硝子のクオリア 欠片の9(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:12月17日(月)01時14分
       どうです? 研究者っぽいでしょう?
                        ――はみだし者


 長瀬源五郎と共に来栖川中央研究所第七研究開発室に入った芹香を迎えたのは、喧噪
の職場だった。あちらこちらで人の話す声が聞こえ、白衣を着た人たちがせわしなく行
き交っていた。
「あまりの騒がしさに驚かれましたか?」
「…………」
「えっ!? なんです?」
 芹香は騒々しい場所が好きではなかった。それは騒音を耳にするのが嫌なわけではな
く、こうして自分の声がうまく届かないからだった。聞き返されてからもう一度同じこ
とを言うまでの間には、抗いがたい強制力があると芹香は感じる。相手の期待に満ちた
目は自分の中の時間を逆転させ、同じ時間を繰り返せと命令する。
 ふるふる。
 芹香は視線の強制力を振り切り、首をふってみせた。

「ん、そうですか? まあ、全部が全部あんなに騒がしいわけではありませんから安心
してください」
 そう、長瀬主任が言うようにまわりはだんだんと静かになってきており、無機質な研
究施設の壁に反響するのは主にサンダルの音だけになってきていた。
 …もちろん、サンダルの音の主は源五郎である。

「そう言えば、先程…執事さんを説得したとき何を言ったのですか? ずいぶん効果的
なようでしたけど」
 唐突に長瀬主任が話しかける。そのひょうひょうとした様子に、相手を気遣っての問
いなのか、それとも興味本位なのか芹香にもよくわからなかった。
「……」
「ほほう、名前をねぇ、呼んだ…と」
 源五郎は何かを納得した様子で、アゴを撫でている。
「『セバスチャン』ですな」
 こく。
 うなずきながら、芹香は長瀬主任が何に納得しているかはわからないにしろ、勘のい
い人物だと改めて思った。そして、自分の勘がたぶん正しいという思いを強めた。

 入口からどれくらい歩いただろう。二人は重そうな鉄の扉の前に立っている。

 芹香は思いきって、長瀬主任に話しかけた。
「…………」

「さあ、どうでしょう? その答えはこの部屋の中にありますよ」
 源五郎は懐から磁気キーを取り出し、本来ドアノブがあるべき所に設けられた読みと
り機器にセットする。かすかな電子音と共に、鉄のドアはその図体を横滑りさせ始めた。
「芹香さん、どうぞ中へ。時間が経つと自動で締まりますので」

 主任と芹香は、非常用の赤いランプだけがモノのシルエットを背景から切り取ってい
る中へ踏み入る。
 部屋の中はしばらく人の出入りがなかったことを示すように、重く沈殿したような空
気が詰まっていた。ただ、あまり匂いがついていないところからすると、1日に何回か
は使われているのかもしれない。芹香は感覚的にそんなことを思った。

 ガコン。

 背後で音がした。
 ドアが閉まった音だった。

 照明が灯り、空気が動き出す。この部屋は人の居る居ないまで感知するのかと期待し
た芹香だったが、なんのことはない長瀬主任が明かりと空調のスイッチを入れただけだ
った。
 そこはちょうど学校の教室を縦に2つ繋げたくらいの細長い部屋で、1メートルおき
に棚が並んでいる……ちょうど図書室のように奥まで棚が連なっていたが、保管されて
いるものは本ではないようだった。

 芹香の方を向いて棚を背に、長瀬源五郎は立っていた。
「先程、お訊きになりましたね、祐介がここに居るのかと。ああ、その前に祐介のゆう
は示へんに右、すけは介助のかいです」
「あなたが…………祐介…さん?」
 ザーッ、という毛細血管の中の血液が流れる音さえ聞こえそうな静けさは、容易に芹
香の声を響かせる。

「正解。よくわかりましたね」
 源五郎は肩をすくめてみせた。おどけようとして、笑おうとして失敗したような顔だ
と芹香は感じた。
「長瀬……祐介さんと……」
「そうですか、聞いちゃいましたか。それじゃあ、しょうがないですね〜」
 源五郎はそう言いながら後ろを振り返り、棚の間を奥へと歩いていってしまった。

「…………」
 芹香はどうしたものかと思ったが、じっとしていると耳の中がぐわんぐわんいいだし
てひどく不安な気分になるので自分も長瀬主任の後を追うことにした。
 歩きだすと、芹香の耳はまた正常に戻る。
 かすかに聞こえる足音だけが不安を取り除いてくれるような気がして、彼女は歩き続
ける。

 棚の高さ自体は芹香の背丈より少し高いだけだったが、その間を歩いていると暗い森
の中にいるような圧迫感を彼女は感じていた。ちらりと、横を見る。殴り書きされたよ
うな見たこともない文字が、ラベルが、いくつもいくつも貼られている。
 ただ、歩くにつれ日付が新しくなっていくのだけはわかった。
 ……10年前…9年前…8年前………3年前……2年前……1年前。

