夏への扉(りーふ図書館ver.) 投稿者:ARM
 長瀬は仕事がら、煙草は余り吸わない。べつに嫌煙主義者と言うわけではなく、眠気覚ましや息
抜きの一服にたしなむ程度だが、研究室で吸うコトはほとんどなかった。

「長瀬ぇ、苛立つのは判るんだけど――灰、落ちるよ」

 机に向かって文庫本を読んでいた新城は、堪りかねて上司である長瀬へ灰皿を突き出すように差
し出した。

「……お前がゆうか……ぶつぶつ」

 長瀬は口元を少しつり上げてみせると、筒先の燻る灰色の欠片を、吸い殻が山盛りとなった灰皿
へ落とした。研究室に勤める技術者の中で一番のヘビースモーカーである新城には、いつも吸い殻
はとっとと片付けるように注意しているのだが、今日ばかりは長瀬も文句は言えなかった。

「……また、ハインラインの読んでいるのか?良くもまぁ飽きないなぁ、俺の記憶が間違えていな
ければ高校の時からだっけ、その……松田聖子の歌のタイトルと同じ……」
「こっちが元ネタだ」
「そう。……しかし、ヒマさえあればその本ばっかり読み返しているよなぁ」
「好きなんだからほっといてくれ。――それよりも、長瀬とは付き合い長いけど、一日で二箱も空
けたのは初めて見たよ」

 言われて、長瀬は自分の机の上に握り潰されて放り捨ててあった「しんせい」のBOXに一瞥を
くれた。新城がパチンコの景品で手に入れたカートンパックから眠気覚まし用に分けて貰ったもの
だった。
 すでに陽は傾き始めていた。長瀬は、あれから結局一睡も出来ぬまま、今に至っている。
 「来栖川電工中央研究所」の第七研究開発室HM開発課に勤める長瀬達が開発した、マルチとい
う愛称を持つ家政婦型ロボットの試作機「HMX−12型」から昨夜、外泊の電話を受けた時、許
可はしたものの長瀬は妙な胸騒ぎを覚えていた。その所為でなかなか寝付けられず、翌朝に恐る恐
る帰ってきたマルチを見て、長瀬はこれが一人娘を持った父親の心境なのかと感心して安堵した。
 だがそれもつかの間のコトであった。長瀬は眠い目を擦りながら当直の新城とともにマルチのボ
ディチェックを行っていた最中、その体内に煙草やモカ以上に強力な『目覚まし』を見つけてしま
ったのが最大の原因であった。

「…………あ゛あ゛?」
「うわぁ、凄い量」
「――な、何、感心しているンだよ!――マルチ!」

 いつもは、どんな事態にも決して動じるコトのなさそうな、のほほんとしている長瀬であるが、
決してすべての事象に達観し尽くしているわけではない。長瀬の血相を変えた顔を初めて見たマル
チは、堪らず怖がって泣き出しそうになった。

「……おいおい」

 手前味噌ながらよく出来たAIだと思っている長瀬ではあるが、この感受性の強さだけはプログ
ラミングに失敗したかな、と後悔していた。

「マルチ、お前…………」

 長瀬はそこまで訊くが、やはりかなりショックだったらしく絶句してしまった。
 実に莫迦莫迦しい質問だ、と長瀬は思いつつ、しかし現実に存在する以上、どうしても認めざる
を得ない事実であった。ややあって長瀬は大きく深呼吸し、重々しく口を開いた。

「……その……だ。お前がお世話になった、っていう学生……」
「……あ、『ご主人様』ですか――!?」

 そこまで言って、マルチは赤面して慌てて口元に両手を持っていった。
 対する長瀬は暫しの間、惚けていた。端から見ていた新城は、みるみるうちに真っ白になる上司
の姿に、肩を震わせながら必死に笑いを堪えていた。

「……ご……ご……ご、ご主人様ぁぁぁっっ?」

 長瀬はどもりながら上半身をメトロノームのように左右に震わせる。この上なく当惑する長瀬の
自律神経は崩壊寸前だった。
 口を餌を求める鯉の如くパクパクさせている長瀬に代わって訊いたのは、新城であった。

「マルチ。いったい……いや、何があったのかは大体察しはつくけど……。その、だ。話していた
例の彼に、レイ――無理矢理、されたのか?」
「――そ、そんなコト、あ、ありませ〜〜〜〜ん!」

