追憶 置き去りにしてきた記憶を 腫れあがる傷跡たちを やわらかなあなたの温度を 狂おしく愛していたから Cocco 「やわらかな傷跡」 「木通(あけび)、金柑(きんかん)、玉竹(あまどころ)……虎杖根(いたどり) 山梔子(くちなし)、母子草(ははこぐさ)……」 低い、伸びやかな声が、草々を揺らす風とともに少女の耳を撫でた。 少女の膝の上には、若い男が頭を乗せていた。蒲公英(たんぽぽ)の綿毛をもて あそびながら、静かに唇を刻んでいる男の髪を撫でつけると、少女はゆっくりと目 を閉じた。光の消えた世界に残るのは、風のそよぎとたしかなぬくもり。 「薊(あざみ)、川骨(こうほね)、雪下(ゆきのした)……」 ゆるやかな時間が、歌声とともに過ぎていく。 唄いきると、男はふうと摘んでいた綿毛を吹いた。風に乗って、無数の綿毛が飛 んでいく。 目を細めてその様を眺めていた男の頬に、そっと白い柔らかな手が添えられた。 顔をあげると、優しい笑みを浮かべた少女が男を覗き込んでいる。唐渡りの陶器の ように透き通った白い肌。雲ひとつない夜の色をした瞳と、長い艶やかな髪。 「エディフェル」 手を延ばしてその首筋にそっと手をやると、男は少女の名を呼んだ。 風に溶けてしまいそうなほど細やかな笑みを、エディフェルと呼ばれた少女は返 した。 「あたたかな唄、ですね」 エディフェルの言葉に、男は照れくさそうな表情を浮かべながら、 「──わらべの頃」 と目を閉じ、過去を懐かしむように呟いた。 「お袋様が、よく歌っていた唄でな。──ふと、思い出した」 膝枕をしたまま、エディフェルはくすりと笑った。長い黒髪が風に弄ばれ、男の 鼻孔をくすぐる。 「優しい、御方なのでしょうね」 穏やかな声。 「──次郎衛門の母様は」 そう問うエディフェルに、やや複雑な笑みを向けながら、次郎衛門と呼ばれる男 は答えた。 「優しい、人だった──な」 舞飛ぶ蒲公英の綿毛を見やりながら、続ける。 「…………?」 「今はもう、今生にはいないのさ。八ツの頃、熱の病で、死んだ」 「あ……」 「そんな顔をするな」 悔恨の色を滲ませたエディフェルに、次郎衛門は笑いかけた。手を延ばし、エデ ィフェルの髪に触れ、己が指先で弄ぶ。 「お袋様も、そんな黒く長い髪をしていたよ。俺の自慢だった」 みずからの髪に触れる次郎衛門の掌を、エディフェルは自分の細い掌でそっと掴 んだ。きゅっ、と力を込める。かすかな、けれど確かな命の躍動が肌を通して伝わ ってくる。あのとき──石のように固く冷たかった掌。自分が必死で繋ぎ止めよう とした命。けれど、それは本当に──この人にとって幸せなことだったのだろうか? 「次郎衛門」 エディフェルは、僅かな逡巡の後、想い人の名を呼んだ。 僅かにかすれる語尾。敏感にそれを感じとって、次郎衛門が瞳に怪訝な色を浮か べる。震える喉。そして、すべり出る──言葉。 「私が……憎いですか?」 もう一度、くり返される問い。掴んだ掌が、僅かに揺れた。 「私が、憎いですか? あなたを“あなた”でなくしてしまった、私が──」 「…………」 静かな目でじっと己を見やるエディフェルの手をそっと放すと、 「憎くない、と言ったら、嘘に──なるだろうな」 次郎衛門は答えた。そのまま身軽な動作で少女の膝から身を起こすと、柔らかな 草の上に立つ。 匂いたつ春の草原の中で、男と少女は僅かな距離を挟んで対峙した。風が吹き抜 け、二人の髪を、衣を揺らす。次郎衛門は無言のまま己が右腕を胸のあたりに翳し た。指に、力を込める。瞬間、不快な音とともに次郎衛門の華奢な掌が獣のそれへ と変じ、猫科の猛獣を思わせる鋭い爪が張り出した。 その爪がそっと次郎衛門の左腕に宛われる。 そして次の瞬間、すっ、と引かれた。 鮮血。 目を瞠るほどに鮮やかな血が、次郎衛門の腕からしたたり、落ちた。 草の上に滴り、小さな池を作る己が鮮血を見やりながら、 「わらべの頃は、木の幹に引っかかったりして、いつもこうやって傷をつくってな。 俺は──よく泣いていた。そんなとき、お袋様はいつもあの唄を歌ってくれたんだ。 歌いながら山梔子の練薬を塗ってくれた。沁みる、言って泣く俺を今度は親父様が 軽く小突いたりしてな」 次郎衛門はかすかに笑った。懐かしい記憶に思いを馳せるように、目を細める。 「腹を下したときも──虎杖根を湯がいて呑ませてもらったりしたな。