鬼狩人 第四話 『命尽きるまで』  投稿者:山浦


 ごうごうという音を立てて風が吹く。
…………寒いなぁ。
 そんなことを考えながら懐に手を伸ばす。煙草が吸いたい気分だった。
…………あちゃー。
 煙草はべっとりと濡れている。これじゃ火はつかない。まいったな。こんな時は煙草を
銜えてニヒルに笑うのが筋なんだがなぁ…………。
 俺の正面に立つ少女が独り言のように言う。
「……どうしました?」
 ああ、煙草が吸えそうもないんだ。まいったよなぁ。
「…………いいです、話さなくても。では……」
 一方的に言って少女は去っていった。
…………俺一人を残して。
 しばらくして、遠くから何かが落下する音が響いた。ちょうど、少女が行った先だ。
「逃がしてしまった。まいったな、これは……」
 そんな声が、聞こえる。
…………そうか、柳川は逃げ延びたか……。
「それならばまずお姉さま方に逢うことにしましょう。大丈夫、かの鬼は逃げること叶い
ませぬ」
…………済まない、柳川。お前が言っていたことは頭にあったんだが……お前さんの変わ
り様があんまりだったんでなぁ……。
「ところで、長瀬殿は?」
……まあ、謝っても仕方ないな。俺はお前を信じられなかったんだ。
「……いってしまわれました……」
……でもな、お前も悪いぞ。何かあったら俺に言えよ。俺は上司だぞ。それともそんなに
頼りないか? 俺は。
「……そうか……できれば誤解を解いておきたかったんだが…………」
…………まってろよ、柳川。いま、援軍を呼んでやるからな。
 懐のピッチを出して……ああ、なんでこんな取りにくい…………ああ、やっと取れた。
で、短縮ダイヤルだったな……えーっと、何番だっけか?
……ああ、電話帳の三番に入ってたな。老化現象だな。すぐ物忘れをしやがる。
 呼び出し音が響き出す。こいつが繋がりゃ相手が鬼だろうがなんだろうが…………。
……ああ、なにやってんだよ。いつになったら出るんだよ、まったく……。これだから…
…ああ、寒いな。体がどんどん冷えてくる。そりゃそうか、腹に大穴空いてんだもんなぁ。
そりゃ涼しいって。
……いい加減出ろよ…………ああ、もう指先の感覚がねえ。下手すりゃ凍傷になるぞ、こ
りゃ…………。
りりりりりり、りりりりりりりり、りりりりりりりりり…………がちゃ。
「はい」
……へへ、かかった……これで……もう…………おれの……は…………。

――――そして―――
――――俺の意識は――――
――――闇に呑まれて……消えた――――

――――永劫に――――


	鬼狩人 第四話	『命尽きるまで』


「…………何の用だ?」
 柳川は、裸体を隠そうともせず言った。姿は、既に狩猟者から人間のそれに変じている。
だが、その周囲にはいまだ剣呑な気配を漂わせている。もしかしたら本気で怒っているの
かもしれない。
「……何の用だって!? そりゃないでしょ!」
 梓も負けてはいない。柳川を真っ向から見据えて口を尖らせる。朝とは違い、その目に
は一寸の迷いもおびえも見当たらない。どこかで何かを吹っ切ってきたのだろう。
「アタシだって柏木の血を継いでるんだから。絶対柳川さんの役に立つよ!」
 にっこり。屈託のない笑みを浮かべる梓。思わず柳川が従いたくなるような笑みだ。
「しかしな……こうなった以上、はっきり言ってお前は足手まといにしかならん。さっさ
と避難してこい」
 ぶっきらぼうに柳川は言う。だが、その顔には多分に照れが含まれている。あんな笑顔
を見せられて殺気立っていられる人間もおるまい。柳川もそうだった。
「だからさ、盾ぐらいの役には立つよ。連れてった方が特だって、絶対」
「あずさ! 盾になるなんて事を軽々しく言うんじゃない!」
 柳川は声を荒げる。簡単に死ぬような事を言った梓がなぜか許せなかった。
(…………いや、許せぬのは私自身か?)
