【承前】
極彩色の世界の中心で、女がひとり切なげに喘いでいた。快楽に高ぶる艶声がやがて獣のような声に変わって絶頂に達したコトを示すと、女の身体は力つきて前に突っ伏した。
ホロン、ホロン…………。
愛しき男の胸に顔を埋めていた女は、いつしか何処からか聞こえてくるオルゴールの音に気づき、まだ快感に紅潮している顔を上げた。
「……オルゴールの音色……素敵」
女は、男の顔を見た。
男は、眠り続けていたままであった。
「……でも、とても哀しい音色。まるで泣いているみたいに。そう聞こえない、長瀬ちゃん?」
瑠璃子の問いかけに、しかし死んだように眠り続ける祐介は何も応えなかった。
瑞穂は、ミスタに拾い上げてもらった、父の形見のオルゴールの蓋を閉じた。
決して鳴らない、オルゴール。
このオルゴールが瑞穂の心に深く刻まれた音色を奏でなくなったのは、香奈子の狂気が始まって数日後のことであった。最初にその事に気づいたその日、どういうわけか瑞穂は、同窓生数名と一緒になって生徒会室で昏倒したまま一晩過ごしていた。母親や学校側から何があったのか、そしてどうしてそんな場所で気絶していたのか問われたが、全員ともまったく憶えがなかった。
なにか、あの晩重大なコトがあったのでは?――しかしいくら考えても何があったのか、瑞穂はまったく思い出せなかった。果ては心療内科の医師の協力を得て催眠逆行まで試みたが、結果は同じであった。
だが瑞穂は、あの晩に起きたであろう覚えのない出来事が、いまもって心の片隅に引っかかって離れようとしなかった。きっと香奈子を狂わせた真相のカギを握る何かがあったのだという確信のない直感をどうしても否定する気にはなれなかったのだ。
あれから10年。真実はいまだ闇の中に眠ったままだが、香奈子の回復には何とか希望の光が見えるようになっていた。
「……どうやら太田さん、落ち着いてきたようです」
椅子に腰掛けていたミスタは、静かに横たわっている香奈子を見て言う。ミスタは病室内のテーブルに置いたトランクケースを開け、中に組み込まれているコンソールパネルを操作していた。
太田香奈子が横たわるベッドの四方に設置された小型のアンテナが、室内を支配している重苦しい雰囲気など気にも留めず、ひたすら職務に忠実になって回転を続けていた。
この奇妙なアンテナは、ミスタが持ってきた、トランクケースに組み込まれている『アンチ素粒子OZ領域発生装置』によって制御されているものだった。この機械こそ、狂気に冒された香奈子を癒す希望なのであった。
やがてミスタは、コンソールパネルに内蔵されている小型STFT液晶パネルに表示された数値を見ると、予想していたものより酷かったためか、その結果に思わず肩を竦めて見せた。
「……ふむ。この室内における素粒子OZの濃度が通常の7倍もある」
「7倍も……!」
「藍原さんもすでに財団のほうから聞いているだろうとは思うが、この西大寺女子大病院の脳神経科病棟は、素粒子OZの影響を最小限に押さえるよう設計されている。そんな状況下で他の病室の7倍の濃度が測定されるのは、明らかに異常だ」
「では……やはり、香奈子は長瀬君が論文で言っていた、あの〈OZP(オゾムパルス)適合者〉なんですか?」
「多分」
瑞穂は困憊しきった溜息を吐いた。
「……自分からオゾムパルスを集めていたのでは、いつまで経っても元に戻らないわけですよね」
「人間の脳波と相対するマイナス波、いわば思考の反物質的存在。それが素粒子OZ。思考が対消滅され続けてしまっては、自我さえ保つことは困難だ」
「でも、それを制御できるのが、〈OZP適合者〉なのですよね……」
ミスタは、そこまで言って急に黙り込んだ瑞穂の顔に過ぎった昏い陰に気づいた。
「……制御のいかんは、素質より当人の精神力次第になる。狂気そのものである素粒子OZを押さえようとする強い意志がなければ、ただ毒電波を浴び続けるばかりになる。なまじ毒電波を集める素質があるばかりに、意志に関係なく、非適合者より毒電波を受信しやすいのは、不幸としか言いようがない」
ミスタはそう言うと、トランクの奥に入っていた、ちょうど煙草の箱と同サイズの小さな白いFRP製の箱を取り出した。
「とにかく、この小型化に成功したオゾムパルスキャンセラーの試作品が今の太田さんの治癒にどれだけ効くか、一度作動させてみないコトには私にもわからない」
「……どうして」
「ん?」
瑞穂は香奈子のほうをじっと見つめ、
「…結局、本人に回復したい、って強い意志が無いとどうにもならないのですよね。……どうして香奈子は、回復を拒否していたのでしょうか」
瑞穂の疑問はもっともである。そしてそれこそがこの10年間、瑞穂が抱き続けていた最大の疑問、あの夜に起きた謎の出来事を解き明かす鍵であると、瑞穂は信じて疑わなかった。
どうして、瑞穂には治りたいという意志が見られなかったのか。わざわざ殻に閉じこもる必要があったのか。
よほど恐い目にあったとしか思えなかった。
(A゛H゛〜〜〜A゛〜〜〜〜A゛A゛A゛A゛A゛〜〜〜〜〜??!!!!!!)
