迂闊やった。
その日の朝、うちは起きた途端、眼鏡をケースごと踏んで壊してしまった。
特別な日やったから、うかれとった所為もあったのだろう。こんなに慌てたのは、ヒロの家に泊まったあの日の翌朝以来や。寝ぼけて、隣に寝ていたヒロを叩いたのは、今やあいつとの笑えるイイ想い出。
替えの眼鏡など、無い。仕方無しに、机の引き出しにしまっていた、使い捨てのコンタクトレンズを取り出した。
今年の夏休みに、ヒロと二人だけで旅行に行ったとき、イメチェン図ろうとして用意しとったモンやったが、いざ、当日になってすこし気恥ずかしゅうなって、結局、不断の眼鏡を掛けて行ったコトは、あいつにも内緒。
慣れない異物を身体に入れる瞬間というのは、やっぱり怖い。でも思ったほど痛とぅなかった。まるであの時のような……って、あかんて、朝っぱらからナニ想い出してンね、うち(汗)。
教室に入ったとき、クラスメートの男どもがざわめいたのは、うち的にヒットものやった。
「……あれ?誰だっけ、あの可愛い娘」
なんてお約束のようにこそこそゆぅては、
「もしかして……保科?」
と戸惑う。思わずうち、意地悪して神岸さんの席に座ってやったら思った通り困惑しよる。ホンマ、男ってアホやなぁ。
後からやってきたヒロだけが、ひとりだけ嫌そうにうちのコト見とった。……冗談で神岸さんとこに座ったのがいかんかったのかもしれない。悪ノリしたコトをヒロに謝ろうかと思ったが、直ぐに先生が来てしまい、昼休みが来るまで切り出すコトがでけへんかった。
昼休み。うちはヒロを人気のない屋上の隅に呼んで、朝の件を詫びた。
「……ごめんな、ヒロ。いや、な、男衆が思った通りに戸惑ってくれるモンやったから、つい悪ノリして神岸さんとこに……だから、な?機嫌、直して、な?」
「……そんなことじゃねぇよ」
なんつぅ不機嫌なツラしよるか、自分?……こちらが下手に出ていればいい気になりよってからに。……でも、今日は折角の日やから、うちはなんとかキレるのだけは堪えた。
「……どういう気まぐれか知らないが、……イメチェンか?」
「イメチェン?」
「眼鏡止めて、コンタクトにしたのか?」
そう言われて、ようやくうちは、ヒロが機嫌を損ねている理由に気づいた。そうか、うちが眼鏡かけていないコトが気にいらんなのか。そういえば、3時限目の休みに、うちに妙に馴れ馴れしく近づく矢島を後ろから小突いたンは、そう言うコトやったんか。
ははぁん、妬いてンやなぁ、自分(笑)。うちがイメチェンしたモンだと思い込んどるようやね。……流石に、不可抗力、とはいえんな今さら(汗)。
「……そうや」
うちがシラ切って応えると、ヒロは一層、不機嫌そうな顔をする。ふくれっ面するそれは、まるでフグやフグ。
ヒロめ、うちが眼鏡せんコトがよほど悔しいらしい。ま、無理もあらへんな。うちも、眼鏡掛けなかっただけで男どもがわらわらと近づいてくるのは、本当はシャクやったし。一度寝たぐらいで人のコト所有物みたいな時代錯誤な考え持っているのかもしれんけど、そんなすっぴん面まで独り占めにしたいんか、自分?ここまで嫉妬されると――ちと恥ずかしいなぁ(汗)……た、確かに、うれしいけど。
気恥ずかしさから、うちはつい、ヒロに意地悪したくなった。
「……取引といこか?」
「取引?」
「そ。――交換条件。それ、呑んでくれたら、うち、また眼鏡っ娘に戻ったるわ」
「交換……条件?」
当惑するヒロに、うちは頷いた。
「――うちのコト、大好き、ゆうたらコンタクトやめる」
予想通り、ヒロは絶句した。ヒロのこういう反応が実に堪らなく楽しい。あの夜はうち、Mの気があるものかと思ったンやけど、どうやらうちの本質はSのほうなのかもしれへん。
さぁ、ゆえ、ゆえ。
「……けっ。誰がゆうか、そんなコト」
予想外の返答やった。とわゆえども、ヒロらしい反応でもあった。
それでもうち、ちとシャクに障ってムッとした。
「……えぇやんか、それぐらい?!ケチっ!」
「ケチとは何だっ、ケチとわっ!?」
「――別に減るモンや無いさかい、ええやんか!」
売り言葉に買い言葉。うちら、学校の屋上で痴話喧嘩を始めてしもぅた。
「減る、減らないの問題じゃねぇんだよ!――だいたいなんなんだよ、人に断りも無しに眼鏡やめやがって……!」
「だから、うちのコト、大好き、ってゆうてくれたら眼鏡に戻してやるゆぅてんやろが!」
「そんなコト、言えるワケないだろうがっ!」
そんなコト、うちも承知している。神岸さんほどではないにしろ、それなりにヒロの性分は理解しているつもりやからな。
でもな、今日は特別の日なんやで。知らない、なんて言わせへんよ。さぁ、ゆえゆえ!
「言わねぇよ!」
「ゆえ、ゆえっ!」
「言わない!」
「ゆえっ!」
「言わン!」
「ゆわんか、このボケっ!!」
一瞬の静寂。勢いでうっかり口をついた、下劣な言葉。関西のほうならギャグで受け止めてもらえるが、ここは関東や。口汚いきつめの言葉は興ざめものやった。ヒロは鳩が豆鉄砲食らったような顔してうちのコト当惑気味に見つめていた。
「……あかん…………ごめんなぁ」
あかん。どうも今日は特別の日やから、浮かれっぱなしになっとる。こんな日ぐらい誰とも喧嘩なんぞしとうないのに……!
俯いて落ち込むうちを見て、ヒロは頭を掻きむしってから、はぁ、と困憊しきった溜息を吐いた。
「……智子。俺はまだお前とはそんなに付き合いは長くはないが、そんな言葉を軽々しく言われて喜ぶような女だとは思っていなかったんだがな」
「…………」
うちは俯いて黙るしか無かった。
「……手、出せ」
「……?」
うちはヒロに言われるままに、両手をつき出した。
その掌に、軽い重さがのし掛かった。
それはいったい、ヒロの身体のどこから取りだしたのかわからん、ビデオテープの箱ぐらいの大きさをした、綺麗な包装とリボンに被われた箱だった。
「……なに、これ?」
「開けてみな」
うちは、慌てて箱の包装を解いて中身を取りだした。
そこには、綺麗で頑丈そうな眼鏡ケースが入っていた。
「……せっかくヒトがよさげな眼鏡ケースを誕生日プレゼント用に買ってやったのに、断りもなくコンタクトに変えやがった。そんな身勝手な女に、誰が、大好き、なんて言えるかよ。あえていわなきゃならないなら――愛しているぞ、ぐらいだ」
うちは、絶句した。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
ヒロも、自分で言って置いて赤面している。……まったく、大したタマさ、ホンマ。
呆れつつ、やがてうちはぼろぼろと涙を零している自分に気づく。慌てて涙を手の甲で拭うが、このまま目をこすったらコンタクトレンズ外れるかもしれなかったけど、今はそんなコト気にしている場合やない。
「……アホぬかせ、この…………ホンマ……なにを恥ずぃコトを……この……!!」
それは、半年も前には絶対思わんコトやった。
本気で嬉しかった。――この人の住む街に来られて。
Fin