迷風奏(九) 月の裏(下)  投稿者:遊真

  
  真っ白という表現が、一番良く似合う病室。
  描きかけの未完成の絵の中に青年は、同じく色を無くして溶け込んでいる。
  濁った瞳が、窓の外に広がる蒼さに憧れていた……。
  流れる風に木目細かな髪を、さらさらと流しながら…、堅い壁に背を預けながら…。
  ただ、じっと…、それだけしかするべき事を知らない幼子のように。
  外の景色を眺めている。
  阿部貴之は死んだように生きている。
  貴之の視線の先に、空気に霞んだ緩やかな山の稜線がある。
  雨月山と、あるもの云う。
  鬼が住む山と、あるものは云う。
  阿部はそれを見ていて。
  長瀬も、深谷も、千鶴もそんな阿部を見ていて…。
  耕一だけが、別のものを見ていた。
  なぜ、ここにこんなものがあるのだろう。
  なぜ、誰もが関心を払わないのだろう。
  陽光の届かぬ病室の片隅に、立て掛けられたギターが一本。
  ひっそりとあるのを。
  
  

                         
                      迷風奏(九)       月の裏(下)      



  
「……まあ、こんなところか」
  取り澄まし顔で、長瀬は阿部貴之に対する事情聴取を終える宣言をした、いや……。
  終える、というよりも、諦めたといったほうが正しいだろう。
  貴之は一度とて、質問には答えていないのだ。
  ベッドの傍らに寄せた椅子に座る長瀬など、眼中になく、連れない横顔をみせて、
彼自身が見ているのは、ただ一点。
  窓の外。
  小高い丘の上に建てられたこの病院、804号室の窓は隆山をすっぽりと、その小
さな四角に収めている。
「具体的な話しはまだ無理だと、電話で言っておいただろう」
  深谷が幅の広い肩を竦めて、人を小馬鹿にした笑みを浮べた。
  耳の裏を、人差し指で掻きながら…。
「何事も自分で確かめないと済まない性分でね」
  長瀬は気のない返事をする。      
  貴之の横顔をじっと見据えながら、頭の中では結果から導き出される捜査の修正に
余念がない。
「あら……」
  ドア近く辺りで大人しくしていた千鶴が、独り言のように小さく声を発した。
  振り返ったのは、耕一だけだ。  
「どうしたの」
「…いえ、別にたいした事じゃありませんから…」
  そう言いながら、静かに窓辺へと歩いていく。
  追った先に、作り付けの簡素な棚があり、その上にぽつん、と花瓶が置かれていた。
「ああ…」
  まったく気づかなかった。
  ……花が萎れかけている。
「水、ありませんね。可哀相に」
「ああ、それ。阿部君の親御さんが持ってきた、見舞い用の花だよ。本当の所、物は
持ち込み禁止なんだけどね」
  深谷が答えた。
  千鶴は両手を添えて花瓶を持ち上げる。
  振り返った彼女の顔は、解せないといった風に柳眉を顰めていた。
「……来て、直ぐに帰ったのですか?」
「良くは知らないが、実家のほうで色々とあったようだな、あれは」
「いろいろ?」
「だから、私は知らないよ、聞くのだったら……」
  深谷は長瀬へ一瞥を送った。
「家を飛び出してきちゃったらしい。父親も質実剛健が服を着ているような人でねぇ
、始末におえないよ、あれじゃあ」
  促されて、淡々と発言する。
「高校時代のバンド仲間と、プロを目指して上京したが結局アマチュア止まりで解散
。帰る所のない阿部貴之の行き着いた先がここ隆山。失意ってやつと寂しさってやつ
を紛らわそうと、手につけてしまったのが………」
  深谷は不快を隠そうともせず、ふん、と鼻を鳴らした。
  その後に続くだろう言葉は、さすがに耕一達のいる場で紡ぎ出される事はなかった。
  だが、それを察せないほどに鈍い者など、病室にはいない。
「大変だったな……」
  貴之の華奢な肩を、ぽんぽん、と二度叩いて長瀬は椅子から立ちあがった。
  ひょう。
  迷い込んだ一陣の風が、吹き溜まりと化した病室でくるくると回り、やがて消えて
いく。
