鬼狩人 第三話『雨、降りやまず』  投稿者:山浦


<あらすじ>
 楓BAD END後日談。
楓の思いも空しく鬼になり果てた柏木耕一。
狩猟者として完全な覚醒を迎えた柳川裕也。隆山の街に二体の”鬼”が潜む。
 耕一の凶行に危機感を覚えた柳川は、耕一を狩るべく柏木梓と接触、信頼を取り付ける。
一方、楓の言葉に悩まされる耕一は楓を拉致、陵辱する。しかしその際、楓と交感。耕一
は次郎衛門としての記憶を取り戻したのだった。
 その間にも、柳川は耕一を狩るための準備を進める。そして、自らの職場でもある警察
署を血に染めながら柳川はうそぶくのだった。
「狩りの時間が始まった」と……。

	鬼狩人 第三話『雨、降りやまず』


――夢――
 夢を見る。
 暖かい縁側で祖父の昔話に耳を傾ける夢だ。
「ってわけで次郎衛門は雨月の山の鬼を退治したんだ」
「鬼っていっぱいいたんでしょ? すごいねー次郎衛門って」
 祖父も、アタシも次郎衛門の話が一番好きだった。顔を会わせるたびに飽きもせず同じ
話をしていたものだ。
「おおともよ、雲霞のごとく襲いかかってくる鬼をこんな風に千切っては投げ、千切って
は投げってな」
 まるで見てきたように祖父は言う。いつもこんな風に話す祖父だったが、次郎衛門の話
の時は特にそうだったような気がする。
「最後に残ったのが鬼の大将ダリエリって奴だ。こいつがまぁた嫌味な奴で……」
「……おじいちゃん、それよりも次郎衛門とリネットはそのあとどうなったの?」
 初音だ。この子は昔からリネットびいきだった。アタシと楓、それに初音の三人で「次
郎衛門ごっこ」をやるときは、必ずリネット役をやりたがったもんだ。
「もちろん幸せに暮らしたさ」
「……それじゃエディフェルはどうなっちゃうの?」
 楓はエディフェルびいき。アタシはいつも次郎衛門役……アタシだって女の子なんだけ
どなぁ……そうだ! 耕一が今度来たら次郎衛門役をやらせよう。で、アタシはエディフ
ェル。楓には悪いけど、いつも好きな役をやってるんだからたまにはいいよね。
「……エディフェルが死んじゃったから? リネットはエディフェルの代わりなの?」
 ふたりとも変なところを気にする。鬼退治が終われば「めでたしめでたし」で終わりに
決まってるのに。
 それに、祖父もその話になると複雑そうな顔をする。祖父のこの顔を、アタシは好きで
はなかった。さっさとそんな話しはやめにしたい。
「そうだな……それはお前達が大人になれば分かることだよ」
 祖父はいつものように、そういってアタシ達の頭を撫でてくれる。はいはい、こんな話
はこれで終わり!
「そんなことより次郎衛門ごっこやろう! 楓、早くしないとエディフェル役取っちゃう
よ!」
「……梓ねえさん、ずるい……」
――――そんな、夢だった――――

「梓おねえちゃん! 起きて!!」
 夢うつつの中で梓は初音の声を聞いた。慌てているようでもある、焦っているようでも
ある、泣いているようでもある。
(なに、初音? どーかした? リネット役は取らないから安心して……って、そりゃ夢
の話しか。まったく、昨日初音があんなこと言いだすから……)
「梓お姉ちゃん! 大変だよ! 起きてよ!!」
 初音にそう急かされて、梓はのろのろと起きあがろうとする、しかし、それより早く。
「おい、そっちを持て」
(男の人の声? だれ!? 足立さんじゃない、耕一のはずない……まさか!?)
 慌てて身を起こす……のと同時に布団がひっくり返された。見事に一回転して梓は寝室
の畳に頭からつっこむ。
「……大丈夫……かな……?」
「警察学校ではいつもこうしていたが死んだ者はいない。起きろ、梓」
 ぶっきらぼうな印象を与えるこの口調を、梓が間違える訳はなかった。
「や、やながわさん!? え、あう? ええ!? ……そのあのこ、これは……ち、違う
のよ!」
 がば! と、布団から這い出して梓が叫ぶ……もっとも、何が「違う」のか自分でも訳
が分からなかったが。
「何がどう違うのだ、一体? まあいい。さっさと来い、話がある」
 苦笑しながら柳川は引っ張るように梓を寝室から連れだした。
 なされるがままそれに従う梓。ふと、部屋を見回して少し戸惑う。いつもと違う風景。
そう、ここは鶴来屋の一室。いつもの我が家は……もう存在しない。
 隣の部屋にはすでに千鶴が座っていた。テーブルには朝食。向かいのテレビはついたま
まである。
「あれ? どうしたの千鶴姉。食事中にテレビつけてるなんて…………」
 しかし、千鶴は無言のままテレビに見入っている。千鶴に代わって、テレビが梓の疑問
に答えた。
『隆山市警察署での警察官の大量虐殺事件の続報です……』
 けだるい朝の空気は瞬時に消え去った。
「……なによ……これ!?」
 画面の向こう側は嵐だった。大粒の雨が容赦なく報道陣に、庁舎に、砕かれ崩れ落ちた
瓦礫に降り注ぐ。そして、その雨ですら瓦礫の所々にこびりついた赤黒いシミを洗い流す
には至らない。
 報道管制でも敷かれているのだろう。死体や死に直結するような映像は大映しにされて
