信じる拳を  投稿者:山浦


	信じる拳を

 右正拳。なんの飾りも、迷いもない、まっすぐな、ただまっすぐな拳。好恵さん
の性格によく似ている一撃。
 重い。どうしようもなく重く、そして速い。私の体重ではガードしたところで
簡単に吹き飛ばされてしまう。
 よろけたところにミドル、いや、これは中段回し蹴りか。
「くは」
 ガードの上から構わず打ってくる。これも、重い。衝撃が内臓に襲いかかって
くる。吹き飛ばされる。意識が、朦朧とする。
「葵ちゃん!!」
 あ、先輩がなんか言ってる。ちょっと、聞こえない。
「しゃぁ!!」
 再び、正拳。好恵さんの姿は良く分からない。ただ、まっすぐ拳が飛んでくる。
はは、これを受けたら楽になれるかな?
 ひゅ
 拳が、外れた。好恵さんも疲れてるのかな? あれ? なんで道着が目の前に
あるんだろう? なんで私の拳がそこに触れてるんだろう? まあ、いいか。
 ごぅん!!
 後ろ、私の足下からすごい音がした。同時に力が駆け上がってくる。
なんだろう? なんでもいいや。なんか疲れた。そのまま流しちゃえ。
 ごしゅ
 すごい手応え。力が足を通って、腰を回って、肩を巡って、そして腕から
好恵さんに伸びていった、そんな感じ。みちみち、と筋肉の鎧を引きちぎるのが
判る。めきめきと肋骨を潰してゆくのが判る。ぐしゃっと、内臓を…………。
 だめ!! そんなことをしたら好恵さんは死んじゃう。すぐに止めないと!!
…………でも……止められない。勁が強すぎる。手の力では止められない、体が
弛緩して力が入らない。それで完璧な勁が打てたのは皮肉かな? やっぱり止め
られない。好恵さんの体の中に手がめり込んでいく感じ。なんか、内臓が
掴めそう。だめ、そんなことをしたら好恵さんが死んじゃう。ああ、
掴める簡単に。簡単にヒトが殺せるんだ。このまま軽く押し込んで上げれば、
軽く掴んで上げれば、好恵さんは。いや、何を!? なんてことを考えてるんだ、
私は。でも、もう少しで、止めなくては、止めなければ、止めたい、止める事が
出来ない、止める気が、しない。
 ぱん
 そして、何かが爆ぜる音がした。

「はいやぁ! はい! はい!」
 「歩く東スポ」こと長岡志保は、今日も朝から元気だ。最近流行の底の
厚い靴を履いたまま蹴りやらパンチやらのまねごとをしている。
「おーおー。今日はみょーにハイだな。なんか悪いもんでも食ったか?」
「人聞きの悪いこと言わないで頂戴よ! これはね、特訓よ、特訓」
 藤田浩之との掛け合いもいつもの通り。騒がしい朝の教室でも一際やかましい
一団(騒いでいるのは二人だが)を形成している。
「はぁ!? 特訓だぁ。変な踊りのか?」
「NON、NON、NON! 格闘技よ、格闘技。そう、今時代は格闘技のなのよ!」
「ばーか、格闘技ってのはハンパじゃねーんだ。お前みたいないーかげんの塊が
格闘技ができるか」
 松原葵のことを知っている浩之としては格闘技=勤勉な人間がやるもの=志保が
やれるものではない。という図式が成り立っている。それに、自分より一回り以上
小さい葵に一撃でのされたことすらある。そのため、『格闘技やってるヤツはちょっ
と違うぜ』という認識が浩之にはある。どちらにせよ志保に出来るとは思えないし、
長続きするとも思わなかった。
「どーせ綾香の記事かなんか見てその気になったんだろーがな。あいつだって
余裕ぶっこいてるふりしてっけど、毎日すげー練習とかしてるんだぜ。お前が
真似できるわけねーだろ」
「違うわよ。別に来栖川綾香みたいになろうなんて思ってないわよ。でもさ、
ほら昨日の事件とかあるじゃない?」
「昨日の事件?」
 昨日の浩之は家に帰ってからすぐにゲームを始めたため、ニュースは見ていない
……ま、そうでなくともニュースを見ることは少ないが。
「昨日のって……通り魔事件のこと? かなり近くで起きたって話しだったけど」
 隣のあかりが志保に問う。志保はせいかーいと、うなずく。そしていかにも馬鹿
にした様子で浩之を見下す。
「そーそー、それよあかり。全く、浩之ったらこんな大事件もキャッチしてない
なんてまったく……」
「いーから話し進めろ。通り魔がどーした」
 話の内容は気にならないが、これ以上馬鹿にされるのもむかつくので浩之は促す。
「まーまー、そう焦らない。でね、その通り魔なんだけど、何メートルか走った
ところで一人の男の人に捕まえられたんだって」
「で、そいつが格闘技をやっていた、と」
「そのとーり。やっぱりほら、世界に羽ばたく志保ちゃんとしては自衛のためにも
格闘技の一つや二つは……」
「け、言ってろ…………」
 まあ、なんて事はない日常の風景だった。しかし…………
「藤田浩之! 居るな!?」
 その朝の日常を怒声が破った。見ると、ドアの向こうには髪を短く揃えた、
精悍な顔立ちの女子が怒り肩で立っている。背が高く、体付きは明らかに鍛えた
ものである。
「まぁたなんかやったわけ? あんた」
 間を空けず、志保はさも嬉しそうに浩之に詰め寄った。すぐにでも
「志保ちゃんニュース」に乗せて学校中に広めたい。そんな顔をしている。
すでに格闘技云々の話は忘れているらしい。
「うるせえ、またってなんだ? またってよ。それじゃ俺がいつも問題起こしてる
みてーじゃねーか」
 逆に、浩之は不快げに顔を歪める。もっとも、その不快さの対象は怒声の主と
いうよりはむしろ、妙なニュースを流そうとしている志保に向けられているものだ。
「あーら、事実じゃないの?」
「人聞きの悪いこと抜かすな! 俺はそーゆーことに関わったりはしねえ」
「そんなこと無いんじゃないかな?」
 と、あかりが呟く。事実、浩之はかなりお節介だし気も短い。いつ何時、
誰と問題を起こしていても仕方ないようにも思える。
 それを聞き、我が意を得たりと志保が続ける。
「ほーら、あかりもそう思うわよねー。大体、何もなくてなんで人が来たりすん
のよ? あんた、あんんたいつもなんだかんだってふらふらしてるからそーゆー
目に遭うのよ!」
「うるせえ!! 大体何でふらふらしてると喧嘩売られなきゃなんねーんだよ!」
「あーらそれはね…………」
 ごん!!
 志保の台詞をうち消すように、物騒な音が教室に響いた。ば、と振り返る二人。
正面にはさっきの女子が浩之の机に拳を乗せている。で、その下には見覚えのない
蜘蛛の巣状の亀裂がひとつ。

