迷風奏(十) 満月の夜  投稿者:遊真

  
  
  マンションの屋上。
  月が晧晧と照っていた。
  藍色の夜空の端から、どす黒い雲が侵食を始めていた。
  逆巻く風に煽られて、ゆらりゆらりと、ただ一点の光に群がるように……。
  満月の夜。
  やがて来るだろう嵐。
  風雅を極めた幻想的な月天下に俺の姿はあった。
  あれを壊そう。
  あれを砕こう。
  どんなに手を伸ばしても満月を掴む事はできない、思いは届かない。
  ただ、俺の視界を遮った腕が、光を遮り、闇を投げかけただけだった……。    
「さあ……」
  低く轟く。  
  
「狩りを始めよう……」
  これは、俺の声らしい。
  



                      迷風奏(十)    満月の夜     


   

  身体の内側から鋭い爪を突き立てられたような痛みと共に……。
  胸騒ぎを覚えた。
  縁の廊下を歩いていた足が止まる。
  涼やかに鳴き彩る虫の音、さやさやと庭木を揺らす緩やかな風。
  中天。
  振り仰げば満月がかかる。
  端から忍び寄るのは、闇に闇色を塗った不吉な漆黒の雲だった。
  耕一は一度大きく眼を見開き、すぐに細めた。
  微動だにせず、ただ時だけが刻まれていく。
  居間の置き時計が、今日と明日の狭間を報じた。
  一回、二回、三回………十二回。
  明日が今日になる、今日が昨日になる。
  そしてこんな夜を迎えた今日という、真夜中は。
「鬼の出る刻限だ……」
  耕一の口をついて誰かが囁きかけ、ひっそりと警告した。
  誰だろう?
  俺の中に潜む、俺でないこいつは誰だろう?
  耕一は首を振った。
  緩々と、絡まった時代の糸を振り解き、現在という刹那にいる自分を取り戻す。
「考える事じゃないよな、今は」
  そう、今は。
「次から次へと、ほんと肩こるなぁ」
  右肩の張りを拳で軽く叩いて、ほぐした。
  再び歩き出し、玄関へ…。
  照明を点けなくとも、格子戸を通して漏れ入る蒼い光だけで十分周りは明るかった。
  上がり框に腰掛け、下駄箱からほとんど使ってなかった靴を取り出し、履く。
「……行くんですか、耕一さん」
  夜の気配に溶け込んだ、落ち着いた声だ。
  両手は靴を履く作業のまま、顎を上げて反り返った。
  逆さまになった楓が、立っている。
「楓ちゃ…」
  唖然としたまま、ごろんと転がった。
  楓はほんのちょっとだけ困った顔をすると、スカートを両手で押さえしゃがんだ。
  顔を覗き込んでくる。
  あまりにも真っ直ぐで、反らす事などできない真剣な眼差しがそこにあった。
「何? どうしたの…」
  さすがにこの体勢のままは不味い。
  上半身を起こす。
「耕一さん、鬼を殺しに行くんですか?」
  単刀直入だった。
  下手に遠回しな表現で自分を偽らない楓らしい、問いかけでもある。
  耕一はじっと、楓ちゃんの瞳を見詰めた。
  そして唐突に頬の緊張を緩め、淡い笑みを浮べる。
「そんなに怖い顔してる、俺」
  楓は両の瞳をとじると、ゆっくり左右に首を振った。
「じゃあ、どうして?」
「……後悔、しているのではないですか?」
  問いを問いで返されて、耕一は苦い顔をした。
  髪を掻き上げ、楓の真意を待つ。
「あの夜、あの鬼を、殺さなかった事、後悔しているのではないですか?」
  手が、髪を掻き上げる途中で止まった。
  何かを言おうとしても、喉から出てくる前に摩耗して声が出てこない。
  冷や汗が額を流れ落ちたが、頭の中はやけに冷静で、これが絶句ってやつなのか、
などと感心していたりする。
  ふいに視界が暗くなった。
  たぶん、フライングをした小さな雲が月にかかったのだろう。
「殺せませんでしたよね」
  どういう経緯か。
  間近にいた千鶴でさえ気づかなかった事実を、なぜか楓は知っている。
「あ、ああ……」
  やっと声が産まれた。
「……そうだよ。俺は、あの鬼を殺しきれなかった…」



