松原家の一番長い夜 投稿者:真船候一郎 投稿日:3月28日(水)20時17分
 いつもと変わらない日常。
 世話好きでしっかり者の妻、真面目で努力家の娘。最愛の家族と共にする夕食。
 こんな日がいつまでも続けばいい、そう思いながら松原父は湯気を立てる麻婆豆腐
を口に運んでいた。

 目の前で娘が、自分と同じように黙々と麻婆豆腐をその小さな口に押し込んでいる。
 時々むせて、あわてて水を飲む。その姿がまたなんとも微笑ましい。

 まっすぐな子に育った。
 松原父はそう確信していた。女だてらに空手などを習わせることに、若干の不安を
感じていた時もあった。
 ―顔に擦り傷を作って帰ってきた時。
 ―鼻血で赤く染まった胴着を持って帰ってきた時。
 ―年頃の娘が誕生日のプレゼントに、オープンフィンガーグローブをねだった時。
 だがそれもいい思い出。
 今は親子3人こうして食卓を囲めることが何よりも幸せだ。

 と、彼がささやかな幸せに浸っていた時、娘の口からその台詞が発せられた。

「あ、あの、お母さん」
「どうしたの? 葵」
「明日、自分でお弁当作っていこうと思うんだけど…」
「あら、自分で?」
「うん。私の分と、その、お世話になってる、せ、先輩の分を…」
「先輩? 坂下さん?」
「ううん。あ、えと、同好会の方の先輩なんだけど…」
「やけに歯切れが悪いわね。…もしかして、男の子?」
「……うん」

「「!!」」

「葵っ!!」
「えっ?! は、はいっ!」
「かあさん、嬉しいわっっ!!」
「お、お母さん?」
「ううう、やれ空手だのえくすとりんぐだのと、格闘技にばかり夢中になってた葵も、
やっと、やっと女の子らしくなってきたのねっ! それで葵。その人はどんな子なの?
名前は? 顔は? もう付き合ってるの? そうよね〜、葵ももう高校生だもんね〜」
「あっ、そ、そんなんじゃなくて、ただ、同好会の方に参加してくれる先輩で…」
「うんうん、で、名前は?」
「ふ、ふじた先輩って言う…」
「藤田君っていうのね。で、で、どんな子なの?」
  ・
  ・
  ・

 母が娘に尋問を続けているあいだ、父は放心していた。
 さもありなん。
 つい今しがたまで可愛らしい男の子のようだった娘が、男に弁当を作りたいと言う。
 確かに自分も危惧はしていた。女の子らしい趣味を一つも持たない娘に。
 いつか娘の花嫁姿を見たいとも考えてはいた。だがそれは遠い未来の事。
 今の葵が男と付き合おうなどとは夢にも思っていなかったのだ。
(幸せはそういつまでも続かないという事か……)
 彼は肩を落とし、大きくため息を吐いた。
 男親の悲哀ここに極まれり。

「大丈夫よ、葵。母さんが今夜の内に下ごしらえしといてあげるから」
「ほんと!? ありがとう、お母さん!」
「任せなさい。これで藤田君はあなたの物よ!」
「あ、そ、そ、そ、そういうんじゃなくて…」
「フフフ…分かってるわ。さぁ葵、後は任せて、あなたはもうお風呂に入ってらっし
ゃい」
「あ、うん」

 父の思いを知ってか知らずか、母と娘はやけに楽しげだ。

(葵に…男か……)
 ふう。もう一度ため息をつき、のろのろと残りのおかずを口に運ぶ。
 既に食卓に娘の姿は無い。

「あらあなた、まだ食べてたの? これから忙しくなるんだから急いで下さいな」
「忙しく? 何かあるのか?」
「あなた聞いてなかったの? 今から明日のお弁当の下ごしらえをするのよ」
「今から? そんなに急がなくても、下ごしらえなんて簡単に…」

「あなたっっ!!」

 ぎんっ! という擬音付きで妻が夫を睨む。

「はいっ?!」
「事の重大さをわかっていないようね」
「え?」
「いいこと? 葵も今年で16歳、花の女子高生。これからが女盛りなのよ!!」
「お、おんなざかりって言うにはまだ早いんじゃ…」

 ぎんっ!!

「は、はいっ」
「葵がこのままでいいって言うの?」
「…へ?」
「格闘技にしか興味を抱かないアレな女の子のままでいいのっ!?」
「い、いや、そういうわけじゃ…」
「このままだと私の可愛い葵が、後輩の『女の子』からバレンタインにチョコレート
貰うようになるのよ! 坂下さんちの好恵ちゃんみたいに!!
どうかすると「お宅の息子さんどうスか?」とか言って、自衛隊から勧誘が来たりす
るのよ! 坂下さんちの好恵ちゃんみたいに!!」
「いやさすがに自衛隊は来ないと思うけど…」

 ぎんっ!!!

