青い電波の降る空に  投稿者:山浦


	青い電波の降る空に


 青い青いペルシアンブルーの空。
 流れゆく雲は永遠にその形を定めず、遙か彼方へと漂っていく。
 一つの雲が二つになり、また別の雲と混ざり合う。
 日に日に初夏に近付くその空を、僕は美しいと感じた。

「せんせぇ。どうしたんですかー?」
 よほどぼぉっとしていたのだろう。僕の前に座る緑の髪の少女が心配そうに僕の
ことを見ている。まあ、彼女を「少女」と呼称する事が厳密に言って正しいか否か
は難しい所である。だが、僕としては歴とした人格をもった「彼女」を人間として
扱うことに異論はない。厳密な人間の定義云々は哲学者にでも譲るとしよう。
「なんでもないよ、マルチ。さ、実験を続けようか」
 HMX−12、通称『マルチ』。来栖川エレクトロニクスの傑作にして現在の僕
の研究素材である。脳生理学者の僕がこんな風にロボットを研究素材としているこ
とに、友人の一部は不審に思うそうだが、実際の所それはさほど珍しいことではな
い。運動神経系を始めとした脳の動作を解析するためのシミュレーターとしてロボ
ット(と、そのシステム)はかなり以前から使用されてきている。感情に関する脳
の動作を解析するのに感情があるロボットが使われるのは至極当然のことだろう。
「はい! それで今日は何をすればいいのでしょう?」
「……そうだね。じゃあ、今日は料理をして貰おうかな」
 実際はなんでもいい。僕の現在の研究分野は「対象物を認知するときの脳の動き」
である。だから彼女が『それは何である』と考え、僕がそれのデータを集めるだけ
で事は済む。だが、それだけでは彼女のメイドロボとしての矜持が許さないらしい。勢い、何かをやらせる事になり、後で膨大な量のデータと格闘するハメになる。…………もちろん、そのおかげでものすごい発見をすることも珍しくないが。
「それでしたら自信作があるんです! ご主人様もおいしいって褒めてくれたんで
すよ」
 うきうきとしながらマルチはエプロンを付け始める。同時に僕もモニターに向か
う。瞬く間にマルチの耳のアンテナから発せられた情報がモニターを埋め尽くす。
「……綺麗だな。マルチは」
 ぼそ、と僕は呟いていた。
「え!? ええ!!」
 何度見てもこのプログラムは芸術的である。一部の無駄も無いにも関わらず、
「ゆらぎ」をその内に内包している。混沌を内包した秩序、と言う例えが一番近い
かもしれない。一度、システム構築者の顔に会ってみたいと思う。天才肌の男だろ
うか? それとも、繊細なセンスの女性だろうか?
「…………どうしたの? 手が止まってるみたいだけど」
「え、あ、は、はいぃ!」
 わたわたとマルチが動き出す。
 鈍いように見えるその動き一つ一つが、この美しいアルゴリズムによって創り出
されている、の…………。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
――――……ゲン……ど…………の……によ…………られているのだ
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
「何だ!?」
「ええ!? どうかしたんですかー? はわわわ、わたしまた何か…………」
 マルチが慌てている。どうやら、声に出して叫んでいたらしい。
「…………いや、なんでもない。続けてくれるかい?」
「でも、お顔が真っ青ですよ。少し休まないと……」
「……そうだね。じゃ、マルチの手料理で一休みするかな」
 顔が真っ青と言うのは自分でも分かっていた。気分が、悪い。吐き気が、する。
考、えが、まと、ま、ら…………。

ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
――――……は、でん……じゃないか。だから……んじ……と……のは…………だよ。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 はっ!?
「あぁ! こげついちゃいました〜! これじゃあの時と同じです〜!」
 マルチの声と、盛大に火の手を上げる台所の熱気で、僕は正気に返った。
……白昼夢を、見ていたのか? 僕は。
「やれやれ…………時にマルチ」
 なんにせよ、あの悪夢(なのだろうか?)から目覚めさせてくれたのはマルチで
あるようだ。
「何ですか? せんせい?」
 だから、感謝の念を込めて。
「…………このパスタ煎餅が君の自信作なのかい?」
 と、意地悪く言っやることにした。

