ToHeart if.『正調・幻相奇譚』第1話 投稿者: ARM(1475)
 浩之ちゃん――さよなら。

「うわぁぁぁぁぁっっっ!!?あかり、待てっ!!」

 藤田浩之は絶叫を上げながら起き上がった。そして、今のあかりの寂しげな笑顔がただの夢であるコトを気づかせたのは、まだ肌寒い2月の空気だった。

「……ぷふっ!さ、寒むぅぅ……」

 あまりにも不吉な夢を生々しく見た所為か、ショックのあまり記憶がかなり混乱している、というより、寝ぼけ頭がまだハッキリしていないだけなのであろう。

「……へっ、へっくっ……あ」

 くしゃみが出かかったところで、浩之は先ほどの夢がリアルすぎた理由にようやく気づいた。

「……そうか、あれは去年の秋に……へ、へっくしょい!!」

 浩之ちゃん、楽しかったよ。

 リアルなのは無理もない。それは実際にその目で見たものだからだ。
 昨年の秋、長岡志保が仕掛けたイベントである、肝試しの最中に自分にずうっと付いていた、あかりに化けていたあの幽霊の、どこか寂しげな笑顔だった。

 ――浩之ちゃぁん、浩之ちゃぁぁん、早く起きないと遅れるよぉ!

 いつもなら、こんな、ぼうっ、としている時を見計らったかのように、窓の外から、幼なじみの神岸あかりの声が届くところであった。
 しかし浩之はここ数週間、そんなあかりの声で目覚めてはいなかった。
 浩之は机の上にある置き時計を見た。
 時刻は、朝の6時ちょうど。まだ、外は薄暗い。

「……今日は、ちょっと遅かったか。ヤベヤベ」

 浩之は大きく背伸びしながら欠伸をすると、渋々ながらベッドから降りた。別に、朝寝坊がちな生活を反省して早起きするようになったわけではない。寝坊を起こしてくれる人間が、現在、誰も居ないからなのである。
 正確には、来ないから、と言ったほうが良いだろう。無論、浩之を起こす役目を好きこのんで行っていたあかりのコトを指しているのだが、決してぐーたらな浩之にあきれ果てて起こしに来るコトをやめたわけではない。

「……さて、とっとと飯喰って、あかりを迎えに行くか」


 それから一時間半後――7時半を回った頃、浩之は自宅を出て、あかりの家へ向かった。浩之の家のほうが学校に近いので遠回りになってしまうのだが、しかし浩之の家からはそんなに離れたところにはないので、大した時間のロスにはならない。10分ほどで浩之はあかりの家の前に到着した。

「おーい、あかり。起きてっかぁ?」

 浩之は二階にあるあかりの部屋へ、声を掛けた。いつもはあかりに同じコトをされて起こされては、近所迷惑だろうとぼやいている浩之だったが、ここしばらく、自分で同じコトをしてみて、なかなかどうして、かなり声を上げないと二階まで届かないコトが良く判った。
 ただし、あかりの家は藤田家と違い、ちゃんと朝は両親が居る。浩之は一回だけ挨拶代わりに声を掛けただけで、直ぐに玄関に向かい、呼び鈴を押した。

「あらあらヒロちゃん、今日もご苦労さまね」

 扉を開けたのは、あかりの母親である。浩之いわく、「器量も気立ても良い、家事を任せたら天下一品の、日本一のおふくろさん」で、ときおり、ワーカーホリックな両親と比較しては、この女性(ひと)が母親だったらどれだけ幸せだったろうに、と親不孝な仮定をしては嘆息するコトもある。その血を引いている実の娘であるあかりは、周りの評判では、何から何までこの賢母似らしい。確かに、浩之の顔を見て、にこり、と微笑むさまなど鏡に映したようである。これだけでも充分に、あかりを嫁に迎えた男が、とても幸せになるだろう、と浩之は確信している。

「さ、外は寒いから玄関に入って待っててね。――あかり!ヒロちゃんが迎えに来てくれたわよ!早く支度しなさぁい!」

 母親に呼ばれて、遠くから力無い返事が返ってきた。聞き覚えのあるその声は、確かにあのあかりのものだが、今ひとつ、いや今みっつぐらい、元気が足りない。
これをもう少し進行させると、あの芹香に匹敵するほどの小さな声になろう。もっとも芹香の声の場合は、元気以前のモノなので、比較するに値しないが。
 あかりの母親が玄関から離れて2分16秒後、やっと制服姿のあかりが玄関にあらわれた。

