それは終着のない旅 うららかな午後、といってよいのでしょうか。 春の日差しはあたたかく、風はゆるやかで、おそらく人間の体感で考えれば心地よいもの なのでしょう。 わたしは綾香様から頼まれていた本を胸に抱えて、公園の中をゆっくりと歩いています。 砂場では子供達が。 芝生では大人達が。 誰もが目を細めて、このゆるやかな時を楽しんでいるように見えます。 幸せそうな笑顔を満面に浮かべながら。 わたしも少しはずむような感触で、並木道を通り抜けようとしたとき、 「──そこのお嬢さん」 ふと、わたしの背後で声がしました。 振り返ると、ベンチに少しくたびれた背広の、初老の男性がわたしをじっと見ています。 「ああ、そうだ、君だ。ふむ──耳カバーをしているところをみると、きみはメイドロボットのようだ ね?」 「──はい」 そうか、と初老の男性は納得したようにうなずきました。 おや? とわたしは不思議に思いました。 この初老の男性から感じる熱反応が僅かに低いことに気が付いたからです。 ですが、わたしのそんなちょっとした疑問は、初老の男性の次の言葉によって遮られてしまい ました。 「どうだね──少し時間はあるかな?」 「約束の時間まではまだ30分と24秒ほど。いえ──22秒になりました」 なるほど、苦笑して初老の男性がポン、と膝を叩きました。 「ならどうかな? その約束の時間まで、しばらくこの老人の話相手になってはくれんだろうか ね?」 「・・・・・・」 「ああ──わしかね? わしのことはそうだな、“お爺さん”とでも呼んでくれて構わんよ」 はい、とわたしはうなずきました。 ではまあ、座りたまえ、とお爺さんは自分の脇をとんとん、と指で叩きました。 わたしはもう一度うなずいて、お爺さんの隣に静かに腰を降ろしました。 「さて」 お爺さんはそう呟いて、わずかに一度こほっと咳をすると、わたしに向き直りました。 「君はロボットだね?」 「はい」 「そしてわしは人間だ」 「はい」 ふむ、まあこれは動かしえぬ事実だな、とお爺さんは言いました。 いきなり話し始めたお爺さんにわたしは少し戸惑いを覚えましたが、取りあえず首を縦に振り ました。 「あるいは将来わしが──いや、わしらが君の立場に立つことがあっても、君が一線を越えてわ しらの側に立つことはありえない。──そうだね?」 「はい」 「よし。ではそれを定義1としよう。人間とロボットはまったく別の存在である、と」 「はい」 わたしはうなずきました。 その言葉に、異議はまったくありません。 「では次だ。ロボットは人間が生み出した。ならばその存在価値において、人間はロボットのそれ よりも上位である、これに異存はないかな?」 「はい」 即答したわたしを、お爺さんはほう、と好奇心に満ちた瞳で見つめました。 「ロボットは人間がその生活をより円滑にするために生み出されました。人間に奉仕するのがロ ボットの存在定義です」 「君らロボットの口からそう名言してもらえるとどこかホッとするな」 お爺さんはそう言って笑いました。 そしてまた、こほっと咳をしました。熱反応がわずかに低下します。 「ならばこれを定義2として構わんわけだね?」 「はい」 「だがこういう現実がある」 少し目を細めて、お爺さんが続けました。 「ロボットは人間の生活を円滑するために、人間の手によって生み出された。ある会社では労働 力を人間からロボットに変えて、業績を140%を伸ばしたそうだ。人間は座って命令するだけ。辛 い労働はロボットが肩代わりする、人間にとっては明るい未来図というわけだね」 はい、とわたしはうなずきました。 お爺さんの目が一瞬わたしを見て、またすぐに宙に泳ぎました。 「だが、そのロボットに取って変わられた、労働力だった人間はどうなるのかな? その労働に見 あった代価として給料を受け取り、彼らは生活していたわけだ。ある日突然それを失う。生活の手 段をね。そんな彼らにとってもロボットは、“人間の生活を円滑にするもの”なのかな?」 