 なお、ミート煎餅は意外に美味かったことを付け加えておく。


「綺麗な青空ですー」
 来栖川の研究所への帰り際、マルチはそんな事を言った。
「香奈子さんも早くそう思えるようになるといいですね!」
 そう、あの忌まわしい事件からもう何年という月日が流れている。僕、月島拓也
の恋人であった太田香奈子の突然の発狂。それの原因は結局学校の事なかれ主義に
よって過去のものとされてしまった。
 だが、今でも香奈子は心を病んだままでいる。友人である藍原君や僕の妹の
瑠璃子、そして不詳ながら僕(と、もう一人居るがそいつはとりあえず無視)の
看病によって快方には向かっているものの、まだ感情のほとんどは閉ざされたまま
である。
 僕が脳生理学を志したのも、少しでも香奈子の力になりたかったからだ。
…………そう、あのとき僕が香奈子を受け止めることが出来ればそんなことには
ならなかったはずなのだ。
「せんせい、そんなに思い詰めない方が良いですよ」
 あの時、僕と香奈子は上手くいっていなかった。当時、極度のシスターコンプ
レックスだった僕は、香奈子を妹である瑠璃子の代用品として見ていた。そして
彼女は、そんな僕ですら受け入れようとした。僕には過ぎた女性だったのだ、彼
女は。だからこそ、そんな彼女の思いが煩わしかった。たぶん、それが全ての引
き金なのだと思う。
「せんせぇ……」
 マルチが心配そうな顔で見上げている。
「そうだね。無理はしない、約束するよ。これから香奈子を見舞ったらそのまま
帰って寝る。それでいいだろう?」
 マルチを納得させ、帰りのバスに乗り込ませる。それから僕は大学病院に向
かった。そこに香奈子はいる。
…………ついでにあいつもな。

「今日は早いですね、にいさん」
「僕は君と瑠璃子の結婚はまだ認めていない。だから兄さんなどと呼ぶな。
だいたい、求婚するならせめてインターンを卒業してからにするものだろう?」
 馴れ馴れしい物言いの『あいつ』に僕は吐き捨てる。まったくこの男、顔が伸
びるに従って態度もぞんざいになってくる。
 そう言えば、高校の時、教員でこの男の叔父がいたな。それも今のこいつによく
似た。当時は全然似ていないと思ったが……どうやらあの家系の遺伝子は晩年に
なるに従って発現するようだ。
「まあ、そんなことは言わないで。最近兄さんがかえって来ないって、
瑠璃子も……」
「瑠璃子を呼び捨てにするな! ……まあ、それはそれとして。香奈子の具合は?」
「ぼちぼちですね」
 つまり、変化無しということだ。
「分かった。今、入って大丈夫かな?」
 僕は、祐介に確認を取ってからドアを開けた。
 真っ白なシーツとカーテン、それに壁。全てが眩しいぐらいに光を放つその
部屋に、ただ一点の鈍色の色彩があった。それが太田香奈子。僕の恋人であった
ひと。
「香奈子、ただいま」
 僕は、いつもそう言うことにしている。それが彼女を一番安心させる言葉だと
思うから。
「香奈子、今日ね、マルチとテストしたんだ。マルチって、覚えてる? 
緑の髪の、ちっちゃい女の子…………」
 ゆっくりと、僕は香奈子に語りかける。時折、どろりとした色の瞳が僕を
写してくれる。それが、嬉しい。昔はどれほど話したところで反応すらしなかった
から。あの時は何度逃げ出そうと思ったか、何度絶望しかかったか分からない。
それでもやってこれたのは藍原君を始めとした女性陣のおかげだ。
 まったく、あの当時の僕はどれほど情けない男だったのだろうか。いつか、
彼女に相応しい男になろうと思ったのもその頃だ。そして、僕はいま、胸を張って
香奈子に言える。
「香奈子、愛してる」
 祈りを込めて、僕は再び香奈子に言う。
「香奈子、愛してる」
 再び、どろりとした色の瞳が僕を写してくれた。