 マルチは瞠って立ち上がり、首の内蔵モーターが焼き切れてしまいかねないくらいに、面を横へ
ブルンブルン振って否定した。
 そして、まだ紅色に恥じらう面を俯かせ、

「――わたしが……お願いしました」
「……ふぅん」

 納得する新城の険しさを増した目は、マルチが嘘を言っているのを見抜いていた。
 本来、人間のような生理反応が全くないロボットがする虚言を判別するコトは非常に困難である。
無論、アナライザーを使用することで判別は可能ではあるが、ロボット三原則にならってプログラ
ミングしたコトで自己防衛の範囲での偽証行為を可能としたとはいえ、どだい、昨日今日造られた
学習不足の人工知能に完璧な虚言は無理というもの。ましてや、それがこの人(?)の良いマルチ
なればなおさらである。
 なのに、新城はそれをとがめる気にはなれなかった。


(機械なのに。……タダ、の、ねぇ……)


「……長瀬」
「……何だ?」

 釈然としない面持ちの長瀬は、黄昏色の世界にくわえ煙草で佇む新城の方を見た。

「……どう……思う?」
「どう?――マルチのコトか?」
「それだけじゃない」
「……」

 煙草を吹かせて気楽そうに見える新城も、その実、動揺しているのだと長瀬は気づいていた。

「……長瀬。今回のコト、どう思う?」
「……判らン」

 今の長瀬には、それが精一杯であった。長瀬はやれやれ、と椅子に背もたれしたまま両腕を上げ
て大きく背伸びした。

「新城。マルチは、どうした?」
「充電中」

 そう答えて新城は紫煙を吹いた。霞は溜息を包み込んでいた。

「……新城。俺たちが開発したものは、いったい何だったんだ?」
「メイドロボット。万能電気女中器。――突き詰めれば、家電製品」
「……の、ハズだろ」
「……ああ」

 フィルターだけになっていた煙草を空になった灰皿の底でもみ消す新城の目は、どこか虚ろ気で
あった。

「……俺たちの目指したコンセプトは、誰にでも愛されるメイドロボットのハズ、だったよな」
「……ああ」

 新城が投げやりな口調で頷いてから暫くの間、重苦しい沈黙が研究室内に滞留した。
 やがて、黄昏色が一層赤みを増した頃になって、漸く長瀬が口を開いた。

「……『ご主人様』とやらに逢ってみるか」

 長瀬は釈然としない面持ちでそう呟いた。
 妙に躍る自分の心に戸惑いながらも。



 マルチの活動機能を停止させる日がとうとうやってきた。
 予定より一ヶ月も遅れてしまったのは、来栖川エレクトロニクスへ提出する最終報告書を、急な
仕様変更の所為でまとめるのに手間取ってしまったからだった。
 研究室の自分の席でほっと一息を吐いていた長瀬の顔の横を、コーヒーの芳しい香りがぬぅっと
横切った。

「やっと仕上がったな。ほら、お疲れさん」

 長瀬は新城から差し出されたコーヒーの注がれた紙コップを両手で受け取った。

「サンキュ。……ホント、今回は色々と考えさせられるコトばかりだった」
「……んで。例の件、どうした?」
「書類は提出した。もっとも、事後承認ってヤツになるがな」
「流石だね。長瀬の親父さんの口添えがなかったら無理な話だったけど」
「親父のお陰だけじゃない。……縁(えにし)、と言うヤツのお陰さ」

 長瀬はマルチとあの少年の間に存在した「縁」につくづく感心させられていた。まさか自分の父
親があの少年のコトを知っていて、しかも来栖川グループ会長の美しい令嬢が、あの少年の友人で
あったとは思いもしなかったのである。黒髪の沈黙なる令嬢からの口添えがあって、長瀬がもくろ
んだある計画の実行は果たして絶対的なものになった。

「こうなるのも運命だったのだろう。――さて、行くか」

 長瀬は、にっ、と含み笑いでそう言うと立ち上がり、新城と共に、隣の作業室のベッドに横たわ
るマルチの元へ向かった。
 他の所員達は既に作業室へ集まり、作業室の中央に配置されているベッドに茫洋とした面持ちで
横たわるマルチとの別れの言葉を交わしていた。マルチはやがて入室してきた長瀬と新城の顔を見
るなり、その顔に緊張を走らせた。これでマルチの開発に関わった技術者達は全員揃ったコトになる。

