夏夜の子守唄(17) 投稿者: 睦月周
【天堂寺家の人々】
天堂寺冬湖    作家。奇作、『煉夜の月』を執筆したのち、殺される。
天堂寺将馬    有力代議士。冬湖の長男。1人目の犠牲者。
天堂寺和馬    三流彫刻家。冬湖の次男。3人目の犠牲者。
天堂寺由希恵   将馬の妻。2人目の犠牲者。
船村志朗     天堂寺家の執事。
雛山理緒     メイド。
天堂寺繭     冬湖の孫。天堂寺蝶子の忘れ形見。
天堂寺蝶子    冬湖の娘。15年前に病死。
天堂寺夏彦    冬湖の弟。数十年前に失踪。

【その他の人々】
藤田浩之     私立探偵。
佐藤雅史     僕。浩之の相棒。
姫川琴音     浩之の助手。
長岡志保     人気ニュースキャスター兼情報屋。
来栖川綾香    警部。
松原葵      綾香の部下。


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【真相】 ALSO SPRACH ZARATHUSTRA (序奏〜病より癒えゆく者)


「そう、天堂寺冬湖は盲人だった。だが、盲人では作品を書き上げることはできない・・・当然
生じるジレンマだな。じゃあここでひとつの仮定をしてみよう──」
 浩之はそう言ってじっと僕らを見た。
 そして──。

「もし、天堂寺冬湖という人間が、“ひとり”でなかったとすれば?」

「なっ・・・」
 来栖川さんが驚いたように声をあげた。
 その場にいる誰もが、浩之の言う突拍子もない仮定に目を剥いている。
「ちょっと待って浩之、いくらなんでもそれは論理が飛躍しすぎてるわ──」
「質問、苦情は後」
 はいはい、と浩之は来栖川さんを押しとどめた。
「オレが言ってるのは、作品を構想する人間と、それを文字として記録する人間、その二人が
いたんじゃあないか、とそういうことだよ。つまり、冬湖氏が口述した『作品』を、その『誰か』が、
筆記する。そうすれば、光を失った冬湖氏も作品を世に生み出すことができる」
 なるほど、と僕は思った。
 そういう意味での二人、か。
「要するに天堂寺冬湖は一人ではなかった。読み手と書き手、この二者が揃って初めて、
『天堂寺冬湖』は機能するわけだ」
 まあ極論だけどな、と浩之。
「さて、ここでひとつの問題が生じるわけだ。今まで何の問題もなく動いてきたこの『天堂寺冬湖』
は、ある事件をきっかけに、その歯車を狂わしてしまった」
「ある事件?」
 思わず口を挟んだ僕を浩之は目で制して、
「その事件については後で説明するよ。え〜、つまりそのある事件によって、二人の天堂寺冬湖
の関係に微妙な変化が起こった。最初は小さい齟齬だったかもしれないな。だが、しだいに、
その『ズレ』は深く大きくなる」
 それでは抽象的すぎると思ったのか、浩之は補足した。
「具体的に言えば、それまで構想者──いわゆる『読み手』の天堂寺冬湖が絶対的な主体だった。
あくまで『書き手』の‘天堂寺冬湖’はそれに付随する従体でしかない。それはそうだな──
構想力は万人が持てる力ではないが、文字ならば誰にでも書ける。言うなれば『書き手』の
‘天堂寺冬湖’ならいくらでもいる。言葉を聞く耳があり、文字を紙に書き留める指があれば、
誰でもいい」
 だが、と浩之は続けた。
「主体である天堂寺冬湖は盲人だ。彼自身が見る世界は、全て従体の‘天堂寺冬湖’を通しての
ものでしかない。つまり、作品をどう改竄しようとも、主体の天堂寺冬湖にそれを止めるすべはない。
第三者の存在も意味はない、彼は人嫌いだからな──。そして、従体の‘天堂寺冬湖’は、
その事実に気づいてしまった」
 哀れむように、浩之は言う。
「そう、彼はまさに気づいてしまったんだな。自分の指ひとつで、天堂寺冬湖の世界に、いくらでも
手を加えることができる──そして、こう思ったんだろう。『もしや、自分こそが本当の天堂寺冬湖
ではないのか・・・』」
 沈黙が場を支配した。
 にわかには首肯できかねないものがあった。
 天堂寺冬湖が盲人であり、それを支えるもうひとりの‘天堂寺冬湖’がいた──だけではなく、
『そのもうひとりの‘天堂寺冬湖’』が、本人に取って変わろうとした、という。
「浩之──」
 来栖川さんが、切れ長の瞳に困惑の色を浮かべて尋ねた。
「『天堂寺冬湖』という人間が二人いた・・・まあ、どちらが主体にせよ従体にせよ、とりあえず
それは認めるわ。でも、そのことが一連の事件にどう関わると言うの?」
 その疑問に、浩之は無言でうなずいた。
「今回の一連の事件の中心に、冬湖氏の絶筆だった『煉夜の月』があった、というのは周知だな。
オレらは最初、それを冬湖氏の遺志を汲んだ犯人が、その世界を完成させるために、次々と
殺人を犯していった、そう考えてきた」
「それが・・・違うというんですか?」
 控えめに、姫川さんが訊く。
「いや、推論としては一理ある。信憑性も高い。だが、この推論は、『煉夜の月』が天堂寺冬湖自身
の作品だった、という確証を得て初めて成り立つものだ」
「当たり前じゃない、だって『煉夜の月』は──」
 言いかけて、来栖川さんは何かに気づいたように口をつぐんだ。
「あ・・・!」
「そうだ。いいか、あくまでこれも推論の域を出ないが・・・」
 にやっと笑って浩之。

