迷風奏(八) 月の裏(中)  投稿者:遊真


  この刑事がいったいどんなたくらみで、自分たちに『柳川裕也』という男の存在を
語ったかは解らない。
  手帳三ページほどにまとめられた柳川裕也の二十数年。
  溯った先に、柏木の名が見えた。
  柏木耕平の妾腹……否、認知されぬどころか堕胎を迫られた忌み子。
  私の後輩ですよ、と長瀬は手帳を閉じてそう締めくくった。
  この隆山にいるんですよ、と。
  この刑事がいったいどんな経緯を歩んで、自分たちに『柳川裕也』という男の存在
を語ったかは解らない。
  解る事、その男が柏木の血を濃く継ぎ、鬼を継ぎ………狂気を継ぎ……。
  それだけで充分だった。
「耕一君」
  欠伸を噛み殺したような気だるい声音が、耕一の名を呼んだ。
  傍らを歩く長瀬に顔をゆっくりと向ける。
「…なにか?」
「なにかってほどの用はないけどさ。ただ男二人、肩を並べて無言で歩くのもあれだ
ろう、何かしゃべらないかい」
「……なにか、ですか?」
  耕一は苦笑をして頭を掻いた。
「じゃあ、とりあえずこれから行く所について教えてくれると嬉しいんですけど」
「病室だよ」
  口元に、にやにや笑いを貼り付けて長瀬は即答した。
  その後ろを若い看護婦がカルテを胸に抱えて通り過ぎていく。
  軽い目眩と共に、耕一の口から深いため息が漏れた。
「ここ病棟ですよ」
「だね」
  どうも、からかわれている気がしてならない。
  そちらから話をふっておいてまるで継続させようとする努力をしないのはどういう
事だろう。
「どこかの病室に向かっている事ぐらい、俺にだって解ります」
「そうかい。じゃあ823号室の、少年A君、これで良いかな」
「……少年A?」
  休憩所を兼ねたエレベーターホールに入ると、長瀬は歩を止めた。
  この一角だけ、壁に張り付けられた硝子を通して午後の光線が射し込んでくる。
  階数表示の点滅を仰ぎ見ると、まだ四階の辺りでもたついていた、他の二つは階上
へと発進している。
「新聞や、テレビではそう報道されている筈だけどなぁ。巷を騒がせた凶悪殺人犯は
なんと十代の少年だった、って」
「………それなら、今朝のニュースで……」
「そう、誤認逮捕。だから昨夜の内に警察病院から、こっちの病院にうつしたのさ。
まずいだろ容疑が晴れたのに警察機構管轄下に置くのは。軟禁になっちゃうからね」
「……で、その少年Aって」
「ああ、名前ね。その少年の名前は……」
  チン、と音が響くと同時にエレベーターの扉が開いた。
  鉄の箱から、幼い女の子と男の子、そしてその手を繋いだ母親らしき人が出てくる。
  通り過ぎた際に、ふわりと鼻孔に届いたのは染み付いた薬品の匂いだった。
  母親は患者服を着ている。
  そっと肩越しに振り返った。
  他愛もない事を一生懸命話して聞かせる子供達に、慈愛の篭もった瞳で接する母親…。
  母親…。
  あの時も、あんな風に安らいだ顔をしていた…。
  大丈夫だと思ったから……。
「耕一君」
  親父を呼ぼうなどと露程も耕一は思わなかった。
「耕一君」
  向き直ると、既に長瀬はエレベーターの中に入っていて、しきりに閉まろうとする
ドアを、右手で押さえていた。
「乗らないのかい、階段で昇るのはちょっと骨が折れると思うよ」
        
「阿部貴之の病室は八階にあるからね」

  


                          迷風奏(八)    月の裏(中)