  風が萎えた時、暑さというもの感じた。
  時折、やけに涼しい日もあるが、時折、やけに暑い日もある。
  公平に訪れるものじゃあない。
  たぶん、暑さとしてそれを感じているのは、自分だけなのだ……。
「長瀬さん、俺に話しをさせてくれませんか、彼と……」
  彼の中の、柳川裕也という男と…。
「……もちろん、いいが。そのために君を連れてきたんだからね。しかし、話せる状
態じゃないよ」
「話せなくても構わない」
  近くにいれば何かが伝わる筈だと、根拠もなく耕一は思った。
  ながば強引に長瀬と位置を入れ替わり、椅子に座る。
「長瀬さん、そこのギターを取ってくれませんか…」
「ギター?」
  初めて聞いた、この刑事が訝し気に、声を発するのを。
「そこの隅に立て掛けてありますよね、ちょうどベッドが死角で見えにくいですけど」
  だからといって気づかぬ筈がない。
  完全に見落としていた彼は眉をひくつかせた。
  深谷を見る。
「……知らんな。親御さんが持ってきた覚えはないぞ、そんなかさばるもの」
「じゃあ、誰が? 阿部貴之がこっちに移されたのは、昨夜だろう、その間に面会を
したのは…」
「親御さんだけだ」
  二人が話している間に、千鶴がベッドを回り込み、ギターを取る。
  耕一に手渡した。
「ありがとう、千鶴さん」
  耕一は感触を確かめるように、ギターを構えると、そして徐に弦を弾いてみる。
  一つの音が室内に響いた。
「……聞かせたかったのか?」
  弾き語りをするように、優しく声をかける。
  もちろん声を掛ける相手は、ベッドの中の忘却者。
「聞かせたかったんだ。その人のために作った曲だったんだろう?」
  もう一度弾く。
  今度の音は良く澄んで浸透した。
  堅い白壁も優しくなったように、音を吸収する、突き返したりはしない。
  弾くのは、耕一の指に宿った鬼の爪。
「……その人のために、弾いてやれよ」
  そして耕一は顎を引き、ギターに視線を這わす。
  流れるように…。
  一つ、曲が弾かれた。
  その場に居合わせた誰もが知らない曲だ。
  即興でもない。
  丹念に練り込まれているのは、素人めから見ても解る。
「……風、だよな」
  弾きながら、耕一はぽつりと呟いた。
  透き通った音階は、時に強く、時に弱く、うねりを描いている。
  病室の囲いは消えて、見渡す限りの荒野に一人投げ出された男が聞く風の音。
  迷いと不安に慄く男の心の色。
  そして唐突に。
  曲が止まった。
  未完成なのだ、そしてそれが曲の終わりでもある。
  いつまでも紡がれていき、終わりのない旅路……。
  夢から覚めたように、耕一は顔を上げた。  
  なにかがふっきれた、晴れやかな顔だ。
「…曲名、つけてもらえって」
  ぐっと握りこぶしをつくって、誓いを立てるかのように、貴之の前へ突き出す。
「俺が、必ず連れてくるからさ、その人を……」
  無表情なのは変わらない。
  澱んだ瞳もそのままだ。
  だけど、その瞳から流れた雫ははどこまでも奇麗だった。
  ああ、いつのまにか……。
  貴之は泣いていた。
   



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

今回の主役は阿部貴之。
設定の少ないキャラは動かしやすいから、どうしても出番が多くなってしまう。
ようするに精進が足りないからなんですけど。


感想です

『Cryptic Writings』  日々野 英次 さん

おわっ、そう来ましたか。最終話、謎がさらなる謎となって残りましたね。
ここまで徹底してあると、思惑通りに運ばされたなぁってな感じです。
Chapter1は、序曲といった所でしょうか。
Chapter2以降も期待して待たせてもらいます。
 

   夜蘭 さん

長瀬がお膳立てをして、その土俵で柳川、耕一が相対するというのが一番、事をスム
ーズに運ばせる手だと思った次第で、奮闘させました。
なにせ、千鶴エンドでは、柏木家側からの柳川の認識がありませんから。