「さて、らぶらぶはそれぐらいにしましょうや。検診の時間だよ、太田さん」
 お邪魔虫がまたもや邪魔に来た。
「ほらほら、兄さんは出てった出てった」
 などと言って、僕を外に押し出す。入れ違いに藍原君が病室に入っていくのが
見えた。検診は彼女がやるらしい。
「…………で、なんに用だ?」
 僕が居たところで検診することに支障はない。にもかかわらず僕を連れだした
のには訳があるはずだ。
 僕は祐介に向き直る。祐介は、白衣の胸を探り、上着の懐に手を突っ込み、
ズボンのポケットを上から叩き……どうやら、煙草を探しているらしい。そして、
とうとうあきらめたのか、少しふてくされた態度で話し始める。
「にいさん。叔父から聞いたんですけど……」
「長瀬先生か?」
「いえ、別の叔父です。えーっと、叔父は来栖川で働いていてマルチの開発にも
関わったっていう人なんですけど……」
…………やはり、この一族なのだから馬面なのだろうか?
「……聞いてます? にいさん」
「ああ、マルチの開発に関わった叔父からの話だろう?」
「そうですが。最近、にいさんの調子が悪いみたいだってマルチが言っている
らしいんですよ。僕から見てもにいさんは過労気味です。ですんで、今日は実家
の方で休んで下さい。瑠璃子もその方が喜びますし」
 別に、祐介と瑠璃子の住む家に行くことに抵抗はない。ただ、二人の間に入ろう
とかそんな野暮をしたくないというだけのことだ。
「…………気持ちは嬉しいが、今回の仕事が一段落するまでは一人にさせてくれ
ないか。一人の方が良い考えが浮かぶんだよ、僕は」
 それに、現実に一人の方が良い考えが浮かぶ。
「…………にいさん」
「心配しないでいいよ。僕は無理なんかしていないし、これからもする気はない。
今倒れたらせっかくのチャンスがふいになっちゃうからね」
 そう、今倒れるわけにはいかない。研究のことも、香奈子のことも僕が居なくて
はならないのだから。
「…………ぱ、に気を付けて」
「? なんか言ったか。祐介くん?」
「……いえ、何にも。それじゃ、絶対無理しちゃダメですよ」
 言わずものがななことを言って祐介は立ち去っていった。さて、僕も帰って
データの解析を始めないとな。



 春の終わりを告げつつある空はどこまでも青く澄み渡る。
 その空に浮かぶ白い雲一つ二つ。様々に姿を変えている。
 美しい空だ。

「なあ、マルチ」
 いつもの実験。珍しく一つのイレギュラーもない今日は妙に暇だった。だから、
ふと僕はマルチに聞いてみたくなった。
「美しいと感じるときって、どんな感じだい?」
 一瞬、マルチは呆けたような顔をした。まあ、そうだろう。そんな質問、僕
だって答えられない。哲学とか芸術とかその辺の最深部に位置する内容だ。
「…………むむむむむ」
 続いて難しそうな顔をする。必死の形相が妙に可愛らしい。
「難しく考えないで。例えばほら、空を見てごらん」
「はい、見ましたー」
「どう思う?」
「……綺麗ですー。見てると、すっ、て吸い込まれそうになってふわふわーって
気分で、はうーって宙に浮いたような…………」
 擬音ばかりだが、良く分かる。だから、これこそが僕や、哲学者や、芸術家が
求める答えかもしれない。違うかも知れない。真理などこんなモノかも知れない、
違うかも知れない。
「……『賢者のごとく考え、愚者のごとく語れ』か……」
「どうしました?」
「いや、別に何でもないさ。じゃ、実験の続きだ」
 そして実験は再開される。しかし、マルチが動いている間、僕の仕事はモニター
の監視だけしかない。だから、データが流れるだけのささやかな時間、僕は甘美な
妄想に世界に身を委ねることにしている。