 梓が言ったことを柳川も考えた。『梓を盾にすれば耕一の動きを止めることができる』
と、それを見透かされた気がした。そして何よりそんなことを考えた自分を許せなかった。
「……でも……」
「でもじゃない! お前が死んだらお前の家族に、お前の友達に何て言い訳する? 残さ
れた者の辛さを知らないからそんなことを…………」
「…………知ってる……知ってるよ。親しい人間が死んじゃう悲しさってのはね。……だ
って、父さんも、おじさんも…………鬼になっちゃたからさ…………鬼になって……死ん
じゃったからね…………」
 柳川を迎えたときと変わらずほほえんで梓は答えた。その声が、肩が、躰が、わずかに
ふるえている。まるで、何かが吹き出してくるのを押さえる様に。
「でも…………それでも……アタシは柳川さんといたい。誰に迷惑かけてもいい。誰が苦
しんでもいい。アタシは……アタシは柳川さんといられればいい!」
 その言葉を彼女は押さえてい感情はこれだったのかもしれない。別の何かかもしれない。
それは柳川には分からなかったが、一つだけ分かったことがある。
「……梓……」
 彼女は…………本気だ。決して退くことはない。
(…………梓を止めるか? それとも…………)
 柳川は迷った。梓を止めるとしたら一つだけ手段がある。しかしそれは確実に彼女を失
うことになるだろう。
 失うくらいならいっそと言う気持ちもある。
 例えこの手になくとも生きていてくれさえすればという気持ちもある。
(どうすべきだ? …………いや、どうしたいのだ!? 私は)
 一度頭を巡らし、二つ深呼吸してから柳川は覚悟を決めた。どちらでも同じなら、例え
恨まれてもいい…………。
「梓、お前は思い違いを…………いや、私はお前を騙している」
「耕一のこと? それとも……」
 少しだけ不安げに見上げる梓の顔を見て、逆に柳川の覚悟が固まった。狩猟者らしくな
い感情に従って言葉を続ける。
「多分両方だな。私は……お前達の言いようでは『鬼に支配された』者だ。常に何かを狩
る欲求に駆られる。生ある物を殺し、新鮮な血肉をすすり、いい女を犯す。そんな欲求が
常に頭のどこかにある。私は、鬼なんだ。お前に近づいたのも邪魔な柏木耕一を狩るため
なんだ。だから……」
「だから……なに?」
 薄く微笑んでから梓は柳川に問う。もう、震えは止まっていた。そして、全ての迷いが
晴れたように、覚悟を決めたように、晴れやかな顔を梓はしていた。
「柳川さん……柳川さんが鬼ならアタシも鬼だよ。おんなじ……だね」
「梓! 私はそういう事を言っている訳では…………」
「だから、分かってるって。柳川さんは鬼で、人を殺すことも、罪を犯す事も何とも思わ
ないんだよね。耕一を助けてくれるって最初は言ってたけどあれも嘘なんでしょ? 知っ
てたよ」
 少し意地悪げに梓は言う。柳川の狼狽する様がそんなに楽しいらしい。
「……いつから……だ?」
「…………多分、最初に逢ったときから……なーんて言ったら格好いいんだけどねぇ……
分かったのは今朝かな? 昨日とか千鶴姉と話しているときと少し、言ってること違うん
だもん。少し慎重になれば気づくよ、いくらアタシだってね」
「……そうか……それで、私を殺すか? お前を裏切った私を」
 言いながら、柳川は自分の言葉に現実感を感じなかった。まるであらかじめ与えられた
台詞に従って話しているような……まるで芝居……いや、何かの儀式をしているかのよう
な気がした。
「まさか? そんなんだったらここまで来ないよ。ほっとけば耕一がやってくれるもん。
アタシがここに来たのは、アタシが、柳川さんを好きだから。そんだけだよ」
「梓、俺は鬼なんだぞ! お前、自分の言っていることが分かっていないだろう!?」
「……あ……」
 本気で怒る柳川だったが、梓はそれを無視して、目を輝かせて柳川に寄ってくる。まる
で、宝物を見つけた子供だ。
