夏夜の子守唄(18) 投稿者: 睦月周
【過去】 ALSO SPRACH ZARATHUSTRA (舞踏の歌)


 その場にいた全ての人間が、弾かれたように船村さんを見た。
 彼は・・・相変わらず無表情に、浩之を見つめている。
「考えてみれば当然の帰結だったんだな。屋敷の全ての鍵を管理し、裁量ひとつで使用人たちを
どこにでも動かせる。人払いをするのも容易だ。この犯罪はあなたにしか為しえない」
 なぜ、というのは愚問でしょうが、と浩之は訊く。
「なぜ殺したんですか、船村さん? 冬湖さん、将馬さんの二人は分からないではありません。
ですが、どうして、由希恵さんや和馬さんまで・・・」
 悲しげな表情で浩之が訊く。
「どうして、自分の子供たちまで・・・」
 子供?
 どういうことだ?
「浩之、何を言っているの・・・?」
 困惑したように、来栖川さんが訊く。
「由希恵さんと和馬さんは、船村さんの娘だよ」
「ちょっと、何を言い出すのよ?」
「いや、船村さんは天堂寺冬湖さんの弟と言った方がいいな。昔の名でいえば・・・天堂寺夏彦さん、
ということになりますか」
「・・・・・・」
 静寂。
 全てが、沈黙に包まれる。
 そして──。

「なぜ、それを?」
 感情のこもらない声だった。
 ただ静かに、尋ねる。
「顔も変え、名前も変えたのになぜ、ですか?」
 浩之も静かに応える。
「顔や名前を変えるのはある意味容易ですよ。その後それを維持してゆく苦労に比べれば、
ですが。特に戸籍ですね。どれだけ口の堅い偽造者に頼んでも、戸籍ほど人の手を経てゆく
ものはありません。様々なルートから調べることが可能です。腕のいい情報屋ならば、
その根にゆきつくのもそれほどの苦難ではないですよ」
「なるほど・・・優秀な方が側にいらっしゃるようだ」
「腕だけは全幅の信頼を置けますね」
 腕だけ、か。
 思わず僕はくすりと笑ってしまった。
「・・・先生のおっしゃるとおりです」
 静かに・・・船村さんは全てを肯定した。
「天堂寺夏彦・・・すっかり忘れていた名です」
「なぜ、名も、顔も、全てを捨てたんですか?」
「贖罪です」
 そう呟いた。
「私は罪を犯したからです。だから一度、私はこの世から消えねばならなかった」
「罪・・・ですか?」
 そうです、と船村さんは応えた。
「私にとって、兄・・・冬湖は神でした。私はいつも兄の背を見続けて生きてきました。
それは私にとって苦痛ではありませんでしたし、兄の力になれることが単純に嬉しかった」
 なぜか胸が騒いだ。
 船村さんは続ける。
「私は幸せだったんでしょう。尊敬する兄とともに生活し、結婚もしました。何の不満もなかった。
あの日、加代子さんに会うまでは」
 加代子さん。
 将馬さんや蝶子さんの母親か。
「私はひと目見て、あの人の虜になってしまった。あの人が兄の妻になると知って、私は
初めて運命を呪いました。これからの生活がどれほどの苦痛かを考えると、狂いそうになるほどに。
あの人は私のために笑ってはくれない、あの人が必要としているのは、私ではない」
 いらない人間。
 必要とされない人間。
 だからこそ。
「私は認めて欲しかった。あの人に。兄に。それ以上に情念を抑えられなかった。
私は──加代子さんを犯しました」
 告白。
 全てが崩れる瞬間。
「それからのことは不明瞭です。私は家を飛び出した。罪の意識におびえたのか、
それともどこかに消えてしまいたかったのか。死のうとも、考えていました」
「それは果たせなかったんですね?」
 優しく浩之が訊く。
「はい」
 応える。
「私は分かっていたのです。それでも私は死ねない、死にたくない。兄に必要とされたい。
遠くからでもいい、加代子さんを見つめていたい。だから私は──船村志朗になった」
 生まれ変わったのか。
 煉夜の灰の中から。
「私が船村として兄──もうこれからは大旦那様とお呼びしましょう──に拾われたとき、
もう加代子さんはこの世にいませんでした。病死だそうです。ですが不思議と悲しくは
なかった。兄の側で働けることは私の喜びでしたし、代わりにあの方がいた」
「蝶子さんですね?」
 はい、と船村さんはうなずく。
 ゆっくりと、その灰色の瞳が感情の色を帯びてゆくのが分かった。
「大旦那様も、その頃はすでに光を失われておりました。詳しくは存じませんが、将馬様との
諍いで組合いになり、割れた硝子で眼球を傷つけたそうでございます」
 将馬さんが冬湖氏の目を奪った?
 和馬さんの言っていた、「あんな真似」とはこのことだったのか。
「大旦那様は私を誰よりも信頼してくださいました。私は大旦那様の失われた目として、
生きてゆくことに喜びを感じていました。そして大旦那様はその信頼の証として、
私に蝶子様の一切をお任せくださいました。蝶子様は美しかった。──加代子さんのように」
 静かに、告白を続ける。
「あの感情がふたたび芽生えるのを私は抑えられなかった。知ってはいました。
蝶子様もまた、私を必要としてくれるわけではない、心から笑ってくれるわけではない──」
 自嘲の言葉。
「ですから、あの夜愛し合う二人のお姿を見たとき、私は憎んだ。大旦那様をではありません。
そう、私はいつだって大旦那様を憎むことはできない。私は蝶子様を憎んだ」
 蝶子様は、と船村さんは言った。
「蝶子様は大旦那様を拒みはしなかった。いえ、むしろ大旦那様から愛される以上に、
大旦那様を愛しておられました。その笑顔を──その笑顔を見たとき、私は分かりました。
やはり、加代子さんも蝶子様も、私を必要としてはくれない。あの方の笑顔はいつも、
大旦那様に──兄に向けられる」
「それであなたは、『煉夜の月』を?」
 書いたのか。
 自分の、生きる証として。
「私は蝶子様に・・・加代子さんに、微笑んでほしかった。あの笑顔を私だけに向けて欲しかった。
私を、私だと認めて欲しかった。必要とされたかった──」
 必要とされたい。
 認めてほしい。
 ここにいると。
 大切な誰かに──。
 胸が痛かった。
 この人は、あまりにも、似ている・・・。
「私は・・・求めていたのです・・・必要とされることを。心と心のつながりを」
 静寂。
 全てがスローモーションだった。
 船村さんが胸元に手をやる。
 鈍い色をした拳銃。
 銃口が揺れる。
 それが、浩之をとらえる。
「──藤田さん!」
 浩之を守るように、立ちはだかろうとする姫川さん。
 身構える来栖川さん。
 なにもかも、ゆっくりと流れてゆく。
 そして──。
 銃口は、そのこめかみに向けられる。

