夏夜の子守唄(9) 投稿者: 睦月周
【天堂寺家の人々】
天堂寺冬湖   作家。奇作、『煉夜の月』を執筆したのち、自殺。
天堂寺将馬   有力代議士。冬湖の長男。最初の犠牲者。
天堂寺和馬   三流彫刻家。冬湖の次男。
天堂寺由希恵  将馬の妻。
船村志朗     天堂寺家の執事。
雛山理緒     メイド。
天堂寺繭     冬湖の養子。
天堂寺蝶子   冬湖の娘。15年前に病死。

【その他の人々】
藤田浩之     私立探偵。
佐藤雅史     僕。浩之の相棒。
姫川琴音     浩之の助手。
長岡志保     人気ニュースキャスター兼情報屋。
来栖川綾香   警部。
松原葵      綾香の部下。

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【記憶】 WHEN THE CROWDS ARE GONE


「ごめんっ!」
 気がついたときには、僕は彼女に向かって土下座していた。
「本当にごめん・・・僕、ちょっと寝ぼけてて・・・とんでもないことしちゃって・・・」
 すると繭は今キスしたばかりの唇でくすっと笑った。
「どしたの?」
 ぼんやりとそう言った。
「あ・・・いや・・・」
「おにーさん・・・なにか・・・した?」
「なにかっ・・・て・・・」
 もごもごと、僕。
 駄目だ。口を開いてもあー、とか、うー、とかしか言葉が出ない。
「くすくす」
 無垢な微笑み。
 きっと僕は火がついたように赤くなっているんだろう。
 すっ、と繭・・・ちゃんが僕の頬に小さな掌で触れる。
「あ、あつい、あつい・・・ふふ・・・」
 面白そうに触れたり離したりを繰り返す。
「あ、あ──! そう、そう」
 こほんこほんと咳をして呼吸をととのえると、
「どうしたの、こんな夜中に?」
 なるたけ自然にそう尋ねた。
 唇がうまく動いてくれたか、少し自信がなかった。
「ん〜」
 と、繭ちゃんは口元にひとさし指を当てて考え込んでいたが、
「お月さまを見にきたの」
 そう言って、僕の隣にちょこんと腰かけた。
 お月さま──か。
 僕もぼんやりと夜空を眺めてみる。
 雲ひとつない空。
 吸い込まれそうな、夏の夜空。
「・・・ああ」
 思わず声が洩れる。
 青い青い月の光が、僕の視界を満たしてゆく。
「本当──綺麗だね」
 そう呟くと、繭ちゃんはコクリと嬉しそうにうなずいた。
「お月さまのひかりは、しんだひかりなの」
 ポツリと、そんなことを言う。
「おじいさまが言ってたの。お月さまは、たいようのひかりをはねかえして、
ひかっているんだ、って。だから、お月さまのひかりは、一度しんでるの。
だからお月さまのひかりは──つめたいの」
 そうかもしれない。
 月の光はぬくもりもなく──命を育んでくれるわけでもない。
 ただ、冷たく地上を照らす。
 ひたすら、無機質に。
 だけど。
「だけど・・・ううん、だからこそ、こんなに綺麗なのかもしれないね」
 そう言うと、繭ちゃんは少し驚いたような顔をして、そして、
「ふふ」
 無邪気に微笑んだ。

 時間が、ゆるやかに流れているような気がする。
 とろとろと──ただ、怠惰に。
 なぜか、とても心地よかった。
 まるで・・・母親の胎内でうずくまり、まどろむような──。
「おはなし・・・して」
 よく馴れた子猫のように、僕のそばでぼんやりとしていた繭ちゃんが、
突然そんなことを言った。
「お話?」
「うん、おはなし」
「どんな?」
「おにーさんがしってる、おはなし」
 僕の・・・知ってる?
 そんなことを言われても、咄嗟に何も思い浮かばない。
「うーん・・・そうだなあ・・・」
 ひとしきり考えてみる。
「あっ、そうだ」
「・・・?」
「僕の・・・身のまわりの話でもいい?」
 コクコクとうなずく繭ちゃん。
「どんなおはなし?」
「僕の・・・親友の話。浩之って言うんだ──今日、会ったでしょう?」
「ひろ、ゆき・・・」
 その名前を呟いて、繭ちゃんは少しだけ表情を曇らせた。
「あのひと・・・ちょっと、こわい」
 え?
 怖い? 浩之が?
「どうして? 怖くないよ。そりゃあ少しムスッとしてるけど・・・本当は
すごく優しいんだよ」
 そう言うと、繭ちゃんは分かったのか分からないのか、とりあえず、
うん・・・、とうなずいた。
 そのまま、黙って僕を見る。
 続きをうながしているのだ。
「浩之はね──すごいやつなんだ」
「すごい・・・?」
「うん、すごくね」
「すごく・・・すごい?」
 そうだね、と僕は笑った。
 そして、ゆっくりと、まどろむように、記憶の海の中へと沈んでゆく。

