見知らぬ天井が、正面に広がっていた。 「……ど……こ……だ……ここは?」 白い空間。――思い出した。ここは、人間が築いた建物……薬品の匂い。医療を成すところ。つまり病院の中らしい。 そして今、自分は病室のベッドに横たわっているようである。 ……おかしい。何故、病院にいるのだ? ……いや、まて。そうだ、あたしは……えう゛ぁ……と…… 「おおおお!わが娘よ、よく無事でぇぇぇぇぇ!!父は、父はうれしぃぞぉおおおお!!」 突然、病室に一人の中年男が泣きわめきながら飛び込んできた。そしてこのあたしの身体に抱きついてきた。――人間 風情が、この神聖なる私の身体に!! 「えええええぃっ!うっとぉしぃぃぃ!!!」 一撃だった。中年男はあたしの拳を受けて吹き飛ばされた。……おかしい。あたしが殴れば、人間の身体など光に分解 されてしまうはずなのに……この男はいったい? 「だれだ、てめぇは?!」 「だ……だれって先生……これはいったい……?父なのに……よよよ(泣)」 「一時的な記憶の混乱でしょう。すぐに戻ります」 と、にこやかな顔で応えたのは、父と名乗る中年男の後から扉をくぐってきた白い服の男――医者だった。 「……よかった、あかり。元気そうじゃないですか……」 ――あ・か・り?あたしはあたしをそう呼ぶ女の声に、ぴくり、と反応した。 声が聞こえたほうへ面を向けると、そこには、穏やかな笑みを零している少女が、松葉杖を頼りに立っていた。 あたしはひと目で看破した。――あいつだ! 三界を統べる王を決める闘いが、因果地平の彼方で行われていた。 「あははははっ!エヴァよ、お前とヤるのは100回目だな!もうじき〈審判の日〉が訪れるからな、今日こそは決着を 着けてやるぜ!――冥界の女神、リリスの名にかけてな!」 天を覆い尽さんばかりに大きく広がる闇より黒い漆黒の翼を羽ばたかせた、冥界の女神リリス。 この世ならぬ美貌は妖 しく狂笑に歪んでいた。その美貌に魅入られた者はすべての魂を彼女に捧げても惜しくはないと思うだろう。 リリスが手にしている血色の大鎌に、白く輝く姿が映えていた。 その慈悲に満ちた美貌以外は、リリスとすべて対照的な姿をしていた。白い大きな翼と、七色に煌めく大剣をもつ、天 使という形容が最も適している存在。 エヴァ。神が造りし、最初の人間。すべての人間の根源であり、人間にとって本当の意味での神たる女神である。かつ てその位に相応しくない所業を犯し、夫アダムとともにエデンを追放されていたが、神に匹敵する行為をなし得たこと―― 「ひと」を造り出したコトにより、神から神として認められ、女神の一人として天界に迎えられていた。 「……お言葉を返すようですが……あなたとやり合うのは101回目です」 エヴァは、ぼそり、と呟くように返した。 「う……うるせぇ〜〜〜!あたしはてめぇのそういうところが大キライなんだよっ!!」 赤面するリリスは、こんなツッコミかたをするエヴァが大嫌いだった。 いや、はるか神話の時代より、エヴァはリリスの敵であった。 リリスの夫であるアダムの後妻。そしてあのアダムが楽園を追放される原因となった女。 リリスはアダムの最初の妻であった。しかしリリスはエヴァと違い、アダムの肋骨から産み出されず、アダムと同様、 土塊より神の手によって造り出された存在であった。それ故に、リリスはエヴァに対して優越感を抱いていた。 なのに、神は、リリスを忌むべき失敗作と評して楽園から追放してしまった。そしてその後がまに、エヴァが座ったの である。 挙げ句の果てには、エヴァの失態が原因で、愛しきアダムが楽園から追放されてしまったではないか。 リリスは許せなかった。――何故か神に対して憎悪を抱かず、すべての矛先をエヴァに向けた。 楽園を追放後、リリスは、死せる魂を受け入れる「冥界」を造り出した。リリスは神に匹敵する造界をなし得たのである。 リリスが冥界を造り出した理由は、ただひとつ。 アダム。 「てめぇだけわ、このあたしの手で消し去ってくれるぜぇぇぇぇぇぇっ!!」 リリスは大鎌を振りかぶり、エヴァに向かって突撃した。 エヴァはをそれを大剣で易々と受け止めた。 いつもそう。そして、いつもならここで、二人はぶつかり合う剣の衝撃波に遙か彼方まで吹き飛ばされて、勝負はうや むやになってしまうところだった。 なのに、今回の激突は、二人とも違和感を覚えていた。 