「柳川さん、今自分のこと”俺”って言った。ホントの一人称はそれなのかな? もしか
して。なんか……嬉しいな」
「あずさ!」
「だ〜か〜ら〜。あたしゃ本気だってば。今だってどんどん柳川さんのこと好きになって
るんだよ。柳川さんが怒った顔も、悩んだ顔も、優しい顔も、ホントは自分のも事”俺”
って言うのも、見た目より筋肉質だっていうのも、水色ストライプのエプロンつけてるっ
て言うのも…………鬼だってのだって。一つ柳川さんを知るごとに柳川さんのこと好きに
なる。それじゃ、いけない?」
 もう、梓に迷いはなかった。矢継ぎ早に告げると、柳川の胸に飛び込んだ。そして、柳
川を見上げるようにして、ゆっくりと瞳を閉じる。
「梓……いいのか?」
「覚悟はできてる。へへ、鬼の夫婦だね、アタシたち……なんかいいかも」
「…………馬鹿者…………」
 ややあきれた風情で柳川は梓を抱き寄せ。唇を梓の額に重ねた。
「あ……ちょ、ちょっとー! こういう時は唇にキス……ってなに? どこ行くの一
体!?」
 そして、梓から離れる。かなり本気で怒って追う梓。
「梓、しばらくそこに居ろ。俺の話が終わってから、来い。自分の意志でな。俺は引き留
めも追い払いもしない」
 柳川は寝室にいた。彼の性格を思わせるように皺一つないベッドの上に腰掛けて。
「俺は狩猟者だ。誰にそう言われた訳でもないがな。
 獲物を追い、それを狩る。そのために生きる類の生き物だ。もちろん、何人もの人間を
殺した。さらって犯した女も数知れない。いくつかの『お気に入り』で、生きている者は
隣の……貴之の部屋に監禁してある。
「元々、柏木耕一のやることをとやかく言う気は毛頭なかった。狩り場が重なったことも
まあ、大した問題ではない。それなりに上手く住み分けていた……少なくとも俺はそのつ
もりだった。
「だが、奴は明らかにやりすぎた。ああまで無分別に来られれば『国家の威信』って奴が
動く。そうなれば俺の身すら危うくなりかねない。だから、狩ることにした。自分のため
に、な。そのためにお前らに接触した、裏でいろいろ手を打った。
「……署で虐殺をやったのも俺だ。人間を一カ所に”避難”させておいて柏木耕一をおび
き出すつもりだった。最悪、勝ち目がなくとも後の始末は自衛隊がやってくれる。俺は身
を隠せばいい。そのつもりだった……いや、今でもそのつもりだ」
 一気に告げ、柳川は大きく息を吐き、吸う。そして十秒ばかりの沈黙の後に、言った。
「…………どうする? 梓」
 試すように梓を見る。だが、その必要すらないことは、二人とも分かっている。そう、
これは儀式なのだ。人間・柏木梓を一個の鬼に変えるための。
「……アタシさ。柳川さんが鬼だってホントに分かったの、実は柳川さんが今朝出てった
後なんだ。柳川さん、言ったよね『仲間が死んだ』って…………」
「演技だがな」
「もう! まじめに聞いてよね! ……でね、アタシ思ったんだ。もし、耕一が誰かアタ
シの親しい人……たとえば陸上部の後輩とか……を殺したら許せるだろうかって。………
…許せるはずないよ。でも、アタシそんなこと一度も考えなかった。あの時まで、アタシ
は耕一が元に戻って、楓も戻ってきて…………柳川さんがいて。それでめでたしめでたし
だと思ってた。耕一に殺された人のことなんて考えてもいなかった……」
 きゅっ、と梓は拳を握りしめる。まるで、そうすることで最後の残ったヒトとしての澱
を絞り出せると信じるように。
「アタシだけじゃない。楓も、初音も、ちっともそんなこと考えたりしなかった! みん
な、自分の都合しか見てなかった! 千鶴姉だけだよ……耕一の罪に正面から向かってい
ったのは…………アタシ達……結局、みんな鬼なんだ……ってそのとき分かった。人間な
のは千鶴姉だけなんだって…………」
「……だから、鬼になるか?」
「うん。もしも柳川さんが人間なら人間になるけどね」
「主体性がないな」