いないが、画面の端はしに死の匂いが漂う。まさに地獄絵図。まるで、まだ夢の中にいる
ような……悪夢の中にいるような……風景だった。
「見ての通りだ。やってくれたな……耕一くんも…………」
「……やながわ……さん?」
 柳川の目に殺気が澱んでいる。いや、そうではない。そんな生やさしい代物ではない。
それはまさしく「鬼気」。そう呼ぶ以外に言いようのない空気を柳川は纏っていた。形こ
そ「柳川裕也」のままだったが、梓の知りうる誰よりも鬼を思わせる存在が、そこにはい
た。
「署長が警察庁に支援要請を出した。遅くとも今日中には住民の避難誘導が始まる。それ
から、臨時国会が召集されて自衛隊の出動が要請される……」
「……どれくらいで、ですか?」
 千鶴の顔も硬直している。来るべき時が来たことを彼女も悟ったのだろう。
「……三週間……だな、早くて」
 頬を引きつらせて柳川は苦笑する。だが、嘲笑と呼んだ方が相応しいようだった。梓の
知る「柳川さん」とはかけ離れたモノに見えた。
「そんなにかかるの?」
 驚いた様に初音が柳川に聞く。意識しての事かもしれないが、昨日よりはるかに親しげ
にしている。それが、梓には信じられない。
「ああ、今の総理大臣にも防衛庁にも独断で自衛隊を動かそうと思う人間はいない。臨時
国会の議決に基づいて……という大義名分がないと何も出来ぬ連中だからな。…………議
員の召集に三日。書類、文書の作成に二日。与党内の折衝に一週間……さらに野党との折
衝、周辺他国への事情説明、アメリカの御機嫌伺い、自衛隊の編成、作戦発案、軍事行動
に関しての補給やらなんやらの各企業の同調協議……つまりは談合……ざっと上げただけ
でもこれだけある。一ヶ月でも早すぎると私は思うね」
 喋り方だけは鷹揚に話し続ける柳川。しかし、一言発する度にヒトの皮が引きちぎれて
行くようにも見える。その奥に鬼である彼の”本性”が見え隠れする。そんな印象を梓は
抱いていた。
「ぜんぶ一緒にやるってことはできないの?」
「それが出来るほど官僚が優秀で働き者なら、こうも不況は続かんよ。まあ、官僚の質の
低さを議論している場合ではないな。問題は、この隆山がこれから数週間、無人になると
言うことだ」
「……どうするのです?」
 千鶴が問う。知らず、握りしめていた手はびっしょりと汗をかいていた。緊張か、恐怖
か。その正体は知らなかったが、千鶴はそれを受け入れることにした。……あの、身を切
られるような孤独感よりは、遙かにましだと思った。
「彼を殺す」
 柳川の口調だけは変わらない。きっと、「飯を食おう」と言っても、恋を囁いても、同
じ調子で言っただろう。
「そんな? なんで? どうして!?」
 梓は、何に対して言っただろうか。それは、自分でも分からない。「なぜ」耕一を殺す
のか。「なぜ」耕一があんな事をしたのか。「なぜ」柳川がこんなにも恐ろしいのか。
『……わたし、柳川さん怖い……』
 昨日の初音の声が蘇る。初音は、敏感にこれを感じ取っていたのかもしれない。
「………すまない、梓」
 ふ、と。空気がゆるんだ。
「昨日はあんな事を言ったが……こればかりはどうにもならない」
 いつのまにか、鬼気は霧散していた……全てが夢だったかのように。柳川が、薄く笑っ
て梓を見る。先程とは違う優しい目だ。
「…………どうしても、耕一を殺さなきゃダメなの?」
「……ああ……」
「どうして?」
「…………仲間が、死んだ」
 一言。たった一言だったが、梓は何も言えなかった。それは、重すぎる言葉だった。
「…………それで、私たちに出来ることは……」
 千鶴が問う。まるで、沈黙を恐れるように。
「ああ、君たちは……私の住所は渡したな? そこに阿部貴之という男がいる。彼を頼み
たい。軽度の精神症のため鬱状態にあるから、抵抗もしないはずだ。車につめこんでくれ
れば問題ない。あとは、非難警報が発令されたら誘導に従って非難してくれればいい。耕
一くんは私一人でなんとかする」
「そんな! 柳川さん一人に任せるなんて!」
「耕一くんのことを考えての事なら君たちの助けも借りるさ。だが、これは私事だ。彼を
殺すために、私は私の意志で残る。君たちが関与する事ではない」
 ぴしゃり、と反論を退けるように柳川は言った。
――ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ――
 その時、柳川の懐から電子音が響いた。
「はい、柳川です……ああ、長瀬さん。避難勧告が出たのですか? ……え? 柏木耕一
が? はい、分かりました。すぐ向かいます」
 ピ、と柳川はPHSを切った。そして、手早く身支度を整える。
「呼び出しがかかったよ。時間を考えれば多分もう来られないだろう。貴之のことは任せ
た。元気で……な」
「いま、柏木耕一って……」
 背を向ける柳川に梓が問う。本当は、振り向いて欲しかった。もう一度、顔を見たいと
思った。耕一のことは……どうでもいいはずはないけど……柳川はそれ以上に大切だと梓
は思った。