 沈黙。

「…………はあぃ」
 やっとのことで声を漏らす志保。浩之はまだ声も出ない。
「…………葵に何をした?」
 ドスの利いた声で女子が尋ねる。その言葉でようやく正気に返る浩之。
「葵、って、葵ちゃんのことだよな? 葵ちゃんがどーしたんだ? いや、
それ以前にあんたはだれ…………」
 ごん!!
 蜘蛛の巣、二つ目。
「聞いてるのはこっちだ」
 目が殺気立っている。一歩退く志保。だが、こう言った事態になるほど浩之は
反抗したくなるらしい。不快感を露わにして逆に睨み付ける。目つきが悪いせいか、
素人にしてはやたらと眼光が鋭い。
「俺が葵ちゃんに悪さするはずがねーだろーが。だいたいおめーは誰なんだよ」
 彼女は、暫し浩之を睨む。乗せている気迫は浩之の物を遙かに上回る。
「……嘘は言ってないみたいだね。だけど、葵は純真なんだよ。お前の不用意な
言葉で傷ついたり……」
「だから、てめーはなんだっての!! 葵ちゃんのストーカーか!?」
 浩之の台詞に女子は不機嫌そうに名乗った。
「…………坂下好恵。忘れた? 葵がエクストリームに出たいって言ったときに……」
 好恵の言葉に一瞬考え込む浩之。ややあってぽん、と手を打つ。
「ああ、思い出した。葵ちゃんと決闘して負けた……」
「負けたは余計だ」
「知り合い?(ひそひそ)」
「そうみたい(ぼそぼそ)」
 状況に着いていけないあかりと志保は影で声を潜めて話している。が、
好恵は気にする様子もない。浩之にくってかかる。
「思い出せ! なんか葵を傷つけるようなことを……」
「ってゆーか、何で俺?」
 浩之の疑問ももっともだ。
「お前が一番葵を泣かせそうだからだ」
 好恵の言い分はもっともっともだ。
「しらねーよ。大体ここんとこ葵ちゃんと特に親しくはしてねーし」
「それが原因かぁ!?」
「俺に何を求めるんだ、お前は!!」
 ぎゃいぎゃいと喧嘩が始まる。もともと口の悪い浩之とけっして退かない
好恵である。あっという間に大騒ぎと化した。
「これは志保ちゃんニュースに加えなえばならない大事件ね! ねぇ、
何があったわけ? 喧嘩? 殺人? それとも……」
 それに志保が加わったりするものだからたまらない。
「てめぇ、志保! いっぺん勝負つけねーといけねーみてーだなー!」
「え、もしかしてレイプとか!? うっわ! ヒロ、あんた何てことを……」
「レ、レイプ!? 藤田ぁ! まさか葵に?!」
「だー!! いい加減にしろ、お前ら!!」
 瞬く間に教室は三人の発する騒音に支配された。クラスメートは遠巻きに眺め、
事態が収まるのを待っている。三人娘はなにやら噂話を始め、保科智子は教科書
を持って無言で立ち去ろうとする。
「おはよ、あかりちゃん」
 そんな中、佐藤雅史が朝練を終えて教室に入ってきた。
「今日はいつもに増して賑やかだね」
 などと笑顔で言う辺り、かなりの大物(天然とも言う)である。もちろん、
それで騒ぎが収まるはずがない。
「あ、そうだ。ねえ、浩之」
「雅史、後でな。
 志保! おいこら、てめえ! 今なんつった!?」
 止めに入るつもりなのか、雅史は皆に声をかけ始める。
「志保」
「あーら、事実をいったまでよ。事実を」
「坂下さん」
「藤田! 素直に白状すればヤキ入れだけで済ましてやる!」
「…………先生来てるよ」
 びたっ!
 はじけるように浩之と好恵の動きが止まった。
「ち、ちょっと聞いてんの!? って、あら……」
 ワンテンポ遅れて志保も黙った。
「HR始めたいんだがなー。いいか?」
 山岡が三人を白い目で見ながら尋ねる。
「と、とにかくだ! 葵に何かあったら承知しないからな!」
 好恵はそう捨て台詞を残して去って行った。続いて、志保も逃げるように教室へ
と帰って行く。
 そんなこんなでHRは始まった。が、浩之は一人難しい顔をして黙っている。
「…………葵ちゃんか…………」
 いつもの浩之の癖が始まった。とあかりは思ったが、口に出すと浩之がムキに
なるので黙っていることにした。