ロボットはある側面では、人間の生活を圧迫しているとは言えないかね? とお爺さんは何の感 情も読みとれぬ視線と口調のまま続けました。 「これを定義3とすると──面白いことになるね。定義1はまあ、それとして、定義2と定義3は確立 しながらも互いに背反し合っている」 君なら、とお爺さんはわたしの目を見やって呟きました。 「君なら、このパラドクスを──どう説明するかね?」 「・・・・・・」 わたしは答えることができませんでした。 その答えを口にすることは、わたしにとってタブーでしたし、何より、適切な答えが見つからかっ たからです。 お爺さんはそんなわたしを気の毒そうに見て、苦笑しました。 「そうだろうな──。いや、すまなかった。答えは別に求めておらんのだよ。・・・わしにも、何が答え なのか、どうしても見えてこんのでな」 ふう、とお爺さんは大きく息を吐きました。 「しかし悲しい現実だな。人の生活によかれと思って生み出された君たちの存在が、また一方で 別の人々の生活を圧迫するという結果になっている。何もかもがうまくゆく、唯一絶対の真理なぞ、 ふん、世の中には存在しないというわけだ。『この世に真理などない──』」 それこそが真理なのだろうな、とお爺さんは皮肉っぽく言いました。 「・・・・・・」 じっと考えていたわたしの顔を見て、どうしたね? とお爺さんが訊きました。 「これが最も適切な表現だとは思えないのですが──」 「──ん?」 「わたしたちは、人につくられた存在です。人に奉仕し、人の代行者として様々な労働をこなし、 人々の生活をよりよくするために──生まれました」 ふむ、とお爺さんがうなずきました。 ですが、とわたしは続けました。 「わたしには姉がいます」 「──ほう」 「その姉は、人のように心を持ち、笑い、泣き──。それでありながら、ロボットとして人のために 生きることを忘れてはいません。心を持ちながら、なお──。それは単なるマニュアルインストー ルの結果なのでしょうか? それとも──」 そこでわたしは口をつぐみました。 ん? とお爺さんが訝しげな声をあげました。 「申し訳ありません。以下のワードが禁止事項に抵触したようです」 そんなものがあるのかね、とお爺さんは笑って膝を打ちました。 「いや、しかし君の言わんとしていることは分かるよ。──ふむ、心を持ったロボットか」 ぜひ会ってみたいものだな、とお爺さんは言いました。 「それは──君にもあるのかね?」 「おそらくは。自分ではまだ今ひとつ実感できないのですが、博士がそうおっしゃっていました」 「なるほど・・・」 少し考え込むように、お爺さんは顎を右手でさすりながら、わたしを見ました。 「ならば、君たちは何のために生まれたのだろうな──? 君を造った人々は、なぜ君に『心』 を与えたのだろう? そこから導き出される解はなんだろうね」 「──その解を算出することは、わたしたちには許されてはいません」 いや、それは違うな、とお爺さんは頭を振りました。 「心を持った以上──おそらくそれが真として認められるには何十年の月日が必要となるだろう が──君たちは一個の独立した存在となるはずだ。もちろんそれで君たちが人間となったわけ ではないが、ロボットという新たな種──。新たな生命──。それが誕生にしたことに間違いは ない」 「・・・・・・」 こんなことを人間性原理主義者に聞かれでもしたら銃殺ものだろうがね、とお爺さんは笑って 言いました。 「そのときは、君たちとわしたちが同じ舞台にたち、手を握りあうときなのかもしれないな」 柔らかな風が吹いて、わたしの頬をそっと撫でました。 その風に真っ白な髪を揺らせながら、お爺さんは大きな息を吐いて、少し話し疲れたな、と気 だるそうに呟きました。 そして、どこか遠い目をして、公園の景色をそっと見やりました。 「わしはね──」 「はい」 「わしは、このベンチから公園の景色をこうやって眺めるのが、何よりの楽しみなんだよ。うららか な日射し、柔らかな風、楽しげに笑う子供たち、それを優しく見守る大人たち──」 小さく二度、咳をして、お爺さん。 