迷風奏(十一) 鬼神楽(上)  投稿者:遊真


  蠢く闇の塊にからめとられ、ついに月が堕ちた。
  地表の全ての業を流せとばかりに、降り注ぐ雨。
  アスファルトを叩いて立ち上がった水煙が、強風に煽られて濃度の濃い霧を形成する。
  漆黒との相乗効果で数メートル先も見えない視界。
  パトカーの回転灯がばらまく紅い光線は、壊れたルーレットのように対峙する二人
を指し示し続ける。
  どちらが勝者となりうるべき者なのか……。
  柳川か…。
  耕一か…。
  長瀬は、ただ瞠目して息を呑んだ。

  ここに、人の知らない世界があった。

 
     

                迷風奏(十一)  鬼神楽(上)

      

 
「ずいぶんと、元気そうじゃないか、柏木耕一」
  表情がなかった。
  顎を幾分上げて見下す瞳に、一筋の光もありはしなかった。
  感情だけが鉄面皮の下を蛆虫のように這いずり回っている。
  ありあまる雑多な激情を表現しきれなくて、結局は統べてが相打ちで死に絶える
のだ。
  そんな事があるのだと知った時。
  これまで幾多の凶悪犯をショーウィンドの中に飾られた商品のように品定めしてき
た長瀬は初めて、悪寒というものを知った。
  音が無い。
  呆れるほどの暴風雨は、長瀬の脳にまで届く事がない。
  少年の頃に見た無声映画の画面に取り込まれた自分がそこにいる。
「罪悪感の波に苛まれなかったみたいだな、もっと最悪な顔をしていると思ったよ」
  口が歪まれた。
  そこでやっと苛立ちが産まれる。
  柳川は人になった。
  長瀬の途絶えていた音も、わんっ、と唸りを引いて戻ってくる。
  出し抜けに闇を反転させる光が炊かれた。
  空にびっしりと巨木の根を這わすような稲光、そして……。
  雷鳴。
  轟いて、湿った大気を思う存分なぶった。
  長瀬の常人場慣れした気力もそこまでだった。
  膝だけが脱落したように、耐える暇もなく身体が傾く、水溜まりに右膝をつき右手
をつき、うな垂れて。
「下がっていてください」
  雨と一緒に頭上から降ってきたのは、耕一の穏やかな声音だった。
  顔をあげる。
  柳川の拳を片手で受け止めたまま、真っ正面を見据えたまま、耕一の背中が語った。
「刑事さんがやれることはここまでです。後は俺に任せてもらいます、それがたぶん
一番いい筈だから……」
「耕一君、君は…、君達は一体……」
「鬼です」
  鬼。
  御伽草子に出てくる、あの凶凶しき者達。
  そうなのか? やはり……そうなのか?
  長瀬の内に張り巡らされた常識という壁はなんの効力もなく、真実という核まで一言
で貫かれた。
  今、ここに証拠があるのだから…、疑いようがない。
  耕一は、静かに続ける。
「だけど人でもあります、それを解ってもらいたい。どの時代でも、俺達はそう思っ
て、願って、苦悩しているのだから…」
  肩越しに振り返った。
  意志の強そうな太い眉の端が下がる、耐えるような悲しさ。
「解ってもらいたいんです」
  双眼を瞑って、再び口にする。
「下がっていてください、ここからは俺の役目です」
「……それは、今は、ということだろうね」
  長瀬は視線をスライドさせて、柳川を睨み付けた。
  口の端を不敵に吊り上げて笑っている。
  茶番劇を眺めているような、嘲笑だ。
「俺は、途中で放り出すわけにはいかないぞ。君が、君達が人であると主張するなら、
これはやはり刑事事件だ、それに……柳川っ!」
  穿たれた陥穽に注がれる雨滴が邪魔だ、澱む闇が邪魔だ。
  長瀬の思いに答えるよう、閃いた雷の灯に柳川の姿がくっきりと映し出される。
「…お前は、俺がどうにかするからな」
「……なぜだ」
  意外だと、呟く男に、長瀬は今迄のおかえしとばかり皮肉の笑みを浮べた。
「なりゆきだよ」
  それだけの理由で十分だと気づいた。
   


