選択 投稿者:宮月純志郎
 何度呼び鈴を押しても返事がない。一時間前から、私は浩之ちゃんの家の門
の外に立ち尽くしている。玄関の扉を見ると、少し隙間があいているのが見え
ているから、鍵もかかっていないのがわかっている。
 きっと浩之ちゃんが留守じゃない、というのも、なんとなくだけどわかる。
そして、いるのに返事をしてくれない、ということが、勝手に入っていこうと
いう気持ちを殺ぐ。
 ……もう三日も大学にも来ない。昨日も、一昨日も、ここで何時間も呼び続
けたのに応えてくれない。
 ……どうしちゃったの?
 ……辛いなら、私がいつでも支えてあげるのに。
 ……今までだって、ずっとふたり、支えて、支えられてきたのに。
 ……それが、何より私は嬉しかったのに。
 ……浩之ちゃんもそうだったでしょう?
 ……じゃあ、なぜ今回は私に支えさせてくれないの……?

 きぃ……カシャン
 その時、突然扉の隙間が広がって、中から何かが出てきて、倒れた。
 私はその瞬間、思わず門を跳ね開けて扉の中に踊り込んだ。
 扉を開けたのは、玄関に立てかけられていて何かのはずみで倒れた自転車の
空気入れポンプだった。でもそんなことはどうでもいいから、一瞥しただけで
またぎこして階段を駆け上がる。
 いきなり精いっぱいの筋力を使ったから、ほんの十数秒走っただけなのに息
が切れて胸が高鳴る。いや、浩之ちゃんの部屋のドアを開けようとすると浮か
んできた辛い予感のせいかもしれない。
 でも、私は目をつぶって思い切りドアを押した。


 部屋の雨戸は閉め切られ、昼間というのに暗かった。真暗闇にならないのは、
蛍光燈についた豆球が黄色い弱い光を投げているせいだ。どこか、卑猥……と
いうとちょっと違う、いやらしくはないけど性的な感じがする。愛し合う二人
の部屋の灯りはこういうものかな、と思える。
 でも、同時に、病的な、狂的な感じもした。
 ベッドには、薄明かりの中で毛布がふたり分膨らんでいるのが見える。
 近づくのが怖い。
 誰と誰がどうしているのか、なんて、わかっている。
 でも、確認してしまうのは辛い。
 また、私は立ち尽くした。思えば、昔から浩之ちゃんに一歩近づこうとした
ときは、いつもはぐらかされて立ち止まるしかなくなっていた気がする。でも
今度は、はぐらかすでもなく、現実が私を立ち止まらせる。

「マルチ……」
 何十分か、何時間か経って、浩之ちゃんのか細い声がした。そしてすすり泣
く声が聞こえる。
 十五年以上ずっと側にいて、初めて聞いた浩之ちゃんの弱い声。いつも虚勢
を張るか、弱々しいポーズを取っているだけだったのに。
 今は、泣き声さえ消え入りそうに小さい。
「浩之ちゃん……」
 なんだか、悲しくなった。
「あ、あかり?」
 泣き出してしまった私に、浩之ちゃんが今気付いたように驚いた声を掛ける。
こちらを向いた顔は、豆球の光の中でもわかるぐらい弱った顔だった。
 ……気付けなかったの?
 ……マルチちゃんの身体と抱きあって思い出に浸っている時間は、私の存在
さえ感じさせないほどの硬い殻を作ってるの?
「浩之ちゃん……いつからそうしてたの……三日前から?……ご飯も食べない
でそうしてたんじゃないの……」
 でも、心の嫉妬は思わず殺して、浩之ちゃんの体を気遣う言葉を口にしてし
まう長年の習慣。
「ああ……三日前、何もかもいやになって、ずっとこうしてる……」
「そんな、だめだよ……ご飯作ってあげるから、食べよう」
「そうだな……心配かけたな……悪かった」
「じゃあ、何か作ってくるから」
 私はしゃくりあげながらも、涙を拭って部屋を出て、台所に向かった。

 冷蔵庫には、せいぜいうどんぐらいしかなかった。牛乳を温めてまず持って
いきたかったけど、三日前からだと賞味期限が心配だから、とにかく急いでう
どんを茹でた。
 それを持って部屋に戻ると、浩之ちゃんは壁にもたれさせて座らせたマルチ
ちゃんと無言で向かい合っていた。
「浩之ちゃん、とりあえずうどんできたから」
「悪いな……」
 浩之ちゃんは、お盆を受け取ってうどんを食べ始める。
 私は、とりあえず雨戸を開けて部屋に光を取り込んだ。
 しかし、たった雨戸を二枚開けるだけの短い時間で、浩之ちゃんはうどんを
少し食べただけで箸を置いてしまった。
「あかり、悪い、もういい」
「そんな、ほとんど食べてないじゃない」
「別に腹減った感じもしてなかったしな。食べたら胸焼けしてかなわねえ」
 私はお盆を返されて、しかたなくそれを一旦机に置いた。
 すると浩之ちゃんが話し始めた。

