追想 投稿者:睦月周
追想
 その人と初めて出会ったのは、視界の全てが鮮やかな赤で彩られた、そんな世界でだった。
 燃えさかる炎。
 ゆらめく火のうねりよりも、もっと赤く赤く、その人の全身は鮮血で染まっていた。

 髪は無造作に振り乱し、意外なほど細い腕には、自分の倍はあるだろう、巨大な鬼──エルクゥ
の首が抱えられている。
 その人の周囲には、数体のエルクゥの死体が、折り重なるようにして倒れていた。

 はっとするほど鮮やかな血の海で眠るわたしの同族たちを、感情の見えない瞳で、その人は一瞥
すると、がらくたを捨てるように、抱えていたエルクゥの首を放った。ごろごろと毬のようにその首は
転がり、わたしの足にぶつかって止まった。

 喉まで出かかった悲鳴を必死に抑えながら、わたしは震える唇を開いた。

「ジローエモン……ですね?」

 ゆっくりとその人は振り返った。
 よどんだような色の瞳が、わたしに注がれる。
 その瞳を見たとき、なぜかどきりと、胸が鳴った。
 次郎衛門。
 人でありながら、エルクゥの力を持つ、唯一の人。
 わたしたちの敵。
 そして──姉さんが愛した人。

「そうだ」

 抑揚のない声で、次郎衛門は言った。
 その暗い夜空のような瞳に、わたしが映る。

「………」

 言葉に詰まる。
 あれほど豊富に用意してきた言葉は、何の役にも立たずに、喉の奥に詰まって出ない。
 何を言えばいいのだろう、この人に。
 何て伝えればいいのだろう。
 力を貸してください、と?
 人間とエルクゥの架け橋になってください、と、そう言えばいいのだろうか?

 この暗く沈んだ瞳を持つ人に、生きる喜びや、幸せを全て失ってしまったこの人に?
 それをしたのは異邦人であるわたしたち──エルクゥなのだ。

 言葉を失って立ちつくすわたしを見て、静かに次郎衛門が笑ったような気がした。

「……なんだ、俺を殺しにきたわけではないのか?」

 わたしは首を振った。
 次郎衛門の瞳が細まる。その中に映るわたしも、歪む。

「わたしは……リネットと言います」
「………」

 ためらいながら、次の言葉を続ける。

「エディフェルの……妹です」

 エディフェル、という言葉に、次郎衛門の暗い瞳に僅かな意志の光が走った。
 だがその光はすぐにしぼみ、また暗い夜空の色に戻る。

「……ならばどうした。リズエル……と言ったか、あの女のように、血を分けた姉妹を手にかけに
でも来たか? 残念ながら俺はもう何ももってはいないぞ。何もかも奪われたのだからな。お前の
姉たちに。貴様たち鬼に」

 皮肉に満ちた次郎衛門の言葉に首を振ると、わたしは震える声で言った。

「リズエル姉さんは死にました。……アズエル姉さんも。背信の罪で」
「背信?」
「………」

 わたしはうなずいた。
 目を閉じれば、鮮明に情景が浮かぶ。張り付けにされる姉さんたち。従容と死を選んだリズエル
姉さん、最後まで人間との共存を叫んで死んだ、アズエル姉さん。
 実の妹を手にかけたことを悔やみ、失意と絶望の底で息絶えた姉さんたち。

 はッ。と次郎衛門が嘲笑に似た声をあげた。

「滑稽な話だ。実の妹を殺した報酬が死か」
「………」
「何か言いたげだな?」
「……リズエル姉さんたちが、喜んでエディフェル姉さんを手にかけたと思っているのですか?」
「そんなことは知ったことじゃない。殺した、という事実に変わりはない」
「そんな! わたしたちだって魑魅魍魎じゃない。血を流せば涙だって流します」
「……言うな、鬼の娘が!」
「あなたが愛したのも、あなたの言う、その鬼の娘なのでしょう? それなのに──」

 わたしの言葉は最後まで発せられなかった。
 凄まじい速さで延ばされた次郎衛門の手が、わたしの喉をつかみ、そのまま小屋の壁に叩き
つけられるように突かれたからだ。

 げほっ、と喉が詰まる。

「調子に乗るなよ、娘。あいつとの約束だからだ──お前を八つ裂きにしないのは。死の間際、あ
いつは何て言ったと思う? 『リズエル姉さんを恨まないで』 そう言ったんだよ。自分を殺した相手
を恨むな、とな! それだけあいつは、お前たち姉妹を愛していたのだろうな? だから俺はお前
たちを殺さなかった。探すことさえしなかった。そんなことをすればあいつが悲しむからだ」