まるで見えざる巨大な力が、激突の威力を増幅させているような…… 「「うわぁっっ!!??」」 漆黒と閃光が混ざり合った爆発が、混沌とした時空を激しく揺るがした。 「……くぅ」 リリスは血塗れの身体をゆっくりと起こした。 ここはどこだ?――知っている――人間界だ。場所も判る。曲がりなりにも神の端くれ、人如きが造り出したものなど、 すべて知り尽くしている。20世紀末の東京。海に近い町にある公園だ。 「このあたしとしたコトが……人間界に墜ちてしまうとは……いったい……あの時エヴァとの激突に、誰が余計なコトを したのだ……うぐっ?!」 リリスは両膝を付き、大量の血を吐いた。 「……ま……まじぃ……力が抜けていく……この身体はもうもたねぇ……死せる魂を統べる冥界の王がこのまま死ぬなん てシャレにもならねぇ!――冗談じゃねぇ!エヴァの魂をヤるまでくたばるわけには……」 不意に、リリスの視界に、俯せに倒れている人間の姿を見つけた。 赤みを帯びた栗毛の少女。こちらももう、虫の息だった。 「……巻き添えを食った人間か……フン、運が悪かったな――ぐほっ!」 再び、吐血。 「やべぇ……まぢで……このままじゃ死んじまう…………!しょうがねぇ、この女の身体を使わせてもらう手しかねぇか」 リリスは倒れている少女の頭を掴み上げた。 少女はうわごとのように何かを呟いていた。 切ない声だった。母。父。そして愛する者の名を呟いていたのだ。 「……ろ……き……ちゃん…………」 曖昧に聞こえたその名を耳にしたとき、リリスの全身に電撃が奔った。 「……なんだと……それは…………うぐっ!」 これ以上、時間が無かった。この少女と一刻も早く融合して、魂の死滅だけは免れないと。 「……エヴァ……!てめぇをブチ殺すまでは死なねぇ!!」 憎悪の対象は、あっけなくリリスの前に現れた。 (感じるぞ……ヤツと同じ魂を!!――こいつは、エヴァだ!!面白ぇ!因果地平での決着!今ここでつけてやるぜぇ!!) リリスはやおら立ち上がり、松葉杖の少女に挑みかかってきた。 ところか勢いは最初だけであった。ベッドから飛び起きたリリスは、松葉杖の少女に殴りかかろうとしたが、まったく 力が入らず、そのまま床に倒れ込んでしまったのである。 「な……なんだぁ……?力が出ねぇ……ち……血が足りねぇ…………なんて脆弱なんだ、この身体は……!?」 (無理をしないほうがいい……いくら魂があなたのものでも、身体は人間のものなのだから) それはテレパシーだった。頭の中に直接語りかけてきたのは、正面の松葉杖の少女だった。 (……しかし……貴女も私と同様、人間の身体を借りていたとは……。驚きましたよ) 「てめぇ……」 リリスはぶざまな姿で拳を強く握りしめ、松葉杖の少女を仰いで睨んだ。 「な……なぁ、本当にわからんのかぁ〜〜」 リリスは、父と名乗る――おそらくリリスが奪った肉体の主の父親なのだろう、中年男のおろおろとした声を耳にした。 「目の前にいるのは、お友達の長岡さんなんだぞぉ〜〜」 「にゃにぃ?」 床に俯せになったまま瞠る神岸あかりは、松葉杖をついてにこやかに微笑む長岡志保を呆然と見つめるばかりであった。 * * * * * * * * * * 「それではお父さん、行ってきます」 長岡家の玄関では、慇懃に挨拶して扉をくぐっていく娘の背中を呆然と見送る両親がいた。 「「し……信じられない……!隕石事故の後遺症とはいえ、あの志保がこんなおしとやかに……」」 それと同じ出来事が、遠く離れた神岸家でも起こっていた。ただし、 「どけっ、おやじ!!通学のじゃまだぁっ!!」 娘に足蹴にされ、父親は滝のような涙を流していた。 「じ……事故の後遺症とはいえ、あのおしとやかだったあかりが……」 「くそぉ〜〜ムカつく、この身体じゃエヴァをヤるには力が足りねぇ――。いったいどうすりゃいいんだよぉ……ん?」 こめかみに怒りの四つ角を浮かべて陰々滅々としていたあかりは、高台にある学校へ向かう坂道の途中で、不意に男子 学生に声をかけられた。 「よぉ、あかり。今日から通学か?」 「あん?誰だよ、手前ぇは?」 その返答に、男子学生は一瞬怯むが、すぐに、にっ、と笑い、 「おいおい、まぢかよ、本当に記憶喪失だったとは。……たく。まさか幼なじみの顔まで忘れているとはなぁ」 「幼なじみ?」 「おう。藤田浩之。二度と忘れるなよ」 リリスに匹敵するくらい高慢な口調で、浩之は胸を張って威張った。 