 昼休み、浩之は葵の教室を訪れた。
「…………うーむ。たしかに元気がないな…………」
 教室のドアにしがみつくようにして教室内を伺っていた浩之。結構楽しんでいたり
する。が、いきなり背後から声を掛けられた。
「何をしてるんですかー?」
「うお!?」
 びびって振り向く浩之。そこには……
「なんだ、マルチじゃねーか」
 マルチが居た。このマルチ、一週間のテスト期間が過ぎ、浩之達との感動の別れ
をやったすぐ二日後に、『落第しちゃいましたー』とかいって舞い戻ってきた大馬鹿
野郎である。
 まあ、実のところは大脳生理学や精神科学などのサンプルとして有用と認められ
たため、国家からの義援金の下、テストが続けられることになったのだが、そのこと
を浩之達は知らない
(と、いう設定にしています。だって、アニメ板のアレはあまりに不自然……)。
「何してるんですか? 浩之さん」
「お、俺はまあ、なんだ? ところでマルチ、お前はなんでここにいるんだ?」
 焦りまくって無理矢理話をごまかそうとする浩之。マルチはまるで屈託のない
微笑みをもって答えた。
「はい! スパイさんです!」
「…………はぁ? スパイだって?」
 思わず呆ける浩之。しかし、マルチはそれには気付かず胸を張って答える。
「はい! スパイさんです。昨日、綾香お嬢様に『葵の様子を調べてきなさい』
って言われました。ですからスパイさんをやるんです」
「はぁ……そーかい…………って、お前もか!?」
「? どうしたんですか? 浩之さん」
「ああ、なんか俺も朝に葵ちゃんの様子がおかしいって難癖つけられてよ。
調べようかと思ってたんだよ」
「そうですかー! それじゃ、私といっしょですねー。二人あわせてWスパイですー」
(Wスパイは意味が違うだろう)
 と、浩之は内心つっこんだが、声には出さずにしておいた。
「ま、どーせだから一緒にやろうや」
「はい! Wスパイ結成です!」

「と、言うことでだ!」
 びしぃ! と、浩之はあらぬ方向を指差した。
「はい!」
 浩之と、マルチの声が放課後の校舎に響き渡る。
「葵ちゃんがなんでおかしいのかを調べねばならない!!」
「はい!」
「そこでお前の出番だ。マルチ!!」
「はい!」
「葵ちゃんの不調の原因を探るんだ!」
「はい!」
「来栖川エレクトロニクスの粋を集めたお前なら出来る!」
「はい!!」
「では、行って来い!」
「はい!」
 てくてくと歩き出すマルチ。その背中はこれほどの迷いもない。
…………それを見て、浩之は急に不安になった。
「おい、マルチ」
「なんですか? 浩之さん」
「お前、何をする気だ?」
「はい、ですから葵さんの不調の原因を探るんです!」
 がっ! とガッツポーズなんかをとるマルチ。それを見るほど不安になって
行くのは何故だろうか?
「具体的にはどうするんだ?」
「はい。分からない事があったらすぐに聞けと主任さんが言ってました。
ですから葵さんに直接……」
「却下」

 それでも結局、やることは聞き込みである。各部活の関係者や葵のクラスメート、
近所に住むもの、顔見知り、様々な人間に二人は聞き込みを続けた。しかし
「むぅ。情報がねえ」
「無いですー」
 得られた情報は『昨日までは元気だった』と、『今日は朝から元気が無い』
そのふたつだけであった。見ると、日もそろそろ沈みかけようとしている。
「なんだかなー。単に今日は調子が悪かったとかそーゆーことじゃねーのか?」
 いい加減飽きてきたのか浩之が投げやりに言う。
「大体、なんで昨日のうちに綾香が今朝の葵ちゃんのことわかるんだよ」
「あ、それは…………」
 マルチが説明を入れようとしたとき、遮る者があった。
「それでマルチに愚痴? あんたらしくないわね」
「綾香お嬢様!」
 噂をすればなんとやら。来栖川綾香がそこにいた。後ろにはセリオを引き連れて
いる。二人とも学校帰りに直接来らしく、服装は寺女の制服のままである。
「マルチぃ。『一生懸命』もいいけど、あたしが頼んだこと忘れちゃダメじゃない」
 薄く笑って綾香はマルチを軽くこずく。「おこられちゃいましたー」と、
落ち込むマルチといい、綾香の笑い顔といい、『幼稚園児と保母さん』といった
絵を思い浮かばせる光景であったが、まあそれはどーでもいい。
「なにしに来たんだ?」
「ああ、姉さんとマルチに用があったから出迎えついでにね。
それに葵にも直接会っておきたいし」
「葵ちゃんのこと、なんか知ってんのか? お前」
「ま、ちょっとだけね。それよりマルチ、葵の昨日の行動でなんか分かった?」
「申し訳ありませんー。昨日は元気で、今日は元気がありませんということしか
わかりませんでした」
 マルチの答えに綾香は難しい顔をする。しばし何かを考えている様子。
「仕方ないか、もうちょっと調べなくっちゃダメね。マルチ、セリオ、
それと浩之、任せるわ。あたしは葵と会ってくるから」
「おい! 何がなんだかわからねーぞ!」
「ごめん、後で説明する!」
 それだけ言うと、綾香は走り去ってしまう。
「だから、一体どーしろってんだよ!」
「――それでしたら」
 悪態をつく浩之にセリオが答える。
「綾香様は芹香様に頼み事をされたご様子です。ですので、芹香様のご指示を仰ぐ
と言うのはいかがでしょう?」
「……先輩か。分かった、行こう」

