ToHeart if.「うしおが最期に跳んだ日」(中編) 投稿者: ARM(1475)
(注意!)このSSは『To Heart』姫川琴音シナリオのネタバレ要素がある話になっております。
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【承前】

「――琴音!ここへ何しに来たの!?ここはあなたのような者が来る場所じゃないのよっ!」

 何をいわんとしているのか、この親子の関係を知る浩之たちには直ぐに理解した。たまらず舌打ちした浩之だ
ったが、直ぐ隣で、実の親に冷たく怒鳴られ、みるみるうちに顔を曇らせていく琴音に気づいた。

「琴音ちゃん……!く――」
「なんや、その言いぐさ!」

 最初に怒鳴り返したのは、何と智子だった。

「実の子供に、なんつーコトゆぅんね、アンタ!」

 智子は怒りを露わにして、琴音の母親を睨んだ。見も知らぬ少女にいきなり怒鳴られた琴音の母親は、しばし
唖然となってしまった。この突然の怒りに、浩之たちも暫し呆気にとられたまま智子の顔を見つめていた。
 やがて、琴音の母親は我に返ると、その美貌を惜しげもなく怒相に変えた。

「――あなた、誰?」
「うちは、保科智子。隣にいるメンツと同じ、あんたの娘さんが通う学校のいっこ上の学生や。ゆえあって、琴
音ちゃんと友達しとる」
「別にあたしは保科さんとは友達じゃないけどね」

 毒づく志保の右足を、浩之がさり気なく踏む。すかさず志保も浩之の足を踏み返し、二人はまたもや睨み合い
だした。

「友達――――」

 一瞬、琴音の母親は声を詰まらせて戸惑うも、

「――こ、これはわたしと娘の問題です!他人には口出ししないでもらいたいわ!」
「親の都合ばかりゆうなっ!」
「親の――」

 不断の彼女を知る者から見れば異常とも思える、智子のこの怒りの迫力は、琴音の母親を圧倒していた。

「体裁ばかり繕うて、子供の心、考えたコト、あるんかっ!」

 それを聞いて、浩之とあかりは、智子がここまで怒りを露わにしている理由にようやく気づいた。
 智子が東京に転校してきた理由。親同士の都合で、智子は生まれ故郷である神戸を離れなければならなかった。
神戸には気のあった幼なじみや大切な想い出を残し、彼の地を遠くにして生じた隔絶と望郷感が、一時期、智子
の心を壊してしまったのだ。東京にようやく腰を落ち着けて暮らす気になったのは、お節介な浩之やあかりたち
と出会えたからこそである。――このお節介が、智子にはたまらなく、幸せだった。
 だからこそ、智子は怒っているのだ。二度と自分が味わった不幸を他人には遭わせまいと思う優しい心がある
から。
 決して建て前やうわべでない智子の怒りは、琴音の母親を充分に当惑させるだけの威力があったようである。
琴音の母親は暫し何も言えず、その場に立ち尽くすばかりであった。
 緊迫のあまり静止した時間を再び動かしたのは、琴音だった。

「――保科先輩、もういいんです」
「琴音ちゃん……!」
「ママの職場に、何も考えず遊びに来ているわたしが悪いんです」
「しかしなぁ……」

 戸惑う智子の目の前で、イルカのうしおがゆっくりと向こう岸にいる琴音の母親のそばへ泳いでいき、ぷぅ、
と軽く汐を噴いた。まるで、これ以上二人とも喧嘩しないで、言わんばかりに。
 琴音の母親はそれ以上つき合いきれなくなったのか、うしおがやって来たのをこれ幸いとその場にしゃがみ込
み、頭を上げてきたうしおの口の中を覗いた。智子は振り上げた拳の下ろし方に窮したが、琴音の今にも泣き出
しそうな眼差しに見つめられ、ふぅ、と溜息をついて唇を噛みしめた。

「……浩之ちゃん」
「まぁ……家庭の事情ってやつだ。他人がこれ以上とやかくゆえる問題じゃない」

 複雑そうな顔で言う浩之に、志保も茶々をいれる気になれなかった。

「……琴音ちゃん?」

 突然、声をかけられた琴音は、はっ、と瞠り、声の聞こえてきた方向へ顔を向けた。
 声が聞こえた方向、丁度琴音の母親が居たプールの対岸の反対側である、つまり直ぐ手前のアクリル柵の向こ
う側から、綺麗な黒髪のおかっぱ頭の女性が、きょとんとする顔を出して琴音を見ていた。