…………そうだな、折角マルチという女性がいるんだ、彼女に登場していただこう。
 さて、どうする? 彼女との甘い生活というのもそれはそれで魅力的だが、
ここはやはり彼女が決して見せぬ顔を見てみたいな。
 聖女のように、全てを無条件で愛する彼女に無い側面。
 恐怖、嫌悪、絶望そんな顔だ。
…………陵辱、か。
 まず、そこにいる彼女を背後から羽交い締めにしよう。口は押さえない。悲鳴
が聞けなくなるから。そして机に押さえつけ、手かせを……いや、その必要はない
か。「彼女」は人間では無いんだ。それを思い知らせる意味でも、両手を釘で打ち
付けよう。
 みし、みし、と釘が彼女の腕を貫いてゆく。痛みに顔を引きつらせ、盛大に悲鳴
を上がるマルチ。だが、その腕からは一滴の血液も漏れることはない。
 固定が終わったら次は服を引きちぎり、そして股間に僕の……いや、それも違う
か。「アレ」はニンゲンではないんだ。そのことを明確に知らしめてやらねばなら
ない。第一、あらかじめそのようにつくられた代物をそのように使用するなど面白
くもない。異常であるからこそ、楽しいのだ。
 腹を裂く。詰まっているのは臓器ではなく機械だ。それを一つ一つ「腑分け」
する。たっぷりと、マルチに自らのなんたるかを知らしめる。そして拓かれた
処女地。其処こそが僕のモノを収めるに相応しい器官だ。貫通式にはアレの
「ご主人様」とやらも呼ぶとしよう。
「あなたの、マルチはおんなになります」
 と、来たもんだ。はは、ニンゲンでないのにおんなになるなんて。けっさくだ。
おもしろいわれながらくだらないことをかんがえるものだこれならしばらくはたい
くつしないですむかもしれないあきてすてたりしないですむかもしれないあのとき
みたいになるかもしれない
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
――――から……したん……よ。そうしたら愛着が出てきてね……く……ておくこ……
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり

「ぐは!?」
 強烈な、吐き気がした。頭の中をぐちゃぐちゃと何かが駆けめぐっているような
感じだ。いや、現に駆けめぐっている。映像が、音声が、記憶が。僕の知らない、
僕の記憶?
「せんせい! だいじょうぶ…………」
 マルチが、心配そうに僕を見る。中に機械が詰まった顔を人がやるようにみせ
かけて僕をみる。
「…………なん、でも……ない。すこし疲れただけだよ」
「せんせい。やっぱり、ちゃんと休まないと……」
 この機械に指摘されるまでもなく、その通りだ。僕は、疲れている。僕である
ことに。

 空が青い。だが青くない。ほんの少しだけ短い可視光が、ほんのすこしだけ
みじかい電磁波が…………青い、電波が……僕の視細胞に当たって青いと脳に思い
こませているだけにすぎないんだ。
 僕の手にあるマグカップもそう。これは硬いけど硬くない。硬いと、神経を走る
電波が脳をそう騙しているだけ。
 飲んでいるコーヒーも苦いけど苦くない。

 しってるかい? ものは全て、存在するけど存在しないんだ。原子というのは
原子らしいもやもやとした”何か”の塊なんだ。もっと小さく言うと物質波に過
ぎないんだ。

 花は、存在するけど存在しない。
 空は、存在するけど存在しない。
 大地は、存在するけど存在しない。
 マルチは、存在するけど存在しない。
 僕は、存在するけど存在しない。
 そう、全部僕の脳に電波があると騙しているもの。
 僕は疲れている。電波に騙されることに。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
「……コアイシテル」
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり


 その後、「休め」と、ぐずるマルチを何とか帰して、僕は香奈子の見舞いに行った。
 香奈子の様子はやはり今までと同じだった。だから、僕も同じように香奈子に
接する。
「ただいま、香奈子。今日は、マルチで実験をしたんだ。覚えてるかな? 緑の髪
をつけたメイドロボの。あの、こころがあるとか言う……」
 そう、マルチにはこころがあると言う。香奈子には壊れて失われてしまった
こころが。なぜだろう? なぜ、香奈子には無いモノが香奈子じゃないアレに
あるのだろう? おかしいじゃないか。アレは香奈子じゃ無いのに。香奈子は
香奈子なのに。おかしいじゃないか。おかしいじゃないか。おかしいじゃないか
おかしいじゃないか…………。
「…………こわしちゃおうか?」
 香奈子じゃないならこわしても構わない。香奈子じゃないからこわしても
かまわない。そうだ、こわしてしまえばいいんだ。こわしてしまえばもしかし
たらあの時みたいに……。
「おにいちゃん」
 瑠璃子の、声。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
…………コジャナイナラコワシテモカマワナイ。……コジャナイカラコワシテモカマワナイ。コワシテシマエバイイ。コワシテシマエバモウ、ツキマトッテキタリハ…………。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
「…………瑠璃子?」
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
…………コアイシテル……コアイシテル……コアイシテル……コアイシテル…………
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
「おにいちゃん。だいじょうぶだよ」
 瑠璃子は、僕が犯した過ちで一時期、精神的に不安定になったことがある。
だが、今では完全に落ち着いて祐介と同じ大学で、やはり祐介と同じく精神医学
を学んでいる。ここにいることに不思議はない。
「おにいちゃん、……て、って言ってる」
 聞き取りづらい声で瑠璃子が言う。そういえば、あの時以来、瑠璃子の言動は
すこしおかしい。今ではかなり落ち着いたが、時折発作やフラッシュバックに見
回れ、心身蒙弱に陥ることもある。
「…………ごめん瑠璃子、よく聞き取れなかった」
「…………いいよ。こんどは、私が助けてあげる。祐くんも、いっしょ」
…………そんなときは、いつもこんな目をしている。今の香奈子に似た、暗い、
深い、焦点を示さない、月の夜の沼のような瞳を。
「だからおにいちゃ……」
 そんな瑠璃子の声が、突然遮られる。
「瑠璃子さん!」
 祐介だ。祐介が、抱きかかえるかのようにして瑠璃子を僕から離す。
「どうしたんだい? 祐介」
「なんでもないです、にいさん。ちょっと瑠璃子さん、つかれてるみたいで。
いつもの発作です」
「僕の事を心配する前に家庭の事をしっかりしなさい。そんなことでは瑠璃子は
やれないぞ」
 そう、ぼくのあいするるりこをそんなおとこにはやれない。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
「――コアイシテル」
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり

「にいさん?」
「…………ああ、僕も疲れているらしい。さっきマルチにも説教されたしね。
だから、今日の所は帰って休むとするよ。じゃ、瑠璃子お前も無理しちゃだめだよ」
「……うん」
 瑠璃子が肯いたのを確認してから、僕は香奈子に向き直る。
「香奈子。じゃ、また明日来るからね。愛してるよ」



 うえから青い電波がふってくる。ただ、それだけ。
 細いシャープペンシルの芯をかちかちと伸ばし、意味もなくノートの上を走ら
せる。
 やがて芯はポキンと弱々しく折れて僕の頬をちくりと刺激した。