「ああ、長瀬さんが耕一くんを発見したらしい……じゃあ、運が良かったらまた会おう」
「柳川さん!!」
 だが結局、彼は振り向くことすらしなかった。


「変わらぬな、ここだけは」
 ごうごうと音を立てながらうねる鎮守の森を眺めながら、青年は呟いた。長身で筋肉質
な体躯に無精ひげを生やかした精悍な顔。そして、長大な刀を抜き身のまま肩に担いでいる。
 見ていると、ふと『ますらを』という言葉を思わせる。そんな風体の青年だった。
「……はい……」
 その脇には小柄な少女。艶やかな黒髪と日本人形のように整った顔立ちが目を引く。少
女は柏木楓、青年は柏木耕一。そう呼ばれていた者たちだ。
 二人とも格好におかしな所はない。体にあったTシャツにズボン、装飾品の類は、耕一
の持つ日本刀を除いてない。しかし、何かが奇妙だった。少なくとも、今までの彼らでは
有り得なかった。言葉には言い表せない、身に纏う空気の中になにか異質な匂いが混じっ
ている。そんな違和感を漂わせていた。
 二人は吹き抜ける嵐の中、傘も差さず九鬼神社の石段を下っていく。にも関わらす、雨
が彼らを濡らすことはない。耕一の担ぐ刀が、雨から身を守る助けになるとは思えないの
だが…………。
「しかし、数百年でここまで変わろうもとはな。凄まじきは人間だな」
「……それでも……変わらぬものはあります」
「ああ、そうだな。例えば……」
「例えば?」
 楓が嬉しげに身を乗り出す。甘える子猫を思わせる仕草だった。
「……あの宮司のようにな。見たかあの顔、俺が刀を任せた時と同じ顔をしていたぞ」
 おどけて言う耕一に楓はむくれた顔を返す。
「……酷いです……」
「はっはっはっ冗談だ、許せよ。しかし、あの時使った刀がまだ遺されていたとはな思わ
なんだ。歴代の宮司に感謝せねばなるまい」
「……柏木の一族が保護していました……」
 きゅっ、と楓は耕一に身を寄せた。生と死を隔てて再び巡り会った愛しきものを二度と
離さぬように。
 そのために、二人は九鬼神社を訪れた。かつて、次郎衛門が鬼と戦うために用いた剱を
再び手にするために……この、雨月の地に跋扈する鬼を狩るために。
「しかし、ヨウフクと言うものは着にくいな。身にまとわりついてくる。これでは立ち回
りが出来ぬではないか」
 耕一はそんなことを言いながら自分の襟を引っ張る。どうやら、シャツの襟が首に掛か
るのが気になるらしい。現代に生まれ育った耕一とは思えない仕草だ……いや、すでに彼
は”柏木耕一”ではない。次郎衛門なのだ。
 それを見てエディフェル……彼女もまた、既に”柏木楓”ではない……は微笑む。本当
に幸せそうな微笑みだった。
「……浴衣を……用立てます……」
 エディフェルは、生を受けてから最高の幸福の中にいた。”鬼”に中では絶対に得るこ
との出来ない優しい幸福。それが、何より心地よかった。
「ああ、今生ではアズエルやリズエルとも争わずいられるのだ。姉妹四人、幸せに暮らす
ことが出来るな」
「……わたしは……あなたがいれば……」
「照れることを言うな。……それに、幸福は多い方がいいに決まっているだろう。俺がい
て姉妹仲良く暮らせる。それならばいいだろう? …………そのためにも」
 急に、次郎衛門の目が鋭くなった。先程までの優しげなものは影を潜め、『いくさびと』
の顔が顔を覗かせる。だが、それは凶暴性を感じさせるものではない。愛しきものを守る
ための「鋭い優しさ」とでも言ったところか。
「……鬼は……狩らなくてはいけません」
「やれやれ、今生でも鬼狩りの宿運から逃れられぬか。まあ、牙無き民を守るは益荒男の
務め。喜んで戦おう」
「お気をつけて……もう、待ちたくはありませんから」
「おや? 俺があの程度の鬼に敗れるとも?」
「……いいえ。鬼にかまけて私を忘れないで欲しいだけ……」
 気楽な感すらある”鬼退治”だった。……確かに、雨月山の鬼……つまりエルクゥ……
全てを敵に回すよりは遙かに気楽であろうが。
 そんな事をいいながら二人は進む。周囲はいつの間にやら参道を抜け、隆山の町並みに
入っていた。
「あー、そこの君たち」
 そんなとき、二人の背後から声がした。見ると、中年の男が雨合羽から窮屈そうに長い
顔を覗かせている。言わずと知れるが、長瀬警部だ。相変わらす体裁の上がらぬ風を装っ
ている彼であったが、その奥にある鋭さを次郎衛門は一目で感じ取った。
「なにか?」
 それでも、表情に変わった風はない。それもそのはず、生きてきた年月が根本的に違う
のだ。この程度の事、隠し通すなど彼にはたやすい事だった。
「…………あのさ、けーさつ舐めてるとか?」
 はぁ、と溜め息をつきながら長瀬は言った。まるで遊び相手が急にいなくなった子供の
ようにも見える。
「いや? 舐めてはいないが……おお! その顔は!」
 次郎衛門は長瀬の顔を見ながら何かに思い至ったように声を上げる。
「私の顔になにかついてるか? ……まあいい。柏木耕一、銃刀法違反の現行犯だ、つい
てきなさい。県警庁舎が無くなったって警察機構ってのは機能してるってわからないか?