朝起きて親 父様と山に薬草を摘みにいくのが、わらべの頃の俺の仕事だったよ」 「次郎……」 「だが──」 エディフェルの言葉を制するように、次郎衛門は言葉を切った。今度は己が左腕 を、ゆっくりと翳す。 「だが、今の俺には──もう、いらなくなってしまったのだな。虎杖根も、山梔子 も」 僅かに──おそらくはエディフェルだから分かるであろうほんのかすかな──自 嘲の響きを込めて、次郎衛門。翳された次郎衛門の左の腕の傷は、すでに血が止ま り、傷口が塞がり、新たな皮膚が出来始めていた。驚くべき治癒力。人には──あ らざるほどの。 「…………」 エディフェルは断罪を受ける罪人のようにこうべを垂れた。いや、まさしくそれ は罪であるのだろう。いかな理由があったとしてもこの人を“そう”してしまった のは自分なのだ。 「エディフェル」 静かに、次郎衛門が少女の名を呼んだ。 「──はい」 エディフェルはかすかに肩を震わせながら、顔を上げた。その瞳に、覚悟の光が 灯る。 そして、次郎衛門の言葉を待った。どのような責め句も、甘んじて受けるつもり だった。自分は、それだけのことをしたのだ。事実、エディフェルの中のエルクゥ は、次郎衛門の己に対する恐怖を敏感に感じとっていた。自分が自分でなくなって しまった恐怖。苦しみ。 エディフェルから注ぎ込まれたエルクゥの力によって命を繋ぎ止めたあの夜── 狂ったように罵倒の言葉を叫んだ次郎衛門。だが、彼から感じたのは怒りよりも、 悲しみよりもまず──恐怖だった。己が鬼と憎む種そのものと化してしまった自分。 次郎衛門に乱暴に抱かれながら、エディフェルはなによりもそれを理解した。そし て恐怖した。怖かった。この人に恐怖されることが。 憎まれるのならばいい。けれど、自分という存在を怖れられ、忌まれることだけ が──怖かった。 時の流れが、驚くほど緩慢に、エディフェルには思えた。 そして、長きの沈黙の後、次郎衛門の唇が、ゆっくりと音を刻んだ。 「──有り難う」 「…………?」 ────? エディフェルは、一瞬我が耳を疑った。──有り難う? 「次郎──衛門?」 平素の彼女を知る者なら目を疑うであろうくらいに狼狽して、エディフェルは次 郎衛門の名を呼んだ。 そんなエディフェルに愛おしそうな眼差しを向けて、次郎衛門はもう一度くり返 した。 「有り難う。俺の命を──繋ぎとめてくれて」 「でも、あなたの命の火を消そうとしたのは私で──」 「いいのさ」 次郎衛門は首を振る。 「そんなことは、いいんだ。たしかに俺はまだ──どこかでお前を憎んでいる部分 があるのかもしれない。だがそれ以上に──今はお前に感謝しているよ。礼を言わ せてくれ。有り難う。俺の命を繋いでくれて。おかげで俺はもう一度──お前に逢 うことができた」 「…………」 無意識に、自分の肩が震えるのを、エディフェルは感じた。そう、逢いたかった のだ──自分も。だから、あのときこの人の命の火が消えてゆくのを──見過ごす ことができなかった。惹かれていた。彼と同じように、自分も。満月の夜に出会っ た異種族の青年に。 「こんな穏やかな時間があることを、俺は知らなかった。生きてゆくだけで精一杯 で、おのれの命よりも愛しく思えるものが他にあることも。それを教えてくれたの は──エディフェル、お前だ」 「次郎、衛門……」 「不思議だな。俺はずっと──時は無慈悲に流れていくものだと信じていたよ。だ が、今ほど思うことはない。このまま、この平穏な日々のまま時が止まってほしい と──願っている」 次郎衛門は笑った。素朴なその笑顔に、エディフェルは己の胸がたまらなく熱く なるのを感じた。ああそうだ、この人はこういう人なのだ。だから、自分は惹かれ たのだろう。自分の中のエルクゥが、狂おしいほど。 「永遠など──」 溢れ出そうとする感情を必死に押さえながら、エディフェル。 「永遠など──この世にはありません。どんなに強いエルクゥもいつかは衰え、レ ザムの下へ還る日が来ます。それが摂理だと。ずっと──そう信じていたのに」 その瞳に、もはや怖れはなかった。 「……不思議。私も今、時が止まってくれればいいと願っています。私の中の火が、 いつまでも褪せぬようにと」 静かな動作でエディフェルは立ち上がった。 