「今日はどうしよう?」
 僕は、自分に問うた。それに目前のメイドロボがどう反応するかは関係ない。
「…………そうだな、今までの記憶をモニターしよう」
 決心すると、僕はモニターに向かう。カオスとフラクタルが絶妙に混じり合った
ソースがモニターを流れてゆく。
「あいかわらず……」
 素直な感想を口に出そうとしたとき、僕はその場にそぐわぬモノを発見した。
まるで、白鳥の群に紛れたカラス。舞踏会に闖入した乞食だ。
「なんだ、コレは?」
「…………あぁ! それは!!」
 まるっきり処理をされていない生のままのデータ塊。僕は最初、それが何か
分からなかった。
「あぅう。それは見ないでくださいぃ」
 マルチの言葉に、僕はそれが何かを知る。
…………ははぁ。これが例の「ご主人様」との一夜とやらか。
 マルチがニンゲンと心をまじわせたとかなんとかいう事例の記録を、生データ
として圧縮すらせず、保存しているらしい事は来栖川の方からのアナウンスで知っ
ている。『感情』というモノを相手にする以上、コレとはいつかはご対面すると
思っていたが…………ふむ、面白いことがあるな。
「なあ、マルチ。見ていいか?」
 むろん、見るつもりなど無い。他人の、しかも男の自慰など見たいとはこれほど
にも感じない。興味があるのは、コレの反応。
「あわわわわわ〜。そ、それは見ちゃいやです」
「へえ? なんでだい?」
 くすくすと、笑うように。手に持った虫の羽をゆっくり引きちぎるときのよう
に、僕は言った。
「はっ、恥ずかしいですー」
 マルチは、顔面部分の機能を使用して『恥ずかしい』という表情を作り上げて
見せた。まあ、僕はその程度で納得はしないが。
「あ、そう。でも、見るよ」
「わわわわわ! ひどいですー!」
 来栖川エレクトロニクスの技術力には相変わらず驚嘆させられる。とても
「ニンゲンらしい」反応だ。「好意を感じる」ようによく計算されている。
ただ、それだけだが。
 僕はマルチの反応に構わず「記憶」をモニターに映し出す。マルチは、まだ
嫌がっているようだ。いっそのこと器具か何かで固定してしまおうか?
…………そうだ、いいことを思いついた。この記憶を書き換えてしまおう。そう
だな、ご主人様の顔をウチの教授あたりのものと取り替えてしまおう。それもマ
ルチが見ている前で。
 これは面白いぞ。何よりも大切な記憶とやらを思いだそうとすると、全然別の
人間との睦み事の画像が蘇るのだから。しかも、自分はそれを知っているのだか
ら。知っているのにそれをどうすることも出来ないのだから。
 そうしたらマルチはどうなるだろうか? 絶望するだろうか? 
自殺するだろうか? ロボットなのに? そこまで精巧に作ってあるだろうか? 
面白い、やってみよう。好奇心は常に科学を発展させる原動力になってきた。今
度もそうさ。なに、もしこわれてもそれはそれでいい。アノトキミタイニマタカ
ワイイトオモウヨウニナルカモ……

…………ナゼ、ソンナコトヲスルノ?
 アレはロボットなんだ。なんだかんだと言ったところで、ロボットなんて
シリコンの間を走る微弱な電流が、こころとやらをあるように見せているだけ
なんだ。
…………だから、マルチを壊せる。

ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
…………ナゼ、ソンナコトヲスルノ?
 あの子は僕のおもちゃなのさ。なんだかんだと言ったところで、人間なんて
シナプスの間を走る微弱な電流が、心があるように見せているだけなんだ。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり
…………だから、太田さんを壊した。
ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり

 そうだ、ぼくは太田、香奈子を壊した。壊したんだ。なんで今まで忘れていた
んだろう?
 なぜ? なぜそんなことをしたんだろう?
…………コジャナイカラ。瑠璃子じゃないから。太田さんでは瑠璃子の代わりに
はならないから。
 だから、壊した。
 香奈子の、どろりとした暗い、深い、月の夜の沼のような瞳をつくりだしたのも
 香奈子の頬を走る八本の痕を作りだしたのも。
 香奈子が何も反応してくれなくって、絶望しかかったあの日も。
 香奈子の容態が一変して、でも、僕は何もできなくて無力さに歯がみしたあの夜も。
 全ては、僕がつくりだしたものなんだ。
 あの夜、太田さんが僕の家に来たあの時。