「……あ、もっこさん」
「あら、今日も来ていたのね」
「琴音ちゃん、お知り合い?」

 あかりに聞かれ、琴音は頷いた。

「はい。もっこさん――いえ、斉藤杢子(もくこ)さん。わたしのおばさんで――」
「おねいさん、でしょう?」

 杢子と呼ばれた女性の顔が引きつった。

「……えーと(汗)……この海洋博物館で、ママと一緒に飼育係として働いていらっしゃる方です」

 琴音が紹介すると、杢子は浩之たちの顔をまじまじと見つめた。

「……あなたたち、もしかして琴音ちゃんのお友達?」
「え?あ、はい」

 返答する浩之の声が妙にうわずっていた。杢子も、琴音の母親に負けるとも劣らない美人である。綺麗な黒髪
の主で、軽装な出で立ちをしているが、和服が似合いそうな日本美人という印象を受ける。浩之がこういうタイ
プに弱いコトを知っているあかりは、顔には出さなかったが、心の中では、浩之ちゃんのバカ、とふくれていた。

「そうなんだ。――琴音ちゃん、いい子でしょう?これからもよろしくね」

 そう言って、杢子は日向のような笑みを浮かべた。けっして作り顔でない、心から微笑んでいる、見ているほ
うも気持ちの佳い笑顔だった。
 だが杢子は、琴音の様子に気づき、その笑顔を直ぐに曇らせた。

「……また、鎮香(しずか)さんと?」

 鎮香とは、琴音の母親の名前である。訊かれて、琴音は気まずそうに軽く頷いた。
 杢子は困ったふうに暫し俯くと、やがて、うん、と頷いて見せた。

「……時間、あるかしら?――みんなもつき合えるよね?」


「かわいい店でしょ、ここ」

 杢子に連れられて浩之たちがやって来たところは、海洋博物館内にある喫茶店「アクアリウム」であった。浩
之たちは店の中央に配されている大テーブルに腰を下ろし、杢子の勧めるままに、ミルフィーユのケーキセット
を注文した。

「……琴音ちゃん、また、鎮香さんと揉めたのね」
「揉めたのは、そこの関西娘ですけど」
「……なんや、長岡サン、うちに喧嘩売っとンか」

 志保はつくづく喧嘩を売るのが好きなタチらしい。呆れ顔のあかりが、腰を上げて睨み合う二人を慌てて仲裁
に入った。とまれ、あかりも気苦労の耐えない少女である。

「……全部、わたしが悪いんです」

 俯く琴音が済まなそうに言うものだから、睨み合っていた智子と志保は流石に気まずくなったか、不承不承、
席に座り直した。

「……親の居る職場にちょくちょく顔を出てしまっては、ママも仕事がやりづらいですし」
「そんなコトないわよ。鎮香さんが苛立っているのは、……うしおの所為よ」
「あの、イルカのコトですか?」
「うん。……あのイルカ、どう見えた?」
「どう……って……死にかけ――」

 そう答えかけて、浩之はその根拠が琴音の予知にあるコトを思い出し、言葉を濁した。そもそも琴音の予知能
力は、本物の予知は出来ないものであるハズなのだ。死期を予知したのは錯覚だってあり得るのた。
 しかし、琴音に言われるまでもなく、プールの波間に漂うように浮いていた、うしおと呼ばれるあのイルカが、
まるで元気がなかったのは浩之にも判っていた。

「……元気、無いですね。聞いたところ、もうお爺さんだとか」
「うん。……残念だけど……今年いっぱいが限界……みたい」
「そう……なんですか」

 琴音が予知するまでもなく、飼育のプロから見ても死期が近いことは判っているらしい。浩之は少し悔しがった。

「……さっきも言ったけど、それで鎮香さん最近イライラしてね。――琴音ちゃん、ママ、ここ3日、家に帰っ
ていないんでしょ?」
「……うん」
「うしおの様態が思わしくなくってね。鎮香さん、うしおの担当だからずうっとつきっきりなの。昨日、お医者
様にみてもらったんだけど……もうお爺さんだから、薬を使っても多分……って」
「そう……なんですか……」

