いつか星に還る日 ──星空だった。 満天の星空。 黒いヴェールの上に金や銀の粉を散りばめたような、綺麗な夜だった。 どこまでも高い夜空。 吸い込まれそうな星々のうねり。 そして、煌々とかがやく、月。 ・・・レザム。 「──楓」 ふと、背中ごしに声がした。 振り返ると、そこに立っていたのは、少し疲れた顔をした千鶴姉さんだった。 「そんなところにいると風邪ををひくわよ。もう夜風も冷たくなってきたんだし──」 そういって微笑む千鶴姉さん。 でもその笑顔が以前と違ってひどくぎこちないことを──わたしは・・・いや、誰よりも 千鶴姉さん自身が知っているはずだった。 ・・・? とわたしは目で尋ねた。 「あっ、梓が食事の用意が出来たから居間に来るように、って・・・」 うん、と黙ったままわたしはうなずいた。 そのまま流れる、息苦しいほどの沈黙。 千鶴姉さんは唇を結んだままだ。 わたしも、何も答えなかった。 ただ黙ったまま・・・夜空を見ていた。 ──やがて。 「いくら待っていても・・・」 喉の奥からしぼり出すような乾いた千鶴姉さんの声。 「・・・もう耕一さんは・・・帰っては来ないわ」 姉さんの言葉にただ静かに黙ったまま、わたしはふるふると首を振った。 「楓・・・」 分かって頂戴、と千鶴姉さんは続けた。 「耕一さんは、耕一さんはもうどこにもいないの。あるのはもう──本能のままに破壊と殺戮を 繰り返す一匹の獣──。だから・・・」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ──だから殺さなければ。 「!」 がたっ、と弾かれたようにわたしは立ち上がった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 「これ以上耕一さんに・・・あの優しかった耕一さんに罪を重ねさせるわけには・・・いかないでしょう?」 ね、と千鶴姉さん。 もう一度、それでも、もう一度わたしはふるふると首を振った。 「かえで!」 「たとえどんな姿になっても──」 そう。 たとえどれだけたくさんの人を殺したとしても。 人としての優しい心を失ってしまったとしても。 わたしのことなど──忘れてしまっていても。 「耕一さんは・・・耕一さんだから」 そう言うと、わたしは千鶴姉さんに背を向けて、居間の方へ歩き出した。 「楓・・・」 背中ごしに、千鶴姉さんの怒ったような、それでいて泣き出しそうなつぶやきを耳にしながら。 ◆OCTOBER.4 19:40 その日の夕食は、ひどく重苦しい雰囲気だった。 あの日のこと──耕一さんがわたしと千鶴姉さんの前で鬼へと転じ、いずこともなく消えてしまった ──については、梓姉さんも初音も、何も知らない。 ただ千鶴姉さんは一言、 「耕一さんは急用で一足先に東京へ帰ったの」 としか、説明しなかった。 二人は随分とそれに疑問を持ったようだったが、最終的には渋々と納得してくれた。 だがもちろん耕一さんから、あれから何も連絡はない。 耕一さんの身になにがしか起きたことは、薄々二人とも感じているのだろう、日に日に口数が減り、 食卓は暗い雰囲気になってゆく。 ・・・叔父さんがいなくなってしまった、あの頃のように。 ぷつっ。 音がした。 初音がリモコンでテレビのスイッチを入れたのだ。 何かのバラエティ番組の、疲れたような笑い声がむなしく部屋に響く。 「こら初音、食事中にテレビは──」 梓姉さんがたしなめるよりも早く、初音はリモコンに手をのばした。 「うん、ごめん・・・」 初音は優しい子だから、この空気を少しでも和らげようと思って、そんなことをしたんだろう。 だが今はそれは完全に空回りだ。 梓姉さんは気だるげにうなずいて、早く消して、と目で合図した。 だが、初音の指は止まった。 画面が突然切り替わったのだ。 