微笑みと甘いラヴソング 投稿者:ゆき
 こつこつと人たちの足音が──無味乾燥なBGMが──流れる駅の構内。……私は、ひしと掴んでいた彼
の──耕一お兄ちゃんの手を離した。
 ひとまず、私は喋らない。喋れないから。どうしても喋れない。何でだろう、きっと不安だからだ。


私の中の誰かが悲鳴を上げる。
──不安なの──


 耕一お兄ちゃんは私に振り返ると、小さく笑んで──それは微笑みと表現するよりも更に小さい──言っ
た。
「…じゃあ、初音ちゃん。……またね…」
 そして、それから私の頬に軽くキスをする。人目があるから、音もないキス。……私は、例えクラスの友
達に見られても別に良いのに、と少し思った。そしてその想いは時に分厚く、時に広く、私の心の中に降り
積もる。
 私は目を伏せた。
「……次は、いつ来られるの……?」
 そして、自分の舌や歯茎にしか聞こえないくらいの声で、呟く。
 不安だから声が響かない。
「…………解らないよ……でも…やらなきゃいけないこと、全部片づいたらまた……絶対に来るよ」
 耕一お兄ちゃんの声も笑みもとても優しかったけれど──それはまるで私の鼓膜を突き破って脳内を巡っ
て血液の中に侵入して心臓を貫くみたいに──私の胸は痛いくらいに跳ねた。


私の中の誰かが喚く。
──私に何も言わずに、今日よ今よ幸せよ何処かになんて行かないで──


「ぜったい、ぜったいだよ?」
 念を押さずに入られない。いつもそう、電話口でもそう。その度にお兄ちゃんは優しく微笑んで、私の頭
を手や声で撫でて、落ち着かせてくれる。──勿論今も──
「ああ、……絶対に来るよ」
 お兄ちゃんはそう言うと身を翻し、人の海の中に沈んでいった。
 人魚姫みたいに、水泡になりながら。


私の中の誰かが涙する。
──私の前から消えないで──


 帰り道途中の商店街。晩御飯時を少し過ぎたからか、あまり人は居なかった。だからかもしれない、普段
は聞き取ることすら難しいお店に流れている音楽が私の耳に染み込んできた。
 それは、ゆっくりとやわらかく、とけそうに危うく、そして何よりも寂しくてぬるま湯のような優しさを
持った曲だった。
 私は泣き出しそうになった。どうしてこんなに切ないんだろう。
 ふと、まんがや小説やドラマに自分を──少しだけ、だけど──投影してしまうことがある。これはまる
で私みたいだ、と思うときがある。それと同じだった。自分は自分をヒロインにすることで寂しさを美化し
ようとしているのだ、といい聞かせる。……でも無駄だった。思えば思うほどに焦燥がつのるのだ。


私の中の誰かが俯く。
──何でこんなに恐いの──


 家に帰ってくると、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。誰もいないとたががはずれ、マグマみたいに奥
底から涙がはい上がってくる。
 私は身体を丸くして泣いた。目を閉じて、耳を閉じて、思考を閉じて──


私の中の誰かが囁く。
──何でそんなに泣いてるの──


──わかんないよ。


私の中の誰かが息を吐く。
──足下が見えないんだね──


──自分が立っているのかもわかんないよ。


私の中の誰かが薄く笑む。
──多分あなたが抱えているものは──


──ヤキモチとか、そういう物……ドラマやなんかと自分を重ねてる…寂しい空想…。


私の中の誰かが背を叩く。
──解るのなら、簡単だよ──


──でも、何も分からないよ。


私の中の誰かが微笑む。
──あなたが解っているから私が解るのよ──


──でも、何をすればいいのかわかんないよ。


私の中の誰かが私の頭を撫でた。
──簡単なことだよ──


──そして、それは必ずしも悪い事じゃないよ。



 少しして、またお兄ちゃんが来て、また帰る日になった。
 そしてまた、私達は駅の構内にいる。
「初音ちゃん、…………じゃあ…」
 耕一お兄ちゃんはそう言って、私が腕にしがみつくのを止めるのを待ったのだろう。けれど私はお兄ちゃ
んの手を離さずに、寧ろ強く抱き締める。
「……初音ちゃん…」
 お兄ちゃんは、少し困ってしまったようだ。
 だけど、私はそれでも良いよね、と思った。少しはお兄ちゃんにも困った貰わないと。
「……ねえ、お兄ちゃん」
 私は、お兄ちゃんの服に顔を沈めながら、声を出した。
「………私も連れてってよ…」
「え……………えっ?」
 お兄ちゃんは素っ頓狂な声をあげる。それから困惑した声で、
「初音ちゃん………」
 とだけ言った。


私の中の私自身が優しく言う。
──時には問題の先送りも良いよね?──


「……でも、今は許してあげるからね?」
「へ?」
 私が急に顔を上げ、ニッコリと笑ったものだから、お兄ちゃんはまたビックリして変な声を出した。
「え、あ、う、へ?」
 どうも、私の言っている意味が完全には伝わらなかったようだ。
 私はくすっと笑いながら言う。
「………私ね、いつもお兄ちゃんが帰ってこないんじゃないかって不安なんだよ。だから私もお兄ちゃんに
ついていきたいの。だけどそれが駄目なのなら、私もうちょっと待ってるよ。だから、ちゃんと迎えに来て
よね?」
 それを聞いて、お兄ちゃんは頭を掻いた。私の心の中はすっきりして、お兄ちゃんがそれになんて答える
のか楽しみで仕方が無くなってしまっている。お兄ちゃんは苦笑しながら言った。
「……まさか初音ちゃんに言われちゃうとはなあ…。解ったよ、ちゃんと迎えに来る。約束するよ──」
 そして、ゆっくりと私に顔を近づけて、今日はちゃんと唇にキスをしてくれた。私は心の中でいたずらに
笑い、この場所に誰かが居たら、ひょっとして明日何か言われるかな、と思う。それも良いかも知れない。
私は照れながらのろけるんだ、「えへへ、格好良い人でしょう? だけど、誰にもあげないよ」。
「…でも、気を付けてね?」
 キスが済んで紅潮した顔で私は言った。
「私の『連れてってほしい』って言う気持ちはいつも溜まっていくんだ。だから、迎えに来てくれた時ぎゅ
うぎゅう詰めの反動で大変なことになっちゃうかも」
 言いながら私は笑った。
 お兄ちゃんも笑った。
 前に聞こえてきた曲を歌っていた歌手は、今度は甘いラヴソングを歌っていた。

                     … 了 …

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 何はともあれ、初音ちゃん誕生日おめでとう。
 また今年も、彼女の恐い話から哀しい話、あたたかい話から恥ずかしくなるほどの話まで、いろいろな物
語が紡がれていくことを確信しながら。
                                    1999 2/27

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/2013/