…………コジャナイカラ。香奈子じゃないからマルチを壊せる。
 そして、僕は同じ過ちを犯そうとした。

『マルチは、マルチだから。人間とか、ロボットとか、そーいうんじゃなくて。
俺は、マルチがマルチだから、好きだ』
 モニターに流れる「記憶」の中の少年が言う。そうだ。マルチはマルチだから、

瑠璃子は瑠璃子だから、香奈子は香奈子だから。だから、愛おしいのだ。僕は、
そんなことにも気付かなかったのか?
 「香奈子愛している」と胸を張って言えるようになったのではなかったのか? 
僕は、自分でそう思いこんでいただけなのか?
 僕は、二度も同じ過ちを犯そうとした。何という愚かな男だろう。どうして祐介
はそんな愚かな男を生かしたのだろうか? 殺してしまえば、いいのだろうに。
殺してしまったほうが、いいだろうに。
…………あ、そうか。祐介がやらないなら僕がやればいいんだ。そう、僕がこの
愚かな男に罰を与えればいい。そうすれば誰も傷つかないでいられる。
 歩き出そう、あの扉のむこう、狂気の世界の向こう側へ。ああ、そう言えば、
<向こう側>には香奈子がいるかもしれない。もしいたら、連れ帰さないと。
藍原くんが、祐介が、瑠璃子が心配している。香奈子は、戻ってきてみんなと
幸せに暮らして欲しい。償いとか、そういうんじゃなくって、香奈子には、幸せ
になってもらわないと。そのためにも、香奈子を……連れ帰して、僕は、替わり
に……

「つきしま、たくやさん!」
…………だれ? だれが、僕を、よんでるの?
「あなたは、月島拓也です! 大丈夫ですから! 月島、拓也さん! 戻ってき
て下さい! 大丈夫ですから!」
 マルチは、僕の名前を、『大丈夫』『戻ってこい』という言葉を繰り返す。
何度も、何度も。
「月島拓也さん! 大丈夫です!」
 なにが、どう大丈夫なんだい? マルチ。
「あ、動きました! ……大丈夫です! 月島拓也さん! もうすぐ救急車が来ま
す! 大丈夫ですから! 月島拓也さん! 戻ってきてください! 大丈夫です!」
「……あ、ああ。マルチは救急車か…………」
 ? 何を言っているのだ? 僕は。
「月島拓也さん! あなたは月島拓也さんですね!?」
 そうだ、僕は月島拓也だ。
「あなたは誰ですか?」
「月……月島、拓也…………」
「…………よかった、まだ意識がありますー。月島拓也さん! 大丈夫ですよ! 
もうすぐ、救急車が来ます! 大丈夫です、だいじょうぶです!」
…………ああ、もうすぐ来るね。救急車が。そうしたら病院に行って香奈子に会い
に行かないと。謝ろう、香奈子に。許してくれないかもしれないけど。それでも、
謝らずにはいられないよ。僕は、あんな、酷いことを、香奈子に、して、しまった
…………。
 そして僕の意識は、暗い暗い、暗い闇の淵に融けていった。