「うん。馬鹿な女子高生だしぃ、アタシィ」
「…………そうか…………。
 来い、抱いてやる。お前は俺の……狩猟者の花嫁だ」
 柳川は手をさしのべて梓を招き、梓は吸い寄せられるようにそれに従った。
「うん。アタシを、花嫁にして」
 外から響く豪雨の音。そして、地上では避難する住民の喧噪が今だ響いている。我先に
と他人を押しのけ、争い、傷つけあい、生き残ろうとする。
 その音だけが、この祝福されざる花嫁を祝っていた。
――破瓜の激痛と悦楽を共にして。


――梓は行ってしまった――
『……次、会うときは敵同士だね』
 ほほえみすら浮かべて言う妹を、千鶴は止める事はできなかった。
…………少なくとも、梓は柏木の血の呪縛から解放された……例えそれが鬼に堕ちること
であろうとも……千鶴は、そう考える事にした。
「梓……例えあなたが鬼に堕ちても……姉さんはあなたの幸せを願ってる…………」
 何が正しいのか、もはや分からなかった。人が死にすぎた。悲しみが多すぎた。苦しみ
が多すぎた。幾度と無く浸かった絶望の沼の中では、ニンゲンの理性など、塵芥に等しい
ことを千鶴は知っていた。
 梓は、その中で”愛情”を選んだ。それは、思いこみかもしれない。妄想かもしれない。
しかし、確かにそれは彼女の中にある慈しむ心の発露だった。
 そして梓はそれに従った…………それだけだ。
 ともすれば、ニンゲンのため……いや、”柏木の家”のため、従兄弟すら殺そうとした
我が身が、遙かに鬼と呼ぶにふさわしいように千鶴には感じられた。
「……おねえちゃん。千鶴お姉ちゃん! ちょっと大変だよ! はやくはやく!!」
「? 何、初音。どうしたの?」
 珍しく声を上げる初音の声がようやく千鶴の意識を現実に戻した。梓を見送ってからか
なりの時間が過ぎたようだ。時刻は既に夕刻を指している。
 千鶴は少し頼りない足取りで立ち上がり、初音が騒ぐ玄関口に歩を進めた。
「……どうしたの一体? あんまり騒いじゃご近所に迷惑……よ……?」
「……ただいま、ねえさま……」
 そこには、三人の人間がいた。一人は柏木初音、末の妹。一人は柏木楓、連れ去られた
彼女の妹…………そして。
「耕ちゃん!! 生きて!? …………なんで? そんな…………」
 柏木耕一、彼女の従兄弟。鬼に堕ち、二度と出会うはずのない人…………それがそこに
いた。いなくなる前と少しも変わらず。
「ホント、びっくりしちゃったよ……あ、こんなところで立ち話もないよね。上がろうよ」
 初音がうきうきとした声で二人を招き入れる。
「ああ、つもる話もある。遠慮なく上がらせてもらおうか」
 だが、違和感があった。千鶴のなかの何かが危険を訴えていた。そして、千鶴はそれに
従って生きてきた。
「……耕一さん。一つだけ、教えて下さい」
 問う。彼が、柏木耕一であることを願って。
「なんだい?」
 鷹揚な態度で答える”耕一”それが、よけいに千鶴を不安にさせる。
「…………あなたは……何者ですか?」
「ねえさま!?」
「千鶴お姉ちゃん! なんでそんな事を……」
「楓、初音も、黙っていなさい。……耕一さん、あなたはあなたが柏木耕一本人だと言い
切れますか? 答えて下さい!」
――――ひゅうううううう――――
 鬼気が千鶴を中心にして渦を巻き始める。言葉の裏にわずかでも偽りを感じたら、その
場で耕一の命を絶つ。そのつもりだった。
…………しかし…………
「ふむ。……まあ、リズエルにはわかるか。確かに、俺は”柏木耕一”ではもはやない」
 あっさりと”耕一”は認める。千鶴の殺意などまるで意に介さずに。
「俺は次郎衛門だ。”耕一”の意識は心の深くに沈んでいるか、あるいは鬼に呑まれたか
……まあ、ここにいる俺が本当の”俺”なんだ。大した問題はなかろう?」
 次郎衛門はそう言って微笑んだ。人好きのする笑い顔。その言葉に何の悪意も無いこと
を証明している…………だからこそ!
――――しゃああああああ!