……それで、なにか言うことは?」
「はっはっは。貴殿にうり二つな人間を知っているぞ、私は。いやはや、よほど濃い血を
持った一族なのだろうな…………とと、そんなことを言っておる場合ではないな。貴殿が
官憲の者であることは分かった。しかし、俺がなにか法を侵したのか? そもそも銃刀法
とはなんだ?」
 これほども長瀬の言うことを聞いていないような次郎衛門に長瀬はことさら顔をしかま
せて言う。奇妙に演技じみた態度ではある。
「……民間の武装を禁じた法です。この方はおそらく、次郎衛門様の『鬼断ち』を咎めて
いるのでしょう」
 次郎衛門の剱『鬼断ち』を見上げながらエディフェルが言う。たしかに、2m近い日
本刀を抜き身で担いでいて咎められないはずはない。当然の話だ。子供でも知っている。
現代の人間であるなら。
(……しかしなぁ……)
「なんと、そうだったか。……しかし、武装が出来ぬとなれば、民草はどの様に身を守る
のだ?」
「この時代の官憲は優秀です。夜盗山賊の類が跋扈する余地はもはや無いのです」
「……ふむ……しかし、鬼の前では無力、か」
「対策がなされておりませんでしたから。鬼に対して彼らが無力なのは今に始まったこと
ではありませぬ」
 長瀬を無視して二人は『分からない話』を始める。鬼、この時代、『鬼断ち』……まる
で遙か過去から迷い込んできた人間のような物言いをする。
「ま、まて。何を言っているんだね、君たちは。さっぱり分からないが……」
「うむ、そうだな。……それでは自己紹介とでも行こう。俺は次郎衛門。「雨月の山の鬼
退治」と言えば知られていると思うが。そして、こっちはエディフェル。俺の連れ合いだ。
貴殿は?」
 さらに、訳の分からないことを言い出す。
(次郎衛門? エディフェル? なんだそりゃ? 雨月山の鬼退治の話なら聞いたことは
あるが……何を言っているんだ? この男は。行方不明の間に何があった?)
「貴殿は!?」
 少し強く、次郎衛門が言った。つられたのか、長瀬は警察手帳を懐から出して言う。
「私は長瀬源三郎、警部だ。ここしばらく起こっている連続殺人事件を追っているんだが
ねえ。君の周囲で事が起こりすぎるん……」
 無理矢理いつものペースに持っていこうとする長瀬であったが、それもさっさと遮られ
る。
「それぞまさしく鬼の所行。長瀬殿、俺とエディフェルはそれを為したものを狩る事が使
命なのです。官憲であると言うなら話は早い。力になっていただきたい!」
(…………やりにくいなぁ。この男)
 いつもは他人が長瀬に抱いている印象を、今回に限っては長瀬自身が抱くことになった。
長瀬にとっては初めての経験と言える。
「頼みたいというのは他でもない…… 」
「いや、それ以前に君は重要参考人で……」
「鬼を退治すれば万事丸く収まる。そのために貴殿らに助けを求めたいと言うのだ」
(……鬼……ね)
 話を聞く様子もない”次郎衛門”に長瀬は内心舌打ちする。やり方を変える必要があり
そうだ。
「なんだい、その鬼ってのは」
「鬼は鬼だ。雨月山に潜んでいたやつばらの末裔よ。もっとも、俺とて鬼の力は有してお
るが……」
「鬼の力?」
  とりあえず、話したいようにさせて情報を得ようとした長瀬だったが、話が妙な方向
に進みつつある。
「うむ、鬼の力だ。遙か雲間まで跳躍したり、”風”を自在に操ったり、無双の力を奮っ
たりできる、な。現に我らはこの嵐の中、これほども濡れておらぬだろう? 傘も差さず
におるのにな。”風”で身を覆っているのだよ」
 すこし得意げに次郎衛門は言う。
(”風”? 鬼の力? 訳の分からないことを……いや待て。彼らは確かに……)
 そう、少しも濡れてはいない。雨は夜半ほど酷くはないとはいえ、大降りの部類に入る。
雨合羽を着込んだ長瀬のスーツにも雨は浸食してきている。にもかかわらず、彼らの周囲
だけはまるで別世界のように雨が避けて行く。
「……まさか……」
「『まさか』とはないだろう目の前で起きている事を。信じられぬと言うなら他にもみせ
るが……」
 明らかに嘘をついている様子はない。いや、それ以前に嘘や冗談で雨は避けてくれない
だろう。それに、長瀬は感じていた。
……彼らを中心に風が吹き出して来ている……
「……いや、いい。信じよう。……それで、なんだっけか?」
 そんなことを言いながら、長瀬は忙しく頭を働かせていた。
(鬼の力だと? よし、認めよう。目の前にあるんだ。何かの”力”を柏木耕一は持って
いる。それで……これが事件解決の糸口になるのか? それ以前にそのことに何の意味が
ある? このヤマはすぐに俺の手から離れる。こいつは自衛隊の仕事だ。俺のやっている
ことに意味は…………はっ!)
