えて、うしおの身体の上を飛び越えた。

「浩之ちゃん!?」
「ヒロ!?」

 青ざめたあかりと志保は、琴音を抱き抱えてゆっくりと起き上がった浩之の無事を見て、ほっ、と胸をなで下
ろした。

「……琴音ちゃん、無茶すんなよ、ホント」
「ごめんなさい……でも!」

 浩之に済まなそうに言う琴音は、浩之の手を払い除けるように離れ、また、うしおに近づこうとした。

「琴音ちゃん、危険だ!」
「琴音!離れなさい!」

 浩之と鎮香に怒鳴られながらも、琴音は臆するコトなくうしおに駆け寄った。その差し出した白い手がうしお
の頭に触れた時も、うしおは苦しみもがいていた。

「……うしお」

 琴音が悲しげにその名を呟いた途端、あれほど暴れていたうしおの身体が、ぴたり、と大人しくなった。

「そんな――内臓の機能不全で、人間なら発狂してもおかしくない激痛が、このイルカを見舞っているのに――」

 絶句する獣医の目の前で、美しい奇跡が起こっていた。琴音とうしおを見守っていた周囲の者たちは、水を打
ったように静まり返った。

「……うしお、苦しいの?」

 琴音に呼ばれ、うしおは、きゅうう、と弱々しい鳴き声を上げた。
 琴音の頬を、一滴の煌めきが伝い落ちた。

「…………いま、助けて上げるからね」

 突然、周囲の気温が下がり始めた。否、実際には気温の変化など無かったのだが、目の前で起きた驚愕すべき
出来事にそう錯覚しただけなのかも知れない。
 琴音の周囲に突然、蛍のような光の粒が漂い始めるや、なんと600キロもあるうしおの身体が、まるで風船
のようにふわり、と舞い上がり始めたのだ。
 そればかりではない。横倒しになっていた治療用のタンク――これもまた、特製の品で、長さ5メートル、重
さも1トンちかくある――も、フイルムを逆回転させたかのように元に戻って行くではないか。零れた水こそ元
には戻らなかったが、うしおはタンクの中にゆっくりと収まったのである。

「……これが……琴音の……」

 琴音の本当の超能力。それは念動力である。せいぜいスプーン曲げ程度だとしか思っていなかったそれが、ま
さか1トンもの重ささえも動かしてしまうとは。
 不思議と、恐怖は無かった。その気になれば、人間など触れずに粉砕できる超絶した力であるにもかかわらず。
 それが、母親といういきものなのだ。

「……よかった……あ…………」

 琴音を取り巻く光の粒が消え去る。力を使い果たし、その場に倒れ込む琴音を優しく抱き留めたのは、半ば衝
動的に駆け出していた鎮香だった。

「――琴音。……本当、来てくれて……ありがとう」
「……ママ」

 琴音の朦朧とする視界に、不思議にもはっきりと、泣きながら微笑む母親の顔が映っていた。

「……あなたが大好きなうしおが弱っている姿を見せたくなかったんだけど…………今……わかったわ。………
…あなたにうしおと逢わせてあげないと……きっと後悔するコトになっていたかも知れなかった……」

 母親の告白に、琴音は熱っぽそうな顔をその胸に埋め、嬉しそうに、うん、と呟いてから、昏倒した。

「……琴音。あとは任せてね」
「おばさん。――俺に何か手伝えるコト、ありませんか?」

 浩之は、この言葉が自然と口をついた。続いて、あかりと志保も同じコトを言った。
 鎮香は、嬉しそうに浩之たちを見て、ええ、と頷いた。


 波の音が聞こえてきた。
 琴音の透き通るような白い裸体は、深い夜の波間に漂っていた。
 暗いのに、不思議と寒くはなかった。海水が人の肌くらいに暖かったからなのかもしれない。
 なにより、そこはとても懐かしい光景であった。
 それは覚えているハズのない、最初の記憶。
 琴音の耳に届いていた波の音は、次第に人の会話へと変化していった。

(……もっこ)
(ん?)
(……お腹の中の、この子……きっと…………幸せになるよね)
(……うん。絶対。鎮香さんの子だから、ね)

「……とても暖かく優しい会話だね」

 そう言ったのは、いつのまにか琴音の傍らに浮いていたイルカ――うしおに間違いなかった。

「コトネは、これからあの人たちのいるあそこへ行くんだよね」

 琴音は頷いた。イルカが人語を解しているコトを、一つも驚いている様子はない。ここがどういう場所なのか、
琴音には判っていたからだ。
 そして、うしおが指す「あそこ」とは何処なのか、琴音は直ぐに理解した。

「……こんな会話を、わたしはここでずうっと聴いてきたんだ。……わたしがうしおや特に海に棲む動物が好き
なのは、きっと、こんな会話がここで聴き続けたからなのかも知れない」
「怖くは、無いの?」