 がさがさがさ
 長瀬源五郎がいた。。
 中腰の姿勢で何かを探している。

 そうこうするうちに主任は、一つのジュラルミンケースを棚から引き出した。

「あー、あったあった、ありましたよ、芹香さん」

 言いながら、彼は一枚のプラスチックフィルムを掲げて見せた。それは床にこぼした
コーヒーの染み、もしくは上からみたブロッコリーのような模様が描いてある。

「そう、たとえば…ブドウ糖の新陳代謝を促進する放射性科学物質を注射してから、目
的となる仕事をこなさせ、のち、すばやく脳を冷凍する。そして脳の異なる部分での放
射レベルを測定することで、研究者は、どの部分が、その仕事をこなすのに最も貢献し
たかを知ることができるのです」
 普段より心持ち早口に、長瀬主任は話した。芹香にはまったく、意味不明な内容だ。

「ほら、この部分」
 源五郎はブロッコリーの白っぽい部分を指差す。
「発火しているニューロンの集まりがよくわかるでしょう? 拡大してデジタル補正さ
れたフィルムの見ればさらに――」
「――……それ……は?」
 堪らず芹香は口を挟んだ。なにかがおかしい、なにかがずれている、そう感じていた。
「ええと、なんでしょう?」
「あの…」
「はい?」
「……祐介……さんは?」
「ん〜〜〜」
 源五郎は頬を引き締めるような表情をして、うなる。そして芹香の方を向いて、モゴ
モゴと口を動かせてみせた。
 芹香もマネをして、口をモゴモゴさせる。
 2人して草でも食べてるような光景だった。

「『電波』って…」
 顔の筋肉を弛緩させ、真顔に戻った源五郎は呟いた。
 芹香は首をかしげてみせる。
「祐介はよく『電波』の話をしてくれましたよ。大気中には電波が飛び交っていて、そ
れが人々の行動に影響しているって。…まあ、私も祐介の創作したフィクションか、あ
るいは網膜が薄くて飛蚊症なのかと思いました」
「…でんぱ?」
「私が彼に本当にそんな不可思議な能力があると知ったのは、祐介が早朝の校庭で数人
の生徒と共に砂まみれになって倒れているのを発見された後でした」
「…砂」
 芹香の脳裏に、祐介の名を借りた源五郎と通信したときの記憶がよみがえる。

<『舞う』『砂』『ワタシ』『走る』『震える』『○』『ワタシ』『寝る』『○』>

 ――あのとき『○』は『大地』だと教えていただきましたが、それは2番目の『○』
で、1番目の『○』は……『電波』だったのですね…
 と芹香は密かに納得した。

「…そして祐介の遺書がわりのノートを見せられて初めて事の重さに気が付きました。
そのときでした。私が来栖川とそれに関わる一族の特質さを知ったのは。なにせ、長瀬
の中でもはみ出し者でしたからねぇ、私は」
 そこまで話すと、源五郎は大きく深呼吸をする。
「芹香さん」
「…はい」
「あなたは来栖川の当主になる方ですから、遅かれ早かれこれから私が話そうとしてい
ることを知ることになるでしょう。ですが、それは私の口から聞くべきことでもありま
せんし、もしかしたら一生知らなくていいことも含まれるかもしれません。それでも芹
香さんは知りたいと思いますか?」
「はい」
 芹香は何かをこらえているような顔の源五郎に、すぐに肯定の意を示した。主任が、
ありがとうと呟いたのを彼女は聞いたような気がした。

「来栖川の一族には『先見(さきみ)』の力があるそうです。ほんとかどうかはわかりま
せんが、なんでも巫女を輩出していた一族の末裔だとか。もっとも私はあまり信じては
いないんですけれどね。でも、一族を預かるものにはそれは非常に重要なことで、その
力を守ることが当主の一番の役割なのだそうです」
 椅子もないので2人とも突っ立ったままだったが、源五郎も芹香も棚にもたれかかる
ことさえしようとしなかった。というより、自分たちが立ちっぱなしであることさえ頭
になかった。

「…だから、その『先見』の力を失わないように他の一族の同じような力を持つ者と掛
け合わせるというしきたりなんだそうです。…そう、来栖川家に仕えている家系はみん
な特異な者が生まれやすい家系ばかりを集めたものなのです。といっても、長瀬はつい
最近加わったばかりなんですがね」
「お爺様も…お父様も…?」
「さすがに……よいところに気が付かれますね。古いしきたりに縛られて自分の望まな
い相手と結婚させられるのですから、前時代的と思い反発する者もでてくるわけです。
あなたのお父様のようにね」