  
「満月…か」
  薄絹のような雲が幾重も月にかかっては、風に吹かれて遥か東の方へと飛んでいく。
  どこまで飛ばされていくのだろう…。
「風流だねぇ…」
  口ではそんな事を言いながら、眼は月を包囲し始めた漆黒の雲にいって、雨の心配
をしていたりする。
  表向きと、内心との不一致はもう気にならない。
  それこそ、長年の仕事で得た賜物というやつだ。
  いや…職業病というものかな…。
  どちらでもいいか。
  煙草の灰がフローリングの床に落ちる。
「柳川君、本当にいるのかね…」
  交通量の減った欅並木通りを挟んだ向こうにそびえるマンション、402号室の明
りはなく、じとりとした闇が纏わりついて、静寂を保っていた。
  先程、カーテンの裾がかすかに揺れた気がしたのだが、確かではない。
  捜査課長にほとんど強引で約束をとりつけ、もうかれこれ三日も単独で張り込んで
いる。
  その間、あの扉が開いた事はなく。
  そして、毎夜の殺戮も途絶えた。
  それが意味するところ…。
  隆山の住民側に立ってみれば胸をなで下ろす心境なのだろうが……俺は…。
  俺は……。
「どうなんだろうな…」
  正直、気分が悪い。
  家具の一つも無い部屋の中で唯一佇んだ折りたたみ椅子へ腰掛けた。
  傍らの床には吸い殻が山盛りになった灰皿が置かれている。
  手にした煙草をそこに捨てると、しらじらと白煙が上がった。
  呑みかけの缶コーヒーを一口含んだ、温い。
  吸い殻の山へ流す。
  じゅっ、と微かな音が殺風景な部屋に不気味な程響いた。
「あいつは、俺にとってどんな立場に置かれた人間なんだろうな…」
  部下だ。
  そして今は連続通り魔殺人犯の容疑をかけた標的だ。
  それで十分な筈だ。
  否。
  そろそろ自分を偽るのは止めろ。
  合理的な自分の中に、ほんの少し残された何かが客観的な思考を妨げる。
「あいつは、俺か……」
  人の暖かみというものを知らない。
  近寄るものを刺し貫く陰気な殺気。
  どうしようもない暴風雨を心の内に抱えている。
  十数年前の自分に、似ていた。
  ただ一つ違うのは、奴は飢餓に苦しみ続け、俺は飢餓を克服してしまった。
  どちらが、人として正しいのかは明白だ。
  人を止めた俺が人の群れの中で折り合いをつけ、人を止める事に未練を持った奴が
人の群れでは立ち行かなくなる。
  たぶんそれが社会というものだ。
  人の皮を被った獣と、獣の皮を被った人と。
  ただ二種類。
「………馬鹿だな」
  空っぽのスチール缶を両手で握り締めた。
  力を篭めていくたびに腕の震えが増す。
「馬鹿だ。そんなことは幻想だ」
  俺だけの真実でしかない。
  宗旨がえのできない、取り残された人間の思考だ。
  世の中はそんな捨てたものじゃない、そう思える事もいくつか見て、聞いて、感じ
てきた筈なのに…。
  深谷は気の良い男、俺の親友といってもいい。
  課の奴等も、ちょっと血の気が多いのが難点だが、警察官という職務を誇りにして
いる者ばかりだ。
  あの青年…、柏木耕一の瞳は曇り一つなく涼やかだった……、だった。
  だった筈が。
  鈍い音と共に缶がひしゃげた。
「柳川……」
  俺の思いが通じたのか、ふわりと402号室の扉が開いた。
  顔はもちろん肉眼では確認できない。
  だが。
  俺は潰れた缶を投げ捨てると、立ち上がった。
  

  
  