不意に、先ほどのミスタが入室してきたときの香奈子の狂乱ぶりが、瑞穂の脳裏を過ぎった。
(……あれは……まさか?)
瑞穂には、香奈子の反応は、明らかにミスタに原因があるとしか思えなかった。
「とりあえず、素粒子OZが入り込みやすい箇所を測定し、そこへこのフィルターを配置します。一週間ほど様子を見てから、試作された抗素粒子OZキャンセラーリングを太田さんに装着しましょう。よろしいですかな、藍原先生」
「――え?あ、は、はい!」
呆然としていた瑞穂は、ミスタに訊かれて我に返り狼狽した。
あたふたする瑞穂は、やがて自分のほうをじっと見つめるミスタに気づいた。
「……釈然としないのでしよう?」
「へ?」
「……私のことです。――太田さんの狂気の原因が、私にあるのではないのか、と、お思いなのでしょう?」
ミスタは気づいていたのだ。
「……さっき、私がここへ入室した途端、太田さんが苦しみだした。普通に考えれば、あまりにもタイミングが良すぎる――いえ、悪すぎた、というべきか」
ばつが悪そうに言うミスタに、瑞穂はどう応えていいものか迷った。
「――いいでしょう」
「え?」
「……太田さんが苦しんだその理由をお教えします」
「理……由……?」
その時、瑞穂はミスタが口にするコトが何となく判っていた。
「私も〈OZP適合者〉なのです」
予測していたコトとはいえ、瑞穂は思わず絶句する。ミスタは話を続けた。
「昔――」
「……え」
「私はある女性と知り合いました」
「女性……?」
「彼女は、ずうっと私を呼んでいた。私は彼女の呼びかけに応えて、〈OZP適合者〉として覚醒しました」
「覚醒……?」
ミスタがいうその女性の呼びかけとは、単なるアピールなどではなく、超常的なものであると、瑞穂は直感した。能力者同士の感応に、ミスタが応えたのであろう。
「――しかし」
「え?」
「……私は彼女の声に応えきれるコトが出来なかった。そればかりか、私の浅はかな考えの所為で、私は大切なモノを失ってしまった」
表情(かお)を隠す仮面の男が、哀しみを口にした。言葉でしか伺うことの出来ない男の哀しみ。彼が被る仮面は、どれくらい重いものを隠しているのであろうか。
この本を、こころを届けてくれた彼女に捧げる。
不意に、瑞穂の脳裏に、オゾムパルスに関する論文をまとめた本にあった、前書きの文が過ぎった。
著者は、あの長瀬祐介である。
瑞穂は、知らず知らずのうちにミスタの仮面をじっと見つめていた。
(――あなたはもしかして…………)
瑞穂はその名を口にするのが、何故か怖かった。瑞穂は溜まらず俯いた。
2分12秒の沈黙。
「……待っているコトしかできないんです」
瑞穂が、沈黙を儚げな声で破った。
「……医者という仕事は……決められた処方通りにしか動けないんです。……患者が苦しんでいても、決して自分たちの思いつきだけでは行動してはならないんです。患者の大切な命や心を預かる以上、それは破ってはならない鉄則なんです」
「…………」
俯き加減で言う瑞穂は、右手を胸元に止せ、ふぅ、と溜息を吐いた。
「……高校を卒業したとき、医者の道をめざした私に、担任の先生がこう言ってくれました。現代国語しか教えられない畑違いな自分が言うのも何だが、名医と呼ばれる人は、患者の為にたくさん我慢できる医者なんだ、って。たとえ患者が苦しい苦しいといっても、決して安易な道を選んではならない。たくさん我慢して、そして患者が救われる道が切り開かれた瞬間を、決して見逃さない医者になれ、っておっしゃってくれました。……失うものもたくさんあります。それでも我慢しなければならない。…………とても辛いことでした。だから……つい……」
「……長瀬祐介が発見した〈素粒子OZ〉の理論が、太田さんを救う道、ですか」
瑞穂は頷いた。
「……ごめんなさい。……あなたを疑ったりして」
ミスタは首を横に振った。
「いいのです。わたしにも少なからず、太田さんを怯えさせた責任はあるハズです」
「いえ、そんなことは……」
「…………10年間、耐えてきたのでしょう」
「え……?!」
「その10年間の無念が報われる資格は、今の貴女にはある。約束しましょう。長瀬祐介に代わって」
ほろり。瑞穂は涙を零していた。
「……はい」
「藍原先生、ですか?」
瑞穂が嬉し泣きしていた丁度その頃、一階のフロアをカルテを抱えて歩いていたインターンの富田は、ひとりの来客に尊敬する意志の所在を訊かれていた。
奇妙な女性であった。
歳は、20代前半ぐらいか。肩まで掛かる長くつややかな黒髪を冠する彼女は、一見、古風でおしとやかそうに見える。だがその一方で、熱情的なモノをわざと押さえているような、どこか高圧的な印象も伺える。口にはしなかったが、もしかすると二重人格の気があるのでは、とさえ富田は思った。勤めている場所が場所だけに、そう言う手合いはだいたい判るのだ。とはいえ、医者の卵風情が浅い経験だけの感想でどうこういえる自信もなく、瑞穂に会いに来たというその奇妙な女性をフロアで待つよう言うと、フロアの奥にある窓口の内線電話を使って、瑞穂のいる3017号室に内線電話をかけた。
プルルルル、プルルルルルルル…………!