 どうしたのですか? 浩之さん。
 来栖川芹香の声は相変わらず小さい。外界と隔絶されている感のあるオカルト研
の部室内でも、聞き取るのに苦労するほどだ。
「ああ、先輩。突然ごめんな。葵ちゃんの調子がおかしいって話し、知ってる? 
…………え、知ってる? 綾香から聞いてるって。ああ、それでなんだけど………
…これから儀式をするって? 水晶玉に過去を写して見て何があったか調べるって?
 すげえな、これでなんとかなるかもしんねー…………え? でも見ることが出来る
のは短い時間だけ? 見られる範囲もそんなに広くない? それは困ったな…………」
「――ですので、マルチさんに調査を頼んだのです」
 セリオが続ける。浩之は思わず唸る。
「…………先輩、他にどうにかなる手段とかないかな?」
「…………」
 作業の手を止めることなく、芹香は答える。
「え、あるって!? それでどーすれば? …………しょくばい? なんだそりゃ?
 …………ああ、つまり葵ちゃんの体の一部とかそー言ったものな。呪いかけるとき
の髪の毛と同じだって? まあ、そうだろーけど…………え、昨日の様子を全部知り
たいなら葵ちゃん自身が必要だって? んー、でも葵ちゃんに来てくれって言っても
無理だろーし…………」
 再び、浩之は黙り込んでしまう。だが、芹香の手伝いをしようとどたばたもがいて
いるマルチを見た瞬間、浩之の脳裏に駆け抜けるものがあった。
「そうだ! ちょっと来い、マルチ!」
「へ!? な、なんですかぁ!?」

「と、言うことでだ!」
 びしぃ! と、浩之はあらぬ方向を指差した。セリオは状況に付いていっていない
のか、浩之が指し示すその先をいつもの無表情で眺めている。
「はい!」
 再び、浩之とマルチの声が放課後の校舎に響き渡る。その隣では芹香が儀式の準備
を続けている。
「葵ちゃんがなんでおかしいのかを調べねばならない!!」
「はい!」
「そこでお前の出番だ。マルチ!!」
「はい!」
「葵ちゃんの不調の原因を探るんだ!」
「はい!」
「来栖川エレクトロニクスの粋を集めたお前なら出来る!」
「はい!!」
「――具体的にはどのようなことを?」
 セリオが問う。目線はは相変わらず浩之が指差した方向を見ているが。そんなこと
など構わず、浩之は自信満々の態度でマルチの後ろに立って答える。
「ふふふふふ。それはな、まずこの耳カバーを外す!」
「――それで、髪を青く染めて葵さまになるというのですか?」
「……うっ」
 図星を指されてうろたえる浩之。だが、続くセリオの台詞に浩之は愕然とさせられ
ることになる。
「――先程ダウンロードいたしました魔術関連のデータによりますと『類似は同一に
通じる』とのことですのです。確かに外見は近くなりましょうから触媒としての利用
は可能であると判断できますが、芹香様いかがでしょうか?」
 ふるふる
 芹香は首を横に振る。
「…………」
 今回の儀式は「類感(似ている物は同じ働きをするという考え)」や「伝染(その
者の持ち物や体の一部は本体とつながっているという考え)」による代用物ではできま
せん。やはり本人でないと。それにしても浩之さん、「金枝編」をいつお読みになら
れたのですか? と、芹香は言った。
 芹香にしては恐ろしく長い言葉だった。浩之が自分と同じ本を読んでいたことがそ
れほど嬉しかったのだろう。もちろん、浩之がその台詞をジョークで言っているなん
て考えもしない。
「ふえええええ、浩之さんすごいですー」
 マルチも同様に賞賛する。三人の無垢な瞳が浩之に向けられる……。
「あ、いや、言ってみただけだからいいんだ……」
 一人で勝手に罪悪感にみまわれる浩之。
(うう、汚れちまった今の俺には先輩の無垢な視線は痛いぜ)
 などと、もだえている。そんな浩之をセリオの高性能センサーは見逃さなかった。
同時に、このような時にはフォローに入る。それがメイドロボの勤めである、と彼女
のAIは判断した。
「浩之様、私には浩之様が何を懸念なされているかは理解しかねます。しかし、浩之
様の先程の発言は、実に的確なものでありました。もちろん、ジョークとしてのと
言葉であるならば既に賞味期限を過ぎている上、芹香様、綾香様を始めとした関係者
各員の努力、そして何より、当事者である葵様の気持ちを無視した愚劣極まる言動と
判断せねばなりませんが、浩之様の性格上それはないと確信できます」
(ごぶ!)
 やはりダメージを受ける浩之。『賞味期限切れ』とか『愚劣極まる』あたりが
特に効いたらしい。
 なおも続くセリオの「フォロー」を芹香が言い咎める。
「…………」
「――はい、そうですね。そのような言葉が出る時点で浩之様を疑っている
証拠です。申し訳ございません、浩之様。私が言いたかったのは…………」
 更に続くセリオの「フォロー」。しかし、言えば言うほど浩之の罪悪感に
棘がささる。
(……だめだぁ! そんな無垢な目で俺を見ないでくれぇ!)
 その浩之を見てセリオは「フォロー」を続け…………(エンドレス)。