穏やかな表情のまま、エディフェルは細い右腕を次郎衛門の前に差し出した。そ の肌にゆっくりと次郎衛門の爪が触れ、す、と引かれる。 吹き出す血。 「あのとき──こうやってお前は、俺にすべてをくれた」 「はい」 「だから、今度は俺が──お前にすべてをやる」 「──はい」 次郎衛門はふたたび己が左腕を裂き、その傷跡をエディフェルの柔らかな傷跡に 宛った。命の雫が──重なりあう。互いの温度を交換するくらいに長く、長く── 呼吸を忘れるくらいに。 熱情に突き動かされるように、エディフェルは己がこうべを垂れた。 この熱を、この想いを、言葉でどう表現すればよいのだろう? 「──どうした?」 次郎衛門が言う。 エディフェルはいつの間にか、泣いていた。 「嬉しいんです。あなたが私を感じてくれることが。私があなたを感じられること が。あなたがそれを、言葉にしてくれることが。知らなかった、こんな気持ち。あ なたが教えてくれたんです。みんな──あなたがくれたんです」 ゆるやかな風。 短い春の空気にそっと身をまかせながら、エディフェルは己に注がれる次郎衛門 の確かな命の息吹を感じながら──静かに微笑んだ。 温かな、この傷跡。 幾星霜の時が過ぎ去ろうとも、自分はこの血の熱さを、決して忘れることはない だろう。 ──そう、確信しながら。 ……春風がそっと鼻孔をくすぐって、柏木楓はうとうとした微睡みから目覚めた。 まず目に飛び込んで来たのは、自分が横たわっていた青いビニールシート。春の 匂いのする萌葱色の草々。抜けるような青い空。鯨のような白い雲。 夢を、見ていた気がする。 なぜだろう、とても、懐かしい夢。 「……?……」 ちり、という僅かな痛みを覚えて、楓は形のいい眉をひそめた。 右腕のちょうど中部分が、かすかにうっすらと赤まっている。なんだろう、覚え のない痕。だけど、柔らかな痛み。懐かしい、血の熱さ。 涙が出るくらいに、暖かな──。 ゆっくりと、そのメロディが口をつく。春風に乗せて、幼い唇がその唄を刻んだ。 「あけび、きんかん、あまどころ……」 「──いたどり、くちなし、ははこぐさ」 重なる歌声。 振り向くと──少年が立っていた。楓より五つくらいは上だろうか、短く刈り込 まれた髪。元気そのもの、という笑みを浮かべた日焼けした顔。 「耕一……さん?」 まだ夢見心地の中にいるようにぼんやりと、楓は呟いた。 そんな楓に、耕一が笑いかける。 「楓ちゃん、梓が水門の方へ行こうってさ。どうする?」 「あ、はい──」 「立てる?」 差し出される少年の手を、おずおずと楓は掴んだ。次の瞬間、宙に浮くような感 覚で楓の身が起こされる。するがままにされながら、楓は柔らかな草の上に立った。 四月の柔らかな風がふたりの間を吹き抜ける。 「でも、驚いたな」 「?」 「楓ちゃんも知ってるんだ。この唄」 「…………」 「いやさ、ずっと気になってたんだよ、この唄。どこかで聴いたことあるんだけど、 どうしても思い出せなくって。なんだっけ? コマーシャルとかでもないし……」 その声を聞いているうちに、楓の視界がだんだんと滲み始めた。 なぜだろう? どうして涙が出るんだろう? どうしてこんなに懐かしくて、あ たたかくて──。 「か、楓ちゃん? 痛かった?」 戸惑うような少年の声に、楓はふるふるとかぶりを振った。 顔を上げる。幼い美貌が、泣き笑いの表情になった。 「ちょっと──びっくりしただけ、です」 「本当?」 「はい」 「よし、じゃあ行こうか?」 「──はい」 少年の手に引かれて歩きながら、楓は思う。 この気持ち、この懐かしさは、いったいなんなのだろう? この感触、あの笑顔。自分はどこかで知っている。なぜだか確信できる、そんな 想い。 けれど、楓のそんな疑問は、少年の手から感じるぬくもりと優しい春風の中に静 かに消えていった。それよりも、今はただずっとこうやって少年の体温を感じてい たかった。それだけで、今はよかった。 今はただ──それだけで。 だから、萌黄色の世界の中をゆっくりと歩きながら、楓はもう一度、ゆっくりと その唄を歌った。 もう少しだけ──もう少しだけ。 時が止まっていてくれますように。 そんな願いをこめて。 「あけび、きんかん、あまどころ……いたどり、くちなし、ははこぐさ……」http://www3.tky.3web.ne.jp/~riverf/