 琴音は力無く項垂れた。浩之が命を張って否定してくれた予知能力が、よもや本当に発現しているなどと、琴
音は信じたくなかったのだが、こうも現実味を帯びてくると、自分に嫌気がしてならなかった。
 琴音が俯いて落ち込むと、その場にいた浩之たちも気まずそうに黙り込んでしまった。
 暫し立ちこめる気まずい空気に、最初に嫌気を覚えて口を開いたのは志保だった。

「――死ぬときは死ぬのよ」
「志保――――」

 憮然とする浩之が志保を睨んで諭そうとするが、志保は臆することなくそれを無視し、琴音に向かって言い放
った。

「いい、琴音ちゃん?生き物ってヤツはね、生きている以上、必ず死ぬ――何かと別れなきゃいけない時が来る
ものなのよ」

 志保が珍しく真顔で人に意見しているコトに、浩之とあかりは面食らっていた。

「……なによあんたたち。その、鳩が豆鉄砲喰らったような顔わ?」
「アンタみたいな人でもまともなコトゆえるンで驚いてンやろ」
「失敬な(怒)」

 志保は智子を睨み付けるが、智子は肩を竦めてみせ、そして琴音に言った。

「……まぁ、長岡サンのゆうとおりや、琴音ちゃん。その別れが今、来た。――覚悟する時なんやな」
「保科先輩……」

 辛そうな面を向ける琴音に、今まで険を帯びていた智子の顔に、うっすらと笑みが灯った。

「……別れる時は、見苦しいマネしたらあかんよ。……辛くなるばかりやで」

 琴音に優しく言い聞かせる智子の言葉は、しかしまるで自分に言い聞かせているようであった。どこか寂しげ
な智子の笑みをみて、琴音は以前、それとなく浩之から教えてもらっていた智子の境遇を思いだした。
 別れの辛さを克服できた女性の、厳しいまでに――優しい言葉。

「……はい」

 だから、笑顔でそう応えたのだ。頷く琴音に、智子は、ええ娘や、と言って破顔した。

「……琴音ちゃん。素敵なお姉さんたちが居てくれて、幸せそうね」

 そんなやりとりを、黙って見守っていた杢子が微笑んで訊いて見せた。
 琴音はその笑顔にすこし狼狽しつつも、うん、と笑顔で頷いた。

「だけど、琴音ちゃんのママも、お姉さんたちに負けないくらい優しい女性なのも、判ってちょうだいね」
「え?」

 きょとんとする琴音に、杢子は頷いてからゆっくりと頬杖をつき、

「……琴音ちゃんがママのお腹にいた時……ね。検査で琴音ちゃんが特殊な身体だと判った時に、産むだ、産ま
ないだって周りの人たちと揉めたコトがあったのよ。――その時も鎮香さん、今みたいに苛立っていたわ」
「そうなんですか……」
「イライラするのはカルシュウムが足りない証拠よ。保科さん、あんたもちゃんと摂らないとダメよ」
「長岡サンにゆわれとうないわぃ」

 もはやこのいがみ合いは、息のあった漫才の世界に入ったようである。苦笑するあかりは、もう仲裁する気も
起きなかった。
 話の腰を折られても怒った様子もない杢子は、苦笑しつつ、話を続けた。

「……だけどね。苛立っていたのはね、鎮香さん、産むんだ、この子は絶対何があっても産んであげるんだ、っ
て、反対する周りの人たちに怒っていたからなの」
「…………!」

 琴音は黙っていたが、杢子の話が意外そうだったような顔をしていた。

「……だって、いのちあるものが生きようとしている以上、それに応えてあげるのは、いのちあるもの全てに与
えられている義務なんだからね……って、ね。そう言っていた時の鎮香さん、とても嬉しそうだったわ」

 杢子がそこまで言ったところで、ウェイターが全員分のお茶とケーキを持ってきた。がちゃがちゃとテーブル
の上が騒がしくなる中、琴音は呆然とウェイターの作業を見つめていた。無論、決してウエイターの動きに興味
を示しているわけではない。たまたま過去を振り返っていた琴音の目線の先にウェイターが居ただけにすぎない。
その後、控え室に戻ったウェイターが、あの美少女に見られててやりづらかったぜ、あの娘俺に興味あるのかな、
などと勝手な思い込みからの自慢を同僚に言うのだが、そんなコトは琴音は知るよしもなかった。

