硝子のクオリア 欠片の8(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:12月13日(木)00時22分
       『手』『+』『○』
                 ――That’s right.


 上半身をほとんど上下動させずに、廊下を滑るように歩いていく芹香。
 その前にセバスチャンが立ちふさがった。
「どうかお部屋にお戻りください、芹香お嬢様」
 ふるふる。
 芹香は首を振る。その動きにすこし遅れるようにして、手入れの行きとどいた髪が揺
れた。
「どうしてもお聞き入れくださらないと…? 旦那様のご意向に従わぬつもりでござい
ますか?」
 お爺様は学校に行くなと言われただけです、と芹香はめずらしく反論しようかと思っ
たが、祖父の真意がわかっていたのでそれを口に出すことはなかった。

「……」
「はい、芹香お嬢様」
 セバスチャン、と呼ばれ執事はかしこまった。セバスチャンこと長瀬源四郎がことあ
るごとに芹香の名を呼ぶのに対し、芹香は執事の名前を呼ぶことは少なかった。いや、
彼女は誰の名でも相手の前で軽々しく口にすることはしなかった。セバスチャンは、芹
香にもっとまわりの人の名前を呼んでみてはいかがでしょう、と進言したことがあった
ことを思い出した。…まわりの者が芹香にもっと親しみを感じられるように、と。

 ――名前には特別な力がありますから。

 芹香はそう言ってセバスチャンの提案をやんわりと却下したのだった。それ以来、執
事は自分に与えられた『愛のニックネーム』を積極的に使うようにし、また、それを与
えてくれた芹香がその名を呼ぶときに込められる気持ちをおぼろげに理解したのだった。

「…………」
「はっ!?」

 ――来栖川芹香は望まれた児(こ)ですか?

 思いもかけない芹香の言葉に、セバスチャンは太腿の筋肉がギュッと硬直するのを感
じた。そして一拍おくれて、質問の意味を理解する。
「芹香お嬢様が……でございますか?」
「…………」
「はあ……来栖川……芹香様が…で……ございますか…」
 これほどまでに動揺しているセバスチャンを芹香は見たことがなかった。確かにいつ
でも血圧が高そうな執事ではあったが、いま目の前の全身を硬直させた姿に較べればな
んてことはない、と彼女が思うほどに。

「わたくしには芹香お嬢様の仰っている意味がよくわかりません…」
「…………」
「真実を知りたいだけです、と? わたくしには――」
 芹香は、ふところの中にひそかに忍ばせていた小瓶の中の液体をセバスチャンにふり
かけた。
「――ぶわっぷっ!?」
 そして彼女は逃げ出すでもなく、目の前の執事を『じーっ』と見つめている。
「あの…お嬢様……いったいなにを?」
 じーっ。
「…………あの…芹香お嬢様?」
 じ、じーっ。
 水をひっかけられたぐらいで感情を乱すようなセバスチャンではなかったが、そうし
た奇抜な行為のあとで凝視されるのはどうにも落ち着かないと感じていた。
 まるでセミの脱皮を観察する子供のような好奇心にあふれた目だ、と執事は思った。
そして一瞬ののち、その通りだとセバスチャンは理解したのだった。

「芹香お嬢様、この水…にはいかような効果がございますのでしょうか?」
「…………」
「は、最初に見た人に協力したくなる薬……ですと?」
「……(こくっ)」
「…………」
「……(じーっ)」
「…………」
「……(じ、じーっ)」
「くっ…なにゆえか、このセバスチャン、芹香お嬢様を全面的に支援したくなりました
ぞ!」

 執事は身体を壁側によせて、芹香が通れるように道をあけた。
「不肖の息子にはわたくしから連絡しておきます故、芹香お嬢様は車寄せでお待ちくだ
さいませ」
 しばらくじっとセバスチャンを見つめていた芹香だったが、一度まばたきした後、再
び歩き出した。
 セバスチャンは歩き去っていく芹香の黒髪をぼんやりと見ながら、襟元を正す。
「さて…」
 そう言って執事は口元を引き締めた。


 運転席にはセバスチャン。後部座席には来栖川芹香。
 いつものリムジンの車内風景。
 ただ、その外を流れる風景は、いつもの登校のものとは違っていた。

 行き先は来栖川電工中央研究所。セバスチャンは研究所への入出記録が残るのをさけ
るために、別な場所を彼の息子に提案…もしくはごり押ししようとしたのだが、電話の
向こうの息子は頑としてそれを拒否したのだった。
 まったく頑固者めが、とセバスチャンは独り言ちた。気を取り直して、執事は座席に
いつもと変わらず上品に座る大恩人の令孫のことを思い、一つ大きく深呼吸をする。