「そうだよ、俺はあの鬼を殺しきれなかった…」
  言ってしまえば、すかっと気持ちが晴れる。
  胸の内でわだかまっていたものは、どうやら言葉と一緒に吐き出されてしまったよ
うだ。
  かといって、罪悪感までが洗い流されてしまったら、ただの無責任な男でしかない。
  あの夜、水門で対峙した鬼に止めをさせなかったこと、それが今の惨劇を巻き起こ
しているのは代え用も無い事実だ。
  耕一は靴紐を結ぶ所作を一時、止めた。
  床に手をつき、振り返る。
  楓と真向かいになった。
  楓の小さな身体は、耕一の背中に落された月光の影にすっぽり隠れてしまう。
  だけど、それでいいのかもしれない。
  この不思議な少女を見ていると、どうも自分が自分でなくなるような気がする。
  冷静でいられない。
「情けなんてない、あいつは何人もの人間を殺し、千鶴さんを傷つけた、だけど……」
  眼前まで持ってきた拳を、睨み付けて。
「その手……、動かなかったんですよね……」
  また、先を越された。
  拳から楓へ、視線を移すと、やはり影が楓の表情を見えなくしたままだ。
  拳を解く、ため息が掌にかかった。
「……そういうことだね……。たぶん、それだけなんだ。相手の命を奪うとき、奪え
なかったのは躊躇とか、同情とか、そんな気まぐれな心の動きじゃなかった、ただ、
俺はそういう奴なんだなって気づいた」
  今迄になく和やかな笑みを浮べて、耕一は楓に背を向けた。
「笑っちゃうだろ? 皆の前ではあんな勇ましい事を言っておいてさ、その実、こんな
腑抜け」
  靴を履き終え、立ち上がる。
  調子を整えるように、とんとんと地面を爪先で何度か蹴る。
「だったら、腑抜けのままでいてください」
  ぴたりと、蹴り足が止まった。
  そのまま完全に静止して、耕一は、楓の次の言葉を待つ。
「人も、鬼も、命の重さは変わりません。どんな理由があっても……命の重みは同じ
ですよね?」
「………と、俺は思うよ」
  楓は深く頷く。
「私も、そう思います。だから、腑抜けのままでいてください。誰も殺さないでくだ
さい。これ以上、人も鬼も死なないよう…、あなたならできますよね」
  今度のそれは問いではなく、確認の言葉だった。
  耕一は深く顔を俯けて、何かを考えるように両眼を瞑った。
  そして再び開いた時、その瞳は紅く輝いている。
「そう、ずっと望んできたものな、お前は……」
  落ち着いた低い声音。
「はい」
「でも、それは俺の願いでもあった筈だったんだよ……、……すまない」
  それは遠い昔から先送りされ続けた深い、深すぎる謝罪の言葉だった。
  耕一は引き戸に手をかける。
  ゆっくりと境界を開いていく。
  ぬるく、湿った真夜中の風が玄関へと侵入し、楓の黒髪を肩でふわりと流した。
  蒼い月光色に染まった飛び石に、一歩。
「俺は、お前の願いを叶えられなかった……。だけどこいつなら…、柏木耕一なら」
  言葉は最後まで続かなかった。
  不意打ち気味に玄関の明りが灯る。
  アセチレンランプにも似た、強くそれでいて確実性の薄い揺らぎを内包した光の下へ。
「耕一お兄ちゃんっ!!」
  パジャマ姿の初音が、駆け込んできた。
「楓お姉ちゃんも、ここにいたんだ、千鶴お姉ちゃん!」
  二人の姿を認めて、初音は家の奥へ呼びかける。
  直ぐに、ひっそりとした影を振り払うように千鶴が表れた。
「耕一さん、楓」
  千鶴もまた、楓と耕一の姿を見つけると、目に見えて安堵の表情を浮べ、溜め込ん
だ緊張を吐き出した。
「千鶴さん、どうしたんだ?」
  日頃から不安の色を他人に見せようとしない彼女が狼狽している。
  ここに、自分と楓がいる疑問を質す余裕もない。
  何かがあった。
  それを察して、耕一は素早く詰問した。
「梓お姉ちゃんが…」
  答えたのは、初音だ。
「この前借りた本、返そうと思って部屋にいなくて……、どこ探してもいなくて……」
  得体の知れない焦燥感に包まれた初音が小さな身体を震わせる。
  千鶴がその肩にやんわり手を置いた。
「私も、もしかして、とは思ったんです」
  ……危惧は現実となったわけだ。
  予想どうりに予想はずれの行動を取られた。
  無理に押さえつけても駄目だったのだ、そうするぐらいなら側において監視でもし
ていたほうがましだった。
「あの、馬鹿っ!」
  怒声をここにいない梓に向けつつ、自分自身も罵る。
  食いしばった歯と歯が、バキバキッ、と激しい摩擦音を立てる。
  踵を返す。
  もはや安穏と、月光浴でもしながら鬼探しとはいかなくなった。
「千鶴さんっ」
  それだけで通じる。
  千鶴は耕一の背をじっと見詰めて、頷いた。
「私も、すぐに行きます」
  門を潜るのも億劫だ。
  その場から、地面を蹴って跳躍する。
  奇麗な放物線を描いて塀の上へと着地すると、塀瓦がその衝撃で軽く割れる。
「耕一さんっ!!」
  振り向けば、玄関の引き戸に寄り掛かりながら、楓が真摯な瞳で耕一を見詰めていた。
「大丈夫だっ!」
  大丈夫。
  誰も、もう殺させはしない。
  自分の力は鬼を狩るためのものじゃない、大事な人を守るためだけのものでもない。
  誰も哀しませないための…。
  最強の力だ。
「大丈夫だ……」
  二度目の大丈夫を、自分自身に言い聞かせるべく呟くと。
  耕一は満月を背にして漲る力を浮き上がらせた。




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えっと、ここから(六)の続きに戻るわけですな。
連載のフィードバック方式ってもしかして禁忌かも。


都合、三週間(?)ぶりの迷風奏です。
さすがにもう誰も知らんのでは?と思いましたが、尻切れ蜻蛉になるのは不味いだろ
うと思いまして、再開とあいなり候。


感想は・・・すいません、数週間ぶりにみたら鬼のような書き込み量、追っていくの
に四苦八苦ですんで。
とにかく前回分までの感想くれた方々、ありがとうございます。