「……このミルフィーユ、美味しいのよ。男の子の口にはちょっと甘過ぎるかしら?」
「い、いえ……いや、美味いですよ、これ」

 杢子に急にふられ、杢子と琴音の会話を聞き入り重い雰囲気を引きずったままだった浩之は狼狽しつつ返答し
た。それでも美味しいという感想が決しておざなりなものではないと言えるのは、はにかむように浮かんだその
笑顔にあった。

「こ、今度作ってあげようか、浩之ちゃん?」
「え?――あ、ああ、そうだな」

 浩之は、少しぎこちないあかりの笑顔に苦笑した。あかりも先ほどまでの重い雰囲気に押し潰されていたらし
く、ようやくきっかけを見つけられてほっとしたらしい。志保や智子のようにもう少し太い神経を持ってくれれ
ばいいのにと想う反面、それがあかりらしくて佳いんだよな、と浩之は心の中で呟いた。
 それから浩之は琴音のほうを見やった。琴音は俯き加減に黙り込んだままだった。
 その横顔はとても複雑そうな貌をしていた。
 浩之は、以前、琴音から、琴音の超能力の正体である「無自覚の念動力」の所為で家族からもあまり優しくさ
れていないと言うコトをそれとなく聞いていたコトを想いだした。

 ――琴音!ここへ何しに来たの!?ここはあなたのような者が来る場所じゃないのよっ!

 その力の正体が判った今でも、琴音の家族はギクシャクしたままなのだろうか。浩之はやるせない気分になっ
て、ちっ、と小さく舌打ちした。
 そう考えているうち、浩之は、琴音の母親像が、なんだか良く判らないものになってきた。杢子の言うことが
正しければ、琴音は母親から愛されているはずなのに、娘にああまで厳しく当たる気持ちがどうしても理解でき
ないのだ。

 ――琴音!ここへ何しに来たの!?ここはあなたのような者が来る場所じゃないのよっ!

「……どういうつもりで、あんなふうに厳しく言ったのだろう?」
「どうしたの、浩之ちゃん?」

 呟きを聞いたあかりが、きょとんとした顔で浩之を見つめていた。

「あ、――い、いや、何でもない」

 俺やあかりも、人の親になったとき、自分の子供にあんなふうに言ってしまうのだろうか。――浩之は暗然と
した想いを、ミルフィーユの甘さで誤魔化したい気分になった。それほど琴音の母親の言動が、納得できないも
のだったのだろう。
 だが、浩之が本当に納得できないコトとは、智子が口を出したものとは違うベクトルのものだった。

 ――琴音!ここへ何しに来たの!?ここはあなたのような者が来る場所じゃないのよっ!

 琴音を見据える、琴音の母親の顔。
 浩之の目には、どうしてもあれが、とても娘を叱っているようには見えなかった。

「……琴音ちゃん」

 再び、杢子が語り始めた。杢子の声に、琴音は我に返ったか、びくっ、と肩を震わせた。浩之同様に琴音も母
親のコトで相当当惑していたようである。

「……ママのコト……好き?」

 訊くまでもあるまい。琴音なら、うん、と応えるだろう。それには少しばかり間があった。
 そんな琴音を見て、杢子は首を横に振ってみせた。

「……琴音ちゃん。あなた、ママのコト、誤解しているね」
「そんな――」
「ううん。してる。――今日ばかりは、ママの味方につくわ」

 杢子の、琴音を見据えて言うそれは、諭すような口調であったが、それでいて不思議と厳しさが感じられない
ものだった。だから浩之たちは口を挟もうとはしなかった。
 琴音が困ったふうに唇を少しかむ仕草をみて、杢子が微笑んだ。

「……あたし、鎮香さんとは赤ん坊の頃から一緒でね。――といっても鎮香さんのほうがずうっとお姉さん。鎮
香さんが琴音ちゃんと同い歳ぐらいにあたしが産まれてね。あたしのお母さんより世話好きな鎮香さんと一緒に
いる記憶のほうが多かったから、小さいとき鎮香さんをママ呼ばわりして困らせてね――って、そんなふうに一
緒にいたモンだから、鎮香さんがどういう女性(ひと)なのか良く知っているつもりよ」
「……」
「こんなコトがあったの。鎮香さんが大学生の頃、あたしを連れて喫茶店に入った時、こんなふうにケーキを頼
んでね。それがやはり、とても美味しかったの。あたしは美味しい美味しいってパクついていた前で、急に鎮香
さん、ケーキを食べる手を休め、じいっ、とケーキを見つめだしたの。何故だか、判る?」

