「ねぇ、浩之ちゃん。屋上の防護フェンスの金網に、大きな穴が開いていたの、知っている?」
風が少し強まってきた。
空が、西のほうから雲を吐き出している。しばらくすると、この辺りの空はまんべんなく雲に被われ、そのうちにきっと雨が降り出すコトだろう。
(……神戸のほうは、晴れとるンやろなぁ)
保科智子は、雲の暗い色に溶け込みかけている灰色の線が交差する視界から、じっと西の空を見つめていた。
右手に、馴れない重さがのし掛かっていた。
ペンチ。自宅にあった工具である。離婚した父親が持っていたものであろう。別に智子の母親が未練がましさで持っていたわけではなく、智子の父親が家を出ていった時、たまたま忘れていっただけであろう。女手でそれを使う機会など、ほとんどなかろう。
それなのに、どうして智子がそんなものを持っているのか。
しかも、学校の本校舎の屋上にある、防護用の金網フェンスの前に立って。
そうそう、なぁ、トモ。あンふたり、デキてンやで。
――ふたり?ほら、トモの、あの――
神戸の幼なじみから久しぶりにきたあの電話を受けてから、智子はどのような行動の果てに、学校の屋上へやってくるに至ったか、ほとんど覚えていなかった。辛うじて何となくだが、電話を切り、物置を開け、ペンチを掴んだまでは、微かに記憶していたが、それっきりである。
放課後の学校は、珍しくとても静かであった。部活動がない生徒たちは、迫り来る雨足を怖れてさっさと家路についていた。一度家に戻ってまた登校してきたのは智子ぐらいであった。先生たちは、ゴールデンウィークに予定されている2年生の修学旅行に関する職員会議で全員、会議室に詰めており、現在、本校舎内を移動する者は皆無で、無人も同然の状態にあった。
智子は一人きりだった。
その屋上にいるのも。
離婚した両親からも。
いつか叶える夢のために、交流を犠牲にしてしまった新天地の人々たちからも。
――何もかも。
智子の右手が上がり、鉄製のくちばしが灰色の線を噛んだ。
しかし防護フェンスの金網は、とても頑丈にあつらえており、ましてや小娘の力ごときで切断など叶うべくもない。ペンチは金網に食い込んだが、それきりだった。
「……やっぱ、無理か」
智子は呆然とペンチを見つめていた。
父親が残していったペンチ。
不意に、父親の顔がペンチに重なる。
寡黙な男。
この世で最も近しい関係での16年間の付き合いは、あまりにも自然すぎて違和感を覚えるコトはなかった。その男に初めて違和感を覚えたのは、ささいな理由だった。
おかんを、母親を殴った。口論がエスカレートして、あの男が先に手を出したのだ。
口論の理由は、今も良く判らない。大人の事情。
しかし破廉恥で俗っぽい理由でないコトは確かだった。大人同士の、勝手な都合。
おとう。あの男を親しみを込めてこう呼ぶ機会は、もう無いだろうと智子は思った。
その男と、このあいだ会った。出張で東京に来たらしい。
神戸へ戻らないか、と切り出してきた。
「……いまさら。あの男は、うちらが出ていくのを、相変わらず黙ったまま見送った。黙って見送ったンは、それでホンマにええと思ったからやろが!――あんなの、もう、父親でもなんでもない!!」
――バチン!その時、意外なコトが起きた。金網の針金に噛み付いていたベンチが、この頑強な針金を切断したのだ。
ちからの源は、直ぐに判った。
怒りである。
智子は切断された針金をじっと見つめ、不意に可笑しくなって吹き出した。
この一刀はおとうに捧げよう。この一刀で決別できる。あの男が、うちの居場所でなくなる。
次の一刀は、母に捧げよう。
おかん。今も一緒にいる、肉親。
身勝手な女。
夫であった男を怒らせた女。怒らせた理由は、伴侶であった男が妥協しかねるような、自分の夢を叶えたいと我を張ったためである。女は夢を叶えるために、長年住んでいた街を平気で捨てた。
智子にとって、捨てたくない街だった。捨てたくない大切な思い出があった場所だった。
だが、母親には辛い想い出が一杯の街だった。
その理由は、智子にも判っていた。父親もその事情は知っている。
関西神戸大震災。
あの震災で、母親は自分の両親と妹夫婦を失っていた。
祖父母も叔母夫婦も、とても優しい人たちだった。みんな、瓦礫の下敷きになって灰になった。記憶の中の笑顔は、いつか色褪せることだろう。
