──どうしてこんなに苦しいんだろう。 はち切れそうなきもち。 言葉にできないくらい、ふつふつと揺れるこころ。 そんなものがぐるぐる、ぐるぐるとわたしの中で渦を巻いて、胸をしめつけて、だんだん、 だんだん、耐えられないくらいの心のうずきに変わってゆく。 知らなければよかった。 思い出さなければよかった──そう思う。 そうすればいつものように笑っていられた。 ずっと、今までのように、ずっとずっと、暮らせていけたのに。 それで充分、幸せだったのに。 どうしてわたしは──思い出してしまったんだろう。 ──あの、ぬくもりを。 『ぬくもり/なつかしいあの』 「初音〜」 雨音でテレビの音がかき消されそうになるくらいの土砂降りだった。 わたしが雨に負けないように、それでもうるさくなりすぎないようにリモコン片手に四苦 八苦しているとところへ、不意に梓お姉ちゃんが声をかけてきた。 「うん、なに、梓お姉ちゃん?」 梓お姉ちゃんはボールで卵をときながらわたしを見て、 「駅まで耕一を迎えに行ってくれる?」 「・・・えっ」 「ちょっと材料足りないものあったからさ──さっきあいつに買い物に行かせたんだけど、 そのときは全然雨なんて降ってなかったから、あいつ傘なんて持ってないと思うんだ。 ──頼むね」 あいつは別に濡れても構わないけど、野菜が濡れちゃ困るから、と梓お姉ちゃんは悪 戯っぽく笑った。 わたしも少しぎこちなく笑みを返して、「うん、わかったよ──」とそう答えた。 そして、わたしはテレビのスイッチをオフにして、三和土の方へ駆ける。 少し足早になってしまう自分に苦笑してしまう。ただ、迎えにいくだけなのに。 自分の薄いピンクの傘と、その脇にあった千鶴お姉ちゃんの赤い傘を持って、扉に手を かける。 そして、ちょっと思い直した。 ──こういう傘だと、お兄ちゃん、きっと恥ずかしいよね・・・。 わたしは玄関箪笥を開けて少しくすんだ灰色の傘──叔父さんのだ──を取り出すと、 千鶴お姉ちゃんのを代わりに中へしまって、外へと飛び出した。 ◆AUGUST.13 17:25 滝のように降っていた雨はすぐに力を弱めて、小雨に変わった。 このくらいの雨は、好きだ。 お気に入りのピンクの傘をくるくると回しながら、しとしと雨の降る街を歩いていると、ちょ っと幸せな気持ちになれる。 そして、いろんなことを考える。 耕一お兄ちゃんのこと。 わたしのこと。 過去の記憶。 ううん、過去というより、もっとずっとずっと遠い──昔のこと。 そんなことがやっぱり、ぐるぐるぐるぐる頭の中を回る。耕一お兄ちゃんのいろんな顔が 浮かんでは消え、消えては浮かぶ。 苦しい。 こんなきもちを全部きれいに、雨が流してくれればいいのに、と思う。 何もかも、わたしの中から洗い落としてくれればいいのに。 そう思って傘をたたんで、雨にうたれてみる。 白とグレーの混じり合った空を見上げながら、わたしはゆっくりと目を閉じる。 冷たい雨が全身を濡らす。 全部流してくれればいい。 喜びも、苦しみも、悲しみも、思い出も、過去も、何もかもきれいに流して、無邪気に耕 一お兄ちゃんを好きでいれたあの頃のわたしに戻れるなら。 今のわたしを、全部真っ白にしてくれるなら。 ・・・雨に溶けてしまってもいい。 そんな風に思った。 そうやって黙ったまま空を眺めていると、道を歩いている人が首をかしげるようにしてわ たしの横を通り過ぎていく。 赤面して傘をさしなおすと、わたしは急いで駅へと向かった。 雨だというのに、駅前にはたくさんの人がいた。 こっちの方に買い物に来てるのなら、たぶんあそこだろう──と、わたしは駅前通りの 大きなスーパーの方へ歩き出した。 遠くの方に看板が見える。 きっと、あそこだ。 自然に足が早くなる。 すると、向こうの方に見慣れた人影が歩いてくるのが見えた。 その姿が視界に入ったとき、わたしの心臓がどくん、と大きく鳴った。 ──耕一お兄ちゃんだ・・・。 