 訊かれて、暫し考えてから琴音は面を横に振った。

「――不思議に思って訊いたらね。そうしたら、どうすれば、こんな美味しいケーキが作れるか考えているんだ
って。何で、そう言うことを考えているのかって続けて訊いたら、すると、ね。――『他の人に、ただ、美味し
いケーキだった、なんて言ってもこの美味しさが伝えられないだろうから、同じ味を自分で再現して伝えたい』
からだってゆうのよ」

 杢子が途中、口調を変えたのは、琴音の母親の声色を真似したものと思われる。唯一理解できた琴音だけが破
顔したのは、その為だったようだ。琴音の反応に気をよくした杢子はくすくす笑っていた。

「……美味しい、っていう感動は、口で言っただけで本当に伝えられるものじゃない。同じものを食べて貰うこ
とで、ようやく伝えられる。――感動する、ってそういうものだと想うよね」

 杢子がそう言うと、今度は琴音は躊躇いなく頷いた。
 琴音が頷くのをみて、杢子は手許にあるダージリンティーのカップをそっと口にしてから話を続けた。

「……あたしね。その答えを聞いた時、鎮香さんっていつも先のコトを考えている女性なんだなぁ、って感心し
たんだ。自分が幸せと感じたコトをそのままにしないで、どうやって他人に伝えられるか考える賢い人だって。
――でも、肝心なところで不器用すぎて、折角の優しさが全て伝えられないんだけどね」

 杢子がそう言ったとき、傍らで黙って話を聞いていた浩之の中で何かが閃いた。
 その何かが、何なのか、しかし直ぐには思い付かなかった。

 ――琴音!ここへ何しに来たの!?ここはあなたのような者が来る場所じゃないのよっ!

 最初に思い浮かんだ、琴音の母親の叱咤。しかし求めていたものはこれではない。
 もっと後の光景。

 親の――。

 次に、智子に絡まれ、返す言葉に窮した琴音の母親の姿が浮かんだ。しかし、これでもなかった。
 ――少し前。そう、少し、前の光景。

 友達――――

(……これだ。俺の中でずうっとひっかかっていた、これだ)

 それは、智子が琴音の母親に対し、琴音のコトを、友達、と呼んだ時のものだった。
 何故、琴音の母親はあの時、声を詰まらせてまで戸惑ったのか。
 ――否。あれは、驚いていたのではないのか?

 友達――――

「……そうなんだよ。あの時の、琴音ちゃんのお母さんの顔――とても嬉しそうに見えたんだ、俺」
「?」

 独り言をいう浩之に気づいたあかりが、少し俯き加減でいる浩之の顔を覗き込むように伺い見るが、浩之はそ
れを無視した。

「だから、ね、琴音ちゃん。もう少しママのコト、理解してあげて」

 杢子がそう言うと、琴音は小さく頷いた。
 しかしその反応が、杢子には許せなかったらしい。杢子は少し顔を強張らせて琴音を見つめた。

「……琴音ちゃん。ママが、どうしてあなたがここに居てはいけないって言った理由、まだ判らないの?」
「えっ……?!」

 琴音は思わず瞠った。どうやら杢子は、コトの始終を初めから知っていたようである。

「それはね、決して琴音ちゃんに自分の仕事を見られるのが嫌だったんじゃないの。――否、そうなのかもしれ
ないけど……」
「?」
「――今、ここで、あなたに見せたくないものを、思い出した時」
「――――!」

 それは、琴音ばかりか、あかりや志保、智子たちもようやく気づいたらしく、その顔に同時に閃くものがあった。
 うしお。
 それは、琴音が子供の頃から知っている、大好きなイルカの名前。
 そして今、琴音の母親が3日間もつきっきりで看病している、寿命が尽きようとしている老イルカの名前でも
ある。
 その事実を思い出した時、琴音は震える右手を、微かに呻く口元にあてた。

               後編へ、続く