 だからこそ。千鶴は無言のまま爪を振った。極限に張りつめた緊張が吹き出す先を求め
て弾けただけかもしれない。彼の言葉に針の先ほどの偽りも悪意もないだろう。しかし、
それ故に許せる言葉ではなかった。
 気付いたときには次郎衛門の喉笛に爪を立てている……千鶴自身、そこまでは無意識だ
った……そして、手を退くにはあまりに遅すぎた。
 真っ赤な鮮血が吹き出るのを、肉を切り裂く鈍い感覚を、愛しい人間を殺すと言う事実
をなぜか期待しながら、千鶴は目を瞑る。
「危ないな。どうした? 何か気に障ることでも言ったか?」
 しかし、その期待はのんびりとした声によって裏切られることになった。明らかに避け
得ない一撃を、次郎衛門はたやすくその手に収めていたのだ。
「ねえさま!」
 にわかに殺気立つ楓……エディフェル……を留め、次郎衛門は静かに千鶴に向かう。
「よせ、エディフェル。リズエルにも理由があろう。そうだな? リズエル」
 だが、その声は届かない。ただ、千鶴は呟きを返す。
「……えして…………」
 限界、だった。……ずっと心の底に溜めていた「何か」を、千鶴はもう押さえることは
できなかった。血を吐くように、心の澱を吐き出すように、千鶴は叫んだ。
「返して! 耕ちゃんを! 耕ちゃんを帰してよ!! 今すぐ! 返して! 返して
よ!!」
「だから俺はここに……」
「あなたは耕ちゃんじゃないじゃない!! 返してよ! 耕ちゃんを!」
 千鶴が赤子のように泣き、叫ぶ。そんな姉の姿を初音もそしてエディフェルですら見た
ことは無かった。
 彼女たちの『姉』はいつでも張りつめていた。周囲に常に気を使い、時に一個の指導者
として。時に優しい母、姉として。完璧な存在であろうとしてきた……いや、求められ、
応えることを余儀なくされてきた。
「……ねえさま……」
「わたしは、リズエルなんかじゃ無い! 柏木千鶴。ずっと、これまでも、これからもず
っと…………わたしはあなたなんて知らない! 次郎衛門なんて会ったこともない!」
「……千鶴お姉ちゃん……」
「耕ちゃんを返して! 返してよ!!」
「……リズエル…………いや、チヅル。…………まはやそれは叶わぬ。俺が目覚めた以上、
偽りの我が身”柏木耕一”は消え去るのが定め……」
 言葉が絶望的に発せられ、そして消え去った。
 ぽかん、と千鶴はその言葉を聞いていた。表情はあるようでない。目は焦点を失い、痴
呆のように口を半ばまで開いて一切の動きを拒絶する。
「しかしな、融け落ちた”柏木耕一”は俺の一部に…………」
「…………ろし…………ひとごろし…………」
 ちいさな 千鶴の呟きが次郎衛門の耳に入ったその瞬間である。
――ひゅおん!――
 短い風切り音。そして、斬撃。その早さは先の比では無い。
「くぉ!」
「次郎衛門様!」
「千鶴お姉ちゃん!?」
 加えて、至近距離であること、さらに次郎衛門の油断も重なった。だくだくと、次郎衛
門の腹から血流が吹き出す。それを、無表情に千鶴は見下ろす。
「……おに……ひとごろしのおに……こうちゃんをころしたおに……おじさまをころした
おに……とうさんをころしたおに…………おに…………おには………ころす……」
 無心に、謡うように千鶴は呟く。殺気すら彼女にはない。ただ、彼女に課せられた業だ
けが、そこにはいた。
――ひゅう――
 唐突に、千鶴が動いた。何の予備動作もなかった。地を這うように千鶴が跳ぶ。そう見
えたその時には既に爪を振るっていた。
――しゃあああああ――
 再び鮮血が迸った。次郎衛門の胸から溢れるように血が飛び散る。位置は過たず心臓の
上。その事実が明らかな殺意を示す。
「チヅル! 何故!?」
「……ころす……ひとごろしのおにはころす……」
 返り血の涙を頬に伝わせて千鶴は謡う。そして再び、よどんだ鏡のような瞳を次郎衛門
に向けた。
「やめて! 千鶴お姉ちゃんやめて!」
「次郎衛門様! 戦って下さい! ねえさまは……悲しいけど、ねえさまはこうなる運命
だったのです!」
――――ひゅうううううううう――――
 かくん
 壊れた人形のように千鶴は躰を傾げた。その瞬間、疾風と化して次郎衛門を襲う!
