君が手遅れになる前に  投稿者:無醒夢・さめないゆめ


 どろっとした紅の夕日。
 二人っきりの下校途中、瑠璃子さんは急に立ち止まった。
「どうしたの?瑠璃子さん」
 振り返ると、彼女はいつものトロンとした目であらぬ方向を見つめていた。
 目線を追っても、いつもの通学路。夕焼けに染められた普段どおりの帰り道。
 瑠璃子さんの瞳は見開かれたままだ。僕は黙って彼女の返事を待った。こう
いう時の彼女は目には見えないものを感じ取っているのだ。
 ・・・電波の流れ。
 ぼく自身も電波の操れる人間だ。それもとても強力な。しかし瑠璃子さんは僕
には無い女性ならではの繊細な感覚を持っている。何かを受け取ったのだろう
か。僕も受信のアンテナを張りつつ瑠璃子さんの横顔を見つめつづけた。
 街の音がやけに白々しく流れる。
 車が排気ガスを散らしつつ走る音。クラクション。
 はるか上空を飛ぶ飛行機。
 小学生たちのはしゃぎ声が遠くに聞こえる。
 ・・・ただそれだけだ。
 僕が口を開きかけたとき、瑠璃子さんがつぶやくように言った。 
「長瀬ちゃんも・・・電波、感じる?」
「いや、なにも」
 正直に答えた。彼女が「じゃあ、いいよ」と笑ってまた帰路につく。それがいつ
ものパターンだった。
 しかし今日は違った。
「私には届いたよ」
「どんなだい?」
 僕はすぐ、邪悪な電波を想像した。他人を操る毒電波。それは被害者はもちろ
ん、加害者をも不幸にすると僕たちは知っている。一瞬自分の顔がこわばるのを
感じた。そんな僕を瑠璃子さんはくすりと笑い、ささやいた。
「ううん、違うよ。長瀬ちゃん」
「え?」
「泣いてるの。・・・泣き疲れても泣いてるの」
 瑠璃子さんは眉をしかめ、「困ったなぁ」って感じの顔をする。
 僕はその顔に弱い。大袈裟だが瑠璃子さんを救いたくて、心がいっぱいになっ
てしまう。
「どこか場所はわかる?」
「うん。でもね、行ってもしょうがないよ」
「そうなの?」
「うん、もう手遅れ」
 さらっと言うがその顔は困り顔のままだ。
「でも、行ってみようか?気になるなら」
 このまま帰路についてもいい。明日になれば彼女自身忘れている些細なこと
かもしれない。しかし今日の帰り道の間中は、ずっと彼女は「困ったなぁ」
のままのような気がした。
「うん。あそこだよ」
 瑠璃子さんの指先には公園があった。

 小さな公園だった。小さな砂場とベンチがあるだけの。
 見回すまでも無く、誰もいない。
「瑠璃子さん、本当にここなの・・・」
 言いかけたとき僕は気づいた。瑠璃子さんの見つめる先、ベンチの影に小さな
ダンボールがあった。
 瑠璃子さんが近づき、箱をあける。
 獣の臭いが広がり、中には小さな仔猫がいた。
 生まれたばかりのようなその仔猫は、糞尿にまみれていて、その瞳は目やに
で閉じられていた。箱を開けられても反応すら示さない。
 瑠璃子さんはかがみこみ、汚れることも臆さず仔猫を抱き上げた。制服の袖に
染みがついた。瑠璃子さんは優しく抱いた。
「捨て猫か・・・助かるかな」
 子猫を覗き込みつつたずねるが、僕の目にも明らかだった。
 弱り果てて、かすかに震えている。もう声さえ出せないようだ。
「ううん、もう手遅れ」
 抑揚の無い声で瑠璃子さんはつぶやく。
「もう電波も途絶えちゃった。後は冷たくなるだけだよ」
 瑠璃子さんは子猫を見つめ顔を上げない。そんな彼女を見下ろす形の僕には
彼女が泣いてるように見えた。
 怒りが込み上げる。こんなに小さな仔猫を捨てる奴がいる。ただその現実が僕
にドス黒い激情を呼び起こす。「怒り」が「虚しさ」を食らい、急激に成長・肥大し
ていく。
「・・・長瀬ちゃん」
 おびえたような声。瑠璃子さんが僕をみつめていた。
 その瞳に、涙の雫はなかった。
 僕は気付かない間にかなり険しい顔をしていたようだ。慌てて元に戻そうとす
るが両頬が妙に突っ張った。
 そんな僕に、彼女はダンボールから何かをとりだし手渡した。
 それはピンク色の便箋。尿の染みがつくそれには、つたない文字で
「ひろってください、なまえはミーコです、まゆみ」
 とだけ書かれていた。
 見るからに小学生低学年の文字だった。
 「虚しさ」が全ての感情を飲み込んだ。

 それから十数分、瑠璃子さんはベンチに座り、仔猫を看取った。
 仔猫は瑠璃子さんの腕の中で冷たくなった。夕日が沈みあたりは暗くなってい
た。急に気温も下がっていく。
 子猫を見つめていた瞳を上げ、彼女は僕にささやいた。
「逝っちゃったよ、長瀬ちゃん」
「うん、埋めてあげよう」
 僕は公園の中で唯一の大きな樹を指して言った。
 スコップもないので深くは掘れなかったが、隅に落ちていた棒切れを使って仔
猫に虫がたからないであろう深さまで掘った。
 途中、瑠璃子さんはぽつりと言った。
「猫はね、生まれたときから電波を使えるの。それでお話するの」
 僕は「そうなんだ・・・」とだけ答えた。


 二人が帰るころには真っ暗になっていた。言葉少なに足を進める。
 僕に彼女を励ます言葉はなかった。瑠璃子さんの悲しげな表情を見るたび何
も言えない自分にいらついた。
 もう少しで瑠璃子さんの家に着くとき、彼女は立ち止まった。
「どうしたの?瑠璃子さん」
 街燈に照らされた瑠璃子さんは、安らかな笑みを浮かべつつ言った。
「ごめんね、長瀬ちゃん」
「え?」
「あのコはしょうがなかったの。だから・・・もう泣かないで」
 泣いてる?僕が?
 僕は顔が熱くなった。
 違うよ。瑠璃子さん、泣いているのは君だろう?
 気付くと僕は彼女を抱きしめていた。
「あっ・・・」
 と、彼女は小さく声をあげた。
 その細い体に悲しみを受け止めすぎる瑠璃子さん。昔、自分が深く傷ついた
から。
 その痕はうずくことなく、ただ心にぽっかり穴をあけた。
 そんな彼女の支えに、僕はなれるのか。
 僕は無力だ。それはもうわかってる。だけど、このぬくもりを離したくない。この
ぬくもりは電波なんかより確実に互いを埋め会えるはずだ。
 愛しさがこみ上げ、僕はきつく抱きしめた。
「・・・長瀬ちゃん」
 彼女は僕の髪を優しくといてくれた。冷たい指先。
 胸がいっぱいになり、僕はこう言うのが精一杯だった。
「・・・あの仔猫もきっと、この指先が心地よかったよ・・・」
 そんな僕の髪を、彼女はずっと撫でてくれた。
 
                         END