瑞穂は、突然呼び出しベルが鳴った内線電話の受話器を上げた。
「――あ、はい、3017号室。……は?あ、はい、こちらに……ミスタさん、柳川という方からお電話が」
「柳川さん?済まない」
ミスタは瑞穂から受話器を受け取った。
「はい、私です」
『――祐介のほうか』
「……はい」
ミスタは目線で瑞穂の顔を伺いながら応えた。
『……気を付けろ。エルクゥ波動がそちらのほうから強く感じられる』
「――EI−01ですか?!」
『俺もそちらへ向かっている。俺がいた来栖川電工第2研跡地は直ぐ近くだから、まもなく到着できるだろう。しのぶを回しておけ』
するとミスタの口元が上を向き、
「しのぶは賢しい娘です。異常を察知すれば、もう動いていますよ」
「……あれぇ、おかしいなぁ、話し中……あ?あのぉ!?」
富田は、待っているよう言っていたあの女が病院の奥へ歩き出したのに驚き、受話器をおろして女を呼び止めようとした。
しかし女は富田の声をまったく無視して通路を進んでいく。慌てる富田は女の後を追いかけ、その肩を掴んだ。
掴んだ瞬間、富田の三半規管が混乱した。視覚さえも。通路の床に付いていたハズの両足は何故か天井を向き――富田は投げ飛ばされていたのだ。富田の身体は、運悪くそこにあった天井の蛍光灯に激突して粉砕し、血塗れになって床に落ちた身体にガラス片が降り注がれる。その光景を見た、フロアに居合わせていた看護婦や患者たちが悲鳴を上げた。
フロアの異常に気づいた警備員たちが躍り出る。事態を目撃していた看護婦の指示で、警備員たちは警棒を取りだし恐慌を引き起こした女を囲んだ。
「何モンだ、貴様!」
警備員のひとりが女に警棒を向けた。しかし女は包囲に物怖じせず、まるで警備員の存在など空気に等しいが如く平然と進み始めた。
見守っていた者たちは、即座に警備員が女を押さえつけるものだと思っていた。ところが、警備員たちは微動だにせず、包囲網から男が抜け出していくではないか。
驚いた看護婦の一人が警備員の元へ駆け寄った。すると、警備員全員、身体を凝結させたままけらけら笑っていたのだ。あまりの不謹慎ぶりに看護婦が怒って警備員の一人の肩を掴んだ。
その途端、警備員たちは途端に口から血の泡を吹き出し、ばたばたと倒れていったのである。看護婦はたまらず悲鳴を上げようとした。しかし何故かこころの恐怖心とは正反対に自分も大声を上げて笑い出し、そこで意識がブツン、と消えた。看護婦を見ていた者は、彼女も血の泡を吹いてその場に卒倒するのを目撃する。全員、舌を噛んで死んでいたのだ。それが不慮の事故でないコトを物語るものは、驚いて駆け寄った看護婦の一人が、倒れた警備員の一人を抱き起こしたとき、その唇の隙間からずるりとこぼれ落ちたものが、あきらかにかみ切ったのではなく、ぐちゃぐちゃになるまでかみ千切られた、舌であった朱い肉塊であった。
後方の恐慌を背に、女は通路を進むが、そこへ白い鍔広帽とワンピース姿の少女が立ちはだかった。
「……EI−01。まさか女だったとは思わなかったわ」
少女は白い帽子とワンピースをはぎ取り、メイド服のような紫色の戦闘スーツを露わにした。MMM諜報部所属の勇者メイドロボット、しのぶである。
「……このあいだは影武者で誤魔化されましたが、今日はそうはいかないわ。ここで決着をつけます!」
(Aパート終了:速射破壊砲に代わってフェイスマスクと、右腕にショットフリーザーガン(冷凍銃)を装備したMMM−SDQ−R01FZ『アルトFZ』映像とスペック表がリストされる。)