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 応えるように次郎衛門は刀を抜く。
――――ひゅおおおおおおおおおおおお――――
――――ざざざざざざざざざざざざざざ――――
 二つの疾風が重なり合おうとしたまさにその瞬間。
――ぐぉん――
 両者の間を「何か」が駆け抜ける。鉄筋が、どこからか投げつけられたらしい鉄筋が壁
を突き抜け、両者の間にまで達し、そして廊下の壁に突き刺さった。同時に強烈な鬼気が
叩き付けられる。
「なんだと!?」
 次郎衛門はそれに反応し、一歩退いた。そして、千鶴は一顧だにしなかった。それが、
生死の一線となった。
 壁に突き刺さる鉄筋が影となって千鶴の動きは次郎衛門から隠された。そして、千鶴の
姿を次郎衛門が見たその時はもう、遅すぎた。
――しゃあああああ!!――
 次郎衛門に視界に千鶴が入った時、既に彼女は次郎衛門の足下にうずくまるようにして
いた。そして、引き絞られた弓を放つように、千鶴は全身を一条の矢と変え、全ての力を
撃ち放った。
――――ぐさ――――
 千鶴の爪が突き上げられ、次郎衛門の喉笛を貫く。千鶴と耕一、二人が信じられないと
言ったように顔を見合わせた。エディフェルが呆然として膝をつく。初音目を伏せる。
 スローモーションのような時間の中。ひゅぅ、と空気が漏れるだけ音がやけにはっきり
響いていた。
――――ぶしゅううううううううう!――――
 刹那の後、噴水のように血が噴き上がる。そうしてようやく時間が流れ出す。
「…………う……そ?」
 エディフェルが絶望的に呟く。そして、次郎衛門の、最強の鬼の身体が力無く項垂れ、
二度と動かなくなる…………彼女にとってはありえない……想像すら出来ない光景だっ
た。何者よりも強いはずの次郎衛門が、もう、二度と、動く事がない。そんなこと、あり
えるはずが…………。
「…………楓…………」
 次郎衛門を殺した”狩人”が迫る。感情無く、ただエルクゥを狩る機械。姉がまるで遠
い宇宙の果てから来たモノのように見えた。
「楓。血の……ヒトの血のにおいがするわ。あなたから」
 室内着を真紅のまだらに染め、千鶴は妹を追いつめる。表情はない。感情などいらない。
心が痛いから、こころなんていらない。持って生まれた宿業は、そうしてでも守らなくて
はいけない事だから。
「…………ねえさま……私……は、ただ……ただ幸せに……こんどこそ…………」
 千鶴は、無表情のまま爪を振り上げ。
「――――次になさい――――」
 妹の命を刈り取った。涙は、浮かんでこなかった。


――――快楽とはなにか?――――
 梓を組み伏せるようにした抱きながら柳川は考えていた。今、自分が感じているもの、
これは愛と言う感情だ、異論はない。そして同時に快楽でもある。しかもこの上ない快楽
だ。初めて狩りをしたとき……小出由美子を襲ったとき……時よりも、どんな女を抱いた
時よりも、どんな獲物を狩った時よりも、遙かに巨大な快楽を与えてくれる。巨大で、優
しい快楽だ。
「……くぁ……ぁながわさん…………ちょ、いた…………」
「ああ、強かったか……これでどうだ?」
「ん……気持ちいぃよ……」
 たとえばこれだ。『梓を気遣う』これだけで柳川の心に「何か」が染みわたる。とても
心地よいなにかだ。たぶん、これが愛とか恋とか言われるものの正体だろう。
(……なるほど。だからこそ、ヒトは恋し、愛し合うのか…………この快楽のために)
 梓の艶やかな唇に舌を這わせ、微笑みをあわせる。
「梓、鬼を裏切った娘の気持ちがわかった」
「んふぅ……どんな感じ?」
「全世界を敵に回しても、お前を手放したくない」
 だから、彼女は鬼を裏切った…………ただ、それだけにすぎない。
――――しゃああああああ!