夫婦の間に深い溝が出来たのは、父親の仕事が消防士だったコトにも原因があったのかもしれない。彼らの尽力がしかし、あの大災害の前ではあまりにも非力であったのは、仕方のないコトであった。母親はそのコトで父親を責めるコトはなかったが、あの日以来、夫に余所余所しい態度をとるようになったのは、智子も気づいていた。
いきなり突きつけられた冷たい絶望を前にして、懐かしく暖かい想い出へ逃避せざるを得なかった母親の苦悩は、父親も娘も理解しているつもりだった。
しかし智子にとってそれは、現実から逃げているだけにしか見えなかった。自分はその現実逃避に無理矢理つき合わされているだけ。
でも智子は、父親に付いていくコトが、正しい選択とは思えなかった。
おとうはおかんを殴った。好きだったから、殴った。
おかんは殴り返せなかった。好きだから、殴れなかったのだ。
そんな女だから、誰がついていなければいけない。――出来ればそう納得したかった。
現実は違う。養育権の争議で、母親が智子の権利を勝ち取っただけに過ぎない。
「……おかんに渋々ついて来たが、おかんは自分の夢を叶える努力で精一杯、うちのコトなどまったく構わなくなった。――放任主義?聞こえは流行りっぽくて良いが、当事者にしてみれば納得できるワケがない。――うちはあんたらのモノやないっ!!」
二本目が、呆気なく切断された。また智子は堪らず、ぷぷっ、と吹き出した。
同時に智子は、これはもう止まらないだろう、と理解した。理解したから、3本目に移った。
3本目と4本目は、あの二人に捧げよう。
待っていてくれるハズだった、故郷のあの二人に。
三角関係と言うワケではなかった。むしろ、あの二人が以前から互いを意識し合っていたコトは、智子も薄々気づいていた。
なのに、あの二人はそのコトを智子に黙っていた。智子にはそれが、とても許し難せなかった。
「…………気兼ねなく、直接告げてくれれば喜んで祝福出来たのに。うちは、何も包み隠さず話し合えるあんたらの元へ帰りたい為に、――この東京で得られるハズだったあんたらの代わりをすべて切り捨てたんやで……!!」
3本目と4本目も、面白いように簡単に切断できた。
智子の脳裏を次々と、見覚えのある顔が過ぎった。
あの二人の関係をベラベラしゃべってきた幼なじみ。
東京に出てきて入居したマンションで、智子たちの言葉遣いに吹き出した中年の管理人。
家の近くにあるコンビニに買い物へ行ったとき、その管理人と同じような顔をして、吉本かよ、と小声でほざいた、コンビニのレジスターに向かっていたバイトの大学生。
転校初日、震災の話をダシに、智子に向かって、さも見知ったような口調で実のない同情話をダラダラと語り続けた、高校の教頭。
転校してきた教室で、やはり吉本新喜劇呼ばわりした、今は隣のクラスにいる男子学生。名前は憶える気さえ毛頭も無かった。……。
彼らの忌々しい顔が過ぎるたび、ペンチを握る智子の右手に力が入り、防護フェンスの金網が面白いように易々と切断されていく。
そして、針金が一本一本切断されていくたび、智子はこの世界と自分を繋げる接点を、ひとつひとつ断っている気分に見舞われていた。
いつしか防護フェンスは、智子の身体が簡単に通り抜けられる大きさの穴を穿ちつつあった。あと4本の針金を切断すれば、防護フェンスを完全にくりぬけられる。
ペースが急に速くなった。3本分は、2年生に進級して入ったクラスにも一緒に入った、あの3人組へ。もっとも最近の、腹立たしい存在である。無視し続けていたが、黙っていてもあちらから絡んでくる。もっともここしばらくは顔を合わせても何も言ってこなくない。智子はその理由を知っていた。爪を爪切りで切るような簡単さで、一気に3本が切断された。
最後の1本。別に切断しなくても、もうこれで充分防護フェンスの向こうへ行ける。
智子は穴の向こうを見つめた。何も辛いコトを考えないで済む、穏やかな世界がそこにあるような気がしていた。少し、落ちるだけ。痛いのは一瞬。
だが智子は、最後の1本にどうしても拘らずに入られなかった。
最後の1本を捧げる存在として思い浮かんだ顔が、あの藤田浩之だったからだ。
(……あいつ……初対面でいきなりチョップでぶちよった……いま思い返してもホンマ腹立つやっちゃあ……!)
