神さまの誕生日 ──ガタン。 電車がカーブにさしかかったのだろう、その大きな揺れで私はうとうとした微睡みから 目覚めた。 車内を見回す。 私の他には数人の乗客がいるだけだ。 それもそうだろう。もう時計の針が11にさしかかろうという時分だ。 それに、研究所勤めの私には縁などないが──今日はクリスマスイヴだ。 今頃、町で家で、幸せな人々がそのささやかな幸せをかみしめている日だ。こんな、夜の ローカル線に人が多いはずもない。 そんなことをわずかな嫉妬と共に思いながら、私は何気なく窓の外を見た。 夜の景色がゆるやかに流れる。 雪は・・・降っていない。 ホワイトクリスマスにはならなかったな、苦笑と僅かな安堵と共にそう思う。 私は・・・雪が好きではない。 突然の別れは雪と共に来る。そんな気がする。 あの日もそうだった。 嫌になるくらい白い雪──あの病院の窓から見た、ただしんしんと無機質に降り積もる 雪の夜に、娘は息をひきとった。 白い、小さな手の感触が、まだ右手に残っている。 その小さな手がゆっくりと・・・そう、まるで雪のように白く冷たくなってゆくのを肌ごしに感じな がら、12年間握り続けていた紅葉のような手が、雪が降りゆくごとに体温を失い、やがてただ の、そうただの冷たく固まった石となってしまうのを、私は黙って見ていた。 涙は出なかった。 信じることができなかったからだ。 これは喜劇なのだ。 今にも娘が優しく私の手を握り返し、「あはは、冗談だよ。・・・驚いた、おとうさん?」 そう囁いて微笑んでくれると信じて疑わなかったからだ。 だがもちろん現実は物語ではなく、娘は何の言葉も残さぬまままるで眠るようにこの世を 去り、あっさりとベッドは空になり、あっさりと娘は小さな、馬鹿馬鹿しいほど小さな骨のかけら になって鹿爪らしい箱に収められた。 私は痴呆者のようにそれを胸に抱き、いつまでも呆然と立ちつくしていた。 風が頬を撫で、雨がコートを、私を濡らし、やがてその雨が雪に変わっても私はそこにいた。 しんしんと雪が降り積もる。 私を、街を、そしてこんな馬鹿馬鹿しいものに姿を変えてしまった娘を、雪は白く染めた。 全てを覆い隠すように。 そして私は、ようやく頬を涙で濡らした。 心が、痛かった。 こんな痛みをともなうのなら、心など、ない方がいい──そう思った。 ──ガタン。 電車が大きく揺れる。その振動でわたしは思考の海から一気に現実へと引き戻された。 また・・・昔のことを思い出してしまった。 そんな自分に苦笑しながら、私は曇った瞼をこすりながら、車内を見回す。 もう、人はほとんどいなかった。 私の他にはもうひとり──つばのある黒い帽子を深くかぶったピーコートの少年が頭を深く 垂れて三人掛けの椅子に座っているだけだ。 他には誰もいない。 こんな時間に妙だな、と私は思った。 背格好からして少年は12、3歳くらいの歳に思える。こんな時間に電車で揺られているよう な年齢ではない。 いや、最近は塾や何やらでこれくらい遅くなるのは常識というものなのだろうか? そう思っ たとき──。 「こほっ──けほっ!」 少年が突然体を曲げて、苦しそうに咳をした。 そのまま口に手を当てて、小さく喉を鳴らす。何度も続けて。 そして、ようやく咳が収まったかと思うと・・・。 「こほっ、けほっ!」 また苦しそうに体を曲げる。 その繰り返しだった。 「どうしたんだね?」 見るにみかねて私は少年に歩みより、その小さな肩を叩いた。 さすがにもう、放ってはおけないだろう。 「あ・・・いえっ・・・」 少年の言葉を遮って、私は重ねて訊いた。 「喘息気味なのか? 常用の薬は──?」 そう言いながら少年の額に手を触れた私は、その熱さに思わず目を見開いた。 すごい熱だ。 少年は体力の限界か、くたっと私にもたれかかってくる。私はあわてて少年を抱きかかえる と、周囲を見回した。・・・だが、この車両はおろか隣の車両にも人は乗っていそうにない。 あまりの人の少なさに、一瞬わたしは疑問を感じたが、すぐ気を取り直し、少年の耳元に口 を近づけた。 「少し待っていなさい。次の駅についたら、すぐに車を呼んであげるから──」 そう言いかけた時だった。 ──ガタンッ! ひときわ大きな音と揺れが列車を震えさせたかと思うと、急速にスピードが緩まり、やがて 完全に列車は静止した。駅に着いたのか? と思ったが、窓の景色には夜の町並みがただ 空しく映るだけだ。 「なんだ、どうした──」 私のそんな訝しげな声に、車掌のものらしきアナウンスが重なった。 『──お客様にご連絡いたします。