「もし『煉夜の月』が、もうひとりの‘天堂寺冬湖’の手によるものだったとしたら?」

 ゆっくりと、浩之は言葉を継いだ。
「『煉夜の月』の売り文句はこうだ──天堂寺冬湖の新境地、──天堂寺作品における革命的異端作、
──冬湖自ら自己を否定したアンチ・テーゼ・・・。だが齢70を越えた人間にそうそう都合良くそれまでの
自己を一新するほどの変革が訪れる、というのは考えにくい。それならむしろ、冬湖とは別の価値観、
別の人間性を持った人間の所為と考えた方が妥当だ」
「・・・そうか」
 思わず僕は声をあげた。
「だから、もうひとりの‘天堂寺冬湖’は、自分の世界そのものを完成させるために──」
「あるいは自分の世界を外に・・・現実においてアピールし、自分が本当の天堂寺冬湖なのだ、
ということを世間に知らしむるために、一連の事件を引き起こしたんだろう」
 ごくり、と唾を飲み込む音。
「じゃあ、そのもうひとりの‘天堂寺冬湖’さんが・・・」
 皆まで言ってしまうのを恐れるように、姫川さんが呟く。
「そう、この事件の犯人だよ」

「じゃ、じゃあ──」
 松原さんが言う。
「その・・・もうひとりの‘天堂寺冬湖’さんは、誰なんですか?」
「それを説明するには、さっき置いておいた『ある事件』について話さなけりゃな」
 こほんと咳をして浩之は続けた。
「その『ある事件』が、二人の『天堂寺冬湖』の間に亀裂を生んだ、と言ったな。その事件は、
15年前に起きた」
 15年前? 僕の心に、何かがひっかかる。
「天堂寺蝶子という女の子がいた。おそらく生来病弱だったんだろう、彼女はこの屋敷で生まれ、
そして育てられた。母親を早くに亡くしてはいたが、それでも周囲の愛情に育まれ、それこそ
蝶よ花よと育てられていたんだろう」
 天堂寺蝶子。
 繭ちゃんの母親。そして、あの肖像画の女性。
「彼女は世話係として、ひとりの男性がついていた。彼は主人である冬湖氏を神のように
尊敬し、またその娘である蝶子さんを、誰よりも愛していた」
 だが、と浩之は言葉を切った。
「いいか、ここからはオレの完全な推論だ。事実からの類推にすぎない・・・いや、もう直感だな。
だが、おそらくほぼ真実に近いと思う」
 そう前置きする。
「おそらく・・・彼は見てはいけないものを見てしまったんだろう。それによって、自分の価値観全てが
崩壊してしまうほどの・・・」
「何を・・・見たの?」
 来栖川さんが尋ねる。
 浩之の表情が険しくなった。

「おそらく──おそらくそれは、天堂寺冬湖氏と蝶子さんが、まぐわる姿だ」

 ああ・・・。
 そういうことか。
「冬湖氏と蝶子さんが関係があったのは、事実だよ。これは花田さんが話してくれた。
・・・そうですね?」
 はい、と涙声で花田さんは応えた。
「大旦那様は奥様を亡くされてからずっと失意の底でございました。蝶子様はそんな奥様の
お若い頃に生き写しで・・・。ですから、大旦那様は、蝶子様を・・・」
 なんということだ。
 じゃあ、天堂寺繭は──。
「浩之、じゃあ繭ちゃんは・・・」
「天堂寺繭は、冬湖氏の孫であると同時に、娘でもある」
 僕の胸がしめつけられるように痛んだ。
「体の弱かった蝶子さんは繭ちゃんを身ごもったことでますます疲弊し、その体は出産には
とても耐えうるものではなかったんだろう。事実、蝶子さんは、繭ちゃんを生んですぐに──病死した」
 冷然と言う。
「その全てを見ていたその男性──蝶子さんの世話係だな──は、自分の世界が崩れてゆくのを
肌で感じたんだろうな。神であったはずの冬湖は堕落し・・・愛すべき対象であった蝶子さんをも失った──」
 祈るように。
「全ての歯車はこのときに狂ったんだ」
「じゃあ・・・」
 かすれるような声で、僕。
「じゃあ、その人が・・・?」
「もうひとりの‘天堂寺冬湖’だな」
 そうですね? と浩之は誰かに問いかけるように言った。


「後は本人に訊いた方が早いだろう──そうですね、‘天堂寺冬湖’さん?
・・・いえ、船村志朗さん」