 ぎりぎりと喉を締め上げられ、わたしの体は宙に浮く。
 苦しい。
 涙が押し出されるように、瞼を割って頬を伝う。

 瞬間、次郎衛門の手が喉から離れ、わたしは自由を取り戻した。
 肺が空気を求めて悲鳴をあげる。
 わたしは小屋の壁にもたれかかるように、はっ、はっと子犬のように喉を鳴らして、涙混じりの目
で次郎衛門を見つめた。

 その肩越しに、煌々と光る月が見える。

 冷たい瞳で次郎衛門はわたしを見た。
 吸い込まれそうに深く、暗い瞳。
 ああ、あきらめている。
 わたしは思った。
 なにかは分からないが、大切な何かをもう、この人はあきらめている。

「……帰れ」

 静かに次郎衛門が言う。

「………」

 哀しみ。苦しみ。孤独。絶望。怨嗟……。この人の瞳の中から、負の感情が溢れだしてくる。
 それはまるで毒のようにわたしに入りこみ、足の先から心まで、犯されてゆくようだった。
 悲しすぎる。
 この人は、あまりにも強い。悲しすぎるくらいに。
 自分で自分を切り裂く、鞘のない刃。
 いや、エディフェル姉さんが鞘だったんだろう。それを失ってこの人は、心も、体も、彷徨い続けて
いるのだ。エルクゥを殺し、その血で自分の血を洗いながら。
 泣いていたのだろう。
 涙の代わりに、深紅の血を流して。

「……か……」

 涙と嗚咽で震えながら、わたしは言った。

「かえ……りません」

 僅かな困惑を瞳に浮かべて、次郎衛門。

「何を泣く?」
「……あなたは」

 わたしは力無く首を振った。

「あなたは、哀しすぎる」
「………」
「……知った風なことを言うな」
「違います!」

 わたしは立ち上がった。
 なぜか、この人には軽蔑されたくなかった。
 その暗い瞳に、嫌悪の色を浮かべてほしくなかった。

「分かります。あなたの哀しみが。孤独が。心に流れこんでくるから……」
「何を馬鹿な……」
「本当です。わたしたちエルクゥには、そういうちからが、備わっているんです」
「ならばどうした? 同情して賽銭でも恵んでくれるか? はッ、言うだけなら何も失うものなどないか
らな──」
「そんな、わたしはただ……」
「俺の心が分かると言ったな?」

 吠えるように次郎衛門が叫ぶ。

「分かるものか! あいつを失った俺の苦しみが。あいつは俺だった。俺の半身だった。あいつがい
なければ意味がない。こんな世界などな。あいつのぬくもりがなければ、肌などいらん。あいつの顔
が見えなければ目にも意味はない。あいつの声が聴けなければ、耳など千切って捨ててもいい。あ
いつを抱けないのならこの腕など──いつでも切り落としてやる!」
「……っ……!」
「だからお前たちに償わせてやる。俺からエディフェルを奪ったお前らを、根絶やしにするまで、俺は
死なん。お前たちを殺しつくすまで俺は……!」
「やめてください!」

 わたしは、必死に叫んで、次郎衛門の首にすがりついた。
 ぬめりとした血の感触が頬を撫でる。けれど、少しも気にならなかった。

「そんなことをして、姉さんが喜ぶとでも? あなたの愛したエディフェル姉さんは、そんな人じゃない
……あなたも、あなただって、本当はそんなことを望んではいないのでしょう?」
「………」
「お願い。姉さんを汚さないで。姉さんを争いの道具にしないで──」

 そう。
 あなたは本当は優しい人。だから、姉さんだってあなたを愛したんです。
 そんなあなたが、こんなことをしちゃ、いけないんです。

「お前に……何が分かる」
「分かります。姉さんの想いも。あなたの心も……分かります」
「なら──」

 わたしの髪を荒々しく掴んで、次郎衛門が叫ぶように言った。

「ならどうしろというのだ!? 座して死を待てと? 寺に入り、エディフェルのために経でもあげれば
よいのか? 貴様ら鬼に蹂躙され、半身を奪われて、何もせぬことがあいつのためになると言うの
か、お前は!」
「ちがう──違います!」

 わたしは幼子のように頭を振った。

「手を結ぶのです。あなたたちと、わたしたちが──共存するために。あなたと姉さんが見せてくれ
た、人とエルクゥの未来を、種族として実現するのです」
「はッ」

 夢物語だ、と次郎衛門は言った。

「やつらは人を獲物としか見ていない。そんなやつらと手を結べだと? 虎と鹿がひとつの穴に住め
ると思うか? 否だ。答えはふたつしかない。虎に鹿が食い殺されるか、知恵を振り絞って鹿が虎を
穴から追い出すかだ」
「あなたなら出来ます。人の身でありながら、エルクゥの力を持ったあなたなら……!」
「やつらにひれ伏せというのか、俺が? エディフェルを奪ったやつらに!?」
「ひれ伏すのではありません、手を取り合うのです。エルクゥと、人が、共に歩めるように」
「妄言だ」
「妄言ではありません。あなたにならそれが出来る。わたしには分かるんです。姉さんの愛したあな
たなら、きっと──」