少しずつ、顔色が悪くなってゆくのが手に取るように分かりました。 サーモグラフィが、徐々に寒色に染まってゆきます。 「むろんね、そんな景色が人間の全てだとは、わしは思っていないよ。人間には汚い部分がいく つもあるし、どうしようもないほど愚かな一面もある」 だけどね、そう言ってお爺さんは空を見上げました。 「だけど、この公園の幸せな景色もまた──人間の一面であることに間違いはないんだ。わしは そんな人間たちを信じたいんだよ。そしてそんな人間たちが生み出した、君たちロボットもね──」 優しげに笑って、そう呟きました。 「わたしも──」 わたしも小さく呟いて、 「わたしも──同感です」 その言葉に、お爺さんは、ほう、と楽しげな声をあげました。 「それは禁止事項に抵触しないのかな? わしは少し危険な物言いをしたと思うが」 わたしは少しだけ口元をほころばせて、(うまく動いてくれたか自信がありませんが) 「“この公園の景色が素敵だということ”──それに同感です」 ははは、と膝を打って、お爺さんは笑いました。 「まったくだな──。ははは、君とはいい友達になれそうだ」 「友達・・・ですか?」 「そうだな。有史以来初の、人間とロボットの友情の成立というわけだ」 これは歴史的瞬間だな、と楽しげに笑いました。 そしてまた、大きな咳をして力無く首を垂れると、少し疲れたな、そう呟きました。 「さて、わしは少し昼寝でもするとしようか──。長い間引き留めてすまなかったな。今日は楽しか ったよ」 はい、とわたしもうなずいて、ゆっくりと立ち上がりました。 達者でな、お爺さんがわたしに手を振って、静かに目を閉じました。 わたしはゆっくりと歩き出して、ベンチから離れましたが、すぐに歩みを止めて、振り返りました。 ん? と疲れた顔で、お爺さんが顔をあげます。 「今──」 静かにわたしは口を開きました。 「今、失礼を承知でデータベースに照会しました。入力された音声データから、ひとりの男性が検 索されました。その方は、大企業の社主で、周囲の反対を押し切り、車内にHMシリーズの大導 入を決断し、幹部会議から総突き上げを受け──」 「ストップ」 小さく頭を振って、お爺さん。 「お嬢さん、“親しき仲にも礼儀あり”だよ」 申し訳ありません、とわたしは頭を垂れながら、それでも続けました。 「ですが、わたしがお伝えしたいのは、同時に照会した医療データベースの──」 お爺さんは力無く笑って、もう一度頭を振りました。 わたしは、口をつぐみました。 「60年──。それが長いのか短いのかはわからんが、ともかくわしは60年もの間、生きてきた。 旅を続けてきたわけだ」 かすれを帯びた声で、お爺さん。 その声は、徐々に小さくなっていくようでした。 「ようやく──その終着がきたようだな」 静かに。 静かに、お爺さんが、その頬を僅かな涙で濡らしました。 何と声をかければいいのでしょう。 わたしのデータベースのあらゆる場所を検索しても、適切な言葉はいつまでも見つかりません。 「──泣いているのですね」 ようやく口に出来たのは、そんな冗談ともつかぬ言葉でした。 ははは、とお爺さんが力無く笑いました。 「そのようなことをズバリと口にするものじゃないよ。それが人と人との、人とロボットとのコミニュ ケーションの秘訣だ。この場合は──そうだな、“風で目にゴミが入った”とでも言うべきかな」 わかりました、とわたしはうなずきました。 「辞書登録しておきます」 そうしたまえ、とお爺さん。 わたしは──何を言っているんでしょうか。 「ひとつだけいいかね?」 優しく笑って、お爺さんは少し震える唇でそう言いました。 「──はい」 「わたしたちは人間だ。生まれて死に──次の世代へ何かを伝えてゆく。・・・君たちはずっとずっ と生き続け、わたしたちよりもずっと多くのものを受け入れ、ずっと多くのものを伝えてゆく」 それはとても素晴らしいことだが、またひどく辛いことなんだろうね、とお爺さんは続けました。 