  エレベーターが上昇をはじめると、二人は示し合わしたように両端の壁に寄って距
離を離した。
「そういえば……」
  階数表示のランプが三階辺りまで来た所で、長瀬が出し抜けに口を開いた。
「君の母親は…」
「亡くなりました」
「だったね。調査書にもそう書いてあった」
「………片っ端に調べるんですね」
  皮肉交じりに言ってやったのだが、長瀬は気にした風もなくのほほんとした表情を
崩そうとしない。
「時々、寂しくなるような事はないのかい?」
「ないですよ」
  迷いのない返答だ。
  そう言いきった時、ほんの一瞬だけ長瀬の表情が和んだのを耕一は見過ごさなかっ
た。
  遠い目をしている。
  自分を見ながら、誰か他の人を見ている…。
  長瀬が顔を反らした
「君が強いのか、周りが強いのか……」
  そんな事を呟いて、次にこちらへ向き直った時は、いつもと変わらぬ飄然とした雰
囲気で彼は刑事としての武装をほどこす。
「しかし……」
  皮肉たっぷりの笑みが、話しを唐突に変えて違和感を覚えさせない。
「驚いたよ、急にうちを訪ねてくるからさ」
  うち、とは長瀬の所属する刑事部、第一捜査一課の事を指しているのだろう。
  耕一は、長瀬から叔父の存在を示唆された次の日、さっそく長瀬からもっと詳しい
情報を得ようと訪ねたのだ。
  この飄々とした男のことである、何かしらの思惑があるのは間違いないのだろう。
  長瀬の帰った後、千鶴と良く話し合い、あえて与えられた餌に飛び付く事にした。
「……迷惑でしたか」
「だったら君をこんな所には連れて来やしない。……ちょうど相棒がいなくてね、寂
しい所だったから、大歓迎だよ」
  果たして、その大歓迎にどんな意味が篭められているのか…。
  エレベーターが八階につく。
  静かだ。
  それがこのフロアーに押し込められた患者達の心の淵だと耕一は直ぐに悟った。
  鬼の、人を陵駕した感覚器官は五感だけに留まらない、通常、第六感と呼ばれる未
知の感覚が備わっている。
「なんだか息苦しいな…」
  長瀬の独り言に、耕一は心中頷いた。
「精神科医にかかっている患者は、この階に入室させられるのさ」
  公然とした獄舎だね、と問題発言をさらりと言う。
「……あれ…?」
  長瀬の戯れ言を聞きながら、まっすぐ伸びる廊下の先に、見慣れた人を発見して耕
一は立ち止まった。
「千鶴さん!?」
  素っ頓狂な声を思わず出してしまう。
  白衣を着た医者らしき男と、廊下で立ち話している黒髪の女性がこちらを振り返っ
た。
  間違いない、千鶴である。
「耕一さん…」
  なんで此処に、と驚く耕一に対して、千鶴は嬉しそうな罰の悪そうな表情を浮べた。
「やあ」
  長瀬が片手を上げて挨拶をしたのは千鶴の傍らで、いかにも気難しい顔をした医者
である。
「ああ、長瀬か」
  歩を気持ち速めて、二人は千鶴達に近づいた。
「どうしたの、千鶴さん?」
  問い掛けると、千鶴は両手を胸の前で組んで相手の様子を伺うように上目遣いをす
る。
「あの、そのぉ…。…柏木のこと、耕一さんに任して、長女である私がのほほんとし
ているのは心苦しいというか、なんというか…」
「鶴来屋の方は? 大丈夫なの?」
「一応やるべきことは午前のうちに済ませました。緊急の用務は足立さんに…」
  任せたのだろう。
  昨日あれだけ、為すべき事をやれ、と強く梓に言っていた当人がこれでは、言われ
た梓もたまったものではない。
  半ば呆れて、半ば千鶴さんらしいなと、耕一は苦笑した。
「私達がここにいるというのは、うちの奴等に聞いたんですか?」
  長瀬が愉快そうに話しへ割って入った。
「はい、既に出かけているということで。課のみなさん、親切に教えてくれました」
  それはそうだろう、男ばかりの職場に美人会長として隆山で評判の千鶴がひょっこ
り訪ねたのだ。
  その絵を想像したのか、長瀬はさらに瞳を細めた。
「患者の病室を教えてくれっておっしゃるんだ、このお方」
  会話を黙って聞いていた医者が、やれやれと首を振った。
「親類、関係者以外、面会禁止だっていうのにさ」
  押し問答の最中だったようだ。
「まあ、長瀬の連れだってことなら、構わないけど」
「連れだよ。阿部貴之の病室へ通してくれないか」
  長瀬と男の口振りは、ただ刑事と医者の関係という以上にくだけている。
  直ぐに察して、長瀬は耕一に男を紹介してくれた。
「高校からの友人でね、深谷誠司。自ら医療に携わる奇特な医院長だよ」
「奇特? 医者の本文は医療だろう。どこが奇特なもんか」
「そういうところが、奇特だというのさ」
  ひとくさり、親友らしい掛け合い。
  それが終わると、深谷は着いてこい、といささか横柄に三人を促した。
「その後、経過はどうだい」
  静寂に包まれた廊下に四つの足音が響く。
「さっぱりだな。でもまあ、精神の病ってやつは、急けば急くほど遠回りになるもの
だから、長い目で見ていくさ」
  医者としての立場で答えた深谷に、長瀬は苦い顔をした。
「おいおい、患者は待っていてくれるだろうけど、犯人は待っちゃくれないんだぜ」
「阿部君は犯人じゃないのだろう」
「ないが、唯一犯人と向かい合って生き残った証人である可能性は高いんだよ」
  そして、柳川裕也という柏木の血縁と友好のあった者だ。
  耕一は口に出す事なく付け足して、肩を寄せるように横を歩く千鶴を見た。
  細い顎を引いて、ゆっくりと頷く。
「それでか」
  深谷が納得したと無精髭の生えた顎を摩った。
「なにが?」
「束縛されることをひどく嫌うんだよ。こっちに移された初日に、自殺まがいの事を
してね、一度だけベッドに固定させた時があったんだ」
「それで」
「ひどく暴れた。普段は一日中、窓の外を眺めるぐらい穏やかなんだが」
「犯人に自由を奪われた記憶ってやつかい?」
「断定はできないけどね。だが、そうだとするとつじつまのつかない行動も見受けら
れる」
「今日はいつになく饒舌だねぇ」
「ほっとけ」
「うん、ほっとくから、続きを早く話すように」
  ふん、と深谷は鼻を鳴らした。
  数歩先をゆく一風変わった二人の中年の話しは続く。
  耕一も千鶴も、特別な聴覚で一字一句逃さず聞いていた。
「束縛を嫌う癖に、閉じられた部屋から逃げ出そうとはしないのさ。いいや、それど
ころか部屋にいるということに使命感……言い方が変だな…、義務、とでも言ったほ
うがいいか、それを感じているらしい」
「なぜ、そんな事が解る」