「……浩之ちゃん。おはよう」
「……ああ」

 そのやつれた顔は、浩之の顔を見て安堵の色を露わにし、辛うじて何とか笑顔を作っていた。そんな昏い顔でも、今の浩之には充分嬉しい気分にさせてくれる、好きなあかりの笑顔であった。

「……どうだ?昨夜はよく眠れたか?」

 浩之がそう訊くと、ふっ、と影が差し掛かったあかりの面が横に振られた。

「……ごめん。心配……かけさせちゃって……」

 しょげるあかりに、浩之は、歯をにぃ、とみせて笑い返した。

「気にするなよ。誰だって気が滅入っている時は眠れなくならぁ。さぁ、とっとと学校いこうぜ」
「……うん」

 どんなに元気がなくても、浩之の前では頑張って笑顔をつくるあかり。
 そんな笑顔を見る度、浩之は、何とかして、現在あかりを追いつめている「ある問題」を解決させたい、と切に願うのであった。
 浩之は玄関の扉を開けて外へ出ようとするが、何故かあかりはその場に立ち尽くしたまま、進もうとしない。まるで外へ出るコトを嫌がっているようである。気づいた浩之は、ふぅ、と溜息を吐くと振り向き、あかりの手を掴んだ。

「大丈夫だって。今日ぐらい、あいつは出てこないよ」
「う……うん」

 あかりは不承不承、半ば強引に浩之に引っ張られるように外へ出た。
 すると、遠くから車が近づいてくる音が聞こえてきた。車はあかりの家の前で止まった。それは浩之には見覚えのあるリムジンだった。

「やっほー、浩之、神岸さん」

 リムジンの中から二人へ陽気な声を送ったのは、来栖川綾香であった。

「姉さんがね、学校まで送って行け、って」

 綾香は車内から身を乗り出し、浩之にウインクを送ってそう言う。よく見ると、綾香の後ろに座っていた芹香が、浩之たちを伺い見ていた。
 浩之は戸惑うあかりの顔に一瞥をくれて、

「……ありがてぇ。お願いするよ、先輩」

 浩之はそう答えた時、薄らとだが、芹香が微笑んだように見えた。

 これまで何回か乗せてもらった来栖川家のリムジンではあるが、四人載ってもまだ広く感じられるコトに、浩之はあらためて感動した。
 あかりは緊張して座席に座っていた。四人が座るリムジンの後部座席は、向かい合わせに座れるようになっているのだが、決して来栖川家の美人姉妹と向かい合っているコトに緊張しているワケではない。思えば、あかりは初めてこのリムジンに載ったのだ。

「……あまり、寝ていないようね、神岸さん。睡眠不足は美容の敵よ……なんて、悠長なコト、言ってられないか」

 今まで笑顔をつくっていた綾香の顔が不意に険しくなった。あかりに気を遣っての笑顔だった。

「……ん?何、姉さん……うんうん、わかった。神岸さん、気分のほうはどうか、だって、姉さんが」
「……うん。すこし……辛いかな」
「……無理しないで、今日は休めば良かったか?」

 浩之が心配そうに訊くと、あかりは首を横に振った。

「ううん。大丈夫。……学校にいるほうが、少しは気が楽になるし」

 でも、あいつは学校にだって現れるんだぜ。――浩之はそう言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。

「……ん?ごめんなさい、って姉さんが」
「……え?いえ、いいんですよ、芹香先輩」

 あかりは力無い笑顔で応えた。芹香が、今回の「問題」が起きた原因が自分にあると思っているコトを、あかりはとうに気づいていたが、それで芹香を責めるあかりではなかった。

「――むぅ」

 突然、リムジンを運転していたセバスチャン(長瀬源四郎)の唸り声と共に、リムジンが急停止した。

「――ど、どうしたの、セバス?」
「お嬢様がた。――あれを」

 セバスチャンがフロントガラス越しに指したものとは、道路の先にある横断歩道を渡っている、見覚えのある一人の女学生であった。

「ま、また――――出やがったかっ!!」

 浩之は座席シートから身を乗り出し、セバスが指す人物を忌まわしそうに罵ると、ドアに手を掛け、慌てて外へ飛び出そうとした。
 それを止めたのは、あかりの悲鳴だった。

「い――――いやぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!!!」

 あかりは恐怖のあまり身体を丸め、リムジンを揺さぶりかねないくらいの勢いで震えだしたのである。驚いた浩之は慌ててあかりの身体を抱きしめた。

「落ち着け、あかり!――くそぉっ!!」
「姉さん、二人を頼むわね!セバス!」
「御意!」

 綾香とセバスチャンはリムジンから飛び出し、道路の先にいる問題の人物の許まで駆け寄った。常人離れしている二人の脚力は、一気に目的の人物の許までたどり着かせ、二人で問題の女学生を挟み込んだ。