浩之が友達と間違えていたのは、その後やってきた雅史の存在で直ぐに理解していた。誰だって間違いはある。潔く詫びたあの姿勢に免じて許していたハズだった。
(……でも、親切なところはあったなぁ。こう、なんてゆうか、見返りを求めない自然さっつーか……)
智子は、あの不幸な出会いをした週末の翌週明け、学校の図書室で何も言わずに本棚の高いところから捜していた本を取ってくれた時のコトを思い出していた。あれは叩いたコトへの詫びと思っていたが、智子にはあの姿が、そんな打算による行動とはとても思えなかった。粗暴な男だが、本質的に親切――いや、お人好しなのだろう、と。
あれからしばらく二人とも、顔を合わせることはなかった。
次に再会したのは、2年に進級して同じクラスになった時。自己紹介では、爽やかさを気取っていたが、どうみてもあれはハズしていたので、妙に可笑しかった。
それからまた浩之と直接かかわったのは、職員室からプリントを運ぶ時だった。
(……なんやあいつ。いつも可愛いカノジョが一緒におりながら、なんでうちにつきまとうんや?)
浩之は、あかりのではなく、智子のプリント運びを手伝ったコトがどうしても理解できなかった。
さらに授業が自習になって、教室内の級友たちのあまりの煩さにつき合いきれなくなって図書室へ行こうとした時に、浩之は智子に絡んできた。浩之の言っているコトには筋が通っていたが、少しでも数式を頭に叩き込みたかったあの時は、浩之の言葉さえ無駄口を叩く級友と同格のものにしかとれなかった。
(…………がむしゃらやったなぁ、あン時は。……こんなコトになるなんて…………思いもせなんだ)
周りに目もくれず一生懸命やっていて、限界を感じて疲れた時もあった。不覚にも泣いていたところを、浩之に見られたのは失敗だった、と智子は思っていた。
(……あン時からやな。あいつが一層、ウチにつきまとうようになったのは)
下校途中に顔を合わせれば、一緒に帰ろうか、と言い寄ってきたり、挙げ句には、自分に絡んできたあの三人組に詰問する始末。智子にはそれがとても有り難迷惑だった。
だけど、そんなうっとおしい顔を見ないでいると、それはそれでどこか寂しい気分になったのもである。ついには折れて、一緒に下校した時はとても…………。
「…………まてぃ。確かあン時……ヤック?なに、気取ってっねん。ヤクドはヤクドにきまってんやろが!これやから関東モンはアホゆうんや、くそっ!」
パインっ!智子は怒りにかられて、切断によって少しめくれていた金網を蹴っていた。智子に蹴られた金網は、振り子のオモチャのようにビョンビョンと震えていた。智子は、蹴った音の大きさに一瞬びくついて周りを見回した。幸い、音に気づいて騒ぐ者はいなかった。
(……ふぅ。(汗)……くそぉ、なんであいつのコト想い返すと、他の連中以上に苛つくンや、ホンマ?)
やがて智子は、自分につきまとう浩之にその理由を問い質したコトがあった。
その回答に、智子は呆れた。
それは、浩之が、自分が期待していた以上に――――。
「…………」
智子は、無意識に右手で握り拳をつくっていた。その顔は、苛立ちの色が一層深みを増した。
「……なんでや…………なんで……藤田クン……あんた………………ウチに…………ウチに……………………」
まるでそれを呪詛のように呟く智子は、握りしめられた右手を額のところまで持ち上げ、少し指を開いた時に入り込んだいくつかの前髪を掴んだ。そして前髪を握って引っ張る。
同時に、智子の脳裏に、返答に窮して困った顔をする浩之の顔が浮かんだ。それに呼応して、智子の右足が、つま先でトントンと床を蹴っていた。
智子は、苛立っていた。
こんな感覚は、初めてであった。
どう表現していいものか。――やがて、智子の脳裏にそれに相応しい言葉が浮かんだ。
せつない。
その言葉が浮かんだ途端、智子は歯噛みした。
「……ンなワケあらへん!!あいつは……あいつは……」
浩之が真っ直ぐな目を自分に向けていた。
「……ただ、興味本位だけで……………………」
それは、哀れみや同情の眼差しではなかった。
おかんを殴ったあの時のおとうの眼差しに、まったくそっくりだった。
「――――あああああああっ!!!!」
智子は混乱し、絶叫した。
「アホぬかせぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
絶叫する智子は、あと針金一本で完全に切断できる防護フェンスを思いっきり蹴った。我を忘れた智子の渾身の一蹴を受けた防護フェンスは、唯一つなぎ止めていた針金を引きちぎられた。切断された金網は、くるくると回転しながら暫し滞空し、やがて真っ直ぐ下にある草むらへと落ちていった。
智子は防護フェンスを蹴った体勢でしばらく凝結していた。
最後はいささか乱暴であったが、これで望み通り金網に穴が空いた。この穴の向こうには、俗世の苦しみがない、穏やかな世界が待っている。
「――な、なんだ、今の音は?」
待望の世界の入り口の下から、仰天の声が届いた。この声は、国語の教師のものであろう。この穴の丁度真下は、教師たちが集まっているハズの会議室の直ぐ外であった。
今の声を追うように、他の教師たちが騒ぎ始めた声が聞こえてきた。
その騒ぎ声に、智子はようやく我に返った。
「――あかん!」
智子は慌てて穴の空いた防護フェンスに背を向け、その場から逃げ出した。
屋上から逃げ出した智子は、いつの間にか学校から外に出ていた。無我夢中で走っていた為、逃げている間は周りを見ているヒマはなかったが、校内にはほとんど人がおらず、恐らくは金網に穴を開けたのが自分だと言うことは誰にも知られずに済んだようである。
ようやく立ち止まった智子は、荒くなった息を整えようと、深呼吸を繰り返した。
深呼吸しているうち、上気している頬に冷たいものが当たっているコトに気づき、智子は頬を指先で撫でた。
水。――汗や涙ではない。時おり上から当たる。これは雨だ。
智子は空を見上げた。曇天は前よりいっそう昏さを増し、ぽつりぽつりと雨を降らせ始めていた。
しばらく空を仰いでいたあと、ゆっくりと面を戻した智子は、そこで自分が公園の中にいるコトをようやく知った。
見覚えのある公園だった。学校の近くにある公園、ではなく、あの藤田浩之の家の近くにある公園、と言う言葉が真っ先に思い浮かんだ。
雨が、次第に勢いを増してきた。本降りになったようである。
智子は傘を持っていなかったが、雨宿り先を捜す素振りも見せず、ただ呆然とその場に佇んでいた。
不意に、智子は右手にかかっていた馴れない重さを思い出した。
智子の父親が忘れていったペンチ。智子は屋上から逃げ出した時、放り捨てずにしっかりと持っていたようである。
土砂降りの中、智子は右手を持ち上げ、そのペンチをじっと見つめていた。
ペンチでやっと切り開いた、苦しみのない世界への入り口にも、結局、背を向けて逃げ出してしまった。
「……あそこにも…………うちの居場所は……無いンかぁ………………」
智子は、ぷっ、と吹き出し、持っていたペンチを近くの草むらへ放り捨てた。
堪らなく可笑しかった。もう、自分の居場所はどこにも、無いのだと気づいたから。
降りしきる雨の冷たさが、少し気持ちよかった。逆上せ上がった頭を冷やすのに充分な冷たさだった。
降りしきる雨の中で、智子は色々と考え始めた。
ずぶぬれになってしまった制服の替えはあったかな。
今日の晩飯はどうしようか。
昨日、塾の帰りに寄ったゲームセンターで取り損ねたUFOキャッチャーのぬいぐるみはまだ残っているかな。
明日、塾で行われる予定の実力テストは、どのへんから出題されるのかな。
実に他愛のない内容。つい先ほどまで、死を図っていた少女とは思えぬ、日常的なありきたりな内容である。
もっと、色々と考えてみた。しかし、というかやはりというか、いづれも智子にはどうでも良いものばかりであった。
そのうち、智子は考えることをやめた。
「…………寒い……なぁ………………?」
全身で浴びている雨の冷たさに、少し不快感を覚え始めたその時だった。
「――――?」
聞き覚えのある声が、智子の背中に届いた。途端に、智子は瞠った。
「――?」
聞き覚えのあるあの声が、もう一度届いた。
同時に、智子の胸が高鳴った。
自分を呼ぶその声に、智子は口元を少し吊り上げた。
照れ臭そうに。嬉しそうに。
「……まだ……うちには在ったな」
「?なんだよ、委員長、はっきり言えよ?」
智子は応える代わりに、振り返ってみせた。
防護フェンスに開けた穴ではなく、きっと自分がいても良い、手に入れられたのかもしれない大切な居場所のほうへ。
了