ただいまF駅におきまして架線事故が起きました関係で、 電車を一時停止しております。お急ぎのところ申し訳ありませんが、ご了承ください』 こんな時に・・・。 思わずわたしは舌打ちした。 そして腕の中の少年を見る。 帽子のつばの影に隠れた顔が、ハアハアと苦しげにゆがんでいた。 「──人間は専門外なんだがな」 わたしは苦笑しながら少年を長椅子に横たえると、ピーコートをぬがし、シャツのボタンをは ずして呼吸を楽にさせた。手持ちのハンカチでじっとりと汗に濡れた少年の頬を拭う。 焼けるように熱い。 「こほっ──」 少年が痙攣するように体を曲げる。 同時に、深くかぶっていた帽子が外れ、床に落ちた。 わたしは何気なくそれを手に取り、少年に戻し・・・。 「!」 ・・・戻せなかった。 わたしの手は、帽子を握りしめたまま、固まったように動かない。 わたしのふたつの瞳は少年の顔に釘付けになっていた。 少年──じゃない、少女だ。 いや、問題はそんなことじゃなく・・・。 この・・・白い、小さな顔は・・・。 「・・・・・・」 わたしの唇が、音にならないままその名を刻む。 12年間呼び続けていたあの名。 そして、もう2度と口にすることはないと思っていた、あの名──。 そして。 そしてその小さな唇が、再び耳にすることはできないと思っていた言葉を紡ぎだした。 「・・・おとうさん」 わたしは食い入るように少女の顔を見やった。 だがその瞳は閉じられたままで、唇はうわごとのような音を紡いで短く上下している。 「・・・おとうさん」 もう一度震える唇で、少女。 細い手が何かを求めるように宙をさまよう。 わたしがその手を掴むと、きゅっと握り返してくる。 そして、安心したように、静かな寝息を立て始めた。 もう一度ゆっくりと少女の顔を見る。 たしかに似ている。だが。 そんな馬鹿なことがあるはずもない、か・・・。 わたしは自分のおかしな考えに苦笑しながら、そっと少女の髪を撫でた。 ・・・ん、と少女がくすぐったそうな仕草を見せる。 思わずわたしの口元はほころんでいた。 「──目が覚めたようだね」 ようやく目を覚まし、きょとんと周囲を見回す少女に、わたしは優しく言った。 「あ・・・わたし・・・」 「動かない方がいい。まだ熱が少し残ってる」 そういうと、少女はこくっとうなずいて体をもう一度横たえた。 「しかし、こんな時間に、こんな体で何をしていたんだ?」 詰問的な口調にならないように、わたしは尋ねた。 少女はわたしを見定めるように、視線を上下させていたが、わたしと目が合うと困った ように瞳を伏せた。 「まあ、それなりの事情があるんだろうがね・・・」 「あの──」 呟くように、少女。 「ん?」 「会いたい人が・・・いたから・・・」 「しかし、こんな無茶をしてまで・・・」 だって、と彼女はわたしを見た。 「だって──今日は神さまの誕生日でしょ?」 「・・・・・・?」 「みんなにみんな、幸せなことがおきる日でしょ? だから──」 だから、我が儘を聞いてもらえそうな気がしたの。 そう少女は囁いた。 正確には明日が誕生日なんだがね、とわたしは心の中で苦笑する。 いや、そうでもないか・・・と、わたしは時計を見た。 0:04分。 そう、もう今日は神さまの誕生日、か。 そんなわたしの手を握る少女の手にきゅっと力がこもった。 視線を向けると、少女はくすっと微笑んだ。 「──ん?」 「おじさんの手、ザラザラ」 ああ、とわたしは笑って、 「仕事柄ね。手を色々使うんだよ」 「なんのお仕事をしてるの?」 因果な商売だな、とわたしは苦笑した。 「わたしがやっているのはね、そうだな、そう──神さまの真似事さ。新しい命を人の手で作る っていう、まあ、思い上がった商売だよ」 自嘲めいたわたしの言葉に、少女は不思議そうな視線を向けた。 「・・・いのち?」 「うん、まあ──所詮は偽物にすぎないんだがね」 苦笑する。 そう、わたしの子供たちは、全て、偽物だ。 実用化し、どれだけ人の役に立っていようとも、心のない、ただの人形なのだ。 わたしは今まで11体もの、そんなまがいものの、いのちを作ってきた。 人々はわたしに尊敬の目を向ける。 魂のない、器だけの存在。人間の姿形だけを模写した動く人形、そんなものに拍手喝采を浴 びせてくれた。 心のないオートマータ。 それでいい、とオーナーは言う。わたしもそう思う。 ロボットに心があったところで──辛いだけだ。 だが、少女はくすっと笑って、 「──素敵だね」 そう言った。 「え?」 「いのちを作れるなんて、すごい──うん、すごい素敵だね」 素敵? 