硝子のクオリア 欠片の10(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:12月20日(木)01時46分
 車窓を流れる常葉樹の並木の奥に、葉の落ちた落葉樹の木々を探しながら芹香は、も
やもやが晴れない自分の頭のことを思う。
「……」
 来栖川の家にまつわる話も確かに衝撃的ではあったが、それよりも肝心であるところ
のもう1人の来栖川芹香に関する話が聞けなかったのが残念だった。

 それでも長瀬主任の話から1つだけ推測――いや、確信できることがあった。

 ――わたしはお母様のおなかから生まれた児(こ)ではない
 そう考えると、芹香は自分を置いて外国へ行ってしまった両親の行動も納得できると
思い、また、そう思っている自分を少し寂しく感じるのだった。

 では、誰が芹香を生んだのか?
 芹香には考えるまでもない問題だった。
 恐らく、今回の騒動のきっかけを作った人物だと彼女の身体が言っていた。ほとんど
皮膚感覚に近い確信。
 ただ、芹香にもいったい彼女がどうして自分に伝えたのかはわからない。
 ……懺悔、復讐、愛情――どれも当てはまらないと同時に、そのすべてであるように
も芹香は思う。

 おかあ……………さん…。

「芹香お嬢様、どうかなさいましたか?」
 悩む芹香のしぐさに気がついたのか、運転席からセバスチャンが声をかける。
 その声を聞いて、芹香は思い出したことがあった。
「…………」
「はっ、独り言の続きでございますか? 独り言を催促されるのも、また妙な感じがい
たしますが……」
「…………」
「では僭越ながら続けさせていただきます」


    若者は青年から箱を奪った後、ねぐらへ帰りそれを開けました。
    なにせ青年がお金と食べ物を差し出してまで守ろうとした箱です。
    とてもわくわくしながら、若者は箱を開けました。

    でも、箱の中はからっぽでした。

    若者は怒りくるい、青年に文句を言いに行きました。

   『俺を騙したなっ!』

    青年は笑いました。

   『お前がそれが欲しいと言ったのだろう。…この馬鹿モンがっ!
    だが、それを選んだ以上、もうお前は俺には逆らえない』

   『なにを馬鹿な!?』

    若者は軽く青年に伸されてしまいました。
    青年は本当はとても強かったのです。
    若者は打ちのめされ、青年の下で働くことを約束しました。
    いろいろなことを若者は青年から学びました。

    若者にとって、いつしか青年は恩人になっていました。

    やがて、若者が老人になった頃、恩人に孫娘ができました。
    恩人は孫娘がかわいくてしかたがなかったので、独り占めしようとしました。

    …かつての若者のように。

    そのためかわかりませんが、
    孫娘は老人が目を離した隙に浮浪者につかまり死んでしまいました。

    恩人は孫娘をよみがえらせることにしました。
    老人も息子夫婦も反対しました。
    しかし、恩人は魔法の卵をつかって孫娘をふたたび孵らせてしまいました。

    そして老人は、あのときと同じ箱を恩人から手渡されました。

    ――それを孫娘に渡すようにと。

    老人は箱を壊しました。
    恩人に逆らったのは、それが最初で最後でした。

    箱の中身はやはり、からっぽでした。


 いつものようにリムジンの車内は静かだった。
 ただ、いつもと違っている空気がそこに満ちていることは確かだった。
 芹香は何かがこころの中に引っかかっていた。

 ――あの幼いころの思い出は……わたしのものではなかったのですね。

「…………」
「ぬ? 芹香お嬢様を連れ去った者ですか? ……私はただ、浮浪者とだけ……」
「…………」
「は? お嬢様が仏像の絵柄のポーチを身につけていたかと? …ええ、仰る通りでご
ざいます。いつも肌身離さず持っておられましたから」

 芹香はクラスメートAの家で見た夢を思い出していた。

 ――もしかしたらあの夢は、もう一人のわたしの…?

 ――あのときわたしを掴まえたのは……


「…………」
「はい? 芹香お嬢様…が好きだったモノでございますか?」
 来栖川の屋敷が見えてきた。綾香を待たせてしまったかと、芹香は少し心配になる。

「『とろろ』が大層お好きでございました」
「……」
 芹香は胸の辺りが熱いもので満たされていくのを感じた。



「ちょっと、姉さんドコ行ってたのよ〜。もう、せっかく早く帰ってきたのに」
 屋敷の車寄せにリムジンが停まるなり、綾香がリムジンの方に歩み寄っていく。ただ、
リムジンの窓は閉まっていたのでその声は芹香には届かなかったのだが、綾香の態度を
見れば何を言っているかは容易に想像がつくのであった。
「これは綾香お嬢様。なにやらただ事ではないようですな」
 セバスチャンは、綾香に挨拶しながらリムジンの反対側へまわり込み芹香のためにド
アを開ける。
「そうっ! これは一大事よね。私を待たせるなんて……って、姉さん、なんで私服な
わけ!?」
 スカートの裾を気にしながら、芹香がリムジンから降りる。
「…………」
「あ、うん、おはよう……。いや、もう昼よ、姉さん。……そうじゃなくて、一度ウチ
に帰ってたの? もう、今日は一緒に捜査するっていったじゃない」
「綾香お嬢様。本日、芹香お嬢様は学校を休まれたのでございます」
 危うい雰囲気を察したのか、セバスチャンが口を挟んだ。
「えっ? そうなの? 姉さん、身体の調子がよくないの?」