 忌々しげに次郎衛門がわたしの手を振り払った。

「分かる、分かると……調子に乗るなよ、娘」
「……次郎衛門!」
「その名を呼ぶなッ、その顔で。その声でッ! 思いださせるなッ!」

 乱暴に次郎衛門は、わたしを振り払った。
 わたしの足がもつれ、次郎衛門も体勢を崩し、組み敷かれたような格好になる。

「なぜ現れた……」

 ぽた、ぽた、とわたしの頬を濡らす。
 それは次郎衛門の瞳から溢れ出た涙だった。

「娘、なぜ来た? お前さえ来なければ、俺は信じることが出来た。鬼共を根絶やしにすることがあ
いつへの手向けになると。だからこそ俺は生きてこれた。お前たちを殺すことで、俺は……」
「………」
「なぜ俺を惑わせた? なぜ俺の元に来た? なぜあいつを思い出させるような目で俺を見る? な
ぜあいつに似た声で、俺の名を呼ぶ? 答えろッ、娘!」

 共存のため。
 あなたとエディフェル姉さんのように、人間とエルクゥが手を取り合える日のため。
 そう答えようとした唇は、音を発しなかった。

 わたしのすぐ近くに、次郎衛門の涙に濡れた瞳が見える。

 癒したい、と思った。
 この人の哀しみを。苦しみを。孤独を。
 たぶん、あの夜空のように暗い瞳を見たときから──わたしはこの人に縛られてしまったのだ。
 姉さんのように。

 わたしは静かに顔を上げると、涙で濡れる次郎衛門の頬を、そっと舌ですくった。
 そのまま、肩に手を回し、静かに口づける。
 泣かないで。
 わたしがいる。
 姉さんにはなれないけれど、わたしが──。


 月明かりの下、ふたつの影は、ゆっくりとひとつになった。















 最後の絶叫が、わたしの耳を鋭く打った。
 傷ひとつ負ったことすらない──わたしたちの王、ダリエリが、わたしの眼前で、ゆっくりと崩れお
ちてゆく。

 その胸に、長い長い刀を生やしながら。

「………」

 涙は出なかった。。
 わたしの目の前で、次々と殺されてゆく同族たち。
 平和と未来への架け橋となるはずだったその場所は、焼かれ、破壊され、人とエルクゥの死体と鮮
血で赤黒く染まっていた。

 その様を、呆然とわたしは眺めていた。
 別の世界のことのように。

「すまん」

 次郎衛門が言う。
 その夜空のような瞳に、深い悲しみと、苦しみを浮かべながら。

「どうして……?」

 震える声でわたしは言った。

「すまん」

 もう一度短く、次郎衛門。
 その声を聴いたとたん、わたしの目からどっと涙が溢れた。
 堰を切ったように、麻痺していた感情が体に戻ってくる。全身が小刻みに震え、頬が涙で濡れる。

「……憎いだろうな。お前を騙した俺が。殺したいほど憎いだろう?」

 そう言うと、次郎衛門は手にしていた小太刀を、わたしの方に放った。

「殺してくれ。俺を。お前には正当な理由がある」

 わたしは首を振った。
 殺せるわけがない。
 わたしにあなたが殺せるわけがない。

 わたしは小太刀には目もくれず、次郎衛門に手を延ばした。
 そんなわたしの手を掴んで、次郎衛門がわたしを抱きとめる。

 肩が、涙で濡れた。
 次郎衛門も泣いている。
 死体の山と血の海の中で抱き合いながら、わたしたちは互いに涙を流し続けた。

「すまない、リネット。すまない……」

 贖罪だったのだ。
 わたしは思った。
 次郎衛門がエルクゥを滅ぼしたのは、復讐ではなく、贖罪だったのだ。エディフェル姉さんを守れ
なかった自分への。

 そして、またあなたは罪を被ったんですね。

 なら。
 わたしもその罪を被ります。
 エルクゥを裏切り、同族を滅ぼした永遠の罪を、わたしも。

 だから泣かないで。
 わたしがいます。
 あなたがエディフェル姉さんを愛するように、わたしもあなたを愛していますから。
 
 代わりでもいい。姉さんの代わりでも。
 あなたの傍にいれるなら。

 だから。


 ──今度は、わたしがあなたの鞘になる。






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お久しぶりな睦月です。
感想とかいろいろ書き込みたいんですが、それは次の機会に。
ではでは。

追想  遠い過去の話。  シリアス/痕/リネット、次郎衛門

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