不断のリリスなら、ここで浩之に殴りかかるところだが、気分はすっかりブルーだったので手を出すことをやめた。 「まさかセイカクハンテンダケでも食らったんじゃあるまいし……って、まぁ、こーゆーあかりもなかなか新鮮で良い、 うんうん」 「……気安いんだよ」 「ああっ?何か言ったか?」 そういって浩之はあかりの肩を引き寄せた。 (な――?) リリスは慌てて浩之から離れようと思ったが、身体が逆らおうとはしなかった。どうやらこの神岸あかりは、心底この 藤田浩之に逆わない性格の主だったらしい。その記憶が身体に染みつき、リリスの魂でも抗えなかった。 「……お、おい(汗)」 「ふーん。顔が赤いぞ。やっぱりいつものあかりだ」 「な?!」 そういって浩之はあかりを放した。あかりは紅潮している自分の頬をさすりながら動揺していた。 (な――なんだ――なんでリリスであるあたしまで赤面する?――それにこの胸の高鳴りは?) 「神岸さんも今日から登校なのですね」 不意に、二人に声をかけた者が坂の下のほうから近づいてきた。 その声を聞いて、浩之とあかりの表情が見る見るうちに変わる。 浩之は当惑に満ちた相貌へ。あかりは憮然たる相貌へと。 「「……長岡……志保……」」 「おはようございます、二人とも」 そういって志保は、ぺこりとお辞儀する。まるで深窓の令嬢を思わせる優雅な仕草で。 「い……いや……あ……ははは…………」 浩之は乾いた笑顔をつくっていた。 「……どうかしました、藤田くん?」 「――――」 浩之の頭から湯気が吹き出ている。パニックを起こしているらしい。 あたふたしているうち、やがて浩之は志保と向かい合い、その両肩を鷲掴みにして志保の顔をじっと睨んだ。 「――――志保!」 「は、はい」 突然のコトに志保は思わず驚いた。驚く仕草さえ、不断、彼女が口にしている「美少女」という言葉がこの上なく相応 しい可憐さを備えているではないか。 「志保〜〜〜ぉ!お前も隕石事故のショックで人が変わったって聞いていたが…………ここまで変わられるとかえってブ キミだよぉぉぉぉぉぉぉぉ!早く記憶を取り戻してくれよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」 同じように、事故のショックを受けて人が変わってしまったあかりに対するそれとは全く違い、なんとも失礼な言いよ うだろうか。志保に対してフォローする気は毛頭もないらしい。 不断の志保なら、ここでムッとし、お得意の「必殺!志保キッーク」が出るところだろう。 しかし、この志保は、志保ではなかった。 「……済みません。お医者さまがいうには、元に戻るにはしばらくかかりそうだという話で……」 「お医者さまぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?や、やめてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!」 とうとう浩之、恐怖と混乱のあまり泣き出してしまった。 浩之の反応に苦笑しつつ、志保はあかりの動向を静かに窺っていた。 (……リリス) (……エヴァ) じっとにらみ合う、神岸あかりの顔をした冥界の女神リリスと、長岡志保の顔をした聖なる女神エヴァ。 一触即発の状況かに見えた緊迫したその場を打ち破ったのは、パニックを起こしていた浩之だった。 「……はぁ。いったい俺には何がナニやらわからん……そうだ、二人とも、これ見ろよ」 そういって浩之は鞄から幾枚かの写真を取り出した。 「こんなこともあろうかと……アルバムの中から何枚か持ってきたんだ」 どれどれ、とあかりと志保は差し出された写真を受け取った。 そして二人とも、愕然となった。 あかりが受け取った写真には、着物姿や花見で撮った、とてもおしとやかなあかりの姿が。 志保が受け取った写真には、カラオケに興じる、いかにもコギャルしている志保の姿が。 「「なに……この写真は…………??(大汗)」」 聞かれて、浩之は、はあ、と困憊し切った溜息をもらした。 「……それはお前たちの写真だよ。これ見ても思い出せないなんて、そーとー重傷だな……!あーもう、判った!ふたり とも記憶がしっかり戻るまで、キッチリ面倒みてやる!!このままじゃブキミでかなわんからな!!……って、聞いて ないよ二人とも(苦笑)」 リリスとエヴァは、ひたすら写真を見て絶句するばかりだった。 Bパートへ つづく