「あ、いや、困るね、それは……ハハハ」
「そう、困るのよ。それほどまでに重要な意味を持つお弁当なの。お分かり?」
「いや、でも…」
「でも、なに?」
「弁当一つで、その藤田君とか言ったかな、彼と上手くいくとは限らないんじゃ…」
「いいのよ」
「はい?」
「初恋は実らない物。でもそれでいい。女の子はね、恋をして、恋に破れて、そして
また恋をして…。そうやって『女』になっていく物なの」
「はぁ」
「私が葵ぐらいの頃は、そりゃもうスゴかったわよ」
「…スゴかったんですか?」
「泣いて、泣かせて、泣かされて。一瞬でも恋をしてない時はなかったわ」
「えっと、君、確か…」
 僕と逢うまでは、男の人とお付き合いした事がないって言ってなかったかな……
 だがその台詞は言えなかった。
 そう言えば、結婚が決まった時、彼女の両親は異常に嬉しそうだった。
 初めての夜の時も、何故か妙に手馴れていた。

(……騙された?)
 惜しいっ! それは20年前に気づくべきだった。
 筆者も同情の涙を禁じえない。

(今夜久しぶりにハム仲間と交信でもしようかな…)
 松原父、趣味は鉄道模型とアマチュア無線。


「さあ、張りきっていくわよーー!!」
 男と女の間には、深くて暗い河がある。
 ハイテンションな妻を前に、彼は改めてその言葉の意味を知った。

 ・
 ・
 ・

 翌朝、松原父は憔悴していた。
 妻の言う「下ごしらえ」に、一晩中つきあわされたからだ。
 正直、一睡もしていない。

 今、目の前で母と娘が弁当作りに勤しんでいる。

「葵、そっちはどう?」
「うん…、あ、少し焦げちゃった」
「あらあら。いいわ、焦げた分はお父さんのにしましょう」

 娘よ、気づいているか?
 今お前が炒めているひき肉、ただのひき肉ではないのだ。
 国産の最高級牛肉を惜しげもなくミンチにし、インドから取り寄せた特別な香辛料
を混ぜ合わせ、一晩寝かせたという至高のひき肉なのだよ。

「ウインナーはタコさんにしましょうか」
「うん!」
 そのウインナーもまた然り。
 鹿児島から空輸された厳選黒豚と、赤坂の料亭位にしか出荷されない高級魚のすり
身を使った、最早ウインナーなどと気軽に呼べないようなシロモノだ。

「クリームコロッケは、今からだと時間がかかるわ。今日は冷凍で我慢してね」
「う、うん。しょうがないよね…」
 そんな残念そうな顔をするんじゃない、葵。
 その、「一見普通の冷凍モノ」に見えるコロッケ。実はぺシャメルソースを一から
作り、そこに伊勢海老とたらばがにのエキスを混ぜ、細心の注意を払って油で揚げた
物をわざわざ冷凍し、既存の冷凍食品とパッケージの中身を入れ替えたという、正に
究極の冷凍コロッケなのだ。
 尚、パン粉と揚げ油も最高級品なのは言うまでもない。

 ご飯に到っては、新潟から取り寄せた魚沼産コシヒカリを、同じ大きさの粒だけを
(無論、一粒づつ手作業で)選び出し、これまた最高の水を使って炊き上げた、海原
先生も真っ青の逸品だ。

 ハンバーグもメンチカツも果てはお茶に到るまで、並みの弁当では考えられない程
の高級な食材が使われている。

 だがこの事実を葵は知らない。
 妻曰く、「初めてのお弁当で大切なのは、さりげない美味しさと『初めて』という
たどたどしさ、だから葵にもこの事を知らせてはダメ」だそうだ。

 この弁当の為に使った食材は全て「こんな事もあろうかと」妻が用意していたらし
い。通りで毎月の小遣いが少ないと思った。


 弁当は完成に近づきつつある。
 松原父は感慨深げに二人の後姿を見つめた。

 たとえ小遣いが少なくても。
 たとえ徹夜で手伝わされても。
 たとえ昔、騙されたのだとしても。

 今、娘が幸せならばそれでいい。

 だから、藤田君とやら。


「命がけで食えよ!!」


「? どうしたの? お父さん」
「ん、いや、何でもない」



 という思惑と悲哀が、その「お弁当」にこめられている事を、浩之はまだ知らない。




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