 その時、頭に閃くものがあった。
「なあ、その力は血筋で遺伝するのか? 柏木の一族は皆その力を使えるのか?」
「ああ、力を制御出来ず鬼に堕ちる者もいる。遺憾ながら俺達はそのような者を狩らねば
ならない」
(…………繋がった…………)
 繋がってしまった。最悪の結論に。この考えが正しければ全てに説明が付く。柏木一族
の不審な死も、連続殺人事件も……部下の突然の変質も。
「アンタの話は後で聞く。悪いが今は片づけたいことがあるんだ」
 そう言って、長瀬は懐からPHSを取り出し、柳川にコールした…………。


「……まずい……か?」
 ガラスに当たって流れ落ちる雨粒を眺めながら、柳川は苛立たしげにハンドルを叩いた。
長瀬の呼び出しを受け、自動車で急行したのだが、折からの嵐の影響か、それとも隆山か
ら逃げ出す人間達の群なのか、道路を進む自動車どもは、のたくるようにしか進まない。
 一瞬、”狩猟者”に変じる欲求に駆られた柳川だったが、そう言うわけにも行かない。今動くのは危険を増やす以外の意味はない。それ以前に服の替えがないのだ。例え遅くと
も、このまま行く以外の選択肢はない。
 カリカリと爪を噛みながら柳川は長瀬の言っていた事を反芻する。
(長瀬は『耕一を見た』と言った。つまり、”柏木耕一”が人間としての形態を保って町
中を歩いているということになる。つまり、意識して自らの力を隠す知恵を身に着けた可能性があるということだ)
 だとすれば、”柏木耕一”は「獲物」ではなく対等以上の力を持つ「敵」と言うことに
なる。
「……せめて、生きていてくれよ……」
 だが、そのようなことは些事に過ぎない。たとえ柏木耕一が知性を持とうとも、狩る手
段はいくらでもある。柏木姉妹とて、たやすく耕一の言うことは信じまい……いや、彼女
らの信頼感を奪い取る事すらたやすい。
 しかし、長瀬に死なれるのはまずい。少なくとも今は。
「あれは私の獲物だ!」
 ともすればそれは、愛情と言う感情にそれは近いものかもしれない。柳川にとってやは
り長瀬と言う存在は”特別”だった。そして、”特別”であるが故にただ殺すことなど出
来ない……そんな勿体ないことなど。
(……どうする? いっそここで車を降りるか? この渋滞がすぐにでも解消されるとは
思えん。しかし…………)
 その時、視界の隅に一人の男が入ってきた。見覚えが、確かにあった。
(柏木耕一だと!?)
 柳川の緊張の糸が急激に引き絞られる。思いがけぬ人間に思いがけぬ所で出合ったもの
……いや、長瀬が目撃したという場所から考えると当然とも言える。この道の先に、鶴来
屋があるのだから…………。
 無言のまま、柳川は長瀬にコールする。
――ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ――
 四度の呼び出し音の後電話は繋がる。
「はい、こちら長瀬」
 長瀬の声が届いたその時、柳川は本気で感謝した……何に対してかは柳川自身ですら知
ったことでは無いが。
「柳川です。柏木耕一を発見しました。場所は……」
「俺の方でも確認している。合流できそうか?」
「渋滞に捕まりました。車から降りるにしても怪しまれるでしょうし……ひとまず、こち
らが見えなくなるまで私の方はここで待機します」
「それがいい。適当に頃合いを見計らって代わってくれ。年寄りにはこの雨は辛いよ」
「ははは、そんなことを言う歳でも無いでしょう。それはそれで、柏木は私の方で”引っ
張る”んですか?」
 ”引っ張る”とは、適当な罪状で任意同行を求めること、専門用語では『別件逮捕』と
いう。日本の警察のお家芸と言って良い『技術』だ。もちろん、”鬼”に通用するもので
は有り得ない。柳川は単に長瀬に話を合わせたにすぎない。
「その判断はまかせる。しかしな、逮捕してどこに招待するんだ?」
 県警は先日、柳川自身の手で壊滅している。所轄の問題などもあり、他県の県警に頼む
のもはばかられる。只でさえ応援を要請しているのだ。
「……だとすると我々の行動にどれほどの意味があるんでしょうかね?」
 柳川は苦笑する。本当に馬鹿馬鹿しいことをしている。この会話自体そうだが、柏木耕
一を追うという行為そのものに意欲を見いだしている自分を柳川は感じ取っていた。
 ”狩猟者”としてではなく、警察官柳川裕也として容疑者を追う。それが無性に楽しく
感じられた。
「さあね。……っと、逃がすなよ。柳川」
「分かりました。今、出ます……ああ、車の方はお願いします」
 耕一の動きを見計らって車から降りる柳川。そのまま、何食わぬ顔で元来た道を戻る。
(……さて、どの程度の知能だ?)
 尾行の間、柳川は注意深く耕一を観察する。僅かな動き……例えば歩き方、物のよけ方、
周囲の警戒の仕方……からその知能レベルを割り出そうとする。
 その、耕一が急に方向を変えた。
(鶴来屋に向かうのではない? ならば何故町中に出た? 私が奴の立場なら、何故ここ
にいる? 考えろ…………)
 高速で柳川の頭が回転する。可能性はいくらでも考えられる。獲物の物色から敵……す
なわち柳川……に対する示威行為。それとも、姿を見せたこと自体に何らかの意味がある
のか?