「はっ!!」
「千鶴姉!?」
 突如、強烈な鬼気が放たれた。場所は鶴来屋。数は一つ……いや、ふたつ。
「柏木千鶴……それに柏木耕一か…………」
「そうみたい。でも……無茶だよ千鶴姉。耕一と正面からやり合うなんて!」
 すぐに、ベッドから下りる。行為の最中だったが、こうなってしまっては仕方ない。情
事を邪魔された恨みは柏木耕一に向けることにしようと、柳川は心に決めた。
「梓、手伝え……やれやれ、住み慣れたいい部屋だったんだがなぁ」
 ぼやきながら柳川は壁に向かう。口調が何となく長瀬を思わせる…………長く行動を共
にしたせいだろうか?…………梓としては非常にやめてもらいたい所ではあるが。
「…………なにしてるの!? 早く助けにいかないと…………」
「今から行ったところで確実に間にあわん。奴の注意を引きつける。上手くすれば千鶴か
ら引き離せるかもしれない」
 そういって、柳川は正面の壁に拳を打ち付ける。びし! と言う破壊音。そして容易く
コンクリートの壁に穴が開く。
「…………どうするの?」
「鉄筋を投げてやる…………たしかこの辺に埋まってる筈……ああ、あった。梓、そっち
側をもう少し掘ってくれ…………ああ、そんなものだ。よし、ひっぺがす。せえの!」
 ばりばりと言う破壊音が暫し轟く。二人の鬼の力にかかっては、鉄筋を掘り出すことな
ど砂場の棒きれを拾うのに等しい。たやすく柳川の身長を数倍する鉄筋が姿を現した。
「お前はもう少し鉄筋を用意していろ」
 梓に指示して柳川は窓から嵐やまぬ空へと飛び出す。その身は既に鬼のそれに変じてい
た。鉄筋を担いだまま一跳びで屋上に達する。それから一つ二つビルを移動する……柏木
耕一がやってきた時、梓を戦いに巻き込まないためだ。
「……方角はあちらだな…………いくか」
 全身の筋肉がみちみちと音を立てて引き絞られる。身体に降りかかった雨が熱気に曝さ
れ白い湯気に変わる。握った部分の鉄筋が、握力に耐えきれずひしゃげる。地面を掴む足
がびしびしとコンクリートを握り潰してゆく。
「つぉおおおおおおおおおおおおお!!」
――――ごぉぅん――――
 轟音が響いた。鉄筋の槍は轟音を立てながら嵐を切り裂き、見る見る小さくなる。そし
て、遙か向こうの鶴来屋に吸い込まれていった。
…………っか…………
 小さく、「槍」が目標に到達する音が聞こえた。それを確認してから、挑発的に鬼気を
……主に情事の邪魔をされた恨みを込めて……放出する。
 それを合図にするかの如く、二つの鬼気がぶつかり合い。刹那の後には勝負はついた。
「…………情念の差……だな」
 生き残ったのは業に縛られた女の思念。当然と言えば当然の結末だ。しかし、これから
どうなるか……彼女がどうするか……は、まるで分からない。
 戦いか?
 共存か?
……それとも……?
 柳川は、心に浮かぶ不安をかき消すように首を振り、その身を人のものに変じた。もは
や戦う必要はない。そう願いたかった。梓のために…………。


 その時、初音には呆然と事態を見送ることしかできなかった。
 一番上の姉、柏木千鶴はただ、呆然と荒れ狂う空を眺めていた。血染めの室内着に虚ろ
な瞳。口の中で何かを呟き続ける姉の姿はそら恐ろしくもあり、奇妙に美しくもあった。
 正面には従兄弟の耕一が倒れている。その近くには姉である楓も同様にいる。二人とも、
二度と動くことはない…………時が経てば、腐敗し、虫が湧く、ただの肉の塊。ふたりは
そんなものになってしまった。ついさっきまで、ふつうに話していた二人が。ちゃんと生
きていた二人が…………もう、ただの肉の塊…………。
 それが初音には信じられない。
 死とは、これほどまでにむごたらしいものだったのだろうか?
 死とは、これほどまでに汚らしいものだったのだろうか?
…………自分がかつて辿ったはずの死というものが…………
 初音には、信じることができなかった。
 ただ、呆然と事態を見送ることしかできなかった。
 全てが静止したような世界の中、ただ見ていることしかできなかった。
――ぴく――
 どれくらいの時が流れたか、突如として静止した世界に動きが戻った。虚ろに漂ってい
た千鶴の視線が、ある一点に集約する……標的を、その目に捕らえたのだ。
「……ふふふ……」
 千鶴が笑みを漏らす。家に辿り着いた迷子のように、無垢に、嬉しげに、笑みを漏らす。
――ひょおおおおおお――
 跳ぶ。見るものがいたなら天女の舞と思ったかもしれない。降りしきる豪雨の中、血染
めの天女が空を舞う。妙に絵画的な光景があった。芸術家志望の人間が見ていたのなら、
一世一代の作品を創り出せたかもしれない…………しかし、そこに芸術家はいない。ただ、
鬼が一匹待っているのみ。
「……来たか……」
 来てしまったかというニュアンスを含めて柳川は吐き捨てた。その姿は人のものだった
が、すでに平穏に済ませることは絶望しているのが、口調からわかる。
「……ふふふ……」
 千鶴は笑う。顔立ちは、安らかですらあった。しかし、穏やかな視線の奥には静かに、
そして確かに狂気の光が息づいている。
――ヒュゥゥゥゥゥゥゥ――
 そして、千鶴が動いた。ぎくしゃくとしたバネ仕掛けの玩具のような動き。しかし、そ
れは同時に神速の域にある。柳川の目を持ってしても、その姿を捕らえることは難しい。
――ひゅおん――
 それが、空を斬った。両者の距離は十数メートル、千鶴が攻撃する前と大差ない。避け
たのではない。柳川が間合いをはずしたのだ。
(…………さて、どうする?…………)
 距離をとりながら柳川は考える。全力で戦えば、おそらくは勝つだろう。しかし、それ
で何になる? ここで、柏木千鶴を殺したところで柳川を利するものはない。そして、彼
女を殺せば、確実に梓という存在を失う。
(殺すことは出来ず、さりとて手を抜いて勝てる相手でもない…………勝ち目は薄いぞ、
柳川裕也!)