「いたのです」

 短く呟く。
 宣言するように。

「私はここに──いたのです」

 乾いた音。
 押し殺したような悲鳴。
 船村さんはゆっくりと前のめりに崩れ落ち──。
 そして動かなくなった。
「ああ」
 浩之は応えた。
「あんたはたしかに、ここにいたよ」
 沈黙。
 やがて、来栖川さんが最後の一言をもらした。
「チェックメイト・・・か」
 全ては終わった。

 ──終幕。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 事件の幕は降りた。
 日が落ちて、警察の人間は皆天堂寺の家を去った。
 もはや、この家には主はいない。
 それでも、この洋館は──やや空虚さを増してはいたけれど──荘厳さを失っては
いなかった。
 館を見上げながら僕はぽつりと言った。
「どうして──」
 そのまま言葉を飲み込む。
「どうしてこんなことになったんだろう、って?」
 と浩之。
 無言のまま、僕はうなずく。
「そんなこと分かるかよ」
「でも・・・」
 でも、浩之は。
 浩之は全てを見通していたじゃないか。
「なぜ船村さんが、あんなことをしたのか・・・そんなことはあの人しか分からないな。
結局のところは」
 僕は、少し分かるような気がする。
「あの人はもう終わりにしたかった。オレはそのきっかけを与えただけさ。
あの人はあの人で、自分の始末をつけたんだ」
 それで罪が消えたわけじゃないけどな、と浩之は言った。
「それにな」
 浩之はゆっくりと中庭に向かって歩いていく。
「まだ──終わりじゃない」
 蝉が鳴いている。
 とんとん・・・とん。
 音がする。
 毬の音。
 中庭の月明かりの中にあの子はいた。
 ただ静かに・・・毬をついている。
 妖精のように。
「繭ちゃん」
 浩之が声をかけた。
 繭ちゃんが、ゆっくりと顔を上げる。
 白い、小さな顔。
 くすっと笑う。
 屈託のない笑み。
 浩之も笑みを返す。
 そして──。


「きみが、天堂寺冬湖だったんだね」


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 続きます。この台詞ももう最後ですね・・・。
 次回、ようやく最終回です。長かった・・・。

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