 芹香はここしばらく父と母に会っていない。
 ……子供のころ、綾香だけを連れて外国へと行ってしまった両親。
 一人きりですごす時間に芹香は退屈したことはなかったが、それでも最近、家族のだ
んらんというものについてときどき考えるようになっていた。

「わたしは…?」
「申し訳ありません。芹香さん自身のことについては、お教えすることはできません。
私もこれで、長瀬の人間ですから」
 肝心なところで話をやめる源五郎に、芹香は困った顔になる。それが泣きそうな顔に
でも見えたのか、源五郎もまた困った顔になった。
「そんな顔しないでくださいよ」
「…………」
「『托卵』ってご存じですか? 有名なのはヨシキリとカッコウかな? ヨシキリの巣
に産み落とされ孵ったカッコウの雛は、まだ孵っていない他のヨシキリの卵を巣から落
としてしまうってアレです」
 こく。
 芹香はうなずいた。
「でも、『托卵』するのはカッコウの専売特許じゃないんですよ。ミナミユリカモメの
巣に托卵するズグロガモっていうのがいるんですがね。こいつの雛は卵から孵った途端、
よちよちとミナミユリカモメの巣から出ていくんですよ。『おばさん、孵してくれてあ
りがとう』といった感じで」
「……?」
 芹香はますます困った顔になる。
「う〜ん、何というか……物事にはいろいろな側面があって、似たような事象に対して
簡単にカテゴライズしてしまっていいのかどうかという話なんですがね。たとえばそう、
いま私たちが開発しているメイドロボでも…」
 芹香は混乱していた。…が、主任が遠回しに何かを伝えようとしているのはわかった。

「芹香さんは、ロボットに心があったほうがいいと思いますか?」
「わかりません」
 即答だった。
「あはは…まあ、そうですよね。では、『心』を与えるためにはいままでの設計方法で
はだめで、もっと『ヒト』について調べなくてはならないとしたらどうです?」
「心…ですか?」
「ええ、いまだ解明にはほど遠いその『心』について調べるために、多くの動物実験や
法律スレスレの臨床実験、それに……これは噂ですが、胎児を用いた実験をしていたと
したら?」
「赤ちゃんをどうするんですか?」
「堕ろされた胎児には人権がありませんからね。噂では……そういう中絶するための専
門の代理母も居たのだそうです」
 静かな怒りのオーラを芹香は感じた。そして、源五郎の顔に哀しさが浮かんでいるの
も。
「……噂…ですけどね」

 源五郎の顔に『苦笑』が浮かび、一瞬の沈黙の後、ふたたび真顔に戻った。
「もう一度お訊ねします。ロボットに心があったほうがいいと思いますか?」
「……」
「……」
「…はい」
「それはまた、どうしてですか?」
「いまやめてしまったら犠牲になった方々が浮かばれないです それを罪というなら、
変わろうとする『ヒト』そのものが罪なのです」
「我々は罪にまみれてますかね…」
「それに、その行為がなかったら…きっとわたしはこの世にいないのでしょう?」

 こんなに喋る子だったろうか、と源五郎は思いながら、質問には答えずやさしい笑顔
で芹香を見るだけだった。



「芹香お嬢様、ご無事でしたかぁぁぁーーー?」
 長瀬主任と共に第七研究開発室入口まで戻ってきた芹香を見て、開口一番セバスチャ
ンはそう叫んだ。言った、のではなく、確かにそれは叫びだった。
「あのですねぇ、『執事』さん。私が何かするように見えますか?」

「……」
 執事は、主任を一瞥した後、上品に聞こえないフリをする。
「…………」
 そんなセバスチャンに芹香が顔を向ける。
「な、なんですとっ!? この者に礼を言ってほしいですとっ!? …うぬぅ…しかし
……芹香お嬢様のお言葉であるならば……」
 おおげさに苦悶の表情を浮かべていた執事は、源五郎の顔を見据えると、
「ウォッホン…芹香お嬢様が世話になった。礼を言う」
「はいはい、そのお言葉誠に痛み入ります」
「お前という奴は――」
「――ほらほら、お嬢様がお呼びですよ」
 2人の不毛なやりとりに呆れたのか、それとも親子の対話のじゃまをしたくなかった
のか芹香は既に歩き出していて、10mほど先から長瀬親子を眺めていた。

「時に源五郎、芹香お嬢様にはすべてお話したのか?」
「いいえ、具体的には一族のことだけです。芹香さんの個人的な事情についてはおぼろ
げに。…もっとも、勘のいい芹香さんは気づいているかもしれませんね」
「そうか…世話をかけたな」
「いいえ、お父さんはこれから伝えるのでしょう?」
 セバスチャンは何も言わずに息子に背を向けた。

 源五郎はいつも以上に姿勢のいい父の背中を見ながら、『ガンコだねぇ』と1人呟い
た。