「芹香お嬢様、いつかこんな日が来るのを想像していなかったとは申しませんが、正直、
つらいものですな」
 芹香は執事の言葉が届いているのかいないのか、車窓を流れる風景を見つめたまま、
微動だにしない。
「ここから先はわたくしの独り言にございます。どうかお聞き流しくださいますよう…」

 リムジンは緑に囲まれたゆるやかな坂を駆け上っていく。同じカタチをした家がいく
つも並んでいる光景に、芹香は同じところをぐるぐると走っているような気がした。

    あるところに若者がおりました。
    そのあたりには皆に行き渡るだけの食べ物がありませんでした。
    だから若者は持っている者から食べ物を奪っていました。
    幸い、腕っ節が強かったので奪い合いになってもいつも勝つのは若者でした。
    そのうち若者に勝てる者は誰もいなくなってしまいました。
    若者は得意になり、我が物顔でぜいたくの限りを尽くしました。
    いつしか若者は乱暴者と呼ばれるようになりました。

    そこにある日、一人の青年がやってきました。
    若者は、これはいいカモだと早速青年を脅しました。
    青年はしかし、争うことはしないで持っていたお金と食べ物を差し出しました。
    聞けば、これから息子の嫁を探しにいくところだと青年は言いました。

   『金も食べ物もあげましょう。そのかわりそれ以上何も奪わないでください』

    若者はそれ以上欲しがらないと約束しました。
    ですが、青年が大事そうに抱えている箱が気になりました。

   『それは何だ? それもよこせ』

   『それはできない。お前に選べるのはどちらか一方だけだ』

    突然、態度を豹変させた青年に若者は怒り、無理矢理奪おうとしました。
    でも、青年は思ったよりずっと強く、箱を奪って逃げるのがやっとでした。
    若者はねぐらに帰るとわくわくしながら箱を開けました。

「――…っと、着いたようですな。それでは芹香お嬢様…」
 リムジンを静かに停め、うしろを振り向いてセバスチャンが芹香を促した。
「…………」
「は、続きでございますか? それはまた、帰りにということで」
 眉毛を八の字にして困ったような顔をする芹香だったが、車を降りるときにはすでに
気持ちの切り替えがすんでいたのか、いつもの眠たそうな表情にもどっていた。

 受け付けを済ませ、来客用の名札とICカードを身につけて待合用のロビーで待って
いると、パタンパタンと音をさせて長瀬源五郎がやってきた。
 白衣にスリッパと、いかにも研究者といった格好である。

「どうです? 研究者っぽいでしょう?」
 源五郎は芹香たちの姿をみとめると開口一番そう言った。

「フン、戯れ言をほざく前にきちんと挨拶せんか」
 セバスチャンは憮然として様子で、実の息子であるHM開発課開発主任長瀬源五郎を
にらむ。

「はあ、ではようこそ、来栖川エレクトロニクス中央研究所へ……といったところでさ
っそく移動しましょうか。あっ、私の研究室まではバスで行きます」
 言いながら源五郎は、スリッパをサンダルに履き替える。ちなみにこの研究所は下履
きで行動するのになんら制限はされていない。
 まったく…わざわざ研究者らしいという理由だけでスリッパに履き替えたのか、とセ
バスチャンは心の中でため息をつく。反面、昔から人を驚かせるようなことばかりして
いたせがれが、どういった形であれこうして人様の役に立てるような仕事についている
のを見るのは嬉しくもあった。

「……」
「ぅぬ? は、芹香お嬢様、すぐ参ります」
 芹香に呼びかけられたセバスチャンは、ぼんやりとしていた自分に気がつく。不思議
そうな顔をしている芹香の顔を見るにつけ、自分がどんな顔をしていたのかと恥じた。
「はいはい、お二人さんこちらですよ。はぐれないように付いてきてくださいね」
 源五郎はひょうひょうとした感じで、バス停まで二人を誘導した。

 来栖川中央研究所には主に来客用として、巡回バスが走っていた。それらのバスには
見学者を目的地へ運ぶ他にも、来栖川の技術力をアピールするという責務も与えられて
いた。であるので、当然ガソリンや軽油を用いるような無粋な動力など用いておらず、
また、車椅子であろうと移動式ベッドであろうとスムーズに乗車できるよう地上数セン
チまで下げられるノンステップバスである。だが、最も特筆すべきはその運転手と各施
設を説明するガイドがメイドロボである点だろう。現在法律上では、メイドロボが運転
免許を取得することはできないが、技術的には十分可能であることをそれは示していた。