急に、ニューススタジオのような画面になり、背広をきたアナウンサーらしい男性が姿を現した。 『番組の途中ですが、臨時ニュースをお知らせします』 なんだ? と梓姉さんが誰とはなしに呟いた。 『ただいま入りました情報によりますと、先程、Y県N市の県境の路上で4人の男性の死体と、 重傷を負った女性がひとり折り重なるようにして倒れているのが発見されました。女性は病院へ 運ばれましたが、ほどなく死亡しました』 パッ、パッ、と顔も知らない人たちの名前がテロップで映し出される。 「ひどいね・・・」 少し青ざめた表情で初音。 頬杖をついたまま興味なさそうにしている梓姉さんの横顔も、心なしこわばっている。 『女性の遺体には暴行されたような形跡もあり、警察はこのことから──』 かたん、と千鶴姉さんが箸を置いた。 静かに立ち上がる。 「千鶴姉?」 どうしたんだよ、と梓姉さんが訊いた。 「お風呂に入ってくるわ」 そう千鶴姉さんは答えた。 『なお、この事件は同じく同県で起きたF市山中におけるS木一家惨殺事件、そして都内で起きた 乃木坂の大量殺戮事件と同根のものと見られており、捜査が進められています。極めて短時間に、 そしてその尋常ではない殺人形跡から、専門家の間では犯人は人間ではなく、非常に獰猛な、 ある種の肉食獣ではないか、という見地も濃厚で──』 ・ ・ ・ ──どくん。 心臓が鳴った。 千鶴姉さんの方を向く。その横顔に──色はない。 まるで人形のように、白い。 『これらのことから、犯人は東京を起点に徐々に南下を続けていると思われ、現在はF県に潜伏 している可能性が濃厚との警察発表がありました。付近住民の方々には厳重な注意を──』 「おいおい、F県って・・・うちのことじゃないか」 「なんか怖いね・・・もう雨戸閉めようか?」 梓姉さんと初音のそんな会話も、もう耳を通り過ぎてゆくだけだ。 ただわたしは──黙ったままテレビの画面を凝視していた。 間違いない。 これは・・・。 つかつかとテレビに歩みよる千鶴姉さん。 そして、その白い指が主電源をオフにする。 ・・・ぷつん。 映像が消える。 ──ブラックアウト。 ◆OCTOBER.4 21:25 夜。 またわたしは星空を見上げている。 何度でも、見飽きることはない。 人々に様々な顔があるように、星々にもいろいろな表情がある──と、教えてくれたのは叔父さんだった。 そんなことを思いながら夜空を眺めていると、ひとつひとつの輝きがそれぞれまったく違ったものに 見えてくるから不思議だ。 『ヨーロッパの昔話に、星は女神のこぼした涙のかけらなんだという話があるんだ。そのかけらたちの一部が、 大地というものに興味を覚えて地上へと降り立った──。それが人間の始まり、というんだね』 つまり僕たちは元々星だったんだな、と叔父さんは言っていた。 『ギリシア神話とかだと、ほら、人は死んだあと神々の手によって星として天へあげられる、というエピソードが よく出てくるだろう? あれは星になったんじゃなくて、星へ還ったと考えてみると面白いね。星は人になり、人はやがて星へと還る。・・・ロマンチックなことだと思わないかな?』 全てが全て理解できたわけではなかったけど、そのときのわたしはうん、とうなずいたのをよく覚えている。 理屈じゃなかった。 こうして月の光を全身に浴びながら、星のまたたきに身をゆだねていると、何の疑問もなく叔父さんの そんな言葉を信じることが出来る。 わたしたちは星だったんだ・・・そんな風に思える。 叔父さんは死んで星になったんだ。 わたしも。千鶴姉さんも。梓姉さんも。初音も。星から生まれて・・・そしてまた星に還る。 そして、・・・耕一さんも。 そんなことを考えてみる。 普段ならば、一笑に付していたことかもしれない。 だけど今なら、信じることができる。 ・・・信じたいと思う。 わたしたちはふたつ星なんだと。 