 暑い夏の日のことだった。
 嫌になるくらい蝉がジンジンと鳴いていて、照りつけるような日差しが
肌に痛かった。
 砂浜に足を踏み入れみる。
 じわっと、足の裏を通して、直接熱が体にしみいってくる。
『広いねえ──海だよ!』
 嬉しそうにあかりちゃんが笑う。小学生の頃のあかりちゃん。
 白いワンピースを着て、黄色い小さなサンダルを履いている。
『そりゃー海だからなー』
 のんびりとした声が返る。浩之だ。
『ね、ね。泳ごうよ、浩之ちゃん!』
『ひっつくな、あち〜だろ』
 コツンとあかりちゃんの頭に自分の頭をぶつける、浩之。
『いた〜い』
 半ベソになるあかりちゃん。
 思わず僕は笑みをこぼす。
 そんなあかりちゃんの髪をくしゃくしゃと撫でながら、
『見てみろよ』
 浩之は海の向こうを指さした。
『沖の方にさ、ちっこい島があるだろ? あそこが穴場なんだって、
親父たちが言ってた』
 な、行ってみようぜ、と浩之が言う。
『でも、でも、あんなに遠いよ?』
 ちょっと怖がるように、あかりちゃんは口ごもる。
『そうだなー。親父たち絶対泳いでいくな、って言ってたからなー。
んじゃあかり、雅史、ボートで行こうぜ、ボート』
『え? ボートがあるの?』
『おう。そこにぬかりはねーんだ』
 ゴムボートだけどな、と浩之は笑う。
『んじゃー、ちょっくら親父んとこ行ってくるわ』
『あ、わたしもいくよ』
 浩之は、お前は? という顔で僕を見た。
『僕はここで待ってるよ』
 そう言って僕は笑った。

 息が、できなかった。
 口から、鼻から、耳から、数え切れないところから水が僕の中へ
流れ込んでくる。
 もう、腕を動かすこともできない。
 足が凍ったように動かない。
 全身が痺れたように硬直している。
 沈んでゆく。
 ・・・どこへ?
 ああ、底だ。
 深い、深い、海の底。
 どうして・・・?
 わからない。
 悪戯心だったんだと思う。
 虚栄心だったんだと思う。
 絶対無理だ、ってことを・・・浩之にだって無理だってことを・・・僕は
やってみせたかったんだろう。
 あかりちゃんに驚いてもらいたくて。
 母さんたちに誉めてもらいたくて。
 ──浩之に、認めてもらいたくて。
 僕は、沈んでゆく。
 ゆっくり──ゆっくりと。
 全てが、ぼやけてゆく。父さんの顔も、母さんの顔も、姉さんの顔も、
あかりちゃんも、浩之も・・・。
 このまま・・・。
 僕は・・・眠ってしまうのかな・・・。
『・・・!』
 あれ・・・。
『・・・・・・!!』
 腕にかかる強い力。
 全身に感じる誰かの体温。
『・・・・・・!!』
 うん・・・分かってる。
 眠ったりなんか、しないよ。
 ひとりで・・・眠ったりなんか・・・。
 ゆっくりと。
 ゆっくりと、僕の体は昇ってゆく。

 かさり・・・ざさ・・・。
 音がする。
 かさり・・・ざさ・・・。
『雅史ちゃん・・・!』
 声がする。
 泣いている、女の子の声。
『雅史!』
 また、声がする。
 よく知っている声。
 浩之の・・・声だ。
 かさり・・・ざさ・・・。
 僕の体が揺れる。体に重みを感じる。
 決して苦しくない、心地よい重み。
 唇に体温を感じる。
 新鮮な空気が、肺いっぱいに送り込まれる。
 かさり・・・ざさ・・・。
 なんだろう、この音。
 ああ、そうか。
 僕と砂が・・・擦りあってるんだ。
 僕は揺れている。
 胸のあたりに感じる、確かな重みと体温。
『あ・・・』
 声が洩れる。
 ゆっくりと、瞼がひらく。
 白い光が視界いっぱいに流れ込んでくる。
『雅史ちゃん!』
『雅史!』
 声がする。
 瞼をしっかりと開く。
 懐かしい顔。
 見慣れてるはずなのに、すごく、懐かしい。
 その顔の向こう。
 青い空。
 雲が、流れていた。

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 続きます。
 ようやくこのSSのテーマになってゆく(はず)の章をアップさせることが
出来ました。長かった。
 多分、この回あたりが終局へむけての折り返し地点になると思います。

 補足。雅史について。

 えっと、少し補足です。今回このSSを作るにあたり、雅史を主役とした
わけですが、そのため雅史に少々オリジナルの脚色を入れています。
 というか、本編でもまったく底を見せないキャラなので、その分からない部分を
自分で肉付けしたというか・・・。
 これから、ストーリーが進むにつれ物語は雅史のSSへとなってゆくわけですが、
どんどん「自分流雅史」になってゆくと思います・・・。
 そこのところ、暖かく見守っていただけると嬉しいです。

 ではでは。