「……マルチ、気分はどうかね?」
「は……はい……少し……怖い……です」

 長瀬の問いに笑みを浮かべて答えるマルチだったが、それは誰の目にも明らかなくらいぎこちな
いものだった。無論、搭載されているAIがなせる擬態行動なのだが、機械にも恐怖感は存在する
のではないかと錯覚しそうなくらい、悲壮な面持ちであった。
 そうか、と長瀬は溜息混じりに言うと、

「別に俺たちはお前を『殺す』わけではない」
「――そ、それは承知しています」

 マルチは目を丸めて慌てた。

「わたしは決して消えませんもの。わたしが活動している間に見聞して覚えた『すべて』は、わた
しの妹たちに引き継がれるのですから。わたしは、わたしの拡散を、とても嬉しく想っています。
わたしの心が、わたしの妹たちの一部となって広がっていく。なんて素晴らしいコトなんでしょう!」

 真摯な面持ちで語るマルチの顔からは、緊張の色がいつの間にか薄らいでいた。

「……そう。あの方を愛したわたしの心が、世界中に広がっていくのですから」

 そう締めるマルチの儚(はかな)げな貌(かお)は、嬉しそうとも寂しそうにもとれるものだった。
 だがマルチは知らなかった。マルチが一生懸命培った「心」が、あの少年と心を通わせた大切な
「心」が、妹たちに全て受け継がれるワケではないコトを。
 黙ってマルチの想いを聞いていた長瀬と新城は、しかしどこか満足げに微笑んで見せた。

「そうだとも。お前の心は、永遠だ」
「……はい」
「ほら、泣かない、泣かない」
「クズ……。すびばせ〜〜ぇん」

 新城はマルチのまなじりに浮かんだ涙を指先で拭ってやった。全身の整備用I/Oポートの全て
を制御用チューブで埋め尽くされているマルチには、もう四肢を動かすコトは無理であった。

「……長瀬主任、新城さん、今まで有り難うございました。わたしを造り出して下さいましたこの
ご恩は決して忘れません。わたし自身はこれで終わりになりますが、妹たちにもきっと受け継がれ
て行くハズです」
「……ああ。そうだな」

 マルチは感慨深げに微笑む長瀬の顔をしばらくじっと見つめて、

「……みなさん……さようなら」
「違うだろ、マルチ」

 涙を堪えて言ったマルチは、長瀬の言葉に一瞬びくっとする。

(……変……どこか……どこかで……聞いたような…………?いえ、そんなハズは……?)

「……お休みなさい、だろ?」
「あ……、はい、お休み……なさい……」

 マルチは長瀬の言葉が持つ意味が妙に気になって仕方なかったが、急速に自分の意識が薄らいで
いくのを実感する今では、いつまでも気にしてはいられなかった。
 やがて、マルチと呼ばれたAIが機能するコトで造り出していた「意識」は、深い澱みの底へ静
かに沈んで行った。決して自力では這い上がるコトが叶わぬその深みは、ブレーカーが落ちたとも
バッテリーが上がったとも違う、昏く深いものであった。

 これが、「シ」なのか。

 違うだろ、マルチ。

 もう存在しないハズの意識の底で、マルチはひどく愛しい声を聞いた気がした。



「……さて、と。あとはあの『ご主人様』次第、と言うワケだ」

 長瀬は研究所の機密保管庫へマルチのボディを収めてほっと息を吐き、廊下の長椅子に腰を下ろ
す。その右横へ、追うように新城が腰を下ろした。
 新城は長瀬の横顔に一瞥をくれた。虚空を見つめる長瀬の顔は、どこか物憂げであった。

「……なぁ。彼、こちらの思惑どおりにのってくれるかね」
「どちらともいえない」
「逢ってきたんだろ?」
「ああ」
「……なら?!」

 新城は嬉しそうな顔で訊くが、しかし長瀬の顔は一層曇った。

「…………しょせん、マルチは機械だ」
「――――?」

 新城は思わず眉をひそめて長瀬を睨んだ。

「……彼がマルチに対する想いは、確かに俺の思っていた通りのものだった。だからこそ、俺はこ
のまま彼がマルチのコトを忘れて欲しいと想っているんだよ。――人と機械の間にある、昏く深い
河にあの二人が飲み込まれる前に」
「……長瀬。お前の『愛』に対する考えはそんなちっぽけなものなのか?」
「やけに突っかかるな」
「当たり前だろ!?」