わたしは、どくどくと鳴る胸をおさえながら、どうしてこんなに意識しちゃうんだろう、と自 分に首をかしげながら、変に重くなった一歩を踏み出した。 自然に、自然に・・・。 そう言いきかせながら、ちょっと震える右手をあげて、声をかける。 「耕一おにいちゃ・・・」 だけど、そこでわたしの声は凍ってしまった。 お兄ちゃんの隣に、小さな影があった。 ・・・楓お姉ちゃん。 耕一お兄ちゃんが楓お姉ちゃんの水色の傘をさしながら、2人で寄り添うように歩いて いた。 お兄ちゃんは、笑いながら楓お姉ちゃんに話しかけていた。とっても、楽しそうに。 楓お姉ちゃんも、少しうつむきながら微笑んでいた。幸せそうに。嬉しそうに。 そうだよね。 やっと会えたんだもんね。 気の遠くなるくらい長い長い間2人は引き離されて、この時代で、この街で、やっと。 わたしの前を2人が通り過ぎてゆく。 わたしはなぜか物陰に隠れて──隠れる必要なんて全然ないのに、でもなにかに責 めたてられるように──2人の背中を黙って見送った。 気がついたら2本の傘は道端に転がっていて、わたしはただぼうっと立ちつくしていた。 頬が熱かった。 濡らしているものが雨なのか涙なのか分からなかったけれど。 ◆AUGUST.13 22:10 『初音? どうしたんだよこんなに遅く──うわ、こんなに濡れて?』 『えへへ、なんだか耕一お兄ちゃんとすれちがいになっちゃったみたい。あ、ちょっと風で 傘が飛ばされちゃったの。──耕一お兄ちゃんは?』 『ああ、駅前で楓とばったり会って、楓の傘で帰って来たってさ』 『そっか・・・』 『いいから、早く風呂に入りなって。ご飯みんなで待ってるから』 『うん、そうするね──。あ、ご飯、今はいらないよ。ちょっと食欲なくて──』 ベッドに横になりながら、さっきの梓お姉ちゃんとのやりとりを思い出す。 そばにいた耕一お兄ちゃんはすごく心配してくれたけど──今はそのきもちが、逆に 心に痛い。 目を閉じてるだけで、またぐるぐると想いがめぐる。 あの夜、お兄ちゃんとひとつになれたこと。 そして、全てを思い出したこと。 わたしがずっと昔から耕一お兄ちゃんを好きで、でも耕一お兄ちゃんはずっとずっと楓 お姉ちゃんを好きで、そして楓お姉ちゃんはずっとずっとずっと、耕一お兄ちゃんを待ちつ づけて──。 痛いよ。 苦しいよ。 もう・・・どうしていいのかわからないよ。 ──トントン。 不意に、ノックの音がした。 「だれ・・・?」 少し涙声になってしまうのをおさえながら、わたしは訊いた。 「・・・初音、入るよ」 楓お姉ちゃんの声だった。 わたしはうんとも駄目とも言えず、ただたまらない気持ちになって、頭から布団を被った。 きい、とドアの開く音がする。 楓お姉ちゃんのスリッパの音が、部屋にひびく。 「何でもいいから、少しお腹に入れておいた方がいいよ」 ここにおにぎり置いておくから、という楓お姉ちゃんの声に、トレイの置かれるかちゃんと いう音が重なった。 うん、という言葉を飲み込んで、わたしはただ黙っていた。 「じゃあ──」 スリッパの音が小さくなる。 また、きいというドアの音。 音は、そこで止まる。 沈黙。 本当にわずかな、それこそ数秒にも満たない間の沈黙だったけれど、わたしには永遠 の一瞬に思えた。 そして──。 「・・・初音」 楓お姉ちゃんの声。 とっても優しくて細くて、なんだか、涙がまじっているような声。 震える手をきゅっと胸のあたりでおさえる。 いろんな想いが胸をよぎる。 「耕一さんが誰よりも大切に思っているのは──初音だよ」 そう呟いた。 それだけは・・・。 それだけは、忘れないで──と、楓お姉ちゃんは続けた。 「・・・おねえちゃん・・・」 気がつけばわたしは顔をあげていた。 楓お姉ちゃんの顔を見る。頬が濡れている。 ちょっとくやしいかも、と楓お姉ちゃんが笑った。そして、そのきれいな瞳をまた濡らした。 わたしも胸がいっぱいになって、ぽろぽろとあふれる涙が止められなかった。