迷風奏A 逢魔が時来たりて(上)  投稿者:遊真

  
  風は……。
  風でしかない。
  どんな間近に、吹き抜けても。
  吹き抜けていったに過ぎない。
  誰も彼も、注意を払って、その一瞬を記憶に留めてくれる筈がない。
  
  ただ……。

  ただ、暖かく優しい風を送るより、逸そう冷たく厳しい風を送ろう。
  切り付けた風の痕は、その人の心に残るだろうから…。


  ただ逸そうの冷たい風を…。




            迷風奏 A  ―― 逢魔が時来たりて(上) ――



  電話のコール音がけたたましく鳴っている。
  慌ててそれを取る同僚の背中を横切って、部屋の片隅、日の当たらぬデスクに
俺は行き着いた。
  騒がしい課内に反比例するよう、静かに椅子を引いて腰を下ろすと、それを非難
がましく睨む視線の数々を鋭く細めた瞳で威嚇した。
  一週間以上の無断欠勤。
  なるほど、減給、停職、降格処分を受けてもおかしくない状況で、訓戒だけの
お咎めは、納得できるものではないだろう。
  全ては実力のみが優先される時代において、力無きものは常にこんな嫉妬と憎悪
を糧にして生きている。
  自分の無力さを見詰める勇気がないから、他人を怨む。
  俺は冷えた笑みを口元にはりつかせて、<仕事>に取り掛かった。
  取り掛かって直ぐに。
「よう」
  声が掛けられる。
  誰だと、誰何するまでもない。
  警察署の殺人課という、この殺伐した課内の中で、こうものんびりと、日和った口調。
「長瀬さん……」
  顔を上げると、よれよれの背広を肩にかけた馬面の男が皮肉っぽい笑みを浮べている。
  俺の行動に対する笑みではない、普段からこうなのだ、この長瀬という男は。
  別に嫌いではない。
  だが付き合うのには骨がいるし、頭もいる。
「外回りですか?」
  挨拶代わりの問いかけにも、相変わらず曖昧そうに顎を摩る。
「会社勤めみたいな事をいうね」
  そう云うと、俺がデスクに広げた資料を徐に手に取った。
  俺が静止する暇もない。
  のらりくらりとしていて、なかなかどうして猫のように素早い。
「阿部貴久。連続殺人事件の容疑者か…。興味あるのかい?……そういえば容疑者
の潜伏していたマンションと同じ所に住んでいたんだって、君」
  資料を眺めながら、ちらりと横目で俺を見る。
  極めて冷静に答える。 
「歯噛みする思いでしたよ。でも灯台下暗しともいいますし」
「まあ、そうだろうな。あんなでかいマンションだとなぁ。俺の所みたいなボロア
パートなら注意も届くだろうが…」
  先程から語尾が曖昧だ。
  要領の悪い物言いは、彼が誘導尋問をする時の手の一つである。
  まさかと思うが……。
  疑っているのか? この俺を……。
「長瀬さんっ」
  今年入所したばかりの若い男が、部屋の入り口から長瀬を呼ぶ。
  途端。
  辺りの喧燥が、俺の耳に飛び込んできた。
  思った以上に、俺は緊張をしていたらしい。
  椅子の背に、人形の糸がきれたよう凭れる。
「ああ、行くよ」
  長瀬は、怒鳴らなくとも良く通る声で返事をする。
  それからこちらに苦笑を向けた。
  資料を手渡すと、胸ポケットからくしゃくしゃの煙草を一本取り出した。
  禁煙中のため、吸うのではなく、ただ咥えるだけだという事。
  口元の寂しさを紛らわすにしても、自分で自分の首を絞めているような気がする。
  まるで自身の意志の強さを試しているようにも見受けられた。
  なんだかひどく羨ましい。
「血気盛んな奴だよ。無理も無い、交番勤めからやっと入所して直ぐにこの大事件
だからな」
   踵を返す長瀬を、俺は呼びとめた。
「あの事件がらみですか?」
「ああ、かおりって名前だったけなぁ…。そろそろ面会可能だって医者から連絡が
あったんだ、事情聴取ってやつだね。心苦しいが仕方ない」
  根ばかり詰めない様に、そう言い残して長瀬は立ち去る。
  ………。
  かおり。
  ………あいつか。
  廃人同然に追い込んだと思えば、しぶとく人間を取り戻しているらしい…。
  胸の空洞が風を鳴らす。
  俺は、組んだ両手に顎をのせて、じっと長瀬の出ていったドアを見詰めた。
  やがて椅子を軋ませて立ち上がる。
  長い会話を終えてやっと受話器を置いた同僚が、背中を通り抜ける俺の気配に、
今度は気づいて振り返った。
  背凭れに腕をかけて。
「なんだ、長瀬さんについていくのか」
  俺は立ち止まると、一呼吸を置いて肩越しから同僚を見る。
  すっと眼鏡を押し上げて一言。
「いや」
「じゃあ、なんだよ?」
  そんな事はどうでもいいだろう…。
「トイレだ」
  俺は騒がしい部屋を出た。
  活気のないぶん、廊下の方がひんやりと涼しい。
  硬質な床は俺の足音を、頑固に跳ね返す。
  向かいから来る二人連れの婦警と横切る際、俺は顔を俯けた。
  なぜなら…。
  
  なぜなら俺の瞳は紅く血の色で染まっていたのだから。