今はお互いを見失っているけれど、いつかまた二人で、ひとつになれる日が来るんだと。 そんなことを、信じたかった。 ──びくん! 突然、心臓が鳴った。 「!」 びくん! びくん! びくん! 今度は続けて3度。 そして全身を走り抜ける電流のような感覚。 「あ・・・!」 瞬間、痺れるような意識の狭間で、わたしは強烈なほどの耕一さんの存在を感じた。 耕一さんが、いる・・・? すぐそこまで・・・来ている!? 間違いない。 間違うはずがない。 この感覚を忘れるわけがない。 幼い頃からずっと──感じてきたこの感覚を。 わたしは弓から放たれた矢のように窓から離れると、椅子にかけてあった白いフロックコートを 手に取ると、乱暴にドアをあけて廊下に飛び出した。 だっ、だっ、だっ・・・。 小刻みに階段を降りる。 このときばかりは自分の小さな歩幅がうとましい。 階段を降り、玄関へ向かう。 靴を手に取る。おぼつかない動作でそれを履く。 そして玄関のドアに手をかけて──。 「楓!」 背後に千鶴姉さんの声。 全てを分かっているだろう、静かな落ち着いた声。 だから、わたしも余計なごまかしはしなかった。 ただ一言、 「・・・ごめんなさい」 それだけを残して、夜の街へと飛び出した。 ◆OCTOBER.4 22:01 「その場所」に近づくにつれ、わたしの中で感じる耕一さんの存在が、まるでうねるように強く大きくなっていく。 わたしの心が。 あの日掴まれた右腕が。 耕一さんのぬくもりが残る肌が。 優しく撫でてもらった髪の一本一本までが。 わたしの全てが、耕一さんを感じ、求めていた。 なだらかな山道を小走りでのぼってゆく。 踏み出す足の一歩一歩がもどかしかった。 ゆるやかにくねる道を何本か通り抜けて。 社の前を抜けて。 長い砂利道を走り抜けると、「その場所」が見えた。 静かに流れる河。 梟の鳴く声。 頬を冷たく撫でる風。 おぼろげに地面を照らす月明かり。 わたしの方までにのびる、長い、長い影法師。 その影の先に──あのひとはいた。 「耕一さん・・・」 震えながら、囁くように。 耕一さんは、あの日別れたままの姿をしていた。 2メートルを遙かに越える体躯。灰色熊のように広い肩幅。そして、長く伸びる鋭い爪。 でも、紛れもない耕一さんの姿だった。 「こういちさん・・・」 両手を広げながら、ゆっくりとわたしは耕一さんに歩みよっていく。 風にのって、耕一さんの体から、ねっとりとした血のにおいが、鼻孔をかすめる。 でも、そんなものはまるで気にならなかった。 ・・・1歩。 ・・・2歩。 ・・・3歩。 確実にふたりの距離は縮まってゆく。 耕一さんも、わたしを待っているように、ただ黙ったまま、だらりと両手を下げている。 ようやく、耕一さんに触れられる。 あのぬくもりを取り戻せる。 踏み出す足が震える。伸ばした指先が宙をさまよう。 耕一さん。耕一さん。耕一さん。 会いたかった。苦しかった。狂ってしまいそうだった。 あの日肌を重ねてから。あの日あなたがわたしの前から姿を消してしまってから。 日々は意味を失ってしまったんです。時間は止まってしまったんです。景色は色あせて、 心は灰色に染まって、何もかもが空虚になってしまったんです。 「──ずっと待ってますから」 わたしはそう言いました。 だけど、待っていられるわけがないじゃないですか? こうしてあなたはここにいて── 前よりももっともっと、どうかなってしまいそうなほど、狂おしいほどわたしはあなたの存在を感じて。 それでも待っていることなんてできない。 耕一さん。 耕一さん。耕一さん。 耕一さん。耕一さん。耕一さん。 わたしはここにいます。あなたのすぐ傍にいます。だから、わたしに触れてください。 わたしを感じてください。あの日のようにわたしを抱いてください。 わたしを──。 「楓、離れなさい!」 