彼方を巣喰いたい 投稿者:里茄野のわく
 彼方には、自分を危険にさらしてでも助けたい人が
 いるだろうか?
 その人を不幸から救えるなら、自分はどんな犠牲になっても構わないと思える人が、
 いるだろうか?
 
 
 『彼方を巣喰いたい』      里茄野のわく
 
 
 梓はやはり、と顔をしかめ、そして続けた。
「だめだ!! そりゃ助かるかもしれないけど……助からないかもしれないんだぞ!?」
 楓ちゃんはちいさく、俺を見ていた。
「解ってる。 でもこのままいつ目を覚ますかも分からないのに放っておけるかよ!!
 見ろよ!! 幸せそうに見えるか!? 初音ちゃん、幸せそうに見えるかよ!?」
 俺は感情的に腕を振り下げた。
 その向こうに……まるで人形のように眠る、初音ちゃんがいた。
 うう、とちいさな呻きが聞こえ、
 そして千鶴さんが俯き、両手で顔を伏せた。
 もう何日もちゃんと寝ていないだろう、彼女の肌には、疲れの色が浮き出ていた。
「俺……助けに行くよ」
 その声が 静かに病室に響いた。
 ……そして梓はまた俺を見上げて 言った。
 両目からぽろぽろと涙がこぼれ落ち、出来ない笑顔をつくり、枯れた涙声で。
「あんたまで帰ってこなかったら……私絶対……許さないんだからね…………」
 そして力が抜けたように梓は、俺のシャツを握って泣き伏せた。
 楓ちゃんはじっと がまんしていた。
 千鶴さんは可哀想で 見れなかった。
 
 
 
 雅史はやはり、と顔をしかめ、そして続けた。
「ダメだよ!! 深層心理は人を飲むんだよ!? 下手したら浩之もあかりちゃんみたいに
 眠り続けることになるんだよ!? それでも…」
「いいんだ」
 俺が言い切る。雅史はクッ、と唇をかんだ。
 そして重く、空気が止まった。
 志保は俯いたまま、何も言わなかった。
 あかりがこうなってしまったことで一番ショックを受けているのは、本当はこいつかもしれない。
 昨日も、もう少し志保の気持ちも考えてやれば良かった。
 悪い、と、心の中で呟いた。
 あかりは カーテンの隙間から漏れた光を身にまとい、
 緩やかな吐息は 今にも目を擦って起き上がりそうなほど、やさしく、温かく。
 しかし決して、あかりは目を覚まさなかった。
 静かにリズムを刻む電子音だけが……彼女の生を告げていた。
 俺はあかりの方を向き、二人に背を向けたまま言った。
「志保……」
 両手の拳が震えた。
「絶対こいつ 起こしてやるからな」
 押し殺すような泣き声が聞こえ、壁を擦って志保がしゃがみ込むのが解った。
 ぺたりぺたりと、スリッパが鳴った。雅史が優しく志保の名を呼んだ。
「雅史……
 …………まさ…し…」
 拳の震えは抑えきれなくなり、目頭が……熱く潤んだ。喉が詰まって……言葉が出なかった。
「あかりちゃん……きっと浩之のこと待ってるよ」
 雅史、
 本当にいいやつだと 思った。
 
 
 
「よかった……初音ちゃん……ほんっと……」
 目が覚め、状況が理解できた次の瞬間には、俺は初音ちゃんを強く抱きしめていた。
「おにいちゃん……おにいちゃん……」
 初音ちゃんはとてもあたたかかった。
 千鶴さんは、まるで行方不明の娘が怪我ひとつせず見つかったかのように泣きじゃくって初音ちゃんを抱いた。
 鼻をすすった梓は、またいつもの初音ちゃんのお姉さんに戻っていた。
 楓ちゃんは、久しぶりの笑顔を見せてくれた。
 またいつもの柏木家が戻ってくると思うと、嬉しくって、
 初音ちゃんの見てる前ではじめて……泣いた。
 
 ――耕一おにいちゃん……私ね、とってもいい夢みてたんだよ?
 ――ああ 俺も見たよ? その夢…………
 
 
 
 雅史が走って玄関のドアを開けると、
 そこには赤いスポーツカーと、久しぶりの志保が立っていた。
 
「こっち(日本)に帰ってきてたんなら連絡くれればよかったのに」
「あー、御免ね、急なオフだったから」
 そう言いながら志保がショートケーキの入った可愛らしい箱を取り出すと、
 雅史はお茶を持ってきた。
「それにしても志保、頑張ってるよね」
 テーブルに向かい合わせに座った雅史がケーキを口にしながら言った。
「ま、ね! 志保ちゃん テレビ映りもいいから」
 そう言って笑う彼女は紛れもなく志保だと、雅史は思った。
「で……さぁ、」
 志保も雅史も 解っていた。
 「浩之とあかりちゃんのことだね?」
 少しでも志保の負担を減らそうと、先に雅史が口にした。
「う、うん。 ……で、やっぱり……変化……ないの?」
 少し小声だった。
「変化ないっていうか……」
 ケーキが皿の上でぺたり、と横に倒れた。
「最近は逆にひどくなっちゃってて……
 もだえるん……だよ!! 毎日毎日ベットの上でさぁ!!!
 浩之、『いぬぅーいぬぅー!!』って!! あんまりひどいから両手両足くくり付けられてさ、
 それでもベットがくんがくん揺らしてうなされてるんだよ!!!
 それに…それに…あ、あ、謝るんだよ!!!
 御免よ御免よ!! って毎夜毎夜何十回も何百回も謝るんだ!!
 ごんごんごんごんやってぶしゅーぶしゅー額から血ぃ吹き出しちゃって
 もう汗なんかだくだくかいちゃってソレ混ざっちゃったりして 横見たらあかりちゃんは寝ながらクスクス笑ってるし
 僕、僕、もうどうしたらいいか分かんなくってさぁ!!!
 浩之が可哀想で可哀想でさぁ!!! でも何もしてあげられなくって僕、僕……
 う…う…うぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!」
 志保は我慢できず立ち上がり、雅史の頭を抱きかかえて言った。
 
 ――雅史は頑張ったよ……
 ――落ち着いたら……病院…二人のとこ、行ってみよ?
 
 しかし、志保が泣かずに二人の様子を見ることが出来るようになるには、
 精神安定剤と、
 三日間の期間が必要だったという。

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