「忘れないでいなさい。メイドロボットである以上、君は──多くの別れ、多くの痛みを胸に抱えて 生きてゆくことになる。陳腐な言い方しかできないが、強くなりなさい。その重圧に押しつぶされな いくらいに、強く──」 「・・・・・・」 「わたしの旅はここで終わるが、君の旅は始まったばかりなのだからな──」 そしてそれは、と咳まじりの声で、お爺さん。 わたしの肩が、意志とは無関係に震えてゆくのが分かります。 「それは──終着のない旅だ」 いや、それはあるのかもしれないが、わしら人間の段階ではそれはないと同義なのだろうね、 とお爺さんは呟きました。 その呟きは柔らかな風をはらんで、わたしの髪をそっと揺らします。 お爺さんの震える細い手が、わたしの頬に優しく触れました。 その感触を肌ごしに感じながら、わたしは今まで感じたことのない胸の震えが、体中を覆って ゆくのを、確かに感知していました。 「そんな顔をしなさんな。そうだな──これは予行演習のようなものだよ。君がこれから何度とな く乗り越えてゆく山のひとつにすぎないね」 はい、とわたしは答えました。 そして、全てのものを総動員して、口元を少しだけ、ほころばせました。 「いい顔だ」 それでこそわしの友人だ、とお爺さんは優しく笑いました。 サーモグラフィーがゆっくりとブルーに染まってゆきました。 わたしの頬に添えられていた細い手は、しだいに力を失い、やがて崩れ落ちるようにずるずると 擦り落ちてゆきます。 お爺さんは最後に、僅かに唇を震わせました。 「ありがとう」だったのか、「さようなら」だったのか、それとも別の言葉だったのか。 わたしには答えを出すことはできませんでした。 ですが、眠るように瞳を閉じたお爺さんを見ながら、わたしはひとつだけあることを理解しました。 ──それは、わたしの最初の“別れ”は、ひどくあっけなく、ひどく唐突に訪れたということです。 ※ 「どうしたの、セリオ? あんたが時間に遅れるなんて──」 綾香様が、約束の場所に30分も遅れて現れたわたしを見て、怪訝な声でそう言いました。 「申し訳ありません。少しトラブルがありましたので」 「トラブル──? ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」 そう言って、綾香様がわたしの肩に手をかけます。 「いえ、わたしの体には何も・・・」 その綾香様の手に、ぽた、ぽた、と何か水滴のようなものが垂れました。 「・・・セリオ・・・?」 「はい」 「セリオ──泣いてるの?」 その言葉に、ようやくわたしは、わたしの頬が熱く濡れているのに気づきました。 とめどなく涙が溢れてきます。 多くの別れ、多くの痛み。 これはその最初のひとつなのだと、お爺さんは言いました。 セリオ、と綾香様が心配そうな表情で、そっとわたしの頬をぬぐってくれました。 その指先の感触がひどく優しくて。 わたしは思わず目を細めました。 いつか綾香様とも別れなければならない日が来るのでしょうか。 こうして指をぬぐってくれることが、永遠になくなる日が、やって来るのでしょうか。 そして、それでもわたしは、旅を続けなければならないのでしょう。 いつまでも、どこまでも。 お爺さんの言うとおり、それが“わたしたち”なのでしょう。 だからこそ。 だからこそ綾香様とこうしていられる日が──ひどく大切なものに思えてきます。 セリオ、と綾香様はもう一度呟きました。 「ご心配なさらないでください」 そう言って、わたしは微笑みました。 「ただ──」 わたしは一歩を踏み出すことしかできません。 長い長い旅路に、一歩ずつ。 様々なものを刻み、失い、歩いていくことしかできないのでしょう。 だから、こうしていられることが、何よりも大切で──。 「ただ、“風で目にゴミが入っただけ”です──」 歩いていきましょう。 どこまでも、どこまでも、続く道を。 たとえ──そこに終着がなかったとしても。 ■それは終着のない旅 「生命」の続き。 シリアス/TH/セリオ