 数瞬、思考をまとめた上で柳川は耕一を追った。耕一と自らの力の差を考えると……情
けない話だが……警戒される可能性は低い。もし、自分が彼の立場なら眼中に入れぬか、
さもなくば正面から”狩る”。策を弄することはない。彼我の差は、それほどまでにある
のだ。
(しかし、用心に越したことはない、か)
 何食わぬ顔で耕一を追う柳川。耕一が意識して狭い路地に向かっているのか、その先に
彼の根城があるのか、柳川には判別が着かなかったが、進む道はだんだんと細くなって行
く。
(頃合い……か)
 耕一が何を考えているのかは知らないが、それに付き合うほど柳川は酔狂ではない。大
体、この嵐の中歩いているのは二人だけである。もういい加減気付いている頃合いだ。
 柳川は一旦、耕一の背後から外れ、別の路地に入ると、PHSを取り出すし長瀬にコー
ルする。
「柳川です。これから柏木に任意同行を求めます」
「お、そうか。わかった、俺もこれから向かう。くれぐれも用心するんだぞ」
「はい」
 短く受け答えして柳川は駆け出す。耕一を先回りしようと言うのだ。息を荒げながら嵐
の中を駆け抜ける。狩猟者の力を使えばたやすいことでも、人間として行うには少々きつ
い。まあ、だからといって狩猟者の力を使ってむざむざ耕一を警戒させるほど柳川は愚か
ではないが。
「警察の者だ! 柏木耕一だな? 任意同行を願いたい」
 迂回ルートを駆け抜け、飛び込むようにして路地に顔を出す。だが…………。
「よう」
 そこにいたのは柏木耕一ではなかった。代わりと言っては妙だが、路地裏に待っていた
のは見慣れた中年の男であった。
「長瀬さん!?」
 一瞬、柳川の脳裏が疑念で埋め尽くされた。そして、”鬼”にとってはそれは充分な時
間だった。
 状況を把握したときには既に、柏木耕一が背後に着地していた。自らの愚かさを悟った
ときには、耕一は手にした剱を突き出していた。身をかわそうと思ったその時には、柳川
の腹から長大な刀……『鬼断ち』の剱……が『生えて』いた。
「動くな。動けば死ぬ……鬼と言えどもな」
 耕一……いや、次郎衛門がそう、静かに柳川に囁く。刀身は腹を貫通してはいたが、内
臓は一切傷つけてはいない。神業……いや、まさに鬼の業であった。
「おいおい、まだ柳川が犯人と決まった訳じゃない。あまりむちゃな真似は……」
「いや、柏木の家系であるならこの程度の怪我、かすり傷にも劣る。それより、こやつが
鬼である場合を考えるとこれが最上」
 柳川を挟んで長瀬と次郎衛門が話す。それで、柳川は全てを理解した。狩りの対象は何
のことはない、自分自身だったのだ。
「……ながせさん……」
「ああ、柳川。悪いがそのままでいてくれ。二つ三つ聞きたいことがあるんだわ」
 にやり、と長瀬が笑う。聞き込みの時によく見せる、いやらしい笑いだ。
「…………私が柏木の血筋だと言うことですか?」
「ま、そんなところだ。それとアリバイをいくつか、だな。とりあえずは」
 腹を貫通した金属の冷たさが内臓に浸みてくるのを感じながら柳川は頭を働かせる。こ
こを上手く切り抜ける方法……それを求める……。
「こらこら、そーゆー風に黙ってると心証悪くなるぞー」
 おどけて長瀬が言う……お見通しと言うことだ。
「…………話しますよ、全部。ですが、後ろのこいつも信用できるのですか?」
「さあ?」
「……さあ、じゃないでしょうが全く…………確かに私は柏木の一族です。後ろの耕一く
んの祖父に当たる柏木耕平の隠し子だそうです……おかげで昔はいらない苦労しましよ」
「苦労話は後で聞いてやる。で?」
「……こっちに赴任してからですか、奇妙な夢を見るようになりまして」
「ほう? どんな夢だい?」
「朝を待つんです。自分のなかから出てこようとする”何か”と戦いながらひたすらに朝
を待つ。そんな夢です。……おかげで寝不足になってしまいましたよ。
 それからしばらくもしない内に、夢の中の”彼”は破れてしまったようで……殺戮の限
りを尽くすようになりました。同時に、現実でも同じ事件が起きた……そんなところです」
 柳川の言葉を聞いたとき、先程まで沈黙していた次郎衛門が急に質問を始める。