 新城は振り向きざま、長瀬の右肩を左手で鷲掴みにした。マルチがあの少年を「ご主人様」と呼
んでしまったときの周章狼狽ぶりがまるで嘘のように、不気味なくらい落ち着き払っている長瀬の
態度が、新城にはシャクで堪らなかった。

「忘れたか?いくらコンセプトが家電製品でもだ!――マルチはいわば、我々にとって娘みたいな
もンなんだぜ!機械だろうが、人だろうが、『心』ある者にはみんな幸せになる権利は在るンだよ!
お前、忘れたのか?いままで俺たちが造り上げ世に送ったメイドロボットたちの傷ついた姿を!人
と接するためには俺たちは何が必要か、それを確かめるために、あの娘に『心』を与えたのンだろ
うが!すべてを愛し、そしてすべてに愛されし『心』を!」
「……この世には愛だけじゃ解決できないものが沢山ありすぎる」
「……そんなコトは判っているさ。――だけど、我々の想像を遙かにしのぐ、奇跡のような『想い』
をこう見せられては!」
「奇跡……か。確かに、な。……俺たちはある意味『神』の領域に達してしまったのかも知れない
が、しょせんマルチは生き物のフリをした『機械(どうぐ)』なのだ。もともと会社が要求したコ
トではない。だから、会社は俺たちがマルチの売りにした『心』を不必要のものと見なされてしま
った。これは揺るぎない現実だ」
「…………」

 悔しそうに唇を噛む新城をみて、まだ襟を掴まれたままの長瀬は深く想い溜息を吐いた。

「そして……俺たちが佳かれと思ったものが、結局マルチと彼を苦しめる結果となってしまった。
これは明らかに俺たちの増長がもたらした悲劇だ。――なにより、マルチにはあの少年を継ぐ命を
産み育むコトなど、到底無理なんだよ」
「しかし……なぁ……!」
「人としての幸せを望むのなら、俺は彼にマルチのコトは、タダの美しい想い出にして欲しいと想
っている。――そうしなければ、このめぐり会いはあまりにも残酷すぎる」

 長瀬の言葉はもっともであった。長瀬の襟元を掴む新城の左手からは次第に力が抜けていった。
 やがて右肩から離れたその華奢(きゃしゃ)な左手を、長瀬はゆっくりと右手で包み込むように
やさしく掴んだ。
 にぃ、と、いつものように不敵そうな笑みを浮かべて。

「……だが、な。世の中には救いがたいド阿呆ってヤツ、って居るンだよな。せっかくの俺たちの
老婆心も気にもせず、科学を持ってしても予想し得ないコトをやってのけ、どんな困難でもモノと
もしない、素晴らしいド阿呆が、な」

 微笑んでみせる長瀬に、戸惑っていた新城もつられるように相好を崩した。
 長瀬は掴むその手の薬指に閃く銀色の輪を、自分の親指の腹で撫でて見せた。

「……ド阿呆、か。――佳いな、そんなヤツ」
「俺たちも似たようなモンだがな。ま、いざという時は、俺たちでマルチを引き取ってやればいい
だけのコトさ」
「そんなコトが無いよう、祈りたいな」
「ま、最低限、『両親』としての義務だけは果たしてやろうや」
「両親……か」

 くすっ、と笑う新城の仕草を、長瀬はとても好きだった。せっかく美人女優やモデルに引けを取
らぬ美貌を持ちながら、がさつな男兄弟に囲まれて育ったために、すっかり男口調が染み着いてし
まった婚約者のこんな微笑を見るたび、自分はこの笑みに惚れ……いや、騙されたのだ、とつくづ
く実感するのであった。

「……ところで、珍しいな」
「何が?」
「朝から煙草、吸っていないぞ」
「めでたい時は吸わない主義なんだ。俺たち――」

 そこまで言うと新城は慌てて自分の口を両手で押さえる。マルチのそれに良く似ているのは、マ
ルチのAIが彼女の人格を参考に設計されていた所為でもあった。やがて新城は気恥ずかしそうに
両手を外し、

「……私たちの娘が『夏への扉』を開いた記念すべき日だからな」
「そうか。……安心したよ」
「何が?」
「俺たちの結婚式の時に、ヤニ臭い嫁さんを披露せずに済む」
「……莫迦」

 微笑みを湛えたまま暫し見つめ合う長瀬と新城は、どちらからともなく顔を寄せ合い、やがて静
かに口づけを交わした。

                       了