 バスのドアが閉まり車体が少し浮き上がると、音もなく景色が動きはじめた。
 結局、乗客は芹香とセバスチャン、それに長瀬主任だけだった。

『皆様、当来栖川中央研究所は○○キロ平方メートルもの敷地面積を誇り――』

 山吹色をした少し変わった生地のスーツに身を包んだメイドロボが話している。バス
ガイドなのであろう、とセバスチャンは『彼女』の仕事について判断した。そういえば、
運転手も耳あてを付けていたな、と執事はまるで異国に来たかのような居心地の悪さを
感じていた。
「源五郎、ここではみんな機械人形がこうして働いているのか?」
 それまで珍しく黙って外を眺めていた息子は、父親のそんな問いかけにめずらしく指
示語が多いなと頭の隅で考えながら、
「いいえ、基本的にはココだけですよ。試験的に他のことをやらせたりもしますが、そ
れはあくまでデータの収集目的ですから」
 と答えた。
「そうか」
「どうしました? 執事のメイドロボもいるのか、なんて考えたりしました?」
「いや、どうにも場違いな印象を受けたものでな。先程からあのバスガイド、にこりと
もせん。もっともお前に言わせればそういう考え自体が古いのであろうが」
 そう言うセバスチャンの言葉にも源五郎は特に反論はせず、うーんと唸るだけだった。

「単純に人間と置き換えるのがあの子らの為になるとは思えないのですがね」
 静かに呟く息子の姿を見て、源五郎がこの見せ物小屋のようなバスにあまり好感を持
っていないことをセバスチャンは感じ取った。と同時に、その横顔に『親の顔』を見た
ような気がした。
「フン、お前も親の苦労がわかるようになったか」
「どうでしょうか、優秀な子たちばかりですから」
「親の方が不甲斐ないわけか」
 源五郎はむむっ、と一瞬ひるんだように見せておきながら、再び曖昧な笑みを浮かべ
る。いたずらを見つかった幼き日の息子がうまい言い訳を思いついたときの顔だな、と
セバスチャンはいまでは見事に馬面となった目の前の中年にその顔を重ねてみせた。
「立派な親を持つと、子供が萎縮してしまいますからねぇ」
「萎縮どころか、大いに逸脱しよってからに」
 渋柿をかじったような顔をする父の顔を見て、源五郎は思わず苦笑した。後、渋柿は
干されて甘くなるものですが果たして私はどうなんでしょう、と再度苦笑い。
「そう言えば、作りかけの干し柿をつまみ食いしては怒られてましたからねぇ」
「――唐突に何を?」とセバスチャン。「お前は実に我慢の利かない子供であったな」

「あの子らももう少しわがままを言うようになってくれれば…」
「それがお前の望みか?」
「科学者のエゴ…ですけどね」
「そうか」

『次は第七研究開発室入口、次は第七研究開発室入口。こちらは私たちの――』

 程なく、バスは目的地に着いた。

「ああ、すいません。執事さんはそちらのロビーかもしくは食堂で待っていていただけ
ますか?」
「なんとぉぉぉーーー。このセバスチャン、右も左もわからぬこのような場所で芹香お
嬢様をお一人にすることなぞできませぬわ!」
「いやその…私がちゃんとご案内しますから」
「なおさら心配ですな」
 くいくい。
 裾を引っ張られる感覚に、セバスチャンは後ろを振り返った。
「むむっ、芹香お嬢様なんでござい――」
「…………」
「――なんですとぉぉぉーーー!! こちらで待っておれと申されるので!? あ、あ
んまりにございます、芹香お嬢様。幼少のみぎりよりお仕えしておりますこの身。誰よ
りも芹香お嬢様のことを存じておると自負しております。なにかご不満がありましたら
どんな些細なことでも仰ってくださいませ。このセバスチャン、全身全霊を以て――」
「…………」
「――はっ……おとなしくお待ちしております」
 なんだか時代劇によくでてくる与力と岡っ引きのようなやりとりだなあ、と思いつつ
静観していた長瀬主任は事態の収束を見てとり、芹香の方に身体を向ける。

「さあ、来栖川芹香さん。どうぞこちらへ」