このまま 枯れてしまうんじゃないか、というくらいに。 ありがとう、ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい──。 ただそんな言葉をくり返して、わたしは泣いた。 楓お姉ちゃんは、そんなわたしを優しく抱いてくれた。 少しだけ──胸を重くしていたものが、晴れたような気がした。 ◆AUGUST.14 13:40 「それじゃ、お世話になりました」 そう言って、耕一お兄ちゃんが千鶴お姉ちゃんに頭を下げた。 今日、耕一お兄ちゃんは東京へ戻ってしまう。 結局あれから、耕一お兄ちゃんと話をすることはできなかった。 おはようっていう何気ない一言すら、すごく重かった。 駅のホームで、耕一お兄ちゃんと向かいあいながら、わたしはただうつむくことしかで きなかった。 「またすぐにでも帰ってきて下さいね。耕一さんの家なんですから」 「遊びほうけてばかりいないで少しは本業に精を出せよ、グータラ大学生!」 「・・・耕一さん、また来てくださいね」 そんなお姉ちゃんの言葉に「はい」とか「ああ」とか答えながら、耕一お兄ちゃんは最後 にわたしを見た。 ん? というように。優しい笑顔で。 言わなきゃ。 用意してた言葉を、ここで言わなきゃ。 『お兄ちゃん、待ってるから。ずっとずっと待ってるから。絶対──帰ってきてね』 そう伝えなきゃ。 それから、ちゃんとわたしの気持ちも・・・。 「あのっ・・・」 プルルルルル・・・。 わたしの言葉に、列車の出発音が重なる。 あわてて荷物をかついで、耕一お兄ちゃんは列車に駆け込んだ。 「あっ・・・」 耕一お兄ちゃんが行っちゃう。 何にも伝えられないまま、東京へ帰っちゃう。 嫌だよ。 そんなのは絶対に嫌だよ。 「初音ちゃん!」 耕一お兄ちゃんが叫びながらわたしを手招きする。 そして、その大きな手をわたしにさしのべる。 わたしは引き寄せられるように駆け寄って、延ばされた耕一お兄ちゃんの腕をつかんだ。 次の瞬間、わたしの体はふわっと宙に浮いて──。 「えっ・・・」 お兄ちゃんの胸に抱きとめられた。 「えっ、えっ、えっ、えっ・・・・」 ぎゅうっと耕一お兄ちゃんがわたしを抱きしめる。困惑したまま、わたしも腰に回した手に 力を込める。 プシューッ。 音がして、列車のドアが閉まる。 振り返ると、窓の向こう側に呆然とした表情のお姉ちゃんたちが見えた。 ガタン・・・。 列車が動き出す。 「お、お兄ちゃん──」 とまどいながら顔をあげたわたしの髪を、耕一お兄ちゃんが悪戯っぽく笑ってくしゃくしゃ と撫でた。 「言ったろ? 俺は──柏木耕一って男は、初音って子が誰よりも大切だって──」 「・・・・・・」 「それに、これで初音ちゃんを俺のアパートに連れ帰るっていう野望も、達成できるってわ けだ」 あはは、と耕一お兄ちゃん。 「お兄ちゃん──」 涙声になるわたしを、耕一お兄ちゃんが優しく抱きしめてくれる。 「いっしょに暮らそう。初音ちゃんが高校を卒業したら、こっちに来ればいい。今日は、その 予行演習だよ」 うん、うん、とわたしは何度もうなずいた。 そして、ぎゅっとつよく、つよくつよく、お兄ちゃんを抱きしめる。 背中ごしに流れる景色が、目にまぶしい。 ガタガタと揺れる列車の振動が、なぜか心地いい。 それも全部──全部お兄ちゃんと一緒にいるからなんだよね。 お兄ちゃんに抱かれていると、世界ってこんなに変わってしまうんだね──。 うん、ずっとついていくよ。 ずっと信じてるよ──耕一お兄ちゃんを。 あたたかい胸。 お兄ちゃんの体温が、わたしの心にわだかまっていたものを、全部、全部溶かしてゆく。 涙が出そうなくらいになつかしい、このぬくもりに抱かれながら、わたしはせいいっぱい 背のびをして、耕一お兄ちゃんに約束のキスをした──。 ■ぬくもり/なつかしいあの 初音エンディング後の物語 シリアス/痕/初音、楓、耕一