風と波と 投稿者:ゆき
『風と波と』                                       ──この小説を、西山英志さんに。

 早朝。まだ薄い日の光と、微睡んだような霧が美しく重なり合って、幻想的
すぎる雰囲気を醸し出している。
 細波。静かに、そしてやはり美しく、囁くようになっている。
 二人。──俺達はそんな浜辺を、のんびりと歩いている……。

 隆山での一件を全て──少なくとも自分で収拾のつけられることは──片
づけたあとも、俺は半ばだらだらと柏木家にお世話になっていた。そしてこれ
からも、あと少しの間はお世話になり続けるつもりだ。理由は、もう少し『家
庭』に甘えていたいから──ではなく(いや、それもあるのだがそれ以上に)、
できるだけ長い間、楓ちゃんと過ごしていたいから──だ。
 本音を言えば、楓ちゃんとは離れたくない。でもそれは無理な話だ、彼女に
は学校があるし、そうでなくとも今の俺では悔しいほど現実的な意味での能力
が足りない。言うなれば、俺達はまだ若すぎるのだ。でも、どんなに自分にそ
う言い聞かせても衝動は収まりがつかない。そんなわけで、俺は未だに柏木家
に居候していた。

 今朝は別に示し合わせていたわけではなかった。たまたま、俺と楓ちゃんが
早朝に目を覚まし、落ち着かなくて部屋を出たところで出くわし、そして学校
が休みだったから、俺達は早朝の散歩に来ている。

 柏木家から見て北の方角にあるこの浜辺は、奇跡的に全く人が歩いていなか
った。海は綺麗で、浜辺にもゴミすら落ちていないと言うのに。──もっとも、
そのお陰で俺と楓ちゃんの二人っきりで散歩を楽しんでいられるのだが。

 ふっ──と、涼しい風が吹いた。爽やかとも言えるその風は俺達の髪を、頬
を撫でて、海の波達と戯れに行った。風と、水と。それは──それはまるで─
─……互いに恋い焦がれる二人のようでもあると思う…なんて考えるのは…幸
せに惚けているからだろうか。
 俺はそんなことを考えながら楓ちゃんの方を見た。ぼやけた風景に、彼女の
着ている真っ白いブラウスが眩しい。
 ──なーんて俺が見とれていると、楓ちゃんは半分照れて、半分不思議そう
な顔をしながら俺の方へ振り返った。俺は何だか恥ずかしくなり、勢い良く顔
を逸らすと照れ隠しに呟いた。
「気持ち…良いよね…」
 何が──とは言わない。唐突に呟いた所為もあるし、全てにおいてが爽快で
あるとも言えるからだ。
 俺は言い終わると横目で楓ちゃんを見た。楓ちゃんは俺の呟きを聴いて微笑
み、そしてこくんと頷いた。
──ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。

 綺麗で、艶やかな黒髪が揺れる。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 美しさの中に見せる愛らしさが、たまらなく愛おしい。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 俺は、目眩にも似た陶酔を感じながら。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 そっと、湿った砂に彼女を押し倒す。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 俺もすぐ横に寝転がり、楓ちゃんと視線を合わせる。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 最早俺の感情は、照れなんてものを通り越していて。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 ただ楓ちゃんが愛おしくて愛おしくて。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 でも何処かで少し、不安だった。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 何でだろう?
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 それは。
 これからの人生の中で、
 『耕一』が『楓』ちゃんを愛せるかどうか、
 ──わからなかったから。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。

 俺は砂で汚れているままの指を、楓ちゃんの唇にそっと這わす。楓ちゃんは
驚いて口を少し開けたけど、そのまま何も言わずにまた口を閉じた。顔を、耳
まで紅く染めて。
 目眩がする。つよいめまいが。──俺はその目眩に流されるように、楓ちゃ
んの唇に自分の唇を重ねる。……砂まみれのキス。何だか切なくて、苦い。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。ふっ──と風が吹く。
 俺達は口づけを終え、ゆっくりと離れる。吐息は波音に消える。

──怖いんだ。
 俺は心の中で呟く。
──この短すぎる一生で、君を愛しきれるかどうか不安で、怖いんだ。
 俺は──それは杞憂なのかもしれないけれど──思うのだ。今、俺達はただ
これまでの深い溝を埋めるために愛し合っている。次郎衛門とエディフェルの
愛を再び成就させるために、愛し合っている。──要するに、まだ『本当の意
味で』俺達は愛し合っていないんじゃないだろうか。
──きっと、俺達が本当に愛し合えるようになるのは、その溝を埋めきった後
なんだ。
 でも、俺達の命は酷く短い。
 だから──間に合うかどうか、溝を埋めきった後が本当に訪れるかどうか──
不安なんだ。
 それだから俺は、楓ちゃんを急くように愛してる。
 不安を押し隠すように。

「こわいんです」
 その声を聞いて、俺ははっとなった。
 目の前には、寂しそうに視線をずらす楓ちゃんがいた。
──もしかして、聞こえてしまったのかな……。
 俺はそう思うと自分を少し呪ったが、楓ちゃんが続けて言うのでそちらに集
中した。
「時間の無さがすごく、怖いんです」
 楓ちゃんはそういいながら、俺の胸に顔を押し付けてくる。服が砂で汚れて
しまっているが、俺も楓ちゃんも、今更そんなことを深く考えてはいなかった。
 ──楓ちゃんの『気持ち』が雪崩れ込んでくる。
 でも、俺は楓ちゃんに『何か』をしてあげることが出来ずにいた。なぜなら
ば、少なくともその想いは俺も抱えていたからだ。
 俺は泣きそうになって、自分の胸の中にいる楓ちゃんを見つめていた。
 するとそのとき。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 俺の心の中に、暖かくて強いものが生まれた。
 ふっ──と風が吹く。
 同時に、楓ちゃんが俺の胸から少し離れ、俺を見た。
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 その顔はとても──穏やかで。そして静かに囁く。
 ふっ──と風が吹く。
「でも──」
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
「──大丈夫です──」
 ふっ──と風が吹く。
「──流れていけばいいんです。あの、波達みたいに」
 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
「そうか──。そうなのかも、しれないね」
 俺は自分の中の『気持ち』と、今此処にいる愛する女性をしっかり抱きしめ
ながら言った。力強く。
 ふっ──と風が吹く。
 悩む必要なんかない。流れていけば、それでいいんだ。
 だって、気持ちは此処にあるんだから。
 これがあれば必ず、俺達は自分たちで愛し合える。
 溝なんかすぐに埋まる。
 ──俺はそう呟くと、もう一度楓ちゃんにキスをした。
 それはやっぱり砂まみれで、やっぱり苦かったけど。
 でもそれでも、もう切なくはなくて。
 幸せ──それがひたすらに感じられた。

 ざざ…ざざ…ざざ…──波が鳴る。
 吐息は波の音と共に。
 ざざ…ざざ…ざざ…。
 ──波が鳴る………………………。

            … 了 …