「今度こそ逃さないわよ!いいわね、セバス!」
「お任せあれっ!!」

 二人がとても怖い顔をしてその前後をとった女学生は、しかしまったく臆した様子もなく、きょとんとした顔でその場に佇んでいた。

「……また、会ったね」

 あまつさえ、綾香たちに、ニコリ、と微笑んでみせるこの余裕。思わず気を殺がれてしまいそうだが、今の必死の綾香たちには、もう通じない。

「今日こそは、あんたの正体を突き止めてやるわよ!セバス、この娘を押さえて!」
「そういうわけだ、お嬢さん。済まぬが、今度こそ来栖川の研究所までつき合ってもらおうか」
「お断り」

 女学生はニコリ、と微笑んだ。

 神岸あかりの貌で。

 次の瞬間、綾香とセバスが包囲していたもう一人のあかりは、消失していた。

「「――ま、また逃げられた!?」」

 綾香とセバスは地団駄を踏んで悔しがった。これで何度逃げられたことであろうか、二人はそう考えると余計に腹がったらしい。
 しかし、その消え方は尋常ではない。綾香とセバスが一瞬、瞬いた刹那に消えていたのだが、決して二人とも同時に瞬いていたワケではない。消失するタイミングがずれた


「浩之ちゃん!怖いよぉ、怖いよぉ!!いったい、あの娘は何なの?嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!」
「落ち着け、あかり!もうあいつは消えたから!だから――――」

 もう一人の自分を見て恐慌事態に陥ったあかりを、こうしてなだめるのは、もう何度目だろうか。
 神岸あかりをノイローゼ寸前にまで追いつめている「ある問題」。それは、「もう一人の神岸あかり」が出現するという異常事態であった。


 その日の昼休み。浩之は屋上にいた。
 浩之は屋上から、校舎の裏にある神社の境内をじっと見つめていた。
 もう一人の「神岸あかり」が最初に出現したのは、昨年の秋であった。
 二学期に入ってまもなく、浩之たちの女友達(浩之にとっては異性であっても悪友に当たる存在だったのだが)、長岡志保が浩之をからかうため「だけ」に企画した、肝試しが行われた。
 そのさい、何の気まぐれか、心意は定かではないが、オカルト部の部長である来栖川芹香が、幽霊部員(文字通りの幽霊なのだからタチが悪い)を総動員して志保に協力した。その甲斐あって、肝試しは大成功した……のだが、実のところ、肝試しをしている浩之を追って様子を伺っていた志保ばかりが幽霊に驚かされるという、ミイラ取りがミイラになってしまう情けない結果になってしまった。
 問題はその後である。浩之と一緒に肝試しにつき合っていたあかりが実は、翌日、何者かが化けていたコトが判明するのだが、このもう一人のあかりが、その日以降、たびたび浩之たちの前に出没するようになってしまったのである。
 この異常事態に、真っ先に反応したのが、芹香であった。満月の夜に、芹香は浩之を同伴して降霊会を行い、幽霊部員たちを全員集めて彼女のことについて問い質したのだが、皆、何処から来たのか誰も知らなかった。初顔だったというのだ。
 幽霊部員全員に詰問したあと、釈然としない顔を傾ける芹香は、浩之に奇妙なコトを告げていた。
 少女の霊は普通の霊体ではなかったそうである。妙に生気が溢れていた霊体であったらしい。
 早い話、生霊(いきりょう)――つまり死んでいない人間から生じた霊体であるというのだ。
 それが何故、浩之につきまとっていたのか。そして何故、あかりの姿を借りて出没しているのか、芹香にも見当がつかなかった。

 浩之ちゃん、今夜は楽しかったよ。

 あの日以来、浩之は、あの笑顔がどうしても脳裏に焼き付いて離れずにいた。

「……まったく、とんだヤツに好かれたモンだよ」

 ぼそり、と呟いた浩之の声が、不意に吹いた風に流されていった。不思議とそれは、言葉のそれとは裏腹に、どこか親しみを含んだ響きがあった。
 そんな時だった。浩之は、背後から自分の名を呼ぶ声に気づき、振り向いた。

          第2話へ つづく