「生まれてからたった三週間の命だったんだよ。二週間は施設の中でひたすら
実験台だったんだから、本当に人として生きたのはたった一週間だよ。それで
も、俺のところから帰って、いや、殺されにだよ。殺されにいくってのに、笑
ってたんだ。
 言ってやったら、あいつこう言ってたよ。『確かに私はもうこの世からいな
くなってしまうでしょう。でも、生まれてきたからには、何かのために死ねる
ことこそ一番の喜びだと思います。私はこれから生まれる妹たちのために生ま
れて、そして死ぬんですから』って。
 でも、なんだよ、その妹ってやつは。こんなもののために、あいつはたった
一週間で逝ったのか。
 俺も、マルチのために死にたい。俺が死んででもあのマルチを取り戻せるな
ら。でも俺ひとりの命なんかでどうにもできない。三日前、研究所に怒鳴り込
んでやったけどつまみ出されておしまいだ。
 研究所から帰ってきたら、自分の無力を思い知らされて、何もかもがいやに
なった。マルチの抜け殻を見てたら、このままマルチとの思い出の中で死ねた
ら、たとえ無意味な犬死にでも天国でマルチに逢える幸せぐらいはつかめそう
な気がしたんだ。
 マルチ、天国にいるよな。ロボットだからって、心も魂もあったんだ。あん
な優しい奴だったんだし、天国にいけねえはずがねえよ」

 浩之ちゃんはいっきに喋って泣き崩れた。
 そう考える浩之ちゃんの優しさ。神々しくも感じた。
 でも、最高の優しさは同時にふたりには向けられない。浩之ちゃんはマルチ
ちゃんの思い出とは死ねても、今、ここにいる私とは死なない。
 そう思うと、ものすごい嫉妬が湧いてきた。
 浩之ちゃんが来栖川先輩や姫川さんと仲良くしていた時も、もちろん嫉妬は
感じた。
 マルチちゃんがいなくなった次の日、なにか素振りが変だった時も、嫉妬と
疑念が湧いてきた。
 HM-12が発売された時、喜び勇んで買いに出かけた浩之ちゃんを見た時も。
 でも、今回のはそんな押さえられるような嫉妬でもなかった。
 ……こんな機械なんかのために。
 ……機械なんかに心を吹き込んで、あげくすぐ殺した科学者のために。
 ……浩之ちゃんがこんなに苦しんでる。
 ……浩之ちゃんが死んじゃうかもしれない。
 ……こんなものが無ければ。
 ……こんなものが無ければ。
 …………


「おい、あかり、やめろ」
 浩之ちゃんの声が聞こえた。右腕を捕まれたけど、自分でも意外な強い力で
振りほどく。
 そして目の前の機械をまた殴り付ける。
 ガン、ガン
 ……なによ、表面だけ人間みたいでも、皮膚一枚下はやっぱり鉄なのね。
 ガン、ガン、ガン、パキっ……
 ……あれ、血?
 ……ああ、私の手が切れたのね。
 ……なんだか、うまく手が握れなくなってる。
 ……じゃあまあ、肘で打てばいいわ。
 ガン、ガン、ガン……


	*


 その後、私は病院で目が覚めた。
 私の右手は時間がかかるらしく、なかなか退院もさせてくれない。
 浩之ちゃんが毎日お見舞いに来てくれる。そして、いつも謝って泣いていく。
私はいつもそれを慰める。

 ある日、浩之ちゃんは来栖川重工から届いた、と一枚のDVD-ROMを持ってき
た。
「これに、あのマルチのデータが入ってるらしいんだ」
「……」
「それをHM-12に読み込めば、あのマルチが帰ってくる」
「……」
 ……やっぱりまだ浩之ちゃんにはマルチが必要なの?
「そのディスクは、おまえに任せた。マルチに戻すならそうしてもいいし、壊
すならそうしてもいい」
 浩之ちゃんは溜息をつく。
「……私は浩之ちゃんのために死んであげるから」
 と言ってディスクを返す。
「え……?」
 浩之ちゃんは、どういう意味かを考える。
 浩之ちゃんは本当は頭がいいから、きっと意味に気づいてくれる。

 浩之ちゃんがマルチと暮らしたいなら、私はもう邪魔しないように今この場
で死んであげる。
 浩之ちゃんが私を選ぶなら、ずっと死ぬまで命をかけて、こんなに弱くなっ
た浩之ちゃんを支え続ける。


了


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 はじめまして。
 さて、処女作とでもいいますか。二次創作小説やったのは初めてだなあ。
 私To Heart初プレイが99年7月です。はい。あんまり18禁ゲームってやんな
いし、ことリーフの絵がちと苦手だったんで避けていて、もう2年ぐらい遅れ
てのプレイですね。「雫」「痕」もやっぱりやってないなあ。
 小説にも劣らないシナリオの良さ、という評判でしたが、私文学オタクです
のでそういうのはちょっとひねくれた見方する癖がありまして。それでマルチ
の「一週間で消される運命にある心を持ったロボット」という設定に心動かさ
れて、これならTo Heartの円満に恋愛成就するシナリオよりもっと哲学的なも
のも文学的なものも書けるんじゃないか、と。(いやまあ恋愛ゲームでそんな
哲学的なシナリオでもうっとうしいから、To Heartのはこれでいいんですけど
ね)
 そうして書いてみたのがこれです。思ったよりましに書けたかな。
 なんかあかりを狂人(入院した病院も外科病院じゃないかもね)みたいに書
いてますが、まあ私とてTo Heart一押しのキャラとなると断然あかりという口
なので、まあ同好の方、ご容赦ください。