 再び、千鶴が身体を傾げる。一切の防御を捨てたまさに死人の攻撃。いつまでもかわす
ことは出来まい…………柳川は覚悟を決めた。
――――ぐるぅぅぅぅぅ――――
 柳川の身体が肥大化する。みるみる爪は剣と化し、身体の質量が急激に増大する。そし
て、人にあらざる化け物がそこに現れた瞬間、千鶴が疾風と化した。
――しゃああああああ、しゃ、しゃ、じゃああああああ――
 空気を切り裂きながら、千鶴は幾度と無く爪を奮う。全て、一撃でもまともに当たれば
柳川とて命はない必殺の一撃である。それを柳川は受け、かわし、流す。未だ、一撃たり
とも反撃はしない。
「裕也! 千鶴姉殺したら承知しないぞ!!」
 どこからか、そんな声が飛んでくるのを柳川は聞いた。戦いに梓が気付いたのだろう。
「……無理を言う…………」
 苦笑しながら柳川は千鶴に背を向ける……体制を立て直すため一時逃げようとしたのだ
が……その時、空を飛ぶ何かが視界に引っかかった。
「…………自衛隊機!? 馬鹿な!!」
 自衛隊の輸送ヘリが間抜けな姿をさらしつつ空を這っている。思った以上に動きの遅い
それを狩ることは容易いだろう……それが一機であるのならば…………。
「馬鹿な!? 何故もう? なぜ…………」
 ヘリの数は十数機。それだけではない、地には蟻のように兵士が展開を開始している。
それら全ての視線の先、そこにいるものは…………。
(…………俺、か…………)
 柳川は確信した。最悪の事態が訪れたことを。


 人間の身体ってのは結構簡単に壊れるもんだけど、信念のない人間の心ってのはもっと
簡単に折れる…………なーんて事を覚えるほど殺伐とした日々をアタシは送っている。
「早く話した方がいいよ。ウチの人、気が短いことで有名だから」
 でも、結構充実……って言うと誤解されそうだけど、まあ、ふつーにやってる。原因は
一つ、惚れた男が横にいるから。だからよっぽどなことでも幸せなんだわ。
…………まあ、あんな事さえなきゃもうちょい、いい生活も出来たんだけどねぇ…………。
「ひ、ひぃぃぃぃぃ」
 どこの誰だか知らないけど、政府に圧力かけた人がいたらしくって、自衛隊があり得な
いほど早く動いちゃったもんだからさーたいへん。アタシらの正体、大バレかましてアタ
シら追われる立場になっちゃったのよね。
「だ〜か〜ら〜さ〜。びびってるヒマあるならさっさと話しなって」
 でまあ、それ自体はともかく、可哀相なのは初音なんだよね。言われない差別とか受け
かねないからって建前で自衛隊に連れてかれちゃって…………。
「は、話す! 話すから…………」
…………だから、今から助けに行くよ、初音。
 原因作った奴が言うなって話はあるけど、自衛隊のモルモットよか絶対マシ。
「裕也、初音のいるとこ分かったよ」
「そうか。なら、行くとしよう。……それより、あまり無茶はするなよ梓。お前は身重な
んだからな」
 えっへっへ、実はアタシの中には子供がいる。できればこの子には幸せになってもらい
たいなとか思うけど、そのためにもアタシはここで退く気はない。なめられたままじゃ、
この子の未来は暗いと思うから。
……でも、不安が無い訳じゃない。
 最近、よく夢を見る。裕也も見るって言っていた。
…………とても悲しく、切ない夢を…………
								   ――終――