  こちらを絡み付くような視線で睨み付けたまま、長瀬はゆっくりと後退する。
  スクラップと化したパトカーのドアに背が当たると、そのままずるずると突っ伏した。
  恐らく気絶した。
  人という脆弱な存在が、鬼と鬼が繰り出す敵意の波に身を揉まれたのだ、今の今迄、
正常に精神を保てていただけで、それは讃嘆に値するだろう。
  柳川は、注意を目の前の男、柏木耕一に移した。
「不意がつけただろう…」
  囁きでも雨音を掻き分けて相手に届いた。
  自身の声音がどれほど良く通るかを、柳川は知っている。
  利用できるものが、自分の中にあるのならいくらでも利用しようと考えた。
  産まれたときから枷をつけられた存在が社会の中で這い上がるための、それは当然
の知恵だった。
「性に合わない」
  当然なことを、と肩を竦めるこの男は…。
「…ふざけるなよ」
  真っ直ぐすぎて腹が立つ。
  まるで、………あいつみたいだ…。
  柳川は雫で濡れて意味をなさなくなった眼鏡を、中指で押し上げた。
「それは、余裕のつもりか?」
  自分を手玉に取った、生殺しにした、理由ということか。
「理由なんてないさ」
  額に張り付いた前髪を跳ね上げるように顎を上げると、耕一は両腕を組んだ。
  身体を半身にして斜に俺を見る。
「理由なんて探ろうとするなよ……」
  大気が鳴動する。
  曇天に巣くった漆黒の龍がその肢体をくねらせるように、闇が動く。
  いっそう激しくなる雨に、二人、身を沈めながら。
  厳かな一言が、柳川を冷静でいられなくした。
  いや、もうとっくに自分は壊れているのだろうけど、それでも……。

「お前は、お前だろう?」
  
  それでも、俺はこの身に吹く風の正体が知りたいのだ。
「黙れえぇっ!!」
  突然だ。
  発作の如く、柳川の憤りは突然爆発した。
  虚しさだけを同居させていた筈なのに、なぜかその瞬間に吹き荒れたのは怒りだった。
  眼鏡を右手に掌握して、粉々に砕く。
  嘔吐でもするように身体をくの字に折りかがめ、全身の震えを押さえるべく両腕で
自身を抱く。
  十指の先から垂れ流れる血液は、滂沱の雨に簡単に流された。
「知ったような事を……」
  言うなっ、と心の内で吐く。
「知らないよ」
  耕一はまったく動じない、なにがこれほど彼を安定させるのか、柳川は知りたくも
無い。
  恵まれて産まれたか、産まれていないかで、かくもこれほどの差ができるとは思い
たくない。
  それでは、あまりにも自分が惨めだった。
「俺は、あなたを知らない。だけど、あなたの苦しさは、知っているんだ……」
「それはただの夢だっ!!」
  夢と現実では、意味が違う、重みが違う、責任が違う。
「違うんだよっ!!」
  箍が外れていた。
  今まで滞らせていたものが一気に吹き出した、まるでこの嵐のように。
「だったらっ!」
  耕一の声にも怒気が混じった。
  だが、その怒りは親が子供を叱るときのそれに似ていた。
「だったら、なにをあなたはごねてるんだ? 自棄を起こして、八つ当たりして、そ
れで一体どれだけの人が不幸になったと思ってるんだ?」
「知るかっ!!」
「自分の事は知りたい、他人の事は知らない、それじゃあ……」
  その先は言うな。
「あんたはいつだって一人だ」
  白撃。
  真昼よりも明るい鮮烈な白光が、景色を焼け尽くす。
  音の圧力が、渦巻く。
  落雷はすぐ至近距離。
  頭上の街路樹の一つに、天と地を繋ぐ一筋の道を作り上げた。
  光の中、柳川の口が動く。
  耳をつんざく爆音に遮られて、声はない。
  ただ…。
  殺してやる、と紡がれている。  
  耕一も無音を紡ぐ。
  来いよ、と。
  一瞬の光の精彩を大質量の闇が食い、一瞬の音の反乱を大質量の雨音が食い。
  景色が再生したとき。
  そこに、二人の姿はなかった。
  あたかも、額縁に飾られた絵の中から、抜け落ちたように…。
  遥か上空で、鬼達の咆哮がする。



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どもっ、めずらしくもスムーズに(十一)です。
(六)の続きですから、少し違和感あるかもしれませんが・・・。

迷風奏、(二十)ぐらいには終わると思いますんで、怠惰な連載にもめげず付き合ってく
れると嬉しいです。


感想です

『がんばれボクらのクリスマス』日々野 英次 さん
  
やっぱり祐介ですね、このいかれ具合が結構好きです。時節ネタは書く暇ないので
読ませて貰って浸る事にします。

『Cryptic Writings chapter2』 

最初の方、流れてしまって追えませんでしたすんません。でも、回を追う毎に文が手
慣れて来てますよね、浩之達がアパートに突入するときの、目まぐるしい場面展開は
真に見事でした、まったく不自然じゃないし、流れているし。
自分も頑張らなければ。


久々野 彰 さん

感想ありがとうございます。これ以上の犬化、ですか。それはそれで想像不可能です
よねぇ、あれ以上に従順になっちゃったらやばい気が・・。