 ふるふる。
 芹香は首を振った。

「そう? ならいいけど。あんまり無理しないようにね」
「…………」
「えっ? 捜査の件は止めにしてほしいって? うん、いいわよ。私も自分のことばっ
かり気にしてたね、反省反省」
 ぺこり。
 芹香は深々と頭を下げる。
「もう、いいっていいって姉さん。それじゃあ、学校戻ります。じゃあまたね、姉さん、
セバス」
「では、綾香お嬢様、わたくしめがお送りしまいたしましょうか?」
「あー、ありがと。でもいいわ。今日は姉さんに付いてあげてて」
 それだけ言うと、綾香は手を振りながら走り去ってしまった。

「さて、いかがいたしましょう? 芹香お嬢様」
 胸を張り、姿勢を正したセバスチャンが芹香に尋ねる。
「…………」
「はて、行きたいところがございますか? この不肖セバスチャン、何処へなりともご
一緒いたしますぞ」
「……」
「は、かしこまりましてございます」

 芹香は調べものをするために図書館へと出向いた。
 原本は失われてしまったが、記憶を頼りにメモ書きした検死報告書の内容を調べるた
めに。

 まず、『彼女』の死因は一酸化炭素中毒とのことだった。一酸化炭素COは,血液中
のヘモグロビンと強く結合して酸素の運搬能を失なわせる。通常、一酸化炭素の血中飽
和度が50〜60%で死に至ると、確かに芹香の調べた本には書いてあった。
 『彼女』のは、もっと多かったような気がする。

 そして、『心臓内に豚なんとか凝血』という記述。
 血はすぐには固まらないらしい。だから、それが固まっていたということは…。
 『彼女』はゆっくりと、天国の階段を登っていったらしい。

 羽をむしり取られながら?
 痛かっただろうか? 苦しかっただろうか?

 芹香は両腕を交差させて、ギュッと、自分を抱きしめた。
 ――もし『芹香』がそんな思いをしたなら、わたしは……わたしは……

 わたしはあなたを…。


 ――そして、翌日。日曜日。

 朝。
 日曜日だというのに、食堂では来栖川会長と綾香、そして芹香が席を並べていた。
 これは偶然ではなく、芹香が2人を招待したためだ。

「はて、芹香の招待とあってはどんな料理が運ばれてくるのか楽しみだな」
「ま、まさかイグアナとかアナコンダみたいなのじゃないわよね? ねっ? 姉さん?」
 招待された2人は、その方向性は違うにしろどちらもドキドキしているようだ。

「…………」
 芹香はすました顔のまま、いつもどおりに座っている。

 やがて微かな醤油の香りと共に、それがやってきた。
 とろろご飯だった。

「む、これは? はたまた、懐かしいものを……」
「ええっと、どうやって食べればいいのかしら」

 ずび…ずびずび。
 芹香は手本を見せるように、既に食べはじめている。

「では、ワシもいただくかの」
「じゃーしょうがないわね、食べるわよ」

 ずび。
 ずびずびずびずび。
 ず、ず、び。ず…び。

 芹香は顔を上げ、祖父の顔を見た。
「ん? どうかしたのか、芹香」
 芹香は訊かなければならないことを口にする。



「…………」



 昨日。図書館にて。
 芹香はもう一つ忘れていることに気が付いた。
 それはメモの最後に書かれていた。
『血液中にバンビなんとか』…はじめはなんのことだかわからなかった。いや、今でも
よくわからない芹香であったが、セバスチャンが『確か、そんな名前の睡眠薬がありま
したなあ』と呟くのを聞いて、その案を採用することにした。
 『彼女』が苦しまなかった。それだけでも、芹香はうれしかった。
 それが悲しいことだということはわかっている。だけれど、それでも芹香はうれしか
った。
 うれしくて涙がでた。
 悲しくなくても泣けることを芹香は発見した。
 大発見だと思った。

『もし』…と、芹香は前提をつけて考えた。かんがえるのは苦手だけれど、考えた。
 もし、なんらかの理由で、『彼女』が何者かに命を奪われたとするなら、その何者か
は『彼女』が怯えたり、苦しんだりするのを見たくはなかったのだろう、と芹香は考え
た。
 でも、芹香はそれを確かめようとは思わなかった。
 …でも、ただ一つ、『芹香』のために訊きたいことを除いて。



 ――とろろは好きですか、お爺様?



「とろろか……、好きだったか嫌いだったか…ワシにももうわからんよ。
 ただ…この味をワシは忘れはせんだろう。
 いのちある限り…な」

 祖父はそう言って、顔をおおうように茶碗を持ち上げ、とろろを啜った。



 芹香は以前呼んだ小説の話を思い出していた。
 それはクオリアという名のカラクリ人形がニンゲンになろうとする物語だった。

 クオリアは女神に告げられる。もし、自分を育ててくれたノエミの一番たいせつにし
ているものとひき換えにできるなら、おまえはニンゲンになることができると。

 ノエミのたいせつなものとは、クオリアの記憶だった。
 共にすごした時間。色褪せない思い出。

 クオリアは女神の申し出を断った。
 自分は人々に夢を希望を愛を、そして哀しみを与える存在だからと。
 彼女にとっては、ノエミの中の自分こそがかけがえのない自分自身なのだから。

 そして、時は過ぎ古くなったクオリアは捨てられた。
 ノエミの流した涙と共に。




 決して語られることのない思い出だけを残して――





 ずび。






        わたしは生まれてきた。
            きっと
              誰かに望まれて。
                         ――来栖川芹香


                                      了
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【参考文献っていうか生兵法は……の諺が身に染みます(滝汗)】
 『続科学の終焉(おわり) 未知なる心』  ジョン・ホーガン著、筒井康隆監修、
                     竹内薫訳(徳間書店 2000)

 『東京検死官―三千の変死体と語った男』 山崎光夫著(新潮社 2000)