「あっおいー……ってあら、いないわ」
 所変わってここは裏山。いつもはここで葵が練習をしている筈である。
「葵が練習休むとは思えないけど……今日は道場行く日とか?」
 独り言を言いつつ、綾香は吊してあるサンドバッグに近寄る。所々破け、
修繕の後がいくつもあるサンドバッグが、葵の練習量を雄弁に物語っている。
「まったく、こんなに使いこまなくったって……」
 もちろん、綾香の練習量もそれに劣るものではない。だが、ここまで一つの機材
を使い込むことはない。すこしでも壊れれば新しいものと交換するからだ。
はるかに恵まれた環境だが、綾香は何故か葵が少しだけ羨ましかった。
「で、あんたは何しに来わけ?」
 背後から、声がした。綾香は既に気付いている。いつでも動けるように軽く
身構えつつ振り返った。
「葵に会いに来たんだけど。いけない? それよりも好恵、アンタはどーなのよ。」
 正面には坂下好恵が空手着のまま立っていた。表情は、やや不機嫌そうだ。
「あんたには……関係ない」
「無いわきゃ無いでしょう。あたしらは葵の先輩だしライバルよ。葵の調子が
おかしいなら気にならないわけないじゃない」
「…………知っていたのか?」
 好恵は少し驚いた風に綾香を見た。
「なに? もしかして来栖川グループの情報力って奴?」
「まさか! たまたま昨日電話したら妙に元気がなかったからどうしたのかと
思っただけよ。別におじいさま達は関係ないわ」
 形のいい眉をしかめて綾香は答える。自分の行動が全て来栖川グループに直結
するのは慣れているとはいえいい気分ではない。ましてや仲の良い人間に言われる
のは。
「それで、あんたは?」
 不機嫌な口調のまま、綾香は再度問うた。
「……葵が……朝練をやってなかったんだ。それで、何してるって思って葵の教室
に行ったら、あたしの顔を見るなり『ごめんなさい、ごめんなさい』って繰り返し
て。何がなんだか…………」
 頭を抱えてしまう好恵。彼女のように、自分の生き方に疑問を持つ事の少ない人間
は、こういった時に対処できないのかも知れない。
(……こんなことしてても何も解決しないわ)
 好恵の後頭部を眺めながら綾香は思案する。しばらく考えた後、とりあえず
怒らせることにした。
「…………好恵がヤキ入れたとか……」
「違う!!」
(おお、効果てきめん)
 反応があったところで綾香は続ける。
「ま、冗談はそのくらいにして。なんかしらない? 昨日の葵のこと。ちょっとの
ことでもいいの」
「…………そんなこと言っても……昨日は葵は中国拳法の道場に行ってたらしい
から……」
「それよ!!」
 綾香が急に大声を発する。
「葵がヘンなわけ、分かったわ。好恵、付いてきて!」
 一方的に告げると綾香は走り出してしまう。残された好恵もすぐに後を追った。
「ちょっと! 一体何よ!?」
「いいから黙って付いてくる!」

「と、言うことでだ!」
 びしぃ! と、浩之はあらぬ方向を指差した。先程のダメージは既に抜けている
らしい。セリオは状況に付いていっていないのか、先程と同じく浩之が指し示す
その先をいつもの無表情で眺めている。
「はい!」
 再び、浩之とマルチの声が放課後の校舎に響き渡る。なお、芹香はオカルト研の
部室で儀式の準備を続けている。
「葵ちゃんがなんでおかしいのかを調べねばならない!!」
「はい!」
「そこでお前の出番だ。マルチ!!」
「はい!」
「葵ちゃんの不調の原因を探るんだ!」
「はい!」
「来栖川エレクトロニクスの粋を集めたお前なら出来る!」
「はい!!」
「――具体的にはどのようなことを?」
 セリオが問う。目線はは相変わらず浩之が指差した方向を見ている
「ああ、ここは真面目にやるしかねーだろ」
 そう言う浩之の正面には、先程セリオがプリントアウトしたここら辺りの地図が
広がっている。それにおもむろにマジックで線をいれる浩之。
「昨日の葵ちゃんの行動をこうやって追えばなんか分かるかもしんねー」
「――……分かるのですか」
 微妙な沈黙の後、セリオがあいずちを打った。その沈黙の意味を、浩之は
敢えて考えないようにして続ける。
「昨日、最後に葵ちゃんを見たって言う情報はここで四時ぐらいだそうだ。で、
昨日は葵ちゃんは中国拳法の道場に行く日だから、こう……こんなルートを通って
行く、と」
 言いながら浩之は地図に線と時間を入れて行く。その筆先は気味の悪いほど迷い
がない。
「――……カー」
「ん? なにか言ったか? セリオ」
「――いえ、何も。ところで、このルートと葵様の歩行速度から推測しますに、
道場には四時三五分前後でしょう」
「ま、そんなもんだろーな」
 断定する浩之に、やはりセリオは微妙な沈黙の後、ぼそりと呟いた。
「――……やはりストー……」
「? どーしたんです? セリオさん」
「いえ、何でもありません、マルチさん。――浩之様。葵様の不調の原因と
思われる事例が分かりました」
 唐突にセリオが言う。あまりに唐突すぎて浩之の反応が遅れたほどだ。
「え? ど、どういうことだ!?」
「セリオさん、すごいです!」
「――先日の午後四時四〇分。この地点、つまり道場前で通り魔事件が発生して
おります。おそらくはこれが……」
「……そう言うこと、分かった? 好恵」
 いつの間にやらやってきた綾香がセリオの言葉を継いだ。
「だからって、分からないじゃない。そりゃ、事件に巻き込まれたかもしれない
し、葵のことだから周りの人を助けようとして怪我したかも知れない。でも相手は
素人でしょう? 葵が練習出来なくなるほどの怪我を受けると思えないわよ」
「――犯人を止めた人物は葵様の通う道場の師範代をしているようです」
 サテライトサービスにアクセスしながらセリオは説明を続ける。
「――そして、犯人は既に死亡しております。死因は内臓破裂によるショック症状。
おそらくは捕獲の際に受けた打撲が原因でしょう」
「そんな!?」
 好恵は声を上げる。浩之達に至っては声も出ない。硬直する一同を、唯一冷静な
綾香が促す。
「っても、まだ確定ってわけでもないし。とりあえず姉さんに見てもらいましょ。
話はそれからよ」