「して、お主の”力”はいつ顕現した?」
「”力”? 柏木に伝わる鬼の力ですか? それは、その夢を見るようになった頃から現
れてきたようです。気付いたときにはそれがあるのが普通になっていたのでよくは分かり
ませんがね」
「…………つまり、容疑は否認すると?」
「心神喪失状態にあった可能性も否定はできませんがね。ですが、事件のいくつかは明ら
かに私が行った物ではないものがありました。ですから、何らかのつながり……鬼の力で
すか……で犯人の風景が見えていたものと私は信じます」
 長瀬は顎先に手を当てて考え込む。確かに、一日長瀬と顔を会わせている日に事件が起
こったこともある。柳川が犯人では有り得ない。
(…………と、するとやはり柏木耕一が? ……どこかおかしいぞ…………)
 犯人をこの二人のどちらかと仮定する。それ自体が短絡のような気が長瀬にはした。
「抜かすな。うぬ以外に鬼がおるとでも言うのか?」
(…………もう一人の犯人……か、可能性としてはあり得るな)
 次郎衛門の言葉に長瀬はふと思う。長瀬自身、部下が殺人鬼であるなど思いたくはない。
そう思う部分があった。
……それが、長瀬の判断を誤らせた。
「耕一くん、柳川は犯人ではないよ。彼の無実は私が保証する」
「なんですと?」
「事件が起きたときに私は彼と一緒にいた事もある。彼が犯人であることは有り得ない。
柳川を離してやってくれないか?」
 長瀬は言う。しかし、次郎衛門は納得した様子を見せはしなかった。くっ、と手に力を
加える。僅かに柳川の腹が破れ、血が刀身に滴った。
「……次郎衛門様。長瀬様も、騙されてはいけませぬ。”それ”こそが諸悪の根元。この
鬼を退治せぬ限り民草に平安は訪れませぬ」
 路地裏に、朗々とした声が響いた。それはまるで神託を告げる御子のように、清浄と熱
狂の入り交じった声だった……少なくとも長瀬にはそう感じられた。
「…………柏木楓…………」
 歯噛みするように柳川は言う。その視線の先……次郎衛門の更に向こう側……に、柏木
楓がいた。僅かな微笑みをたたえて。
「……ふん、なるほど。私を悪役に仕立て上げ、柏木耕一の罪を被らせようと言うわけか」
 柳川が言い放つ。楓に対してではない、長瀬に対してである。
「……何を馬鹿な……」
「どうかな? 梓から大体の話は聞いている。お前はこうい…………ぐっ」
「黙れ! エディフェルを侮辱するな!」
 次郎衛門が更に力を加えた。柳川の腹から流れ出る血液が急激に増える。内臓か、どこ
かを傷つけたのかも知れない。みるみるうちに柳川の足下が血に染まる。
「……や、止めろ!!」
 堪らず長瀬が止めに入る。
「やめろ、柳川を……俺の部下をこれ以上傷つけるな!」
 刀を持つ次郎衛門の腕を押さえながら長瀬は必死に叫んだ。その力はさしたるのもでは
ない……少なくとも次郎衛門にとっては……だが、だからといってそれを無下に振り払う
ことも出来ず、次郎衛門の動きが一瞬止まる。柳川にとって、九死に一生を得る一瞬を、
長瀬が作り上げてくれたのだ。
 迷わず、柳川は倒れ込むようにして逃げた。腹を通る金属のぞろりとした感触も、刃物
が臓物を傷つける痛みも、解放の喜びの前ではさしたるものでもなかった。
「ええぃ! どかれよ!!」
 次郎衛門が長瀬を振り払う。派手に吹っ飛んで壁に叩きつけられる長瀬。それに気を止
めようともせず、次郎衛門はいまだ柳川に突き刺さる『鬼断ち』を横薙ぎに振り払う。
「ぐはぁ!」
 が、それはもう遅かった。柳川は背を薙ぎ払われ傷を負ったものの、鬼にとっては軽傷
の部類に入る。柳川は身を翻すと振り向きもせず疾走する。
「おのれ、逃げるか!?」
 そう、逃げるのだ。このままここで分の悪い勝負をする必要性は彼にはない。ただでさ
え戦闘能力に開きがある。”戦闘”をする気など毛頭ない。彼が求めるのは”狩猟”なの
だ。
 足を半は鬼のそれに変えて柳川は一陣の風と化した。
「逃すと思うてか!」
 その柳川を追う次郎衛門。姿は人間のままだというのに柳川に迫る速度だ。もう少し、
彼が”本気”を出せばたやすく追いつかれてしまうことだろう。
(……ならば!)