素敵だろうか。 わたしのしていることは体裁はともかく、やっていることは所詮新たな労働力の確保にすぎない。 高齢化社会にともなう基本労働力の低下。それを補うためにこのプロジェクトはそもそもスタート したのだ。 わたしはただ、技術者として参加したにすぎないのに。 「素敵・・と言えるのかな?」 「だっていのちを作れたら、友達だってたくさん作れるし、家族だって増えるし、きっと楽しいよ」 家族? 友達? 労働力としてではなく、人としての──ロボット? 「きみは・・・」 わたしは少し口ごもりながら、訊く。 「きみはそういう『友達』が、わたしたちの手で生み出せるとしたら、それは、素敵なことだと 思ってくれるの・・・かな?」 「──うん!」 何の混じりけもない、無垢な笑顔で、少女は微笑んだ。 そんな彼女の笑顔につり込まれるように、わたしも、そっと笑みを返した。 単純なこと──なんだろうか。 プロジェクトに参加したばかりの、まだ若かった頃の自分を思い出す。 『ねえ、おとうさん?』 『──ん?』 『おとうさんは、会社でどんなお仕事をしているの?』 『なんだい、突然』 『作文の宿題。おとうさんのお仕事について書くの』 『そうか──そうだなあ』 懐かしい過去の記憶。 何もかも若く、ひたすら理想を求めていた頃。 そして、なんのためらいもなく口に出来たあの言葉。 『お父さんはね、お前たちの新しいお友達を──作ってるんだよ』 簡単なことなのかもしれなかった。 そう、解かれた方程式は、どれほど難解なものでも、結局は簡単なのだ。 何か枷のようなものが、ふと、わたしから解かれたような気がした。 ──ガタン。 揺れと共に、電車が動き出す。 ゆっくりと、窓の外の景色が流れてゆく。 「・・・あ」 少女が声をあげた。 わたしも息を飲んで、窓の外に目をやった。 雪だ。 雪が降っている。 静かに、緩やかに。疲れた街を潤すように。 知らなかったな。 雪が、こんなに優しいものだったなんて。 「──行かなくちゃ」 ぼうっと窓の外を眺めていた少女が、唐突にそんなことを呟いた。 「・・・え?」 「もう電車が動き出しちゃったから・・・わたしは行かなくちゃ」 ゆっくりと、立ち上がる。 そして静かに・・・。 静かに、少女が白い光に、包まれてゆく。 まるで雪のような──。 「きみは・・・」 「今日は神さまの誕生日だから・・・だからちょっとだけ、会えたんだよ」 ──おとうさん。 「あ・・・」 驚くわたしにむかって少女は──娘は、優しく微笑んだ。 「おとうさん、ありがとう。ずっと手を握っていてくれて──今も、あのときも」 わたしは思わず、駆け寄って娘の細い小さな体を思い切り抱きしめていた。 娘は苦しいよ、と笑いながらも、わたしを優しく抱き返してくれた。 やっぱり・・・そうだったのか。 ぐっと、手に力を込める。 時間が止まってほしかった。 いつまでもいつまでも、このままでいられたら──。 「行かなくちゃ・・・わたし。おとうさん・・・」 娘が呟く。 名残惜しい動作でわたしは娘を放す。 この期に及んで、困らせたくはなかった。 「ねえ、おとうさん?」 「・・・ん?」 「妹たちに──よろしくって、言っておいてね。幸せになってね、って」 ああ。 わたしはうなずいた。 伝えておくよ。 その言葉の意味も。幸せっていうものも理解できるような娘たちをわたしは生んで、 お前の言葉を伝えるよ。 ──優しい心を持った、娘たちを。 「・・・うん」 娘はうなずいた。 それが合図のように、白い光がまるで渦を巻くように広がった。 全てが真っ白になった。 わたしも、娘も、全てが光に包まれて、そして──。 「さよなら、おとうさん」 そんな声がしたような気がした。 ──ガタン。 電車が揺れると同時に、わたしは微睡みから覚めた。 あわてて周囲を見回す。 まばらだが、人は車両に幾人か、いた。 夢か・・・? まだ娘の手の感触が残る右手をそっと見ながら、わたしは体を起こした。 ころっと、何かがこぼれる。 ・・・・・・? それを見たわたしは、思わず笑みをこぼした。 小さな黒い、つばの広い帽子。 わたしはそっとそれを拾い上げると、ドアの開いた電車を抜けて、ホームに出た。 今日は神さまの誕生日だ。 一生に一度くらいこんなプレゼントをもらっても、罰は当たらないだろう──。 横なぐりの雪の中、そんなことを思いながら。 余談になるが、半年後、HMX−12、通称マルチの完成が正式発表されたことを、 ここに記しておく──。 ◇神さまの誕生日 HMX−12誕生前のエピソード。 シリアス/TH/長瀬源五郎