 ナイフから赤い血を滴らせて駆けてくる人が居た。始めはそうとしか
思わなかった。
「松原さん、周りの人を!」
 師範代の声で、ようやく状況が理解できた。人を、手に持ったナイフで
斬ってきたんだ、この人は。
 私が通り魔から周りの人を遠ざけようとしている間に、師範代は通り魔と
正面から向き合っていた。気のせいか、師範代が笑っているように見えた。
 ナイフが赤い光を反射した、と思った瞬間、通り魔は師範代に向かった。
構えも技もない、完全に素人の動きだ。でも、その手には人を殺せる凶器がある。
心には人を殺すことを厭わない狂気がある。
いくら師範代でも無事というわけには…………。
 ごぅん!
 師範代が半歩踏み出した瞬間、すごい音が響いた。震脚……つまり踏み出す
ときの蹴り足の音だ。そのまま師範代はカウンターぎみに崩拳を”撃ち”出す。
 めき、という肋骨のひしゃげる音がここまで響いた。「半歩崩郭」と呼ばれた
郭雲深の逸話の通り、力加減を誤っただけで人の命を殺めかねない一撃必殺の
拳だ。これで通り魔も…………。

 すごい手応えが手にかかってきた。力が足を通って、腰を回って、肩を巡って、
そして腕から好恵さんに伸びていった、そんな感じ。

 あれ? なんで私が崩拳を撃っているんだろう? どうして好恵さんが私の目
の前にいるんだろう? どうして、私の拳が好恵さんをとらえているんだろう?

 みちみち、と筋肉の鎧を引きちぎるのが判る。めきめきと肋骨を潰してゆく
のが判る。
ぐしゃっと、内臓を…………。

 ああ、そうだった。私は好恵さんと試合をしていたんだ。そして、好恵さんに、
崩拳を、撃った…………人を殺しかねない、危険な技を。

 だめ!! そんなことをしたら好恵さんは死んじゃう。すぐに止めないと!!
…………でも……止められない。勁が強すぎる。手の力では止められない、体が
弛緩して力が入らない。それで完璧な勁が打てたのは皮肉かな? やっぱり止め
られない。好恵さんの体の中に手がめり込んでいく感じ。なんか、内臓が掴めそ
う。だめ、そんなことをしたら好恵さんが死んじゃう。ああ、掴める簡単に。簡
単にヒトが殺せるんだ。このまま軽く押し込んで上げれば、軽く掴んで上げれば、
好恵さんは。いや、何を!? なんてことを考えてるんだ、私は。でも、もう少し
で、止めなくては、止めなければ、止めたい、止める事が出来ない、止める気が、
しない。
 ぱん
 そして、何かが爆ぜる音がした。

「――――はっ!!」
 そこで松原葵は目が覚めた。全身から嫌な汗が吹き出している。どうやら、
夢うつつの中にいたらしい。外はまだ明るい。夢を見ていた時間は一瞬の事
だったかもしれない。
「…………なんだでろう?」
 自らの拳を見つめて、葵は自問した。
「なんで、格闘技なんかやろうと思ったんだろう? 格闘技なんて、痛いし、
怖いし、覚えたって何かの役に立つ訳でもないし、それどこか人を…………」
 通り魔は、あのあと病院に運び込まれ、すぐに息を引き取ったらしい。
師範代は過剰防衛の咎で警察に出頭した。結局、皆が不条理に不幸になった。
それだけだった。
「なんで?」
 今は、初めて格闘技に出会ったときの気持ちを思い出すことはできなかった。
暗い、どろりとした感情が心の中を浸食していく。そんな感じだった。
「……おいー。葵ー! 電話よー!」
 どれほどそうしていただろうか。葵は母の呼ぶ声でようやく正気に返った。
いつの間にやら外には闇が差し込み出す時間になっている。
「あ、うん! 今出るー!」
(誰だろう? 姫川さんかな? 友達になろうって言ってくれたし。それとも
綾香さんかも。昨日の電話で私のこと気にしてたみたいだし。あ、藤田先輩
だったら嬉しいな……)
 とりとめもないことを考えつつ、葵は受話器を取った。
「はい、お電話替わりました。葵です」
「葵。今すぐ学校の裏山に来なさい。あと、道着も持ってきなさい」
 低い声が、一方的に告げる。電話の主は坂下好恵であった。どこか、
屋外からかけてきているのか、時折雑音や周囲の物音が混じる。だが、
それ以上に葵は声の中の怒気と殺気を強く感じた。
「好恵さん!? ちょ、ちょっと」
「話だったら向こうで聞くわ」
 そう言って、好恵は一方的に電話を切る。有無を言わさぬ厳しい口調だった。
葵には、物言わぬ受話器を持ったまま立ちつくすことしか許されなかった。