 即座に柳川は身を翻し、側面のコンクリートに体を叩きつける。一撃で、鉄筋コンクリ
ートが弾け飛び、大穴が空く。
「なんと?」
 ごしゃ。
 破壊音がした。続けて大穴に飛び込む次郎衛門。その目の中に飛び込んできたのは鮮血
に沈んだ瓦礫の山だった。
 家人は全員血溜まりと化している。柳川の”力”によるものだ。鬼の力は別に肉体の力
ばかりでもない。風を呼び、炎を起こす『妖術』と称される力もその身には備わっている。
柳川はその力を振るったのだ。
「くっ、ちょこまかと!」
 そして、柳川の姿は既になくなっていた。居間の天井にはやはり大穴が空いている。耳
を澄ませばその向こう側からは先程と同じ破壊音が響いてくる。すぐさま、次郎衛門は後
を追った。
…………ごしゃ、ぐしゅ、がぎ…………
 部屋を一つ抜けるごとに、耳を覆いたくなるような音がだんだんと近付いてくる。コン
クリートと、人間が破壊される音だ。
「追い詰める、鬼め!」
 次郎衛門は高揚していた。久々の戦い、しかも相手は人の命を何とも思わなぬ凶悪な鬼
だ。全力を振るうことが出来る……次郎衛門もまた、鬼の血を受けたものの一人。戦いに
はこの上ない悦びを感じる。
 そして、破壊音が止んだ。次郎衛門が顔を出すと、近くにいくつかの死体が転がってい
た。その向こう側にはもう一つ、横穴が開けられている。この周囲にも、死体が三つある。
「……まだ先か…………」
 警戒しながら次郎衛門は進む。念のため、「死体」の手元は迂回するようにした。死体
に隠れている可能性は否定できない。
「…………?」
 横穴を前にして、次郎衛門の足が止まる。穴の先……つまり、丁度壁の向こう側から生
物の気配を感じたからだ。
 息を潜めたまま、次郎衛門は『鬼断ち』を握り直す。そして、一閃。
「かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 確かな手応え。そして、断末魔の悲鳴。
「殺った!」
 そう、次郎衛門が感じた時だった。近くに倒れていた死体の足が地面ぎりぎりを薙ぐよ
うに振り抜かれる。同時に、その足が瞬時にして鬼のそれに変じた。さしもの次郎衛門も、
死体の足にまで注意は行っていなかった。加えて、神経のほとんどは壁の向こう側に向い
ていた。避けられるはずもない。
「つぇあ!」
 鬼の脚が次郎衛門を”掴む”。そしてそのまま壁に叩きつけた! 次郎衛門は、先程刀
を振り抜いた壁に押しつけられ、易々と鉄筋コンクリートを破壊し、そして自らが止めを
刺した囮の人間を圧搾して、床にめり込むように叩きつけられた。その背後に半ば以上鬼
と化した柳川が立つ。脚はいまだに次郎衛門の体を押さえつけている。
(柏木耕一! お前は考えたことがあるか? 自らの同族と戦うときのことを。自分を越
える強者と戦う時の事を!)
 起きあがる途中で柳川は拳銃を抜いていた。普段所持するニューナンブではない。押収
品から持ち出した大型拳銃だ。そして、射線に入るのと同時に引き金を引く。
(お前は考えたことはあるか? ”どうすれば狩猟者を殺すことが出来るのか”と。私は
考えた。考え、自らの体を傷つけ、そして学んだ。狩猟者の急所を!)
 パパパパパン!
 ほぼ同時に五発の銃弾が撃ち出された。それが全て、過たず次郎衛門の頸椎を目指し、
直進する。次郎衛門が壁に叩きつけられてから0.1秒と過ぎてはいない。柳川自身起き
あがるだけしか出来てはいなかった。さしもの次郎衛門と言えど、そんな短時間で起きあ
がることは出来ない。それ以前に、起きあがろうにも柳川が押さえつけている、起きあが
ったかわす術はない。
 だが、それでも次郎衛門は慌てることはなかった。泳ぐような格好で床を”掻き出す”
と、自ら床に頭を叩きつける。
 びし!
 強烈な破壊音と共に床が抜けた。一瞬遅れて銃弾が次郎衛門の背後を通り過ぎる。かわ
された事を悟った柳川は素早く脚を離すと、壁を破壊して再び逃亡に転じる。
「やる! そうでなくては!」
 そう言ったのは果たしてどちらか。
 次郎衛門は悦びに頬をゆるませて立ち上がる。そして、自らの中の”檻”を開く。
――――Guruuuu――――
 次郎衛門の躰が異形に変じた。これから、「鬼」と「狩猟者」のお互いの存亡を賭けた
真の戦いが始まる。
…………そのはずだった。
びしびしびしびしびしびし!
 突如、ビルの壁にヒビが入る。それも一つ二つではない。ビル全体が崩壊を開始してい
るのだ!
 がらがらと轟音を立て、天井が崩れ落ちる。床にひびが入りそのまま抜け落ちる。壁が
加重に耐えきれずひしゃげて倒れる。
「なんだと!? どう言うことだ!!」
 次郎衛門の声もまた、崩れ落ちる瓦礫の音にかき消され消えていった。


――――まいった―――
 まさかあそこまで戦い慣れているとは思いもしなかった。こんな事は当初の予定にはな
い。しかも、私を狙って狩りに来ている。おそらく、騙し仰す手段もなかろう。
 先程はビルの基部を破壊しながら逃げたのが功を奏し、丁度いい所でビルが倒壊してく
れたが、次も上手くいくとは限らない。大体、アレではあの化け物を倒すことは出来まい。
…………もっと、有効な手段が必要だ。
 そんなことを考えながら私は帰路を急いでいた。避難命令が出たのか。それとも、住民
の自主的な行動か、眼下には慌てて逃げ出す人間の群があった。
 非常事態のせいか、上空を敢えて気にする人間はいないようで私の姿に気付く者はいな
いようだったが、移動には細心の注意が必要だ……私の体は、狩猟者のそれに変じている。発見されればただ事ではすまないだろう。
 しかし……当初の目算では、避難した住民を囮代わりにして、のこのこ出てきた柏木耕
一を狩るつもりだったが…………図らずも住民を守る結果になったな……。
……まあいい。私にはまだ手札は残っている。
 辺りに人間の視線がない事を確認してから、自室のベランダに飛び込んだ。室内に貴之
の気配はない。おそらくは、柏木の家の者が避難させたのだろう。代わりに女の匂いがし
た。
…………はて? さらった女共は隣の部屋に繋いでいた筈だが……。
 その疑念はすぐに解消された。
「…へへ、来ちゃった…………」
 丁度、ショートカットの姪が台所からエプロンを畳みながら出て来るところだった。

                              ――――続く――――****************************************