「早く、殺してよ」 私をしっかりと抱きしめながら、耕一さんは震える声で呟いた。 その声を聞いた私の体は、ビクンっ、と反応した。 ──何故、私たちはこんな事になってしまったの? 今まで何度となく行ってきた答えのない自問を、土壇場で考えてみる、…答えなど…あるはずがないのに。 耕一さんが、さっきよりも強く抱きしめてきた。 ──なんて残酷なの? この鬼の血は、そして──今から愛する人を殺そうとしている私はっ。 なんて、なんて残酷なの? ──ごめんなさい。 声にはでなかった、ただ、喉が震えただけ。 私は、それでも覚悟を決めた。 ──これ以上、この人を死の恐怖に晒しておく方が…残酷よ。 都合のいい正当化──そんなことぐらいわかっていた。 でも、私はそうするしかなかった。 私はゆっくりと、耕一さんの首筋に爪を這わせた。 血が、勢いよく飛び散った。 耕一さんの血はとても温かかったけれども、私の心には、逆に冷たく感じた。 奇妙な感覚──憔悴感と喪失感を混ぜ合わせたような──が、私に充満した。 私はただ、謝ろうと思った。 「ごめんなさい、ごめんなさい」 今度は声にでた、私は場違いながら、腹を立てた。 ──何て事っ?何で、耕一さんが『居なくなってから』声が出るの?何で、耕一さんに直接話せないの? 私は泣いた。これからはもう泣かないように、全ての涙を流す程に泣いた。 そしてそれから、私は耕一さんを川に流し、もう一度泣いた後、家路についた。 一日後 血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血 血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血。 こういちさんのち。 私のベッドに、服に、腕に、手に、顔にこびり付いた耕一さんの血液は、朝起きた私に、昨日のこと が現実であったことを、耕一さんはもう居ないと言うことを物語っていた。 なみだは、でなかった。 「夢ではないのね」 そう、口に出してみた。 ──誰だろう、声に出せば楽になるなんて言ったのは。 全然楽に何かならないじゃない、強いて言えば──苦しくなっただけじゃない。 「耕一さんは、もう居ない」 苦しくなっただけだというのに、また私は口を開けた。 無駄だった。分かってはいたけれど。 「誰か…助けて」 誰も助けて何てくれない。 助けようとしてくれた、助けてくれた人はもうこの世には居ない。 まるで悪魔ね、──いや、鬼か。 私は、自嘲することで自分を制した。 このままでは、生きていられなくなってしまう。 私は血の付いた布団と服を隠し、静かに洗面所に向かった。 廊下は、昨日と同じだった。 ──耕一さんが居ない。 それだけだ。 鏡越しに、自分の顔を見てみる。 黒く乾いた血が付着し、憔悴した顔だ。 まるで──比喩ではなく本当だが──悪鬼。 誰も、助けるに値しない女。 私は、ゆっくりとコックを捻った。 流れる水に、石鹸もつけずに手を当てる。 ごし、ごし、ごし、ごし 石鹸をつけていないからなかなか血は落ちない。 ごし、ごし、ごし、ごし いつもの数倍の力で腕を、顔を擦る。 まるで、自分を虐め、そして戒めるように。 そして、その痛みで悲しみを紛らわすように。 そのうちに、徐々に血が落ちていった。 ああ、流れていく。 ──耕一さんの血が。 私は少し、哀しくなった。 ながれていく、こういちさんが。 ごしごしごしごし 本当は流したくないはずなのに、それでも擦る勢いは強いまま──まして、早くなっていく。 あまりに強い力で擦っているため、腕の肌が破けてきた。 そのときだった。 つぅーっと、付着している血とは明らかに違う色の血が流れた。 ──これは、私の血? 擦る速度は変わらない。 ──耕一さんの血? 分からなかった。 否、分かりたくなかった。 もし耕一さんのだったら、やはり耕一さんは死んでいることになる。完全に認めたくはない。 もし私のだったら、今までの血はどうなるのだろう、──耕一さんのではなくなってしまうかもしれない。 どちらも厭だ、畏い、哀しい、…虚しい。 「誰か…助けて」 洗面所からでると、初音が居た。 「おはよう、千鶴お姉ちゃん」 相変わらず純真無垢な笑顔を私に向けながら、初音は言った。 私は一瞬たじろいた。 ひどく、自分が汚れて見えた。 「…おはよう、初音」 そう言うのが精一杯だった。 ──今の私には、この娘はプレッシャーでしかない。 理不尽だと思いながら、私はそう思った。 「どうしての?千鶴お姉ちゃん…あっ──」 視線を下に向けた瞬間、初音は驚いた声を上げた。 「──どうしたの?この傷っ!」 そう言いながら私の擦り切れた手を持つ。 私は再び言葉に詰まった。 ──この娘を、心配させるわけにはいかない。 ただ、そう思った。 「どうしたのっ?なんかあったのっ?」 「え…?ああ、どうしたのかしら…?」 自然と口からでた言葉は、あまりにも──特に勘の良い初音には──白々しい言葉だった。 しかし、初音はあまりつっこまなかった。 ひょっとしたら、読まれていたのかもしれない。 「…千鶴お姉ちゃん、何か変だよ…」 かつて誰かに言われたことのある科白を残して、初音は洗面所に入っていった。 ──ごめんなさい、初音。 私は心の中でそう呟いた。 どうして、こんなことに。 「誰か…助けて」 目くじらが熱くなるのを感じながら、私は嘆いた。 取り敢えず居間にきた私は、お茶をいれることにした。 薬缶に火をかけた後、湯飲みを取り出す。 ──あ。 私は、湯飲みを五つだしていた。 ──もう、居ないのに。 それでも私は、五つ全てにお茶を注いだ。 腕の傷が、少し痛んだ。 「誰か…助けて」 頬を、熱い涙が流れた。 腕の傷のせいだ。 そう、思うことにした。 「千鶴姉っ!」 私がお茶を飲んでいると、梓が駆け込んできた。 「どうしたの?」 なるべく自然に顔を顰めながら、私は訊いた。 「いないんだ」 息を切らせながら、嘆くように梓が言った。 ──厭な女、本当は何か分かっているくせに。 そう自嘲しながら、私は白々しく、 「なにが?」 と、言った。 「何がって…!耕一だよっ!居ないんだよっ!部屋は勿論、トイレにも、風呂にも、洗面所にも、押入にもっ!!!」 梓は、半ばヒステリー気味に取り乱し、叫んだ。 「冗談でしょう?」 いつもの私ならば、こんな事は言わなかっただろう。 発覚するのをおそれている、結局、妹の為なんて言うのも、欺瞞にすぎないのかもしれない。 「冗談なもんか!」 がしゃんっ!と、梓がテーブルをたたいた。 その反動で、皮肉にも近くにあった耕一さんのお椀が倒れ、中のお茶がこぼれた。 まるで、吹き出す血のように。 「本当に、居ないの?」 この一言は、演技ではない。 本気でそう言ったのだ。否── ──冗談だといって欲しかったのだ。 私の声を聞いた梓は顔を俯かせ、一言、 「いない」 と、呟いた。 私はかすかな希望を感じた自分を、自嘲した。 そのとき、不意に後ろから視線を感じた。 「楓」 楓だった。 「楓っ!耕一知らないかっ!?」 楓を見つけた梓は、掴みかからないか心配になるほどの勢いで叫んだ。 楓は、黒いおかっぱの髪をゆっくりと横に振った。 だが、その視線は私のことをじっと見つめて──厭、睨んでいた。 ──この娘は、多分分かっている。 直感でそう感じた。 ──ごめんなさい、楓。 ──ごめんなさい、梓。 許してもらえるはずがなかった。 でも、全てを云う気もなかった。 その勇気がなかった。 気がつくと、二人はもう居間からでていた。 楓の瞳が、妙に目に焼き付いて離れなかった。 「誰か…助けて」 救済者の居ない嘆きを、またしても私は云った。 ──そもそも、誰に助けて欲しいのだろう。 そんなことを考えつつも、私はまた腕に痛みを感じた。 三ヶ月後 結局、誰にも話せないまま、三ヶ月が過ぎた。 誰にも話していない分、プレッシャーは私にくる。 ──しかし、よく誰にも──楓は別として──気付かれなかったものね。 自嘲気味に、私は思う。 ──そして、私もよく生きているものね。 家に帰ってきて、部屋で考え事をしているときだった。 そのとき私は、耕一さんを殺したときのことを考えていた。 不意に、ものすごい吐き気を感じた。 大急ぎで洗面所に向かい、思いっきり吐く。 涙が流れた。 「大丈夫っ?千鶴お姉ちゃんっ!」 後ろから、初音が声をかけてきた。 ──この娘は、本当によく気付く娘ね。 初音が背中をさすってくれる。 ──本当、いい子なんだから。 暫くして、吐き気がおさまったため、私は部屋に戻った。 「誰か…助けて」 誰にともなく、私は云った。 十ヶ月後 「誰か助けて…か」 私は、清々しい笑顔を浮かべながら十ヶ月間言い続けてきた科白を呟いた。 「やっと、助けてくれる、すがれる人を見つけたわ」 ──もう、私は泣かない。 だって、だって── そして、私は視線を下に向けた。 「──あなたが私の生き甲斐なんだからね…。あなたは、私と耕一さんの子供なんだから」 そこには、耕一さんの面影を微妙に持った赤ん坊が、静かな寝息を立てていた。 … 了 … ------------------------------------------------------------------------------------------ お久しぶりです、ゆきです(パソコンいかれてて、動かなかった)。 もっとも、たった一週間ですけど。 でも、覚えてましたか…? しかし、まだ「メタオの逆襲」が終わってないのにこれ書いてしまうとは。 我ながら無謀じゃ。 考えてみると、今日でここに書き込み初めて一ヶ月と五日たちました。 個人的に気に入っているお話を、(ベスト5)ランクにしてみました。 1,マーマレード・キス 2,おそらく それは 歪んだ 愛 3,また…会える日まで 4,欲望の続き 5,白い・聖夜 こんなところです。 そろそろのんびり書き込もうかな、注意されたし。 カレルレンさん そうか、そう終わらせますか。 ううん、すごい、格好いい(陳腐な感想だ、我ながら)。 ちなみに、ここにこない間、続きが気になってしょうがなかったです。 風見さん 考えてみると、確かにマルチは怖い。 でも、それを覆い隠すほどの魅力と、愛情がある。 そんなことを考えさせてくれるキャラだと思う、マルチ。 鈴木さん 最初のといい、「ダイヤモンド〜」といい。 すごく文の書き方(キャラの表現の仕方)がうまいと思います。 羨ましいなあ。 ところで、某キッ○のHPにも、おいでになっていませんか? 何となく、見たことがあるような気がするんですが(間違っていたらごめんなさい)。 健やかさん 上に書いたとおり、自己満足レベルでは「マーマレード」が一番なんですが。 ううん、どうなんだろ。 僕を書いてくださった方々 なんか、すっごいいいやつ、ぼくって。 もっといやで変なやつになるかなと思ったのに。 ちょい意外、でも良いです。 Runeさん そうですか、壊れてますか。 ふふふ…楽しみですぅ。 復活求むぅっ!(でも、無理はしないでにゃ) でわでわ・・・(まだ、全てレスがすんでない、かけるのかな?)