「ありがとう。返すわ、これ」
 そう言って好恵は、綾香に携帯を返す。
「……おい、坂下」
 浩之は止めようと声を掛ける。通り魔の話が出てきた辺りから好恵の様子が
おかしかった。そして、芹香によって昨日の映像を確認してとき、それは確固
としたものとして好恵の顔に現れた。好恵が暴走しつつあると浩之は感じていた。
「黙っていろなさいよ、外野は」
「んだと!」
 激昂する浩之。しかし好恵はそれを一瞥しただけで退ける。たとえでなく、
実際に浩之が一歩退いたのだ。
(こ……こええ…………)
浩之は生まれて初めて本物の殺気と言うものを感じ、震えた。
「空手屋には空手屋のやり方があるのよ。藤田には藤田のやり方があるようにね。
だから、邪魔はするな」
 告げて、好恵は背を向ける。
「…………好恵
 好恵の背中に綾香が声を掛ける。同時に、好恵の足が止まった。
「頼むわ、葵を」
 それだけ言うと綾香も背を向ける。好恵は再び歩き出していった。
「姉さーん、セバス呼ぶけどいい? それとも浩之と帰る?」
「…………」
「私たちも行きましょうか、セリオさん」
「――そうですね、マルチさん」
「ちょ、ちょっと待てよお前ら!」
 後には状況の分かっていない浩之一人が残された。

 葵は、いつも歩いてきた石段を上がる。その先には好恵が待っている。好恵が
何をする気なのかは大体分かっていたが、だからと言って逃げることはできなかっ
た。格闘技をやめるにしても好恵を納得させなくてはいけない。直接会って、
話しあわなくてはいけなかった。
「好恵さん!!」
 境内では、好恵が柔軟をしていた。両足をぴたっと地面に付けて前屈をする。
俗に股割りとか言われるやつだ。
「好恵さん! わたしは……」
「道着は着てきたのね。じゃ、柔軟しておいて。すぐに始めるわ」
 有無を言わせぬ口調であった。そして、葵の反応を完全に無視したまま
好恵は立ち上がってアップを始める。好恵の型演舞を横目に見ながら、葵も
柔軟を始める。
「そろそろ始めるわ。いいわね」
 十分ほど柔軟を続けた辺りで好恵が宣言する。と、同時にモーション無しの
前蹴りが葵に襲いかかってきた。
「くは!?」
 間一髪、それをガードする葵。だがもちろん、攻撃がそれで終わってくれる
筈もない。好恵は蹴り足で踏み込むと、続けざまに拳を打ち込む。
「よ、しえ……さん。やめ…………」
 葵の声は言葉にならない。声を出そうとすれば正拳を打ち込まれる。
距離を取ればローやミドルが飛んでくる。クリンチをすれば肘と膝が突き刺さって
くる。
「はっ! せい! せりゃ!」
 ガードの上であろうと好恵は構わず攻撃を入れてくる。一撃受けるたびに
ガードの両腕が上がらなくなる。そんな攻撃が間断なく葵に襲いかかってくる。
(好恵さん、なんで? なんでこんな事するの? こんな、痛いだけじゃない
ですか。苦しいだけじゃないですか。危険なんですよ。私の拳が当たったら
好恵さん、あなたは死んでしまうかも知れないんですよ。あなたの拳が私を殺す
かもしれないんですよ。みんな不幸になるだけじゃないですか。それなのに、
それなのになんで? 好恵さん!)
 豪雨のように続く好恵の攻撃を受けつつ、葵は思った。そして分からなかった。
好恵がこんな事をするわけが、自分がここで何をしているのかが、好恵や綾香や
自分が何を求めていたのかが。
 がつん!
 横っ面にいいのが入った。葵の意識が一瞬飛ぶ。同時に、がら空きの喉元に
好恵の手刀が叩きつけられる。
「かふっ」
 声も出ない。喉を押さえるためにうずくまる葵。が、その先に好恵の膝が待って
いた。鼻先に膝が叩きつけられる。ぐしゃ、と鼻骨が潰れる音がした。
 膝の一撃で無理矢理立たされた葵に好恵は中段回し蹴りを打つ。葵はもう意識が
無いのかガードもしていない。肋骨が砕ける感触を好恵は感じていた。そして、
正拳を形作り……。
「葵ちゃん!」
 その時、浩之の声が響いた。葵が一瞬反応する。
 ごしゅ
 が、構わず好恵は正拳を放った。顔面にまともに入る。葵はそのまま力無く
崩れ落ちた。
「葵ちゃん! ……坂下、てめえ! どういうつもり…………」
「黙っていろ!」
 好恵の一喝で浩之は黙らされた。気迫が浩之のそれとは違いすぎた。
「今、葵に聞いている所だ。それが済んだら好きにしろ」
 好恵の視線が浩之を捉える。そして、浩之が退いた。何をしているのかは
まるで分からなかったが、好恵が何かをしていると言うことだけは分かった。
「…………わかった」
 浩之の答えを聞くと同時に好恵は葵に向き直る。
「葵。お前は死んだか?」
 言葉と同時に蹴りが入る。ちいさく、葵が喘いだ。
「あたしは、全力で打った。少しも、手加減などはしなかった。
あたしの知る空手、全部を使って、全力で、だ! それで、お前は、
死んだのか!?」
 血を吐くように、好恵は続ける。
「あたしだって、人を殴る時は怖い。相手を殺してしまうかも知れないと思う。
だがな、それでもあんたや、綾香が相手なら全力で戦える。なぜだか分かるか? 
お前を、綾香を、相手を信頼しているからだ! 相手を信頼しているから、
全てを出し尽くせる相手と信頼してるから、だから全力を出せるんだ! 
お前は、あたしを、綾香を、相手を信頼できないと言うのか!?」
 はぁ、はぁ、はぁ。
 そして、好恵の荒い息だけが静かな境内に残った。
「それだけだ」
 そして、好恵は去っていった。