「ドアを開けるんだよ」
  
「ドアを開けて、外にいつでも出られる状況だというのに、そこから出ようとしない」
  廊下の突き当たり、非常口の緑色ランプが近づく。
  阿部貴之の病室は角部屋とのこと。
「……解らないな、どういうことだ」
「つまり、ああいうことだ」
  深谷は立ち止まった。
  後ろを歩いていた耕一達は歩を遮られる。
  深谷の指差した先には…。
「……開いている」
  千鶴が呟いた。
  ずらりと並ぶ病室のドアは、どれも牢のように堅く閉ざされているというのに…。
  なんなのか、この感覚は。
  まるで引寄せられるように、耕一は三人を置いて歩き出した。
  人を待っているのか。
  あの開いたドアは人を待っているのだ。
  部屋の入り口に立つ。
  狭い病室の小さな窓を通して広がる、うららかな日差しに包まれた外の景色。
  それを、ただぼんやりと眺めるベッドの中の青年。
  ゆっくりと頭を巡らす。
  瞳が合った。
「柳川さん……?」
  病室の内から、病室の外に向けて言葉は紡がれず口だけが動く。
  だから実際、柳川といったのかどうかは、解らない。
  だけど、耕一は感じた。
  そして……。
「違うよ」
  ただ、そう告げた。
  阿部貴之という己の名さえ忘れた青年に向けて…。





−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

物語を途中変更したおかげで、遅れました(汗)。
つ、次こそは一週間以内に・・。


感想です。

おーえす さん   『鬼龍業魔録』

動きのある描写は難しい。行動だけを並べ立てても駄目だし、場の雰囲気を盛り
たたせなきゃいけないし、人物の心情も上手に動作へ乗せないといけない。
その微妙なバランスが、自分好みっす。

日々野 英次 さん   『Cryptic Writings』

快調に飛ばしてますね。そろそろ締めという事で、柳川の苦悩、薬の出所、意識の戻
らない楓、突如登場したメイドロボ。錯綜するこれらが一体どうまとまるのか楽しみ
です。
こちらも後半部は、柳川にばしばしと決めてもらって、主役をアピールさせますんで。



  夜蘭 さん

感想ありがとうございます。感想貰うと、やはりもっと良いものを、と励みになりま
す、本当に。

一応、それぞれに、それぞれの見せ場らしきものは構想してありますから、安心して
ください(笑)。