 うしおが不思議そうに訊いた。
 琴音はしばらく考えてから、ううん、と面を横に振った。
 そんな琴音を見て、うしおは微笑んだ。そう見えただけなのかも知れない。

「ボクも、あそこは好きだよ。――大好きなみんなに逢えるから」
「みんな?」

 そう聞き返した琴音の脳裏に、浩之やあかりたちの笑顔が明滅した。

「……そう。みんな。大好きなみんな。……みんな、ここからあそこへ行くんだよ」

 うしおの言葉に、琴音は満足そうに微笑んだ。

「……うん。…………あそこに居る、大好きな人たちとまた逢うために、わたしたちはあそこへ行く」
「みんな――いのちあるものはみんな、誰かに逢いに行くためにここを旅立っていく。そうだよね」
「そして…………いつかここへ、必ず還ってくる」
「そしてまた、誰かに逢いに行く。――その繰り返し」

 ちゃぷん、と、うしおの頭に波が被った。

「……また……逢えるよね、ウシオ」
「うん。…………きっと、信じていれば。……あそこは、そう言う場所だから」


 琴音の意識は、そこでふっ、と落ちた。――――


 琴音が目を覚ますと、直ぐ脇で、自分と一緒の毛布を被って静かに眠っている母親の顔を見つけた。こんな間
近で母親の寝顔を見たのは何年ぶりだろうか。琴音は得した気分になった。
 次に、周囲を目で見回した。
 ここは、海洋博物館の準備室内だった。向こうにあるソファには、あかりと志保が一緒の毛布を掛けられて座
ったまま寝ていた。記憶に間違いなければ、浩之は隣の部屋で寝ているハズだった。
 浩之たちの申し出を快く受けた鎮香と杢子は、獣医の指示の元、浩之たちと協力してうしおの看病を続けた。
 まもなく琴音は意識を取り戻した時は、獣医の見立てで峠と言われていた時刻をとうに回り、時計の針は午前
二時過ぎを指していた。朦朧とする意識下ではあったが、母親や浩之たちの何とか持ちこたえたな、という笑顔
での会話を知ると、ほっ、と一安心した所で再び泥のように眠り込んでしまったまでは、琴音も辛うじて覚えて
いた。毛布を掛けてくれたのは、きっと母親だろう。琴音は何となく嬉しかった。
 最後に、琴音はうしおの姿を求めた。
 居なかった。
 琴音は必死に思い出す――そうだ、あの後、ママがいったん、うしおを屋内プールに戻す、と言っていたンだ
っけ。
 琴音は母親を起こさないよう、静かに毛布から抜け出し、ゆっくりとプールへ繋がっている扉へ歩いていった。
 恐る恐る扉を開ける琴音。空けた透き間から眩しい日差しが差し込んできた。もう、朝なのだ。
 琴音は天窓から差し込む朝陽を受けて煌めいている屋内プールの波間を、目を細めながら見た。
 それを見て、琴音はふと、どこかで見たような光景だな、と不思議に感じた。
 ちゃぷん。琴音は、波間に漂う、青黒い影をようやく見つけた。

「……うしお」

 琴音は嬉しそうに声をかけて見せた。
 すると、その声に気づいたうしおは、琴音のほうへ頭を向け、近い岸辺にゆっくりと泳いできた。

「……よかった。元気になってくれて」

 屈んだ琴音は、うしおの頭を嬉しそうになで回し始めた。

「……うしおのおかげよ。わたし、やっとママに素直になれそう」

 よかったね、コトネ。

 決して聞こえるハズのない、うしおの声が、琴音には聞こえていた。琴音はその事にまったく驚かなかった。
 理屈じゃない。心をこうやって通わせるコトは、決して出来ないコトではない。

 そうだよ。信じていれば、きっと叶う。――だからボクは、こうしてここに居るんだ。

「……うん」

 琴音が微笑んで頷くと、急にうしおは琴音から離れていき、プールの中央まで泳いでいった。

「……もうしばらく……こんなふうにのんびりしていたいよね……」

 ほっ、と一息を吐く琴音は、そこで奇妙なデ・ジャブーに見舞われた。

「……変……これ……どこかで見たコトが…………」

 突然、フラッシュのように、琴音の脳裏に一つの光景が甦った。
 それは、昨日の昼過ぎ、浩之に励まされ抱きしめられていた時に見た、元気良く水面を跳ぶうしおの姿だった。
不思議なコトに、その光景はこの朝日が降り注ぐ屋内プールと寸分違わぬモノだった。
 次に、また一つ、ある光景がフラッシュバックした。
 その途端、琴音の顔から血の気が引いた。
 それは、最初に見た光景だった。
 そして、自分が覚た幻視が、この屋内プールであること、そして出鱈目だった幻視の順番がようやく一つに繋
がるコトに気づいた時、琴音は思わず叫んでいた。