 翌日。
「やっほー、志保ちゃんよー!」
 相変わらず志保はハイテンションだ。それを、浩之は遠い目で眺めていた。
――――あの後、浩之は意識を取り戻した葵を家まで送っていった。しかし、
その間一言も話しはしなかった。葵のダメージが大きいのと、自分が口を
出せる事ではないと浩之が思ったためである。
「…………ふぅ」
 結局、浩之自身は何もしてやることは出来なかった。ただ、マルチ達と
騒いでいただけのような気がする。それに、好恵の「話し」で葵が立ち直った
かどうかもわからない。
 ぼか!
 その浩之の足に志保が蹴りを入れた。
「いてぇ! 志保、てめえ! 何しやがる!」
「だから、無視すんじゃないわよ。ほら、呼んでる子が居るわよ。
……それよりアンタ、あの子に何したの? 顔、ボコボコじゃないの。
アンタが女の子殴るとは思えないけど……」
 志保の言葉が終わる前に、浩之はそちらに向かっていた。
「葵ちゃん!? 大丈夫なのか!?」
「大丈夫です。私、丈夫ですから。それよりもいろいろご心配かけたみたいで
……申し訳ありません」
 深々と、葵は頭を下げる。
「そんなことはいいよ。俺は何もやってなかったしな。それよりも
……その…………」
 浩之は言い淀む。が、そんな浩之を葵は正面から見据えて、答えた。
「はい、今でも怖いです。まだ、なぜ格闘技をやりたいのかも分かりません。
でも、もう一度信じたいと思ったんです。好恵さんや、綾香さん、それにまだ
会ったことのない相手を! だから、こんなところで止まっていられません! 
今日からまた特訓です!」
「おっしゃ! 俺も応援するぜ!」
 葵の笑顔は、傷だらけであっても、何にもまして美しかった。




――余談――
 昨日の一件からセリオの様子がおかしい。こちらに注視する必要が無い限り、
無意味に虚空を見上げているのだ。
「――――」
「…………」
「――――」
「…………ねえ、セリオ」
 堪らず、綾香は尋ねる。
「――何でしょうか? 綾香様」
「何か見える?」
「――壁、ですね。複合材を用いているものと推測されます。
製造後十年を過ぎているようですので強度は…………」
「いや、そうじゃなくって」
「――この校舎は来栖川財閥の出資で十三年前に…………」
「そうでもなくって!」
「――…………」
 暫し、セリオは沈黙した。綾香の質問の意味を再認識しているようだ。
しばらくして、結果が出たのか、ぽんっ、とセリオは手を打った。
「――この大気中には窒素70.934653%(±0.015436)、
酸素…………」
「違う!!」
「――申し訳ございません。質問の内容が理解できません」
「……なんでアンタはあさっての方向を見てんのか。それを聞きたかったのよ!」
「――『明後日の方向』という言葉は比喩的な意味として使用されたものと受け
取りますが宜しいでしょうか?」
「Yes!」
 わざとやってんのか? アンタは! と言う気持ちを込めて綾香は返答する。
「――先日、浩之様が指示された対象物の確認およびその類推を行っておりました。
ところで、綾香様は現在不快な状態にあると推測できる状態にありますがその原因
は私にあるのでしょうか?」
 わざとやって無い分余計にタチが悪いと綾香は思った。セリオの見えないところ
では思わず握り拳なんか作ってしまっている。
「Yes!!」
「――申し訳ございません。今後、この様なことが無いようにするため具体的に
不快感を感じられた原因をお聞かせ下さいませんか? このデータはテスト結果
として後継機、つまり私の妹たちに…………」
 メイドロボを蹴った感触は人間とかわらなかったそうな。




 二度目の登場の山浦です。今回は葵SSということで、前回とかなり
趣向を変えたつもりですが…………。って、俺のSSって死ぬとか物騒なこと
ばっかだし。

 なお、文中に出ていた郭雲深の逸話については藤田和日郎
(「うしおととら」、「からくりサーカス」の作者です)の短編集「夜の歌」中に
ありますので、興味を持たれた方は是非どうぞ。