瞬間、わたしの横を一陣の風が吹き抜けたかと思うと、黒い塊が耕一さんに鋭い一撃をあびせかけた。 舞い散る血。 わたしの前にもうひとつの影。 「・・・千鶴姉さん!」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 「楓、まだわからないの!? この人はもう耕一さんじゃ・・・あなたを愛してくれたあの耕一さんじゃないのよ!」 「違う!」 わたしは叫んだ。 「そのひとは耕一さんです! たとえどんな姿をしていようと──」 「!」 わたしのその声は千鶴姉さんの悲鳴に遮られた。 「敵」の出現に全身に殺気を取り戻した耕一さんが、鋭い爪で千鶴姉さんを切り裂いたのだ。 間一髪姉さんはそれを避けたが、凄まじい風圧で数メートルほど吹き飛ばされ、河原の砂利の 上をごろごろと転がった。 「姉さん!」 「くっ・・・」 顔をしかめて姉さんは立ちあがる。 今の一撃で分かったのだろう。耕一さんと千鶴姉さん、二人の間には絶対的なまでの力の差がある。 まるで大人と子供ほどの。 それでも、──姉さんは震える腕で身構えた。 耕一さんも腰を落とす。 次の一撃で決めるつもりなのだ。 睨み合う二人。 じりじりと狭まる間合い。 わたしは、それを呆然と眺めていた。 冷たい夜の風。 嘘のような静寂。 痛いくらい地上を照らす月明かり。 そして──。 二人が地面を蹴った。 スローモーションフィルムを眺めているようだった。 耕一さんから吹き出てゆく血が、静かに宙を舞って、地上へ落ちてゆく。 それを、わたしはまるで夢の中にいるような感覚で眺めていた。 「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ・・・・・・・・・・!」 声にならない絶叫。 千鶴姉さんのわななきが、背中越しにきこえる。 限界までのばされた千鶴姉さんの腕は、わたしのおなかをつきぬけて、そのまま 耕一さんのおなかもつきぬけて──。 流れ出るふたりの血が、混ざり合いながらぽたぽたと地面を濡らす。 「どうして、どうして? 楓、楓、かえで、どうしてえ!」 狂ったように叫びながら、千鶴さんはわたしたちから爪をひきぬく。 ごぼっ、と、耕一さんの口から溢れた血がわたしの頬を濡らした。 暖かいぬくもり。 耕一さんの体温。求めていたものが、今、わたしの腕の中にある。 またひとつになれたんですね、耕一さん。 そう、たとえ一時だけの間でもこうやって、またわたしたちは抱き合える。 いつも、そうなんですね。 手に入れたと思った瞬間、わたしたちはまたお互いを失って。 また探し求めて。 ずっと──それの繰り返し。 「あああ、ああ、楓、楓、ああ、わたし・・・違うの、わたし・・・ああああ!!」 泣かないで、千鶴姉さん。 自分を責めないで。 本当はわたしも分かってた。こうするしかないって。 でもわたしは自分のエゴでそれを否定して、今またこうやって自分のエゴでこんなことをしてる。 千鶴姉さんがどれだけ苦しむか、誰よりもわかってるのに。 だから千鶴姉さん、もう一度いいます。 「──ごめんなさい」 ゆっくりと夜空を見上げる。 耕一さんを抱きしめる腕にいっそう強く力を入れながら。 ──見て下さい耕一さん、星がすごく綺麗ですよ。 いつかまた、こうしてふたりで夜空を見上げることができたら・・・幸せですよね? きっと──。 きっとまた──会えますよね? ・・・そうだ。 どれだけの時が流れれば、安息の日はくるのだろう。 千億の夜を幾度繰り返せば、ふたりは永遠に結ばれるのだろう。 永劫の時が流れて。 いつかこの天地すら消え去って。 それでも、・・・想いは残って、星になる。 いや、星に還るのだ。 そのときが、きっと、わたしたちが永遠に結ばれる日。 「──耕一さん、ずっと・・・ずっと、愛してます」 ・・・そう。 いつか星に還る日に──。