「――――うしおっ!!跳んじゃ――跳んじゃ、ダメぇっ!!」

 その悲鳴が合図のように、うしおは、水面を跳んだ。
 綺麗なフォームだった。朝日が、うしおの身体をきらきらと煌めかせ、それを一層引き立てていた。
 そして頂点を突くと、うしおの身体は、バシャン、と水の中へ落ちていった。

 それきり、うしおは二度と浮かび上がるコトはなかった。


 その日の夕方。藤田邸は、琴音の誕生日を祝うパーティの準備で賑わっていた。
 台所から、オーブンで焼いたパイを抱えてきたあかりは、居間に用意したテーブルの上に、人数分のグラスを
置いている浩之に声をかけた。

「……浩之ちゃん。琴音ちゃん、来られるかしら」

 沈痛そうな面もちで訊くあかりに、浩之は返答するまでに少し時間を要した。

「……琴音ちゃんのお母さんが、必ず連れてくる、っていってたんだ。……俺は、きっと来ると信じている」
「……うん。……そうだね」

 そんな会話をしているうち、やがて商店街に飲み物を買い出しに出ていた理緒や葵たちが家に帰ってきた。


 夕映えの中を、来栖川芹香と綾香が通学に使用しているリムジンが走り抜けていた。
 今日は、来栖川姉妹以外にも、三人の女性が乗り合わせていた。
 琴音とその母親、そして杢子だった。三人とも、これから向かう琴音の誕生パーティーの為に正装していた。

「……こんな凄い車に載せて貰って……すみません」
「あ、いーんですよ、いつも琴音ちゃんにはうちの姉さんがお世話になっているんですし。それに、今日は琴音
ちゃんが主役なんですから」

 乗り慣れない高級車に居心地の悪そうにしていた鎮香に、綾香は微笑みながら応えた。その隣に座る芹香も、
無言ながら、少し微笑んで頷いた。
 琴音は、俯いたままだった。うしおを失ったばかりでは、仕方のないことなのかも知れない。
 しかし、それが辛いのは、琴音ばかりではないのだ。琴音はそのコトは判って居るつもりだったが、判ってい
るだけに過ぎなかった。
 昼過ぎまであれだけ散々泣きじゃくった疲弊もあったのだろう。琴音は、今は何をやっても出来ない気分であ
った。
 はぁ、と小さく溜息を吐いた時、リムジンが左折した。その際、西日がバックミラーに反射し、琴音の目を一
瞬眩ませた。

「ん――?」

(コトネは、どうしてそこに居るの?)

 不意に、琴音はうしおの幻聴を耳にした。

(――大好きな人たちに逢うため……だよね)

「……でも、……うしおは……」
(言ったよね。――いつでも逢える、って。――思い出して。ボクがジャンプした時、ボクが何て言ったか)
「何……て……」

 琴音がそう呟いたとき、リムジンが止まった。藤田邸の前に到着したのだ。

「セバス。連絡したら迎えに来てね」
「承知しました、綾香お嬢様」

 そう言って綾香が先にリムジンを降りた。そして、リムジンの扉を手で押さえて、琴音たちが支障無く降りら
れるようにした。
 琴音は小さく頷いて綾香に礼を言うと、気怠げにリムジンを降りようとした。

「……琴音さま」

 そんな元気のない琴音を見かねて、セバスが声をかけたのはその時だった。

「……この度の件、お話は聞いております。掛け替えのないお友達を亡くされたその心中、お察し致します。し
かしそこまで思い詰められるほど哀しまれて、果たしてそのお友達は喜んでくれましょうか?」

 物静かに語るセバスに、琴音はこの物憂げな初老の顔を見つめた。

「僭越ながら、そのお顔には、笑顔のほうがお似合いだと思います。――きっとお友達もそう思われていること
でしよう」

 言われたとおりだろう。しかし琴音はまだ、立ち直れるだけの気力が湧かないのだ。

 それじゃあ、また、ね。

 琴音は、びくっ、と戦慄いた。
 否。今の幻聴は、セバスが「それではまた、のちほど」と言った言葉を聞き間違えただけだった。

 それが、うしおの最期の言葉だった。

 不思議と、寂しくない言葉だった。

 また、逢おうね。

 琴音は、ゆっくりと顔を上げた。全身を包み込んでいた倦怠感が、すうっ、と抜けていった。
 藤田邸の門の前には、浩之やあかり、志保たちが、琴音のほうを見ていた。
 大好きな人たちが、そこにいる。

 信じていれば、きっと理解してくれる人たちに出会えるわ。

 琴音の顔に咲いた笑顔を見て、心配そうにいた浩之たちもつられて微笑んだ。

「……そうだよね。……信じていれば、叶うんだから………………」
「……えっ?」

 たまたま、その呟きを耳にした鎮香が、不思議そうな顔で琴音を見た。

 信じていれば、叶うさ。だって、そうだろう?

「……そうだよね」

 そう言って琴音は、照れ臭そうに微笑みながら、母親の腕に掴まってみせた。

                    完

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