「せんせぇ!!」
「にいさん!」
「おにいちゃん」
「月島先輩!!」
 みんなの声がうるさくて、僕は目を覚ました。
 まず、目に入ったのは清潔さを示そうと、可視光を白く反射するように塗られた
天井。シーツ、カーテンも同じように電波を白く染め上げて僕に渡してくれる。
 外からは、空の青く青く、どこまでも青く澄み渡る電波が降ってきている。
電波の一部は、浮かぶ水蒸気に捕まって乱反射のダンスを踊らされる。そして、
踊り疲れて色がすっかり落ちたところでぼくの目の中に飛び込んでくる。
 そして、僕を取り囲む人々。大泣きしている無機物の塊、マルチ。残りは有機物
を主体とする者たち、瑠璃子が、祐介が、藍原くんが、ほっとしたような顔で僕を
見下ろしている。そうだ、僕はここに帰ってきたんだ。
「やあ、おはよう」
「おはようじゃ無いですよ、にいさん」
 長い顔の上で唇を歪ませて祐介が苦笑する。その後ろでは、瑠璃子がほっとした
様子で息をついていた。昨日の、狂気をかいま見せた表情などどこにもない。
 あ、そうか。瑠璃子の様子がおかしかったのは僕のせいか。僕が記憶を取り戻し
かけていたから、情緒不安定になっていたのか。不安で、恐怖で、そして、心配で。
「にいさん。はっきり言わせていただきますが、ドクターストップです。
にいさんには休養が必要です。分かりましたね?」
「インターンが、偉そうに。いいさ、しばらく休むとしよう。マルチ、
ご苦労様だね…………マルチ? どうしたのかい?」
 マルチは、彼女にしては珍しく肩を震わせて、僕を睨んでいる……怒っている
のだろうか?
「あ゛わ゛わ゛わ゛わ゛ー。ごぶじでよがっだでずー」
 泣いてるよ……こりゃ、怒られるより質が悪いな。
「あー。とりあえず鼻かもうな。それから、心配かけて悪かった。もう、絶対に
無理はしない」
「やくそくですよ」
「ああ、約束だ」
 マルチと、小指を合わせる。無機物のゆびと有機物の指が絡み合い、そして
別れた。これでやくそくは完了。もう、絶対無理はしない。
「ふう、ところで僕はどれくらい眠ってたんだい?」
「二日と言ったところですか」
「何だって!? 二日も香奈子に会いに行ってないのか? 何てことを……」
「せんせい、無理はしないって……」
「これは無理じゃないんだよ。マルチ」
 そう言って、僕は香奈子の下に急いだ。謝らなくてはいけないことがある。
話さなくてはいけないことがある。
 そして、僕は一刻でも早く香奈子に会いたい。

 空からは相変わらす青い電波が降ってくる。あるものは、直接僕の瞳に入って
きて空の青さを教えてくれる。
「青い、青いどこまでも澄み渡るペルシアンブルーの空。なんて綺麗なんだろう」
あるものは、踊り疲れて真っ白になってから雲の白さを教えにやってくる。
「真っ白な、輝くような純白の雲さ。なんて綺麗なんだろう」
あるものは、木々に捕まって木々の緑を学んで僕の所にやってくる。
「大地は緑に萌えているんだ。もう、新緑の季節だね。なんて綺麗なんだろう」
 そう、世界は美しい。美しいから美しいのだ。別に他に理由はいらない。
電波達は僕にそのことを教えてくれる。
「世界は、美しいんだよ」
 そして僕は扉を開け、あたたかい電波の中にたたずむ香奈子を見つけた。
「香奈子、ただいま」



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 ふいー。電波入ってる文章は疲れますねー。テンション低いとハズした文に
しかならないし、かといって入りすぎると引っ張られるし…………ちなみに、
一番苦労したのは月島先輩の「あの」ジョークのセンスをどう表現するか、で
はなく、自己満足な文章にならないようにする事でした。

 とりあえず、補足を。この作品では月島拓也は祐介によって記憶を操作されて
いました。具体的には
1:電波に関する記憶を全て削除。
2:瑠璃子をレイプする時までの記憶はそのまま。
3:瑠璃子をレイプしたと言う事実、それによって瑠璃子が軽度の精神障害に
陥ったと言う事実だけは覚えているが、詳細は消されている。
4:太田さんと付き合っていた時の記憶は残っている。深夜の学校での事は、
二人きりの逢い引きと言うことになっている。ただし、太田さんに対してどの
様な感情を抱いていたかはそのままになっている。
5:太田さんを『壊した』夜のことは太田さんが夜会いに来て、些細なことで
口論となり、そのまま居なくなってしまった。と書き換えられている。
 こんなところです。